03 鮮血の決着

「いわゆる、見えない右フックってやつだな」


 オーバースイングのフックというのはMMAでも定番であるが、魅々香選手のそれは、特に軌道が変則的なのだ。


 体勢は低いのに、ななめ上から楕円を描いて振り下ろされる。長い腕や、広い肩幅、それに発達した後背筋から生み出される、トリッキーながらも強烈な一撃だった。


 カウントシックスで立ち上がり、ユーリはまた距離を取ろうとする。

 そこに魅々香選手が踏み込んでいく。

 ユーリは両腕を突き出しストッピングを試みつつ、左のローを放った。

 しかし、魅々香選手の突進は止まらない。


 ユーリの腕が、魅々香選手の首にのびる。首相撲だ。

 魅々香選手は頭を振って、それを振りほどく。

 ユーリの左手側に回りこみつつ、ショートのボディアッパー。


 ユーリの動きは、完全に研究されつくされている。

 ここ三試合で使った技だけでは、ユーリに勝機はなさそうだった。


「……おっ?」


 サイトーが、驚いたような声をあげる。

 ユーリが前蹴りで距離を空け、そのまま後方に引き下がろうとした瞬間、その動きに合わせて、魅々香選手が両足タックルをきめたのだ。


 ここでタックルがくるとは、ユーリも予測できなかったのだろう。完全に虚をつかれた格好で、あっけなくマットに組み伏せられてしまう。


「グラウンドでも負ける気はしねえってか。完全に横綱相撲だな、こりゃ」


「……こいつは魅々香選手の作戦ミスっすね。少なくとも、立ち技よりは寝技のほうが、ユーリさんにも勝機はあるはずっすよ」


 押し殺した声で瓜子がつぶやくと、サイトーは「さて、どうだかな」と無慈悲に言った。


「あのタコ入道だって、柔術の腕前は茶帯なんだろ? 結果的に上も取ってるし、アイドルちゃんが大ピンチってことに変わりはねえだろ」


 サイトーの言う通り、魅々香選手はしっかりと有利なポジションをキープして、着実にポイントを重ねていた。

 形としては、下になったユーリが両足で相手の右足をはさみこんだ、ハーフガードのポジションだ。


 魅々香選手は無理にその足を引き抜こうとはせず、ユーリの左脇に右腕を差しこみ、左腕で小刻みにパウンドを落としている。

 ダメージを与えようというのではなく、そうして相手の注意を散らしながら、次のポジションへの移行を探っている感じだ。

 まるで生白い軟体動物に五体をからめとられてしまったかのように、ユーリが───あのユーリが、得意なグラウンドの攻防でも追いつめられてしまっている。


 思うに、ユーリは膠着せずにどんどんと展開を重ねていく攻防のほうが、得意なのだ。

 立ち技ではサキに鈍牛と罵られてしまうユーリだが、寝技においてはどんなにめまぐるしい攻防でも対応できる反応速度と技量を有している。ゆえに、寝技巧者の沙羅選手やノーマ選手を相手にしても、互角かそれ以上の闘いを見せることができた。

 しかしこの魅々香選手は、どうも勝手が違うらしい。


「終わったかな」

「まあ、順当でしょ」

「まぐれ勝ちは、そう何回も続かないさ」


 ひそひそと取りかわされる、嘲弄の言葉。

 そんなことをしてもしかたがない、と自覚しつつ、それでも瓜子は反射的にそちらをにらみつけてしまった。

 試合を終えてくつろいでいた女子選手の何人かが、素知らぬ顔でそっぽを向く。


「やめとけよ、猪狩」と、サイトーが苦笑まじりに言ったとき、その向こう側にたたずんでいた柳原が「あ」と小さく声をあげた。

 その低い声にこめられた困惑の響きに瓜子はぞっとして、おそるおそるモニターに向きなおる。


「……え?」


 状況が、一変していた。

 ユーリの白くて優美な足が、下から魅々香選手の頭部と左腕にからみついていたのだ。

 三角絞めの体勢だ。

 魅々香選手は立ち上がり、何とか技を極めさせまいと、ユーリのほうに体重をあびせかけている。

 しかし、その生白いスキンヘッドは、すでに真っ赤に染まりかけていた。


「何だよこりゃ。何がどうしてこうなったんだ、ヤナ?」


 サイトーに問いつめられて、サブトレーナーの柳原は仏頂面で頭をかく。


「桃園さんが、クロスしていた足をほどいて、相手の腰を蹴ろうとしたんです。それをしのいだ魅々香選手が、開いた足を乗りこえて、マウントに移行しようとしたんですけど……そうして魅々香選手が腰を浮かせた瞬間、桃園さんが三角絞めを仕掛けました」


「んん? オレにはイマイチよくわかんねえな」


「たぶん……足を開いたのは、桃園さんのエサだったんです。それで魅々香選手が大きく動くように誘導して、ここまでの形にもっていったんですよ」


 サイトーよりも年少で、プレスマンのMMAファイターとしてはトップに近い実力を持つ柳原は、いくぶん苦々しげな口調でそう解説してくれた。

 彼はふだんから、ユーリと折り合いが悪いのだ。そうでなかったら、本来は正コーチのジョンが瓜子のセコンドにつき、彼がユーリのセコンドに任命されていたはずである。


 何はともあれ、ユーリは劣勢をくつがえすことに成功したのだ。

 瓜子は息を詰めて、モニター上の攻防を見守った。


 魅々香選手はたいそう苦しそうにしているが、これでもタップしないということは、まだ完全に極められているわけではないのだろう。

 数ミリずれれば極まらないのが、サブミッションだ。

 ユーリのほうにぐいぐいと体重をあびせながら、少しずつポイントをずらそうとしているのが見て取れる。


 と───ユーリがふいに、自分から両足を解放した。

 相手の左手首をつかんだまま、今度は腕ひしぎ十字固めを狙う。


 一瞬、魅々香選手の左肘が伸びかけたが、その寸前に、両腕がクラッチされる。

 そうして魅々香選手はマットを蹴り、後転をする格好でポジションを崩し、その勢いのまま左腕を引き抜いて、立ち上がった。


「あっぶねえ逃げ方だなあ。失敗したら、肘がぶっ壊れんだろ」


 愉快そうに、サイトーがつぶやく。

 何はともあれ、仕切りなおしだ。

 大歓声の中、ユーリもゆっくりと立ち上がる。


「残り時間は、一分足らずか。勝負は、次のラウンドだな」


 誰もが、そう思っていたに違いない。

 その間隙を突くように、魅々香選手が大きく踏みこんだ。


 大振りのオーバーフックが、三たび、ユーリに襲いかかる。

 まだしっかりとガードを固めていなかったユーリは、ハッとしたように両腕をあげる。


 そうして、がら空きになったユーリの足もとに、魅々香選手の左腕がのびる。

 右フックをフェイントにした、片足タックルだ。

 この時間帯で、さらにグラウンド戦を挑む気か。


 ユーリは反応できていない。左のローで迎え撃つこともできない。

 魅々香選手の奇襲技は、完全に成功した───かに思われた。


 しかし、次の瞬間、マットに倒れこんだのは、魅々香選手ただひとりだった。

 ユーリの左側に倒れこみ、顔面をおさえて、のたうち回っている。その両手のグローブの隙間から、おびただしい量の鮮血がしたたり落ちていた。


 誰もが呆然と息を呑み、ユーリもきょとんとした顔で魅々香選手を見下ろしている。

 その右足が、膝蹴りの体勢でフリーズしていた。


 ユーリの膝蹴りが、カウンターで魅々香選手の顔面を撃ち抜いたのだ───そうと理解したレフェリーが、我に返って両腕を振り回す。


 静寂の中、ゴングが乱打され、封印が解けたかのように歓声が爆発した。


『一ラウンド、四分三十九秒、膝蹴りによるKOで、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の勝利です!』


 レフェリーがユーリの右腕をひっつかみ、ユーリは空いた左手でポリポリと頭をかく。

 その困惑しきった表情が画面に大映しになると、控え室にいた誰かが、「何だ、偶然当たっただけかよ」と憎々しげにつぶやいた。


 瓜子は心中で、(違う)とつぶやく。

 偶然ではない。首相撲からの膝蹴りを習得したユーリは、もうずいぶんと前からタックルを膝蹴りで迎撃するトレーニングを開始していたのだ。


 きっと今のは無意識のうちに身体が動いたのだろうが、無意識で身体が動くぐらいの反復練習を積んだ、ユーリの勝ちだ。瓜子は、それを偶然とは呼ばない。


「呆れたもんだなあ。あのタコ入道をも一撃KOかよ。こいつは本当に、ミドル級王座とやらにリーチがかかったんじゃねえか?」


 豪放に笑いながら、サイトーがバシンと瓜子の背中をどやしつけてくる。

 驚いて振り返ると、サイトーはいつになく楽しそうに笑っていた。


「さ、閉会式だな。とっとと済ませて祝杯でもあげようぜ。うちの選手が三人とも勝てたんだから、立松っつぁんも喜ぶぜえ?」

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