05 鍛錬、その後

「……噂には聞いてたっすけど、立松コーチの個人指導はシビアっすね」


 午後の十時である。

 レギュラークラスと自由練習の稽古をも無事に終えた瓜子とユーリは、汗だくで頭からタオルをひっかぶり、バナナ風味のプロテインシェイクを摂取しながら、防音材の張られた壁にぐったりともたれかかっていた。


 道場の清掃は交代制なので、本日はキック部門の練習生たちが働いてくれている。

 その光景を目で追いながら、ユーリは「うふふ」と笑う。


「だけど、ものすごく濃密なトレーニングだったねぇ。笑顔で厳しいジョン先生も、仏頂面で厳しい立松先生も、ユーリはどっちも好きだなぁ」


「はい。プレスマンは、本当に良い道場だと思います」


 その代償として全身はガタガタだが、おかしな派閥や人間関係も存在せず、オランダ流の個人主義が徹底された新宿プレスマン道場の気風は、瓜子にとっても好ましいものだった。


「ここは居心地が良いっすよね。本当に、移籍して大正解でしたよ」


「ふみゅ。うり坊ちゃんがキックを習ってた品川MAってジムは、そんなに居心地が悪かったにょ?」


「居心地が悪いっていうか……むやみやたらと格式を重んじるジムで、コーチや先輩の命令は絶対って環境でしたから、心の底から尊敬できる指導者がいないと、精神的にキツかったっすね」


「ふみゅふみゅ。その尊敬できるコーチさんが辞めちゃったから、うり坊ちゃんは本格的に移籍を考えるようになったんだっけ。……そのコーチさんも、別のジムに移っちゃったにょ?」


「いえ。この業界は引退して、小さな居酒屋でもかまえるつもりだって言ってました。……そうじゃなかったら、自分もそのコーチの後を追いかけてたかもしれないっすね」


 何の気もなく瓜子が答えると、ユーリは「ガーン!」と擬音を発しつつ、のけぞった。


「ううむ。おっかない話だにゃあ……」


「おっかない?」


「うん。だって、そのコーチさんが引退してなかったら、うり坊ちゃんはプレスマンに来てなかったってことでしょ? そんな世界線は、絶対にイヤだっ!」


「何すか、世界線って。……それを言ったら、うちの両親が事業を失敗してなければ、ユーリさんとはほとんど接点もないまま一生を終えてたと思いますよ?」


 今度は意識的に意地の悪い言葉を発してみせると、ユーリはタオルをかぶったまま、捨て犬のような表情に成り果ててしまった。


「ううう。今の幸福な生活は、他人様の不幸な出来事を土台に構築されたものなんだにゃあ。何だかユーリはとっても心苦しいよ……」


「そんなん、ただの結果論じゃないっすか。うちの両親やコーチにふりかかった不幸の原因がユーリさんにあるわけじゃないんすから、何も気にする必要はないっすよ」


「それはそうかもしれないけどさぁ……」


 何だかからかい甲斐のない空気になってきてしまったので、瓜子は話題の転換を試みる。


「そんなことより、試合まであと二週間なんすよ? 体重調整のほうは大丈夫なんすか? 昨日は五十六キロってコールされてましたけど、エキシビジョンだから計量もしてないんすよね?」


「そのへんのところは大丈夫! これでもう一年近くもサキたんにお食事を管理されてきたから、ユーリも調整のノウハウが理解できてきたのだよ! ……感覚的に」


「感覚的に理解って、日本語としておかしくないっすか?」


「だいじょぶだいじょぶ。体重計の数値がそれを証明してくれております! ……うり坊ちゃんこそ、ついにデビュー戦だけど、大丈夫なにょ?」


「自分はもともと一、二キロ落とすだけだから、大丈夫っすよ。寝技用の筋肉がだいぶついてきたはずなのに、数字的には変化がないんすよね」


「ううむ。うらみやましい……でも、そうじゃなくってさ、北海道のママさんたちは大丈夫? って意味で聞いたんだけど」


「……は?」


「だって、ママさんたちはうり坊ちゃんのMMAデビューに猛反対なんでしょ?」


 そんなことを覚えていたのか。

 瓜子は、タオルごと頭をかき回す。


「大丈夫です。十八歳になっちゃえば、親の許可がなくても興行には出れますから。……だから自分も、この年齢まで待ってたわけですし」


「それってけっきょく、ご両親の許可は得られなかったってこと? ふむむ。何だかママさんたちがお気の毒だにゃあ」


「そんなことないっすよ。キックよりMMAのほうが危険だなんて、ただの思い込みなんすから」


「そうなにょ? まあ、どっちも格闘技なんだから、危険は危険なんだろうけども」


「そうっすよ。危険の質が変わるだけで、どっちのほうがより危険って話ではないと思います」


 それは確かに、総合格闘技、MMAならではの危険性というものは存在する。

 まず関節技や絞め技が許されているのだから、靭帯などを損傷する危険性は、MMAのほうが圧倒的に高いだろう。

 それに、オープンフィンガーグローブはボクシンググローブよりも薄手なので、拳や顔面の骨を痛める危険性も高いかもしれない。


 しかし、ぶあついボクシングローブは、そういった表層的なダメージを緩和する代わりに、その内部へと衝撃を浸透させてしまうため、脳に与えるダメージが深い、とも聞く。

 けっきょく、危険でない格闘技など存在はしないのだ。


「うり坊ちゃん。ケガだけはしないでね? うり坊ちゃんが入院とかしちゃったら、ユーリはさみしくてやりきれないよ」


「そうっすね。総合の女子は自分たちだけですし……サキさんも、全然顔を出さないっすもんね」


「うん。……サキたん、今日も来なかったねぇ。今度の試合は大丈夫なのかにゃあ」


 空になったドリンクボトルのストローを未練がましくくわえたまま、ユーリはちょっと心配そうな顔になる。


「十日間もお稽古を休むだなんて、ユーリにはちょっと考えられないよ。不安で不安で夜も眠れなくなっちゃいそうだにゃあ」


「足りない分は地元の練習場所で補うって言ってたんだから大丈夫でしょう。……でも、心配っすね」


「心配だよねぇ」


「…………」


「…………」


「…………」


「いかんいかん! 空気がよどんできた! もっと楽しいことを考えよう! ……えーと、今日撮影したカタログの見本誌って、いつぐらいに出来上がるのかにゃあ?」


「思い出させないでくださいよ! せっかく忘れてたのに!」


 掃除道具の片付けに取りかかっていた練習生たちが、びっくりしたように瓜子たちを振り返る。

 その視線から逃げるように、瓜子はずいっとユーリに顔を寄せた。


「ユーリさん。アレの話は絶対の絶対に誰にも言わないでくださいよ? あんなもんが知り合いの目に入ったら、自分は本当に舌を噛みきるかもしれないっすから」


「えー? めっちゃくちゃ可愛かったのにぃ。見本が届いたら、みんなに自慢したかったにゃあ」


「……あの撮影は、ユーリさんにとっての『桃色天使』ぐらい、自分にとっては恥辱なんすよ」


 そんな風に言ったとたん、額にごつんと軽からぬ衝撃が走りぬけた。

 ユーリが、頭突きをかましてきたのだ。

 そうして瓜子の額に自分の額を押しつけたまま、ユーリは怒った顔でささやきかけてくる。


「うり坊ちゃん。公衆の面前でなんちゅー言葉を発しておるのですか」


「だから、自分にとってはそれぐらい恥ずかしいことなんですってば」


「んなことないよ。かわゆかったじゃん」


「だったら、ユーリさんのアレだって色っぽかったですよ?」


「うぬう。まだ言うか」


 ユーリが、ぐりぐりと額を押しつけてくる。

 しかし、もちろん瓜子も引かなかった。


「ユーリさんがあのことを誰かに喋ったら、例のDVDをベランダからぶちまけさせていただきますからね?」


「そんなことしたら、カタログの完成品を関東中の格闘技ジムに配布しちゃうんだから!」


「……本気で蹴り殺しますよ?」


「ユーリはひらりとスウェーでかわすもん!」


「スピードで自分にかなうと思ってんすか?」


「だったらユーリはパワーで圧倒する!」


「……お前さんたち、何をやってんだよ?」


 と、立松コーチの呆れかえった声が頭上から降ってくる。


「いちゃついてんだか喧嘩してるんだか知らないが、クールダウンが済んだんなら、着替えてとっとと帰ってくれよ。いつまでも戸締りできないだろうが?」


「……すみません」


「……ごめんなさいです」


「明日も同じぐらいの時間には来れるのか? またヒマがあったらしごいてやるから、オーバーワークにならないよう、しっかり休んどけ」


 そう言い残して更衣室のほうに向かう立松を見送ってから、ユーリはにわかに右手を差し出してきた。


「……何すか、これ?」


「仲直りの握手。よく考えたら、ケンカするような内容じゃないなあと思って」


 何とも身もフタもないことを言うユーリの手の平を、瓜子は軽くぺしんと叩いた。

 その手の平にいったん視線を落としてから、ユーリは「くふふ」と、あやしく笑う。


「すっかり失念しておりましたけれども、お稽古以外で普通にふれあえるのって素敵だね! 実はさっきも怒りにまかせておでこをぐりぐりしつつ、途中からは幸福感で胸がいっぱいになり、そのままうり坊ちゃんの唇を奪ってしまいそうになっておりました!」


「……道場でそんな真似をしたら、本気で怒りますよ?」


「え。道場じゃなかったらOKなの? ちょっと意外!」


「全然OKじゃないっすよ! ……とっとと着替えて帰りましょう」


 そうしてようやく、サキのいない長い一日が終わった。

 初日からこれでは先が思いやられるな、と瓜子はこっそり溜息をつく。

 しかし───

 サキとの本当の決別が訪れるのは、もう少しだけ先の話だった。

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