ACT.1 新たなる日々

01 時は過ぎ去りて

『それでは本日のゲストです。現在、女子格闘技界を最も熱くさせている、話題の選手───ユーリ・ピーチ=ストーム選手です!』


 まだ学生っぽさを残した若いキャスターの声とともに、スタジオ内の照明が落とされる。

 プシューッと勢いよく炭酸ガスが噴出され、チープな城門のような扉から、ウエスタンシャツにダメージデニムというカジュアルな格好に身を包んだユーリが登場した。


 CS放送局の《アトミック・ガールズ》と同じチャンネルで放映されているバラエティ系スポーツ情報番組、その名も「デイリー・プラチナム」である。

 シャッフルビートの入場曲をバックにユーリが軽やかに足を進め、キャスターのかたわらに着席すると、スタジオ内には再び照明が灯された。


 テーブルには総合司会のお笑い芸人とアシスタントの新人アイドルも着席しており、実ににこやかな表情で手を打ち鳴らしている。

 そちらとカメラの両方に『こんばんわぁ』とユーリが挨拶すると、このゲストコーナーの進行役であるらしい見習いキャスターがまた熱っぽく語りはじめた。


『はじめまして! よろしくお願いいたします! ……さて、当局でもおなじみの《アトミック・ガールズ》を主戦場に活躍されているユーリ・ピーチ=ストーム選手なのですが。その三月大会の試合を皮切りに、目下怒涛の三連勝中! デビュー二年目にして、これはついにユーリ選手の時代がやってきたと言っても過言ではないと思うのですが、いかがでしょうか』


『ええ? そんなことないですよぉ。三月の試合までは一勝十敗なんていう情けない戦績だったんですからぁ、せめてあと六回は勝たないとプラマイゼロにもならないですもぉん』


『いやいや! 今までの戦績なんてチャラにできるぐらいの快進撃じゃないですか! 何せ、三連勝の内容が素晴らしすぎます!』


 青年のセリフに応じて、新人アイドルがテーブルに伏せてあったパネルをかかげる。


『三月の対戦相手は、あの、モデルやタレントとしても有名な女子プロレスラー、沙羅選手です。沙羅選手有利の下馬評をくつがえし、一ラウンドで見事に一本勝ち。決め技はアームロックでした』


 いかにも新人アイドルらしく初々しい少女だが、ユーリがそばにいるとあまりに影が薄くなってしまう。

 この番組の収録前に、彼女が自分のマネージャーに「何あの女? 超うざい」とぼやいている姿を、瓜子はたまたま見かけてしまっていた。


 しかしユーリだって持って生まれた素養に頼りきりなわけではなく、人一倍の手間ひまをかけて己を磨きあげているのである。悔しければ、彼女も自分を磨く他ないだろう。


 そんな彼女の姿が小さなワイプ画面に閉じ込められて、画面にはユーリと沙羅選手の熱闘が大写しにされる。


『序盤こそ攻めこまれてはいましたが、中盤以降は完全に沙羅選手を圧倒していましたね? 沙羅選手はユーリ選手の強烈な膝蹴りで右股関節の靭帯を傷め、一ヶ月間の療養生活をヨギナクサレたそうですよ』


『うーん。相手選手にケガをさせちゃったのはショックでしたねぇ。ユーリがまだまだ未熟な証拠ですぅ』


 かく言うユーリも左膝を傷めたわけだが、こちらは三日で全快してしまった。えらく痛そうにしていたが、内実はただの打ち身だったのだ。


 そうして沙羅選手がタップアウトしたところで、画面はスタジオに切り替わった。

 幸いなことに、その後の醜態はあらためて放送されずに済んだようだ。


『そして四月は、総合格闘技団体、《NEXT》の後楽園大会。女子レスリングの元オリンピック強化選手にして、かつては《アトミック・ガールズ》のミドル級王者でもあった、秋代拓実選手とのスペシャルマッチです。こちらも沙羅選手に劣らない強豪選手でしたが、やっぱり一ラウンド、チョークスリーパーで一本勝ちでした』


 こちらは放映の権利を有していないので、パネルのみの紹介であった。

 二十代半ばで、なかなかの美人であるが沙羅選手以上に物騒な目つきをした秋代選手とユーリがリング上で対峙している画像だ。


『秋代選手も強かったですぅ。スープレックスで投げられたときには、もうダメかと思いましたぁ』


 しかし、立ち技の攻防ではユーリが圧倒していた。ムエタイ仕込みのローと膝蹴りでさんざんにダメージを負ってしまった秋代選手は、グラウンドの攻防でも精彩を欠き、最後はほとんど試合放棄のような形でタップアウトしてしまったのである。どうやら膝蹴りの直撃で鼻骨を折ってしまっていたらしい。


 数年前に《アトミック・ガールズ》を離反してからは試合の回数も激減し、だいぶん落ち目だったとはいえ、それでもミドル級の元王者であった秋代選手を相手に、ユーリは危なげなく完勝してみせたのだ。


『そして、先月に行われた《アトミック・ガールズ》の五月大会においては、ちょうど一年前の試合で敗北を喫してしまった因縁の相手、オーストラリアのオリビア・トンプソン選手に一ラウンドKO勝利! 寝技巧者の沙羅選手、秋代選手からは一本勝ちを奪い、元・玄武館の女子チャンピオンであるオリビア選手にはKO勝利だなんて、快挙と言っても足りないぐらいですよ、ユーリ選手!』


 口調と同様に、視線も熱っぽい。というか、セリフ自体は台本通りなのに、何だか熱に浮かされているようにしか見えない。

 この収録後、彼はこっそりユーリに交際を申し込み、笑顔で一刀両断されることになるのだ。


『玄武館いうたら、あのおっかないケンカ空手の流派やろ? オレも若手の頃、番組の企画で体験入門させられたことがあるんやけど、たった三日で百回ぐらい殺されそうになったわあ』


 瓜子でも顔と名前を知っている、中年で中堅のお笑い芸人がしみじみと言う。

 彼は彼で、顔を合わせるたび、執拗にユーリを食事に誘ってくるらしい。

 そんなことだから、ユーリも芸能界というものに一線を引きたくなってしまうのだろう。


 何はともあれ、ユーリは強くなった。


 沙羅選手との対戦時は、コーチのジョンから伝授されたムエタイのスタイルも突貫工事の付け焼刃にすぎなかったのだが、秋代選手とオリビア・トンプソン選手との対戦において、ユーリは文字通り「新生ユーリ・ピーチ=ストーム」のスタイルを確立することに成功したのである。


 といっても、もちろんまだまだ試行錯誤の途上ではあるのだが。中間距離における左のロー、近距離における首相撲からの膝蹴りに加えて、もともと修練を積んでいたミドルやハイキック、タックルや組み合いの攻防を織り交ぜることによって、一気に攻撃の幅がひろがったのだ。


 オリビア・トンプソン選手は、重いローとタックルを警戒するあまり、頭部の防御がおろそかになった。そこに、切れ味はいまいちだが破壊力は抜群の右ハイキックをもらってしまい、一撃で昏倒してしまったのである。

 その際に、防御した左手首の尺骨が折れてしまい、ユーリと対戦した三名のすべてが病院送りになってしまう、という空恐ろしいオマケまでついてしまった。


 もとよりパワーと寝技の技術では誰にも負けていないユーリなのだから、スタンド状態で主導権さえ握れれば、勝てる───というサキの戦略がここまで型にハマるとは、正直なところ、瓜子でさえ信じがたいような気分だった。


 沙羅選手。秋代選手。オリビア選手。いずれも一流の名を譲らないトップファイターたる彼女たちを、ユーリは三連続で撃破してしまった。若きキャスターが熱弁するまでもなく、それは女子格闘技界の最底辺をうろついていたユーリ・ピーチ=ストームが十段飛ばしぐらいで一気にピラミッドの頂点付近にまでのぼりつめてしまったという事実を意味しているのである。


『……さて、そんなユーリ選手なのですが、来週末には《G・ワールド》の有明大会においてレオポン=ハルキ選手とのスーパーエキシビジョンマッチ、そして来月の《アトミック・ガールズ》七月大会においては、ついに、ミドル級でも一、二の実力者と名高い魅々香みみか選手との対戦が、なんとメインイベントとして決定しているのですね!』


『はぁい。人生初のメインイベントで、しかも大先輩の魅々香選手と対戦できるなんて、まるで夢みたいですぅ』


 このあたりのセリフは、嘘くさい。ユーリはどうやら、相手が誰であろうとあまり気にしないタイプであるらしいのだ。

 それも悪い意味ではなく、ユーリはリングに立つ選手のほとんどすべてを尊敬し、敬愛しているようであった。


 毛虫のように嫌われながら、格闘家もどきのカンチガイ女などと罵倒されつつ、どうしてそのような気持ちを持続できるのか、そのあたりの精神構造は瓜子にもまだ今ひとつ理解しきれていない。


『頑張ってください! 応援しています! 《アトミック・ガールズ》の七月大会には、ボクも会場まで応援に行かせていただきますので!』


『えぇ、本当ですかぁ? ありがとうございますぅ』


 その約束は、きっと反古にされるだろう。この一時間後ぐらいに、彼は疾風迅雷の勢いでユーリにフラれることになるのだから。

 それにしても、台本にないセリフはつつしむべきではないだろうか。ベテランお笑い芸人も、影の薄い新人アイドルも、すっかり笑顔がひきつってしまっている。


『それでは、前半戦のインタビューコーナーはこれにて終了させていただきます。ユーリ選手、後半戦は?』


『はぁい。後半戦は、ユーリの生着替えと、ユーリ・ピーチ=ストームの強さの秘密を探るのコーナーでぇす』


 と、カメラに流し目をよこしながら、ユーリはウエスタンシャツのボタンをひとつ弾く。

 いつまでたっても見なれない、凶悪な胸の谷間にカメラが寄りつつ……画面が、ふっと健康サプリメントのCMに移り変わる。


 それをきっかけに、瓜子はリモコンの停止ボタンを押した。


                 ◇


「ちょっと! うり坊ちゃん、なんで止めちゃうんだよぉ! 番組はこれから後半戦だよ?」


 と、画面上ではなく生身のユーリが不満そうにわめきはじめる。

 こちらのユーリはウエスタンシャツではなく、自身の物販商品であるピンク色のTシャツにスポーツブランドのジャージを羽織った、きわめてラフな格好だ。


 言わずと知れた、ユーリの秘密特訓場、兼、リビングである。

 殺伐としたトレーニング機器と巨大で旧式なテレビ以外には何もない一室で、瓜子はユーリとともに昨晩放映された生放送番組をエアチェックしていたのであった。


「もういいっすよ。ユーリさんのあられもない姿は、昨日遅くにスタジオでさんざん見せつけられたんすから。……ユーリさん、せっかく試合で勝てるようになったのに、お色気路線に変更はないんすね?」


「んにゃ? だって、ユーリの副業はセクシィグラビアアイドルちゃんですもの。グラドルからお色気を抜き取ったら、それこそ何にも残らないじゃん?」


「……世間のグラドルが牙をむいて怒り狂いそうな発言すね」


「ちゃうよぉ。お色気を捨てたグラドルは、タレントだか俳優だかに転身を果たすの。ユーリはそんなもんに生まれ変わる気はないから、需要がなくなるまでセクシィグラビアアイドルちゃんなのさぁ」


 これまたよくわからない理屈だ。

 そういえば、ユーリは映画やドラマの出演依頼などはのきなみ拒んでいるらしいのだが、グラビアアイドルなどという身分に未練や執着でもあるのだろうか? 


「ないよ、そんなもん。ユーリは強くてかわゆいベル様みたいな存在になりたいだけだから、副業の肩書きなんてどーでもいーの。どーでもいーから、手なれたグラドルやモデル以外の仕事なんてできるだけ関わりたくないだけなんですわよん」


「だけど……グラドルなんて、トシをくったら出来なくなる仕事じゃないっすか。ユーリさんはいったい、将来をどう考えてるんすか?」


「ひゃー、やだやだ! 将来だってぇ! そんなもんを考えてたら、生命がけの試合なんてやってられないよぉ。毎日が楽しくハッピーになれるように過ごしてれば、その延長上にある将来とかいうやつも、自然にハッピーになるんじゃなぁい?」


 ポジティブなんだか刹那的なんだか、そもそも本気で言っているかどうかもあやしい発言だ。瓜子はひとつ肩をすくめてから、テレビのリモコンをマットに放り捨てた。


「それじゃあ、とりあえず食事にしましょうよ。このままじゃあ空腹でアンハッピーです」


「あれれ? もうそんな時間? 今日の当番はサキたんのはずなのに、またまた帰りが遅いねぇ?」


 時刻はすでに、午後の七時を回っている。

 日曜日である本日は道場も休館日であり、また、副業の業務も日中で片付いていたので、中途半端に余ってしまった時間をテレビ鑑賞などに費やしてしまっていたのだが───日曜の早朝から仕事に出向いたサキは、いまだに帰ってきていない。ここのところ、サキは毎夜のように帰りが遅く、すっかり生活がすれちがってしまっていた。


「食事当番はともかく、サキたんのお顔が見れないとさびしいなぁ。ちょいと連絡してみましょ」


 と、ユーリはマットの上をころころと転がって、部屋のすみに追いやられていたメタリックピンクの携帯端末を取り上げる。

 迷惑じゃないのかな、と瓜子は少し心配になったが、それ以上にサキの動向が気になっていたので、あえてユーリを止めたりはしなかった。


「ああ、サキたん? お忙しいとこ、ごめんねぇ。でもでも今宵は、サキたんがお食事の当番なのだよぉ?」


 意外にすんなりと電話はつながったらしく、ユーリは大きな声で通話しはじめる。


「え? うん、ああ、そう。それはそれは大変だねぇ。……うん、こっちのことは気にしなくていいよぉ。お食事当番を肩代わりしてあげるお礼は、いずれカラダで払ってねぇ」


 ふざけたことを言いながら、ユーリはあっさりと電話を切り、瓜子のほうを振り返った。


「なんか、実家のほうがバタバタしてるから、今日も遅くなっちゃいそうなんだってぇ。わりーな、っていちおう謝ってたよぉ」


「実家って……いったい何があったんすか?」


「知らにゃい。あと、道場のほうにもしばらく顔は出せないかもしれないからヨロシクなーとか言ってたにゃ」


 言葉を失う瓜子の前で、ユーリは「うーん」とのびをした。


「さぁて、そんじゃあディナーに取りかかろっかぁ。冷蔵庫にはナニが残ってたかなあっと」


 ユーリはそのまま立ち上がり、キッチンへと向かう。

 まだ先週の試合のダメージが残っている身体をひきずりながら、瓜子は慌ててその後を追った。


「ちょっと、ユーリさん、それじゃあ何のために電話したんすか? ……ていうか、サキさんのことが心配じゃないんすか?」


「心配ってぇ? あの鉄の女、『サムライキック』との異名をとるサキたんの何をどーゆー風に心配したらいいにょ?」


「どういう風にって……せめて、事情を聞くとか……」


「言える事情なら、とっくに話してるでしょ。こんなに毎日帰りが遅くなるなんて、きっと大変な事情があるに違いないよぉ」


「だから! それがどういう事情なのか、気にならないんすか?」


「んにゃにゃ? 気にならなくはなくもないけどぉ。向こうから話したがらないことを無理に聞きほじる趣味はないのでぃす。そーゆー趣味があるなら、うり坊ちゃんが聞けばぁ?」


 キッチンに到着したユーリは、鼻歌まじりに冷蔵庫の中身を物色し始める。

 その丸っこくも優美な背中のラインを見つめながら、瓜子はいささかならず意外の念にとらわれてしまう。


「ユーリさんって、意外にドライなんすね。なんていうか、もっとこう、相手の迷惑もかえりみずに深入りするタイプなのかと思ってました」


「にゃっはっは。そんなこと言われたの、初めてだぁ。へらへら笑ってるくせに他人には無関心! って罵倒されるのがユーリのスタンダードなんだよぉ?」


「ふだんはそうかもしれないっすけど、相手がサキさんなら別でしょう? サキさんのことは大好きだって、いつもいつもうるさいぐらいに主張してるじゃないっすか」


「大好きさぁ。大好きだよぉ。サキたんに見捨てられたら、ユーリはさみしくって死んじゃうかもしれないぐらいだからねぇ。……でも、大好きな相手だからこそ、踏みこんでほしくなさそうな場所には踏みこまないの。それがユーリのスタンスなの」


「……どうしてっすか?」


 瓜子の声には、少し反感の響きがまじってしまったかもしれない。

 が、それに応じたユーリの言葉を聞くと、瓜子は怒れなくなってしまった。


「そんなの決まってるじゃあん。ユーリにだって、誰にも踏みこんでほしくない場所があるからさぁ」


 ユーリは朗らかに、そう答えたのだった。


 瓜子には、心当たりがある。

 つい先日、とあるアスリート系雑誌からユーリの特集を組みたい、という申し出があったのだが。ユーリの生誕から幼年時代、プロダクション入りを経て格闘家に至る今日までの軌跡を年表にまとめたいらしい、と聞いたとき、ユーリは即座に、やはり笑顔で拒絶してみせたのだった。


「アイドルとしてスカウトされる前の人生なんて、なーんにも面白くなかったですもん。そんなパッとしない過去をセキララに語っちゃっても、ユーリにとってはマイナスイメージにしかならないですよぉ」


 千駄ヶ谷女史はそれですぐに納得できたようだし、瓜子としても異存はなかった。

 ただひとつだけ、瓜子は気づかされてしまったのだ。

 自分はユーリの過去を何ひとつ知らない、と。


 スカウト以降の人生については、ドキュメント番組でも目にしたことがある。しかし、それ以前の過去については――実家が茨城であるらしい、そして両親は他界しているらしい、ということぐらいしか、瓜子は聞いたことがなかった。

 将来・未来のこと以上に、ユーリは過去を語らない娘であったのだ。


 時節は六月も後半に差しかかり、この奇妙な同居生活もついに丸五ヶ月を突破した。おまけに本業でも副業でも顔を突き合わせているのだから、嫌というほど気心も知れている。というか、かつてこれほどまでに一人の人間と時間をともにしたことなど、家族以外ではなかったに違いない。

 そうであるにも拘わらず、瓜子はユーリの過去について何も知らないのだ。


 どうして実家を飛び出したのか。

 どうしていまだに、実家を毛嫌いしているのか。

 両親がいないというのは、本当なのか。

 そして───どうして人間とまともに触れ合うことができないのか。


 こんな色気とフェロモンの塊みたいな娘が、男でも女でも触れられただけで鳥肌が立ち、気分が悪くなってしまうというのは、尋常な話ではない。女性的な魅力に満ちあふれすぎているがゆえに、過去に何か不幸な事件でもあったのではないか……瓜子ならずとも、それぐらいのことは普通に考えるだろう。


 踏みこんでほしくない場所とは、それか。

 もちろん瓜子だって、そんな領域にズカズカと踏みこむ気にはなれなかった。


「やっぱ手軽にお鍋かなぁ? お野菜もトリさんもどっさりストックされてるし! 今日はちょっとポン酢の気分かもぉ」


 と、瓜子の気持ちも知らぬげに、ユーリははしゃいだ声をあげている。


「一週間後には《G・ワールド》でエキシビジョンマッチだけど、体重制限があるわけでもないし。男子のパワーに対抗するには、たらふく食べて力をつけとかないとねぇ」


「いい気なもんすね。自分の試合は台無しにしてくれたってのに、のうのうと《G・ワールド》に出場っすか」


「うにゃ? 台無しとはこれ如何に? 見事に大逆転KO劇を決めたうり坊ちゃんを祝福してあげただけじゃん」


「セクハラしてマットに投げ出すのが祝福っすか」


「しょうがないじゃん! いまだにうり坊ちゃんにさわると、鳥肌ぶわーってなっちゃうんだもん! ユーリが思うぞんぶんまさぐれるのは、やっぱりサキたんのカラダだけなんだにゃあ」


「……わざとらしく意図的におかしな表現を使わないでください」


 瓜子はどんどん陰鬱な気分になってきたので、ダイニングのつつましいテーブルに荒っぽく腰を落とすことにした。

 アヤノ=ホワイトタイガー選手との試合からまだ一週間しか経っておらず、瓜子はいまだに全身がガタガタなのだ。ハイ、ミドル、ロー、前蹴り、と蹴りまくられて、腕も足も腹も腰も、全身これ青アザだらけなのである。


「だけど、不思議なもんだにゃあ。サキたんと暮らし始めて三ヶ月ぐらい経った頃には、もうけっこうサキたんにはさわっても大丈夫な感じになってたんだけど。こんだけずーっとそばにいるうり坊ちゃんは、いまだに鳥肌の対象なんだものねぇ」


「もういいっすよ。とことん相性が悪いってことでしょ」


「あはは。いまだにケンカばっかりだもんね! ……だけど、うり坊ちゃんのことは大好きだよぉ? へたしたら、もうサキたんと同じぐらい好きかもなぁ。だからよけいに、鳥肌がおさまらないのが不思議なにょ」


 白菜やら長ネギやらをザクザクと刻みながら、ユーリは実にあっさりとそう言った。

 その背中に向けて、何か気のきいた皮肉でも返してやろうと口を開きかけ───けっきょく言葉が見つからず、瓜子は仏頂面で黙りこむ。


 自分だって、嫌いなわけがないではないか。

 お調子者で、能天気で、時として死ぬほど腹の立つことをやらかしてくれる娘さんだが、瓜子にとっていまやユーリは、かけがえのない存在になりかけていたぐらいなのである。


 だから、ユーリの謎に満ちた過去についても、今は踏みこむことができなくても、いつかは踏みこませてほしい。それぐらいのことは、もうずっと前から考えていた。


(ま、相性が悪いってのも、たぶん本当のことなんだろうけどさ)


 実にさまざまな感情に翻弄されつつ、瓜子はテーブルに肘をつく。


 その夜も、サキはやっぱり瓜子たちが起きている間には帰宅してこなかった。

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