ACT.3 SHOOT & CUTE・VOL 4
01 六十八秒のデビュー戦
それから二週間後。
七月の第三日曜日。
《アトミック・ガールズ》の公式大会、『SHOOT&CUTE・VOL4』が、恵比寿AHEADにて開催された。
瓜子のデビュー戦は、第二試合。
沙羅選手の復帰戦は、第六試合。
サキの試合は、第七試合。
そしてユーリの試合は、メインイベントの第十試合。
二人の所属選手と一人の客分選手が出場することになり、新宿プレスマン道場は大わらわの感が否めない。
ユーリにはジョン、瓜子にはサブトレーナーの柳原、サキには立松という面々がセコンドにつくことになった。
それにプラスして各選手につき一名ずつ雑用係も準備されたのだから、出場選手をふくめて総勢九名の大所帯である。
ひとつの大会に三人もの選手を送りこむことができるというのは、ジムにとっても栄誉なことであるはずだった。
これで三人ともに勝利を飾ることができれば、本当に万々歳である。
◇
「あははぁ。ここでもうり坊ちゃんとご一緒だぁ」
青コーナー陣営の控え室で、ユーリは楽しそうに笑っていた。
ルールミーティングやドクターチェックといった煩雑な事前作業を終え、軽くウォーミングアップをこなし、開会セレモニーの開始を待っていた頃合いである。
これがデビュー戦である瓜子と、格上の選手と対戦するユーリは青コーナーであり、サキや沙羅選手は赤コーナーに割り振られたのだ。
姿見に向かって入念にメイクのおなおしをしているユーリを横目に、瓜子はふっと息をつく。
「サキさん、大丈夫すかね? けっきょくあれからプレスマンのほうには一度も顔を出さなかったし、いまだに会場入りしてないみたいだし……やっぱり心配です」
「うにゅ? この期におよんでまだサキたんの心配とは、余裕でありますねぃ! ユーリなんて、もうすぐうり坊ちゃんのデビュー戦が始まるのかと想像しただけで、心臓バクバクだよっ!」
「そうっすか。自分は意外に冷静です。相手も同じストライカーですしね」
瓜子の対戦相手は、やはりデビューして間もない小柴という二十歳の新人選手だった。
身長百五十四センチ。体重はリミットいっぱいの五十二キロ。戦績は二戦二勝。グローブ空手の雄・武魂会の出身で、パンチが主体のインファイターというスタイルまで瓜子と似ている。
武魂会はあくまでグローブ空手の道場であるので、きっと出稽古でMMAの技術を学んだのだろう。品川MAと違って革新的な方針を取っている武魂会は、そうしてさまざまな競技の大会に選手を送りこむのを常としているのだ。
「しかしな、似たようなスタイルで負けたら恥だぜ、猪狩? 確かに小粒な相手だけど、連勝して波にも乗ってるだろうしよ。……何より、オレが面倒みてやってんのにパンチ勝負で負けたりしたら、オトシマエをつけてもらうかんな」
と、サイトーが口をはさんでくる。
なんと今回は、瓜子用の雑用係としてサイトーも出陣してくれたのだ。
MMAに関してはほとんど門外漢のサイトーであるが、精神的な支えとしてこれ以上の存在はない。正トレーナーのジョンを客分のユーリに割り振ってしまった負い目からの配置かもしれないが、もちろん瓜子には不満の持ちようもなかった。
柳原と若手の門下生はコンビニへの買い出しで席を空けていたので、瓜子たちのかたわらにいるのは、サイトーとジョンのみである。
しかし、螺髪のような金色のドレッドヘアーに、仁王像のごとき厳つい顔、それに風神と雷神のタトゥーを両腕に刻みつけたサイトーと、頭をつるつるにそりあげた背の高い黒人男性たるジョンのペアなので、存在感は申し分ない。
というか、ユーリにサイトーにジョンという組み合わせはずいぶん人の目に立ってしまっており、なんだか控え室でもちょっと遠巻きにされている雰囲気である。
個性派ぞろいのプレスマン道場でも、これは特に際立ったメンバーが集結してしまったようだ。
「ま、そいつは冗談としても、頭が冷えてるなら上等だ。そういえば、お前さんが緊張してる姿ってのはあんまり見た記憶がねえな。可愛い面して、肝っ玉の据わりようは大したもんだぜ」
「やだな、サイトー選手まで可愛い面とか言わないでくださいよ」
「オレに比べりゃ、全人類の過半数が可愛い面だよ」
そんな風にサイトーが言ったとき、新たに控え室へと入室してきた人物が、まっすぐ瓜子たちに近づいてきた。
褐色の髪をひっつめて、青い瞳を光らせる、精悍な風貌をした白人女性───米国より招かれたミドル級ファイター、ジーナ・ラフ選手である。
対戦相手の沙羅選手が赤コーナーなのだから、彼女はもちろん青コーナー陣営なのだった。
「ハイ、ジョン」と呼びかけられ、ジョンも「やあ、ジーナ」と陽気に笑う。
両者は、顔見知りであったのか。
オランダ生まれのジョンとアメリカ生まれのジーナ選手はしばらく英語で何事かを語り合い、その末に、ふたりそろってユーリのほうに視線を飛ばしてきた。
「ユーリ。ジーナがガンバれってイってるよー。ユーリはツヨい。オリビアにカったユーリなら、ミミカにもカてるかも、だってよー」
オリビアとは、ユーリが前回の大会で下したオリビア・トンプソン選手のことだろう。
確かに、『日本人キラー』という異名を持つオリビア選手の評価は高い。戦績としては、ジーナ選手を上回るぐらいだ。
ただし、本日ユーリが対戦する魅々香選手は、その両選手よりも高い評価と実績を持つ選手なのだった。
「ありがとぉ! ジーナ選手も頑張ってくださいねぇ」
ユーリはにこりと嬉しそうに微笑み、ジーナ選手もつられたように口もとをほころばせる。
半年前に、決死の形相でユーリを打ち負かした選手と同一人物だとは信じがたいぐらい、それは柔和な笑い方だった。
「……うーん、沙羅選手の応援をするはずだったのに、なんか、ジーナ選手も好感度高いにゃあ。言葉さえ通じれば、仲良くなれそうな感じー」
「アメリカやオランダのセンシュは、みんなユーリのツヨさをミトめてるよー。ツヨいユーリが、ジブンのツヨさにキヅきハジめた。これからはますますユダンデキないってねー」
「にゃはは。そいつは照れますにゃあ」
ユーリは、ジョンとも仲がいい。あけっぴろげで無邪気な性格は、日本人よりも外国人向けなのかもしれなかった。
何はともあれ、ずいぶんなごやかな雰囲気だ。
サキのことだけは気がかりだったが、それをのぞけば試合直前とも思えぬなごやかさである。
これがプレスマンの気風であり、また、ユーリの気風であるのだろう。
いい意味で緊張感を持たないまま、瓜子は静かに闘いの刻を待った。
◇
そうして、およそ一時間後。
開会セレモニーと二試合のプレマッチ、そして第一試合がつつがなく終了すると、あっという間に瓜子の出番は回ってきてしまった。
『第二試合。ライト級。五十二キログラム以下契約。五分二ラウンドを開始いたします!』
リングアナウンサーの声が響く。
『青コーナー。百五十二センチ。五十一・八キログラム。新宿プレスマン道場所属。《G・フォース》フライ級一位……猪狩、瓜子!』
プレスマンのオレンジ色のウェアを脱ぎ捨てて、瓜子は軽く右手を上げてみせる。
ボクシンググローブよりも軽い、オープンフィンガーグローブ。
この半年間で、この軽さと質感もだいぶん拳になじんできた。
試合衣装は《G・フォース》の時と同じく、黒地のハーフトップとシルバーを基調にしたキックトランクスである。
練習時にはラッシュガードやスパッツも試してみたのだが、やはりこの格好が一番しっくりときたのだった。
熱くまばゆい照明の下、右腕を掲げた瓜子を、ささやかだが好意的な歓声が迎えてくれる。
瓜子はあんまり、手売りでチケットをさばくことができない。本日招待できたのも、キックを通じて知り合えた友人知人が、ほんの数名だ。
学校関係の知人を試合に招いたことはないし、当然のことながら、品川MAの関係者を呼ぶことはできない。プレスマンの門下生は、みんなサキ名義のチケットで入場しているはずである。
ただし、プレスマンの窓口を通して何枚かのチケットはさばけた、とも聞いている。
おそらくは、キックの選手としての瓜子を知る人々が、自主的に購入してくれたのだろう。
ユーリなどに比べれば、それはささやかな枚数であったが、それでも瓜子は嬉しかった。
自分のためだけではない。それらの人々のためにも、恥ずかしくない試合をしよう、と思う。
『赤コーナー。百五十四センチ。五十二キログラム。武魂会船橋支部所属。……小柴、あかり!』
スポーツブランドのタンクトップに、ハーフのスパッツ。瓜子よりもなおさっぱりとしたショートヘアの小柴選手が、瓜子と同じように右手を上げる。
年齢は二十歳。グローブ空手の選手らしく、細身で引き締まった体形をしている。
体格も、年齢も、ベースとなる格闘技も、瓜子とあまり差のない相手である。
ただしあちらは総合デビューしてから三度目の試合であり、すでに二勝をあげている。
怖くはないが、油断できる相手でもない。
「ふふん。けっこうガチガチだな。緊張が顔に出ちまってるじゃねえか?」
ルール確認を終えて青コーナーに戻ると、人の悪い笑みを浮かべたサイトーに、そんな風に声をかけられた。
瓜子はちょっとびっくりして、その仁王像のような面相を見つめ返す。
「そうっすか? 自分的には平常心のつもりなんすけど……」
「馬っ鹿、ちげえよ。お前さんじゃなくて、あちらさんのほうだって。お前さんのキックの経歴にビビッてんのか知んねえけど、これじゃあどっちがデビュー戦かわかんねえなあ、おい」
何だそうかと、瓜子は小さく息をつく。
確かに小柴選手の実直そうな顔は、気迫やら闘争心やらがあふれかえりすぎていた。
アップも過剰だったのではないだろうか。試合衣装にも汗がにじんでしまっている。
「おい、しょっぱなに一発かましてみろよ。うまくいけば、それで最後まで主導権を握れるぜ?」
「ええ? 自分だって初陣なんすよ? もうちょっと慎重にいかなくて大丈夫っすか?」
「お前さんの辞書に慎重とか載ってるのかよ、『ガトリング・ラッシュ』さんよ?」
「……その二つ名はカンベンしてほしいっす」
「ほんなら『美少女高校生キックボクサー』のほうがお好みか? もう卒業しちまったんだから、そいつも微妙だろ」
「わかりましたってば。先手必勝っすね?」
そんな阿呆なやりとりをしているうちに、『セコンドアウト』のアナウンスが鳴ってしまった。
チーフセコンドであるはずの柳原は、ついに最後まで口をきかず仕舞いである。
「よし! いきなり頭から突っ込むなよ、猪狩!」
と、リングの下におりながら、なおも聞こえよがしの大声をあげるサイトーである。
(まったく、困ったお人だなあ)
ゴングが鳴った。
それと同時に、瓜子は頭から相手に突っ込む。
小柴選手は、ハッとしたように両腕で顔面をガードした。
(……確かに、固いな)
ふつふつとこみあげてくる闘争心に身をゆだねながら、瓜子はアウトサイドにステップを踏み、そして、身体を半回転させた。
奇襲技の、バックハンドブローだ。
これがキックの試合なら、おたがいのグローブがグローブにぶつかっただけだろう、と思う。
だけど、オープンフィンガーグローブは小さい。
瓜子の左拳は、相手のグローブをかすめる軌道で、おもいきり左側頭部を撃ち抜くことができた。
こちらの拳が痺れるほどのクリーンヒットだ。
結果、小柴選手は腰からマットに落ちることになった。
「ダウン!」
レフェリーがすかさずカウントを数えはじめて、観客たちは歓声をあげる。
意識を奪うには至らなかったが、今のは完全にダメージを受けた人間の倒れ方だ。
小柴選手は、カウントエイトまで立ち上がることができなかった。
「落ち着け! 出会い頭でもらっただけだ! いつも通りに足を使っていけ!」
相手方のセコンドが、必死の面持ちでわめいている。
瓜子にはその声がよく聞こえたが、小柴選手の耳にはまったく届いていないようだった。
その中性的な面には、驚きと怒りと困惑の感情がせめぎあってしまっている。
(主導権を握れるかな)
瓜子は、軽くステップを踏む。
すると、今度は小柴選手が頭から突っ込んできた。
(やっぱりセコンドの声は聞こえてないみたいだ)
おたがいにインファイターなのだから、正面衝突はのぞむところだ。
と、瓜子が思っていると───ふいに相手の上半身が下方に沈みこんだ。
両足を狙った、タックルだ。
が、頭は下がっているのに、腰は下がっていない。
しかも、相手の懐に飛び込む前から、両腕が前方に伸びてしまっている。
これはユーリに一番最初に習うことになった、タックルのもっとも悪い見本───いわゆる、クワガタ・タックルというやつだった。
(膝蹴りでカウンター……いや……)
瓜子は少しだけ右手側にステップを踏み、相手の後頭部を押さえ込むかたちでタックルを潰した。
そして、マットに這いつくばった相手の背に体重をあびせかける。
小柴選手は亀のように丸くなり、自分の頭を両腕で抱えこんだ。
普通は瓜子の片足だけでも捕らえて大きな動きを封じるか、あるいは身体を正面に向けてガードポジションに移行するところだろう。
これでは、瓜子の殴り放題になってしまう。
(完全にパニくってるなあ)
心の片隅で思いつつ、瓜子は右拳を振り上げていた。
フルスイングで、相手のレバーに右拳を叩き込む。
「うえっ」と相手がうめくのが、わかった。
その身体が、いっそう小さくちぢこまってしまう。
(よし)
このまま殴り続ければ、相手はタップしたかもしれない。
しかし、それを嫌がって反撃してくるかもしれない。
だから瓜子はその丸まった背中にまたがり、バックマウントを取ることにした。
両足で相手の胴体をはさみこみ、威嚇のパウンドを何発か、相手の両腕に振り下ろす。
そして最後の一発は、するりと相手の咽喉もとにすべりこませた。
そのまま腕をクラッチして、胸をそらせる。
若干の抵抗を見せた後、小柴選手の身体がのびた。
腕を、おもいきり引き絞る。
数秒後、小柴選手は弱々しく、瓜子の腕を手の平で叩いてきた。
レフェリーに肩を叩かれる前に、瓜子は小柴選手を解放する。
それと同時に、ゴングが乱打された。
『一ラウンド、一分八秒、チョークスリーパーによるタップアウトで、猪狩選手の勝利です!』
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