04 鍛錬

「さっきのアレは、どういう意味だったんすかね?」


 数時間後。

 予定通りに雑誌の取材とネットラジオの収録を終えたユーリと瓜子は、プレスマン道場で練習前のストレッチに取り組んでいた。


 周囲では、ビギナークラスの練習生たちが立ち技の稽古に励んでいる。

 レギュラークラスの練習開始時間まではまだあと一時間ほど残っていたが、いつも通りに自主練習の許可をもらって、あまったスペースを拝借しているのだ。


「うにゅ? さっきのアレって、どのアレのこと?」


「だから、出る杭は打たれるとかいう話っすよ。なんだかキナ臭い話だったじゃないっすか?」


「ふーむ。しかしユーリがアトミックのみなみなさまに好かれていないのは最初からだし。かといって、罵倒されたり荷物を隠されたりって以外では迷惑をかけられた覚えもないし。何のことだか、ユーリにはサッパリだにゃあ」


「……荷物を隠されたりとかしてたんすか」


「昔の話だよぉ。今はチェーンロックで死守してるから、問題なっしんぐ!」


 マットに座り、大きく開いた足の間にぺたりと上半身を伏せながら、ユーリは笑う。


「それに、いまだ来たらぬ未来の心配をしても始まらないし! 今は試合に集中するよ! うり坊ちゃんも、レッツ・鍛錬!」


「わかってますよ、そんなことは」


 瓜子がそのように答えたとき、背後から「よお」と何者かが近づいてきた。


「お前さんたち、今日も自主練か。毎日毎日、感心だな。うちの男どもにも見習わせたいぐらいだ」


 組み技と寝技のコーチ、立松だ。

 もともとはレスリング出身のMMAファイターでありながら、ブラジリアン柔術に傾倒し、現役時代はさまざまなマットを荒らしていた寝技のスペシャリストで、プレスマンにおいてはジョンと並んで指導陣の双璧たる存在である。


 年齢は五十の手前ぐらいで、職人風のいかつい風貌を有しており、そんなに背は高くないが、肉厚の頑丈そうな体躯をしている。

 また、個性派ぞろいのプレスマンでは少数派の常識人でもあり、彼のほうからユーリに声をかけてくるのは、ずいぶん珍しい。


「全然そんなことないですよぉ。でも、ユーリもうり坊ちゃんも二週間後に試合を控えた追い込み期間に突入しちゃったものでぇ……その、お邪魔にならないよう気をつけますですぅ」


「試合があろうとなかろうと、お前さんたちはヒマさえありゃあ取っ組みあってるだろうが? ……心配しなくても、文句を言いに来たわけじゃない。ちょっと手が空いたから様子を見に来ただけだ」


 本日はジョンとサイトーが中心になって、ビギナークラスの門下生たちに打撃技のレクチャーをしていた。立松は、オフィスで事務仕事を終えたところなのだろう。


「ミットぐらいなら持ってやるよ。お前さんのウェイトで桃園さんの打撃を受けるのはしんどいだろ、猪狩?」


「あ、いえ、自主練習では寝技の稽古をする予定でした。前半三十分が補強練習で、後半三十分がスパーっすね」


「何だそうか。だったら、俺でも役に立てそうだな」


 役に立つどころか、正規コーチの立松に手ずから個人指導を受けられるなら、願ったり叶ったりである。

 しかし――ユーリはもちろん、瓜子もユーリの相方としてともども立松には敬遠されていたと思い込んでいたので、この申し出は意想外だった。


「何だよ? 女子連中の指導はジョンにまかせきりだったが、俺だって立場上は同じコーチなんだぞ? そんなに不思議そうな顔をするこたあねえだろ」


「い、いえ、そんなつもりじゃあ……」


「ああ、まあ確かに、正直なところをぶちまけさせてもらうなら、今までは自分から桃園さんの面倒を見ようなんて気持ちにはなれなかったよ。どんなアドヴァイスをしたって耳に入れてもらえないんじゃあ、鍛え甲斐もないからな」


 そのように言って、立松は分厚い肩をひょいっとすくめる。


「だけどこの数ヵ月で、桃園さんは別人みたいに動きがよくなった。そいつはジョンやサキのアドヴァイスを素直に受け入れた結果だろ? そういう姿勢を見せてくれるなら、俺だって何も意固地になったりはしねえさ」


「えへへ、申し訳ありませんですぅ。でも、立松コーチのことは最初の最初から敬愛しておりましたですよ?」


 それはそうだろう。柔術と寝技をこよなく愛するユーリであるのだから、その達人である立松は憧憬の存在であるはずだ。


「だったら最初から、そういう姿勢を見せてほしかったもんだな。寝技を活かすにはまず立ち技から。そいつは俺だって、前々から口を酸っぱくして説明してただろうが?」


「はいぃ。ユーリなりに、立ち技も頑張ってるつもりだったんですけどぉ。サキたんに指摘されるまでは、ナニが足りないのか理解できてなかったのですよねぇ」


「ああ、あいつは桃園さんの一番身近にいたから、ウイークポイントを正確に把握することができたんだろうな。見かけに寄らず、指導員に向いてるのかもしれん。……そういえば、あいつが顔を出さなくなって、もう十日ぐらいは経つのか」


 と、立松の顔に不機嫌そうな表情が浮かべられる。


「家の事情ならしかたないが、試合前の一番大事な時期に稽古をすっぽかすとはな。どこで何をやってるのか連絡のひとつもよこしてこないし、まったく困ったやつだ」


 そう、サキも瓜子やユーリと同じように、二週間後に《アトミック・ガールズ》の試合を控えているのである。

 相手は格下でノンタイトル戦だが、やはり追い込みの時期に姿をくらましてしまうというのは、いささかならず常識に外れてしまっているだろう。


「サキたんも、色々と大変そうですからねぇ。……さ、せっかく立松コーチにお稽古を見ていただけるのですから、ちゃっちゃと補強練習を済ませちゃいますねぇ。ほんの少々お待ちくださいませ!」


 妙に陽気な声で言い、ユーリはおもむろに腹筋をし始めた。

 おそらく、せっかく友好的な態度を示してくれた立松の口から、サキを非難する言葉を聞きたくなかったのだろう。それは瓜子も同じ気持ちだったので、自分もマットに横たわることにする。


 立松はしばらく黙って瓜子たちの姿を見下ろしていたが、おもむろに「なあ」と声をあげてきた。


「お前さんたちはいっつもペアで練習をしてるんだから、補強練習でもそれを利用すりゃいいじゃねえか?」


「え?」


「寝技ってのは、他人と肌を合わせてる時間が長けりゃ長いほど強くなれるもんだ。だったら、こういう時間にも人間と絡んでりゃ効率的だろうが?」


 言っている意味が、よくわからなかった。

 ユーリのほうも、きょとんと立松の姿を見上げている。


「それって手押し車とか、馬跳びくぐりのことですかあ? もちろんそれもメニューに入っておりますよぉ」


「だったら、腹筋もペアでやれよ。せっかく二人いるのに、もったいないだろ」


「……ふにゅ?」


「猪狩。桃園さんの足の間に立て。桃園さんはガードポジションの要領で、猪狩の胴をクラッチするんだ」


「ああ、それなら男子選手がやってる姿を見たことがあるかもですぅ」


 ユーリが嬉々として、マットに横たわったまま、瓜子の胴体を両足ではさみこんでくる。

 瓜子は少しだけ腰を落とし、少しだけ膝を曲げて、ユーリの脚力と体重に耐えた。


「え? もしかして、これでユーリさんが上体をあげるんすか?」


「猪狩、背筋せすじは伸ばしとけ。腰を痛めちまうぞ?」


 予想は、的中した。

 瓜子の胴体を両足でクラッチしたまま、ユーリが「ふぬ」とシットアップし始めたのである。

 ユーリの体重を支えかねて、下半身が悲鳴をあげる。


「あの、これ、支えてるほうがキツくないっすか?」


「だから効率的なんだろうが? とりあえず、交互に二十回ずつで三セットな」


「ふぬ。ふぬ」とユーリは容赦なく腹筋を継続する。

 その重量を支えるのはもちろんのこと、ぎりぎりと絞めあげられる腹部が、また苦しい。

 何せユーリは馬鹿力なのだから、これだけでもちょっとしたサブミッションをくらっているような心境だった。


「よし、交代。……大丈夫か、猪狩?」


 あまり大丈夫ではなかったが、一セット目で音をあげるわけにはいかなかったので、「押忍」と答えざるを得なかった。

 が───ユーリと体勢を入れ替えてみると、こちらはこちらで無茶苦茶にキツかった。

 何せ、脚力だけで自分の体重を支えなければならないのである。ユーリは当たり前のようにこなしていたが、腹よりも脚の筋肉のほうがつらかった。


「限界まであきらめるな。落ちそうなときは、俺が支えてやるから」


 そんな立松の声を聞きながら、瓜子は何とか二十回の腹筋をやりとげることができた。

 普通のシットアップだったら百回でも二百回でもこなせるのに、これは相当に過酷である。

 二セット目までは何とかやりとげたが、三セット目の支え役では危うくユーリごと崩れ落ちそうになってしまった。


「まあ、お前さんのほうが軽量なんだし、そんなもんだろ。キックじゃ使わない筋肉も酷使するしな」


「……押忍」


 寝技の稽古を始めて、はや半年。その間に何度となく味わわされてきた苦渋を、瓜子はまたなめることになったのだった。


 キックでは使わない筋肉を酷使する。

 この台詞も、何度聞かされてきたことだろう。


 瓜子はこれでもう四年半ばかりもキックボクサーとしての鍛錬を積んできたのだ。背は小さいが、フィジカル面における自信は、そこそこある。

 それでも、やっぱり勝手が違う。

 キックでは使わない筋肉を酷使する。この一言に尽きてしまうのだ。


「よし。お次はフックスイープごっこだな」


「何ですかそれ! 楽しそう!」


 フックスイープとは、グラウンド状態で、上からのしかかってきた相手を回避するテクニックだ。

 自分は仰向けに横たわり、両足を割ってマウントポジションを奪取せんとしてくる相手の股関節あたりに足をあて、押し返す。

 それをそのまま再現して、相手の身体を上方に持ち上げるのが、立松の言う「フックスイープごっこ」だった。


 両方の足首を相手の股関節にひっかけ、両手は相手の肩。その体勢で、赤ん坊を「高い高い」とあやすかのように、相手の身体を持ち上げるのである。


 これを交互に三十回ずつ、三セット。

 当然、このトレーニングもキツかった。


「よし。最後は、立ち蜘蛛だ」


 最後のトレーニングは、ちょっと変わっていた。

 支える側は、両手を大きく横に開いて、ただ立ちつくす。

 その背中にもうひとりがおぶさって、足を地面につけないよう、相手の身体に抱きついた体勢で、サルのようにぐるりと横に一周する……というものだ。


 ユーリが何かセクハラ的な冗談でもぬかしてきたら即座に噛みついてやろうと思っていたが、稽古中のユーリは真剣モードであり、そんなハプニングも発生しなかった。

 ただ、ひたすらに過酷であっただけだ。

 これは、三周を三セット。


 その後に、手押し車を十メートル三セット、馬跳びくぐりを十回三セット、抱え上げを十回三セットずつこなすと、瓜子はもう全身の筋肉がパンパンになってしまっていた。


 しかし、ここまでがウォーミングアップなのである。


「よし。それじゃあスパーだな。今日はどういうメニューのつもりだったんだ?」


「はぁい。今日はひたすらグラウンド状態でのポジショニングを鍛える予定でしたぁ」


「だったら俺も参加するから、三交代で三分ずつ、そいつを三セットで時間的にはちょうどぐらいか。手あまりのやつは、エビで壁まで往復な」


「了解でぇす!」


 ユーリは、むやみに楽しそうだった。

 練習すれば、練習しただけ強くなる。と、言われている寝技の練習をしているとき、ユーリは心底から満ち足りているようなのだ。


 練習は、苦しい。

 嘔吐しそうなほど、苦しい。

 しかし、苦しいからこそ、その果てにかけがえのないものを手に入れることができる。その生きた見本が、このユーリなのである。


(そりゃあまあ、毎日これだけ身体をいじめてれば、強くならないわけがないよなあ)


 へとへとの身体に鞭打って、笑顔のユーリと取っ組み合う。

 そうして本日も、過酷なトレーニングはつつがなく進行していった。

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