03 エキシビジョンマッチ
『それでは第六試合、スーパーエキシビジョンマッチ、三分二ラウンドを開始いたします!』
リングアナウンサーの声に、会場が歓声に包まれる。
ここまでパッとした試合が少なかったせいか、なかなかの盛り上がり様である。
『青コーナー。百六十七センチ。五十六キログラム。《アトミック・ガールズ》ミドル級ファイター……ユーリ・ピーチ=ストーム!』
ラウンドガール用のスポーティな水着姿で、ユーリがいつものように腕を振り回す。ふだんは白とピンクばかりなので、赤と黒の渋いカラーリングがなかなかに新鮮だ。
その手の先にくっついているのはもちろんオープンフィンガーグローブではなく、十四オンスの巨大なボクシンググローブで、足にはニーパッドとレガースパッドが装着されている。
『赤コーナー。百七十センチ。五十八キログラム。赤星道場所属。バンタム級七位。……レオポン=ハルキ!』
いっぽうのレオポン選手は、ヒョウ柄のけばけばしいキックトランクスに、やはりユーリと同様のニーパッどとレガースパッド。それにグローブは、ユーリよりも巨大な十六オンスだった。
エキシビジョンとは、公開実演や模範試合の意、つまりは勝敗をつけない公開スパーのようなものなのだ。だから両名ともに安全性を重視して、スパーリング用のグローブと防具を装着させられている。そうでなくては、男女間での試合など危険すぎて許されるはずもない。
身長差は三センチ。体重差は二キロ。これなら同階級といえなくもないていどの体格差だが、そこはやはり男と女である。骨格の出来が違うし、筋肉の質も違う。レオポン選手の陽に焼けた小麦色の肉体は、研ぎたての刃物のごとく引き締まっている上に、若獅子のような力強さと躍動感に満ちみちていた。
いっぽうのユーリといえば、どんなに鍛えても女性らしい優美なラインとやわらかさを失わない特異体質の持ち主であるからして、外見上は、ただの色っぽい女の子である。
色は白いし、スタイルは超絶的だし、面がまえからしてアイドルそのままだし、《アトミック・ガールズ》におけるMMAファイターとしての素性を知らない人間がいたとしたら、どうしてラウンドガールがエキシビジョンマッチなどに参戦しているのだろうと首をひねるに違いない。
(……本当に大丈夫なのかなぁ)
セコンドとしてユーリのかたわらに立つ瓜子は、少なからず落ち着かない気持ちでいた。
エキシビジョンが荒れるというのは、よく聞く話だ。勝敗を度外視した公開スパーと言いつつも、やはりリング上で殴り合い、蹴り合っていれば、どこかで本気のスイッチが入ってしまうことはある。というか、少しは本気の部分を披露しないと、プロのリングで公開する意義もないだろう。
通常の試合では連発できないような大技を繰り出したり、パフォーマンスで反則技を仕掛けてみたり、時にはレフェリーに殴りかかるような演出まで為されることさえあるのがエキシビジョンの醍醐味だが、そういったショー的な要素がすべてなわけでもない。
ましてやユーリは、客寄せパンダとしての意味合いが強いアイドル選手である。そんなユーリがへなちょこな闘いっぷりを披露すれば《G・ワールド》の硬派なファンたちも怒りだすに決まっている。だから、本気でかかってこいというレオポン選手の発言は、完全に正しいのだろう。
正しいのだが、瓜子は心配だ。
レフェリーに呼ばれて、ユーリとともにレオポン選手の前に立ったとき、その心配はさらに濃度を増すことになった。
宣言通り、しっかりとアップを済ませてきたらしい。両腕と背中と左胸に渦巻きみたいなトライバルのタトゥーを刻みつけられた小麦色の肉体に、汗が光っている。男子選手ならではの、くっきりと浮かんだ筋肉の線。広い肩幅。ぶあつい胸板。男性としては細身の部類でも、鍛えに鍛えぬいた上での五十八キロだ。逞しくないわけがない。二オンスばかりのグローブのハンデなど、あってないようなものだった。
しかも、面がまえがさきほどとまったく違う。
その目はふてぶてしくライオンのように強く輝き、薄笑いを浮かべた顔には気迫がみなぎっている。
女子選手とのエキシビジョンで、ここまで気合を入れる必要があるのだろうか。
たいしたプロ根性だと言ってしまえばそれまでだし、そうして闘争本能を剥き出しにしたレオポン選手は、さきほどよりも格段に魅力的で、格好も良かったが、瓜子としてはユーリの身を案じずにはいられなかった。
と───レフェリーのルール確認を聞きながら、レオポン選手がふいにユーリのほうへと進み出る。
その強く光る目が、超至近距離からユーリの瞳をにらみつけた。
格闘技の試合ではおなじみの、視殺戦だ。
観客たちは、大いに沸いている。
もちろんパフォーマンスに過ぎないのだろう。しかし、瓜子はさまざまな意味でハラハラとしてしまった。
ほとんど鼻先が触れてしまいそうな距離からにらみつけられて、それでもユーリはにこにこと微笑んでいる。
「それでは、コーナーに戻って!」
レオポン選手はにやりと口もとをねじ曲げてから、すっとユーリに背を向ける。
「びっくりしたぁ。このかわゆい唇が奪われちゃうのかと思ったわん」
自分も青コーナーに引き下がりながら、ユーリはおどけた口調でそう言った。
どうやら皮膚に触れさえしなければ、どんなに接近されても苦にはならないらしい。
「ユーリさん、くれぐれもケガをしないように気をつけてくださいね。エキシビジョンなんかでケガをして、アトミックの試合に影響が出たら馬鹿らしいっすよ?」
「わかってますってぇ。だけどユーリは、いつも通りに一生懸命頑張るだけさぁ」
瓜子をまったく安心させてくれないまま、ゴングが鳴った。
ユーリはすでに定番となったアップライトの構えをとり、レオポン選手もオーソドックスでスタンダードな構えをとる。
そして会場には、早くも「ユーリ!」のコールが巻き起こりはじめていた。
あまりレオポン選手を刺激しないでくれ、と瓜子は祈りたいような気持ちになってしまう。
「来いよ、ラウンドガール!」
「はぁい。いきまぁす」
通常の試合ではありえない舌戦を交わしつつ、ユーリがおもいきり足を踏み込む。
右のハイキックだ。
息を呑むほど美しいフォームでユーリの長い右足が舞い上がり、レオポン選手は左腕で頭部をガードする。
本当ならば楽々とかわせるだろうに、エキシビジョンの性質を考えて、あえて真正面から受け止めようというのか。
レガースに包まれたユーリの右足が、十六オンスのグローブをつけたレオポン選手の左腕に衝突する。
すると───逆側によろめいたレオポン選手は、そのままぺたりと尻もちをついてしまった。
「ダウン!」
いくぶん苦笑気味にレフェリーが宣告し、場内は笑いに包まれた。
きっとこれはレオポン選手の過剰な演出なのだと、誰もがそんな風に思っているに違いない。
ユーリもにこにこと笑っている。
笑っていないのは、もしかしたら瓜子とレオポン選手だけかもしれなかった。
(まともに当たったら、男子選手でもKOしかねない破壊力だもんなあ)
レオポン選手はカウントファイブで立ち上がり、ぺろりと舌を出しながら、再びユーリと相対した。
その瞳には、驚きと好奇心の光が渦巻いているように感じられる。
「ファイト!」
牽制の左ジャブを放ちながら、レオポン選手はユーリの周囲を回り始めた。
ユーリも間合いを測るように左のローを飛ばしつつ、レオポン選手に合わせてステップを踏む。
と───ユーリが今度は、右のミドルを繰り出した。
通常の試合であるならば、相手の動きが鈍るまでミドルやハイは使わないのがユーリの最近の流儀である。やはりエキシビジョンという試合の性質と、キックのルールだということを考慮して、積極的に攻めようとしているのだろう。
相変わらずスピードはイマイチだが、タイミングが良かった。自分自身もミドルを放とうと足を踏み込みかけていたレオポン選手は、また左腕でその蹴りを受け止める羽目になった。
バシンッ、と重い音色が響く。
それだけで、会場のボルテージはぐんぐんと上昇していく。
ユーリの蹴りは、綺麗なのだ。反復練習をまったく苦にしないユーリは、フォームが完成するまで病的なぐらい同じ技を練習し続けることができる。よって、完成にまで至った技は、教本に載せたいぐらいフォームが美しいのである。
そしてフォームが美しいということは、そのフォームが正しいということであり、それはすなわち、抜群の破壊力を有しているということでもあった。
それにまた、スピードが遅いと言っても、それは蹴りを繰り出すまでの段取りが馬鹿丁寧にすぎるというだけの話で、実際にスローモーな蹴りなわけではない。
破壊力とは運動量の大きさであり、運動量イコール質量×速度なのだから、スローモーな蹴りでそれほどの破壊力を生み出すことは不可能なのである。
フラットな構えから、さあ蹴るぞ、という姿勢に移り、体重移動して、足や腰の関節をひねる。そのプロセスが丁寧すぎて、「スローな蹴り」に見えるのだ。
そういった要素から、ユーリの蹴りはなかなか当たらないのだが、今回は序盤で二発も当てることができた。
ユーリの蹴りを連続でブロックすることになったレオポン選手は、少し左腕を振りながら、詰めかけていた間合いをまた開け始める。
きっと腕が痛いのだろう。
もしも瓜子が同じ立場だったら、ロープ際まで吹っ飛ばされているだろうと思う。それぐらい、ユーリの蹴りは重いのだ。
「レオポン、負けんなよー!」
「巨乳にミドルをぶちあてろー!」
ふだんにはあまりない低俗な野次が飛ぶ。
「男子がメインの大会に出ると、セクハラがすごいよぉ」とユーリも言っていた。これが、それか。
「クリンチだ、クリンチ!」
「そして押し倒せ!」
しかし、レオポン選手はゆとりのある表情の中にいくぶん警戒の気配を漂わせつつ、大きなグローブで堅実に左ジャブを打ち始めた。
ごく真っ当な試合展開だ。
やはり大きなグローブでその攻撃を防ぎつつ、ユーリは左のインローを放つ。
レオポン選手は左膝を上げ、やはり悠然とカットする。
が、これまた痛そうな音色が響き、レオポン選手の左足は外側に流れた。
そこにユーリが、蹴り足をそのまま踏みこんで、左右のワンツーを放つ。
これまた、決してスピーディな攻撃ではない。
キック以上に、ユーリはパンチが苦手なのだ。
レオポン選手は、余裕をもってガードすることができた。
しかし、左足を蹴られた直後で不安定な体勢だったためか、レオポン選手の頑強そうな肉体は、ユーリのパンチ力に押される格好で、後ろ側にたたらを踏むことになった。
そこに、再びユーリの右ハイキックが飛ぶ。
レオポン選手はとっさに頭部をガードしたが、やはり駄目だった。ユーリのハイキックはガードするのではなく、スウェーやダッキングでかわすべきなのだ。
結果、レオポン選手は再びマットに倒れふすことになった。
「ダウン!」
会場は再び笑いに包まれたが、レフェリーの顔からは苦笑の色が消えていた。
ユーリの女子選手離れした攻撃の重さに、気づいてしまったのだろう。
「しっかりしろ、レオポーン!」
「女にKOされたら、恥だぞー?」
心ない声援を満身にあびながら、レオポン選手はカウントシックスで立ち上がる。
その双眸には、獲物を狙う肉食獣のような光が浮かんでいた。
三発の蹴りをガードした左腕は、はっきりと赤くなってしまっている。
「ファイト!」
今度は、レオポン選手が先に動いた。
軽量級らしい軽やかなステップを踏み、ユーリの周囲を回りながら、ローやミドルや左ジャブで牽制する。
しかし、ユーリのローが届かないぐらいの遠距離であるために、その攻撃もまた届かない。もっとも射程距離の長いミドルでも、ユーリがちょっと身体を引くだけで空を切ってしまう。
リーチは、肩幅の分でレオポン選手が勝っているかもしれない。
しかしコンパスは、おそらくユーリのほうが長いのだ。モデル体型の恩恵である。
これで一気に間合いを詰めてくるようなら、これまでの対戦相手と同じなのだが───と瓜子が思ったまさにそのとき、レオポン選手が一気に足を踏みこんだ。
しかし、パンチやキックを放とうとはしない。巨大な十六オンスのグローブに包まれたレオポン選手の左手がユーリの右肩にかかり、右手は、後頭部に回された。
首相撲だ。
すかさずユーリの左手が、レオポン選手の右腕の下から回されて、相手の腕を外側にはじきつつ、お返しとばかりに後頭部へとのびていく。
それを察したレオポン選手も、さらに内側へと腕を差しこもうとする。
その間、両者は懸命に相手の腕を振りほどこうと身体をねじり、立ち位置を変えており、まるでダンスでも踊るかのごとく、マットの上で複雑なステップを踏むことになった。
「ブレイク!」
総合の試合と異なり、キックの試合でそれが長引けばクリンチと見なされてしまう。
両者の身体は引き離され、リングの中央で試合は再開される。
レオポン選手は意を決したように前進し、鋭い右のミドルキックを放った。
しなやかな右足がユーリの白い左腕にめりこみ、それと同時に、ユーリの左ローがレオポン選手の軸足にヒットする。
初めてのクリーンヒットだ。蹴り足を上げているので、カットのしようもない。
もちろん男子選手のミドルをくらってユーリもぐらついたが、ユーリは意外に打たれ強い。異様に柔軟な筋肉と関節が、打撃の威力を吸収してしまうらしい。ユーリがダウンを喫するのは、その特質が活かせない頭部にダメージを負ったときだけだった。
いっぽうのレオポン選手は、左足をひきずるような格好で、ユーリの身体にもたれかかる。
また首相撲の組手争いだ。
「どーした、レオポン、押されてるぞー!」
「また首相撲かよ。セクハラなんじゃねーの?」
そんな野次が、途中で断ち切られた。
組手争いに勝利したユーリが、ついに右の膝蹴りをレオポン選手の土手っ腹にぶちこんだのだ。
その凄まじい衝撃音に、観客たちは一瞬、しんとなり───そして、あらためて騒ぎ始めた。
「ユーリ!」のコールが巻き起こる。
レオポン選手のもしゃもしゃとした頭をしっかりと胸もとに抱え込み、ユーリは右に左にと身体をねじった。
相手の体勢が乱れれば、再び膝蹴りだ。
両腕とグローブでガードされれば、横合いに足を振り上げて、脇腹へと照準をあらためる。
「逃げろ、レオポーン!」
「おっぱいで窒息してんじゃねーの?」
「くっそー! うらやましいぞー!」
だったらユーリの膝蹴りをくらってみればいい、と瓜子はこっそり舌打ちしてしまう。沙羅選手はその一撃で股関節の靭帯を破壊され、秋代選手などは鼻骨を潰されてしまったのだ。
それらの試合を後日テレビ放映で確認してみると、ユーリの膝蹴りは実況アナウンサーによって「ピーチ=ストーム・アックス」と命名されていた。
巨木を切り倒す斧のような膝蹴りなのである、本当に。
「ダウン!」
レオポン選手の腕がだらりと垂れたところで、レフェリーがスタンディングダウンを宣言した。
通常の試合ならばこれでTKOだが、これはフリーダウン制のエキシビジョンマッチである。そもそも勝敗自体をつけないのだから、TKOもへったくれもない。
ユーリはすみやかにレオポン選手を解放し、あわてて上体を起こしたレオポン選手は、間をおかずファイティングポーズをとる。
その目が、飢えたライオンのようにギラついていた。
まずい、と瓜子は拳を握りこむ。
第一ラウンドは、残り三十秒。事故が起きるには、十分な時間だ。
「ファイト!」
非情なまでに無感動なレフェリーの声。
レオポン選手は、頭からユーリに突っ込んだ。
そして、誰もが予想していなかった攻撃に出た。
カウンターで繰り出された前蹴りを回避するや、レオポン選手はユーリに片足タックルを仕掛けてみせたのだった。
「うにゃあっ!?」
さしものユーリも驚きの声をあげながら、マットに背中からひっくり返る。
静止の声をあげるレフェリーを無視して、レオポン選手は素早くサイドポジションを取り、ユーリの左腕をひっつかんだ。
腕ひしぎ十字固めだ。
グローブで不自由そうにユーリの左腕を抱えこみ、背中からマットに倒れこむ。
その動きに合わせて、ユーリは素早く上半身を起こした。
腕はクラッチしていない。ボクシンググローブでは十分にクラッチできないので、ユーリは首にかかったレオポン選手の右足をはねのけることを優先したようだった。
十字固めの体勢が崩れ、上体を起こしたユーリの胴体をレオポン選手の両足がはさみこみ、ガードポジションの体勢を取る。
が、レオポン選手が両足を閉じるより早く、ユーリは右足でマットを蹴り、レオポン選手の胸の上にすべりこむような格好で拘束から脱出することに成功した。
マットに残した右足だけは両足でからめとられてしまったが、そんなことにはかまいもせず、レオポン選手の右脇に頭をもぐりこませる。
そして右腕をレオポン選手の首に回し、相手の右腕もろとも抱きすくめる。
肩固めだ。
グローブのせいでクラッチは甘いが、右腕が絶妙な角度で相手の頸動脈を圧迫している。これは逃げられないだろう。ユーリが右足を引き抜いて身体を左手側に逃がしたら、完全に技が極まる格好だ。
さすがにレオポン選手もそれぐらいのことはわきまえており、たくましい両足で必死にユーリの右足を捕らえている。
ユーリは無駄に動こうとはせず、そのままぎりぎりとレオポン選手の首をしめあげている。
そうこうしているうちに、第一ラウンド終了を告げるゴングが鳴った。
ユーリはぴょこんと立ち上がり、大歓声がそれを迎える。
かろうじてブラックアウトせずに済んだらしいレオポン選手は、レフェリーに荒っぽく上体を起こされながら、まるで夢から覚めた子供のような目つきでユーリの笑顔を見上げていた。
「エキシビジョンだからといって、あまり羽目を外しすぎないように!」
鹿爪らしくレフェリーが宣言し、客席には笑いが巻き起こる。
そうして一分間のインターバルの後、第二ラウンドも粛々と敢行されることになったが───大勢は変わらなかった。
レオポン選手は失地回復とばかりに乱打戦を挑んだが、そのたびにユーリは首相撲で逃げ、膝蹴りを叩きこみ、ブレイクされれば左のロー、ときたまミドルやハイも見せ、とにかく不得手なパンチの応酬にだけはならないよう、なんとか最後まで逃げきってみせたのである。
結果的に、ユーリは目立ったダメージもないままに第二ラウンド終了のゴングを聞き、いっぽうのレオポン選手は満身創痍だった。
何せユーリの重い膝蹴りやローをしこたまくらってしまったのだ。ニーやレガースのパットがなければ、きっと自分の足で立っていることさえ困難だっただろうと思う。
『試合終了です。エキシビジョンのため、勝者はありません』
リングアナウンサーの声とともに、両者の腕が高々とかかげられる。
ユーリは楽しそうに逆側の腕も振り上げており、レオポン選手は疲弊しきった顔でがっくりと肩を落としていた。
何度目かの「ユーリ!」コールが会場を揺るがす。
「ユーリさん。おつかれさまでした」
瓜子がリングに上がっていくと、マウスピースを吐きだしてから、ユーリは「うへへー」と幸福そうに笑った。
「すっごい楽しかったぁ! エキシビジョンってのも、なかなかいいもんだねぇ!」
気楽なものだ。ユーリが楽しかったぶん、対戦相手は失意のどん底に叩き込まれているかもしれない。
「あ、レオポン選手、ありがとうございましたぁ! 約束通り、全力ファイトで挑ませてもらいましたよぉ!」
「ああ。……強いな、ユーリちゃんは」
そのレオポン選手が、左足をひきずりながら、ユーリと瓜子に近づいてくる。
「お見それしたよ。今日のところは、俺の完敗だ」
「なぁに言ってるんですかぁ。エキシビジョンだから勝ち負けはなしですよぉ」
「いや、俺の負けだ」
と、レオポン選手は弱々しく笑い、いきなりその手でユーリの身体を抱きすくめてきた。
会場を揺らしていた大歓声が、同じ勢いを保ったまま怒号とブーイングに変貌を果たす。
だから、小声でやりとりされたその会話は、たぶんすぐそばにいた瓜子にしか聞き取れなかったに違いない。
「ユーリちゃん。俺と結婚してくれないか?」
「ぷはは! 絶対ムリですぅ」
レオポン選手はまぶたを閉ざし、一瞬だけ両腕に力をこめてから、やがて決然と自分の身体をもぎ離した。
そうして、ブーイングの吹き荒れる観客席に向かって、力強く右腕を突き立てる。
「うるせえっ! さんざん痛い思いをしたんだから、これぐらいの役得はいいだろうが! 悔しかったら、おめえらもユーリちゃんの膝蹴りをくらってみやがれ!」
ブーイングの声が、今度は笑い声に変わる。
そして、二人の健闘を祝福する拍手がそれに加えられた。
「それじゃあな。次回の大会も、ラウンドガール、楽しみにしてるぜ?」
にやりと笑い、リングを下りていく。
そちらにぺこりと頭を下げてから、ユーリも意気揚々とリングを後にした。
「にゃっはっは。またプロポーズされてしまったよん。どうしてみんな恋人関係とかをすっとばして、いきなり求婚してくるのかねぃ?」
「さあ? ユーリさんは目を離すと、どこかに飛んでいっちゃいそうだからじゃないっすか?」
大歓声と拍手の中、花道を引き返しながら瓜子が適当に答えると、ユーリは天使のように笑いながら、瓜子にだけ聞こえる声で言った。
「レオポン選手って、強いしおもろいしかっちょいいよね! 来世でご縁があったらよろしくねーって感じかにゃあ」
瓜子には、何も答えることができない。
試合直後は興奮状態にあるために、ユーリの対人センサーもだいぶん緩和されるようなのだ。そうでなくては、レオポン選手に抱きすくめられた瞬間、ユーリは嘔吐してしまっていただろう。
しかしまた、緩和されてもオフ状態になるわけではないのである。
のんきに笑うユーリの白い腕や背中は、羽根をむしられたニワトリのように無残なありさまに成り果ててしまっていた。
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