02 顔合わせ

 一週間後の日曜日。

 多目的イベントホール、ミュゼ有明にて、ユーリの出場する《G・ワールド》の六月大会はつつがなく開催されるはこびとなった。


《G・ワールド》とは、品川MAジム、ホワイトタイガー・ジム、そしてグローブ空手界の雄、武魂会などが中心となって結成された、日本でも有数のキックボクシング団体である。

 瓜子が参戦している女子キックの団体、《G・フォース》の、いわば親筋だ。


 チャンネルは違えど、CS放送における放映権を経営の主軸にしている点は《アトミック・ガールズ》と同一であり、会場のキャパも、隔月開催という運営ペースも、期せずして似ることになった。


 これが同一の競技であったならば、不倶戴天のライバル団体にも成りかねなかったのかもしれないが、幸いにして、かたやキック、かたや総合である。ブームの去った格闘技界に新たな熱を、という信条のもとに、両団体はいたって良好な関係性を維持しており、こうしておたがいの所属選手が行き来することも少なくはなかった。


 また、ユーリ個人に関して言えば、《G・ワールド》と《G・フォース》の双方において、完全に常連の域である。

 ただし、選手としてではなく、ラウンドガールとしてだ。


 さらに言うならば、《アトミック・ガールズ》と《G・ワールド》のラウンドガールが着ている水着をデザイン・作製しているのは、ユーリとスポンサーおよびモデル契約を結んでいる「P☆B」こと「ピーチ☆ブロッサム」であり、かの会社は両団体の「共催」を謳う立場となっている。


 かつてスターゲイトに勤務していた荒本という人物が、ユーリ・ピーチ=ストームという存在を核として、それらの縁を強く結び合わせたわけである。

 本当にスターゲイトの社員としては有能な人物だったんだなあと、瓜子としては感心することしきりであった。


                 ◇


 何はともあれ、興行である。


「セコンドにはうり坊ちゃんの名前を登録しておいたから」とユーリにいきなり告げられたのは二週間ほど前、たしか瓜子の《G・フォース》における試合の直前ぐらいだったと記憶している。


「エキシビジョンでまでプレスマンの人たちのお世話になるのは気が引けるし、かといって一人ぼっちじゃユーリがさびしいしね。そもそも今回のエキシビジョンは、半分は格闘家としての本業だけど、もう半分はラウンドガールとしての副業から発生したお仕事なんだから。そーゆー意味では、スターゲイトの一員たるうり坊ちゃんにだってユーリのお世話をする義務はなくもないんじゃなぁい?」


 そんな押しつけがましいことを言われずとも、瓜子だって最初から何かしらを手伝うつもりでいた。

 しかし確かに、こういうときには「セコンド」という明確な立場でも与えられないかぎり、どういうスタンスで関わればいいのかが不明になってしまうというのもまた事実だった。


 瓜子は、ユーリがマネージメント業を委託している株式会社スターゲイトの契約社員である。

 つまりユーリは、瓜子の所属する会社にとって、大事なクライアント様なのだ。


 加えてユーリは、新宿プレスマン道場における先輩選手でもある。

 それでもって、同じマンションの同じ部屋に住む同居人だ。

 もはや公も私も複雑にからみあい、どこまでが仕事の範疇で、どこまでが道場仲間としての範疇で、どこまでが友人・知人としての範疇なのかもわからなくなるときがある。


 そもそも、瓜子とユーリの関係性は「何」なのだろうか。

 考えすぎると頭が痛くなってしまうので、瓜子はあまり考えないようにしている。


「よお、ユーリちゃん! 今日はお手柔らかに頼むぜ?」


 午後の四時頃にゆっくりと会場入りして、ルールミーティングに参加したのち、一時散会となった頃合いを見計らって、本日の対戦相手であるレオポン=ハルキ選手が声をかけてきた。


 レオポンとはまた珍妙なリングネームだが、海外遠征の経験もある若手の実力選手である。身長百七十センチ、規定体重は五十六キロ前後、年齢は二十四歳、所属は総合格闘技の古豪・赤星道場。総合格闘技においてはフライ級、キックボクシングにおいてはバンタム級。本業は総合格闘技でありながら、《G・ワールド》の公式ランキングでも七位に名を連ねる、軽量級のホープなのだった。


 このレオポン=ハルキ選手と、ユーリは本日、キックルールでエキシビジョンマッチを執り行う予定になっている。


「こちらこそ、よろしくお願いしまぁす。エキシビジョンとはいえ、お客さんの前で男子選手と試合をするのは初めてなんで、何だか緊張しちゃいますねぇ」


「そりゃあ俺だって一緒だよ。いくら軽量級だからって、まさか女の子との試合を組まれるとは夢にも思ってなかったわ」


 そう言って、レオポン選手は屈託なく笑った。

 金褐色に染めた髪を、ライオンのたてがみみたいに逆立てている。ファイターとしては小柄で、細身で、なかなか人なつこい笑顔を持った青年だが、そのジャージの下の肉体にはあちこちタトゥーが刻みこまれていることを瓜子は知っていたし、キックでも総合でも荒っぽいファイトスタイルを売りにしていることは有名である。


 おたがいに本業は総合の選手、ということで選出されたのだろうが、瓜子としてはユーリの身が心配にならなくもない。


「だけど、なあなあの殴り合いじゃあ、お客さんもシラケちまうだろうからさ。ユーリちゃんは本気でかかってきなよ。俺も本気でガードさせてもらうから」


「えー? だけど、危なくないですかぁ? ユーリってこう見えても力持ちなんですよぉ?」


「知ってる知ってる。プレスマンには知り合いも多いからさ。ユーリちゃんとのスパー中に野郎の選手が何人も痛い目を見てるって、けっこう有名な武勇伝なんだぜ?」


「うひゃあ。それはお恥ずかしい」


 ユーリもユーリで無邪気に笑い、栗色の頭をひっかき回す。

 必要以上に愛想はふりまいていない。瓜子やサキと接するときよりも、ほんの少しだけよそゆきの笑顔である。


 が、ユーリの本性を知らない人間から見れば、十分に友好的でくだけた態度だろう。それで人見知りも物怖じもしないものだから、男性陣もついつい期待をしてしまうのかな……と、瓜子はついついしたくもない分析をしてしまう。


「ふだんは可愛いラウンドガールのユーリちゃんと、ヤンキーあがりで喧嘩ファイトがスタイルの俺。そんな美女と野獣を同じリングに立たせてお客さんをハラハラさせてやろうってのが《G・ワールド》さんの思惑なんだろうしさ。だったらおたがいにプロとして期待に応えてやんねえと。ほんと、俺をKOする気でかかってきなよ」


「すごぉい。レオポン選手って、オトナなんですねぇ?」


「オトナじゃなくて、プロなんだよ。……ま、俺も反射的に手は出しちまうかもしんねえけど、その可愛いお顔に傷のひとつでもつけちまったら、坊主頭にでも何でもなってやるから、ビビんねえでぶん殴ってきてくれよ」


 本当は女子選手との試合など組まれて、頭にきている部分もあるのではないかと思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。レオポン選手は、純粋にこの状況を面白がっているように見受けられた。


「……それにしても、ユーリちゃんも出世したよなあ。半年前だったら、こんなエキシビジョン自体が成立しねえもん。見た目通りのか弱い女の子をキックのリングに上げて、それで何? って感じだろ。今なら話題性も十分だし、玄武館の元女子チャンピオンなんざをKOできる実力も証明できたし、俺を相手にしてもそんなしょっぱい結果にはならねえだろって評価されたんだよ、ユーリちゃんは」


「はぁい。すっごく嬉しいですぅ」


「俺も嬉しいよ。マイナー競技に逆戻りしちまった格闘技に人目を集めるには、カリスマ性を持ったスター選手ってのが不可欠だからな」


 にやりと笑って、ユーリの肩に右手を置く。

 瓜子は一瞬ドキリとしたが、レオポン選手の顔からは、先日の若手キャスターやお笑い芸人のように悶々とした感情は感じられなかった。


「俺らに出来るのはいい試合をすることだけだけど、それが業界の未来を明るくするっつーことで、せいぜい楽しく暴れ回ってやろうぜ。な、ユーリちゃん?」


「あはは。楽しく暴れ回るってのはユーリにぴったりの言葉かもしれませんねぇ」


 ユーリはにこにこと笑っている。

 数秒間、その天使みたいな笑顔を見つめ続けてから、レオポン選手はようやく右手を下におろした。


「うーん。……安請け合いでこのエキシビジョンを受けちまったけど、キックルールで良かったな。ユーリちゃんとは、総合では闘えねえわ」


「ええ? どうしてですかぁ?」


「欲情する。……しかもあんな色っぽいコスチュームだろ? 俺は精神修養が足りてねえから、こんな爆裂なカラダをしたユーリちゃんと寝技で取っ組みあってたら、試合に集中できそうもねえや」


 そう言って、レオポン選手は愉快そうに笑いだした。


「俺はそこまで巨乳好きじゃねえはずなんだけどなあ。男連中が目の色変える気持ちが、少し理解できちまったぜ。これじゃあわけのわからん男が虫みたいに群がってきて大変だろ、ユーリちゃん? 美人には美人の苦労があるんだなあ」


 と、その手が今度はぽんぽんとユーリの頭を叩いてくる。

 妹をあやす兄のような表情だ。


「それじゃあな。俺が色香に目をくらませたら、KOチャンスだってあるかもしれねえぞ? エキシビジョンだなんてことは忘れて、全力ファイトでかかってきな。俺もしっかりアップしとくからよ」


「はぁい。よろしくお願いしまぁす」


 会場の外へと足を向けるレオポン選手に笑顔で手を振ってから、ユーリはにわかに瓜子のジャージのすそをつかんできた。


「どうしたんすか?」と振り返ると、ユーリの顔が真っ青になっている。


「気持ち悪い……お昼に食べたおうどんがにょろにょろ出てきそう……トイレ、どこだっけ?」


「ええ? ちょ、ちょっと、しっかりしてください! トイレはこっちです!」


 幾対かの不審げな視線をあびながら大あわてでトイレに駆けこむと、ユーリは本当に吐いてしまった。


「ううう、もったいない。せっかくの特売讃岐うどんがぁ……あ、カマボコさんが泳いでるぅ」


「気色の悪い実況をしないでください! ……大丈夫っすか、ユーリさん?」


「うん。おなかが空っぽになったら、楽になったぁ」


 力なく笑いながら個室から出てきたユーリは、手洗い場で入念にうがいをしてから、ようやく人心地がついたように「ふう」と息をついた。


「どうしたんすか? 体調、悪いんすか?」


「んにゃ? ユーリはいつでも絶好調だよ! ……ただ、レオポン選手にさわられちゃったからさあ」


 と、お気に入りのパーカーに包まれた自分の身体を両腕で抱きすくめる。


「うー、気色悪い! 全身鳥肌だぁ! 服の上からならまだしも、直接頭をさわられちゃったからなぁ。いい人だと思って油断したぜい!」


「まさか……本当にそれだけが理由なんすか? レオポン選手、外見のわりにはずいぶん真っ当な人だったじゃないすか?」


「にゅ? だから、いい人だって言ってんじゃん。真面目そうだし、強そおだし、えっちなこと言ってもあんまりえっちな感じがしなかったしね。アレはマレに見る人格者じゃ。尊敬に値する!」


 力強く宣言してから、ふにゃりと猫のように笑う。


「だがしかし、それとこれとは別問題。気持ち悪いものは気持ち悪いの。男ってだけで、もう論外だね。……だいたい、初対面の殿方にさわられて平気な顔してたら、五ヶ月以上も同じベッドで寝起きしてるうり坊ちゃんに申し訳が立たないっしょ!」


「そんな……」


 申し訳など、立たなくていい。

 ユーリの背負う業の深さをあらためて目の当たりにしてしまい、瓜子は言葉も出なかった。


 頭を軽く異性にさわられただけで、実際に胃の中身をぶちまけてしまうほどの嫌悪をおぼえてしまうなんて……それはもう、りっぱな心の病ではないか。

 ふだん、男子選手やコーチを相手に平気な顔でスパーをしている姿を見ているだけに、瓜子はよけいにショックだった。


「さぁて、ユーリの試合は真ん中らへんだったよね? まだ時間があるから、コンビニでヨーグルトでも買ってこよぉ! こんなにおなかがぺこぺこじゃあ、レオポン選手の相手はつとまらんよ!」


 しかしユーリは、いつもの調子で笑っている。


「どうして……」

「うにゃ?」

「いえ。何でもありません」


 咽喉のすぐ下までせり上がってきた言葉と感情を、瓜子は懸命に呑み下す。


(どうしてあなたは、こんなときでもそんな風に笑えるんですか?)


 試合の直前にそんな言葉をぶつけて、ユーリの気持ちを乱すわけにはいかなかった。


 ユーリの内面に踏み込むべき時は、今ではない。

 胸中を満たす不安や鬱屈を必死に抑えこみながら、瓜子はユーリとともにミュゼ有明の関係者用トイレを後にした。

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