エピローグ
見果てぬ先へ
「……だからさあ、それはあたしが悪かったって言ってるじゃん」
携帯電話から響いてくる母親のわめき声に辟易しつつ、瓜子は同じ言葉を繰り返した。
某屋内遊泳場のプールサイドである。もふもふのガウンを羽織ったユーリが、ベンチの上で優雅にパインジュースなどをすすりつつ、きょとんと瓜子を眺めやっている。
「とにかくさ、今は仕事中なの。そんな話だったら後で聞くから、夜にでもまたかけ直してよ。……うん? 今日はラストまで道場に居残る予定だから……まあ、家に着くのは十時半ぐらいかな」
また、わめき声。
いいかげんに、瓜子もうんざりしてしまう。
「うっさいなあ! もう学生じゃないんだから、あたしが何をしようとあたしの勝手でしょ? そっちはそっちの心配だけしてなよ! もう切るからね!」
宣言通りに通話スイッチを切り、ついでに電源まで落としてしまう。
そうして溜息をついていると、ユーリが心配そうに声をかけてきた。
「うり坊ちゃん。よそさまのご家庭の事情に口をはさむのは、ユーリの流儀じゃないのですけども……あまりママ様に心配をかけないであげてね?」
「……大きなお世話っすよ。いったい誰のせいだと思ってるんすか?」
「ええ? ユーリのせいでママ様に怒られたにょ? なんで?」
「なんでもへったくれもないっすよ! そんな雑誌が本屋に並んでたら、格闘技嫌いの母親だって手に取らずにはいられないでしょう?」
そんな雑誌───本日発売の格闘技マガジン最新号が、ユーリの目の前の小さなテーブルにぽんと放りだされている。
その表紙では、サキに支えられたユーリが満面の笑みを浮かべつつ、ピンク色の舌で瓜子の頬を蹂躙していた。
女子ファイターがこの雑誌の表紙を飾るというのは非常な栄誉であるわけだが、よりにもよってどうしてこんな写真なんだよと、瓜子は格闘技マガジンの編集者たちをも呪い殺したくなる。
まあ……確かにユーリ自身はとびっきりの笑顔であり、ふだん以上の魅力と吸引力に満ちあふれていたが、まがりなりにも全国誌で大々的に泣き顔をさらす羽目になってしまった瓜子にしてみれば、いい面の皮だ。
「ふにゅにゅ。……もしや、このようにハレンチな姿を公共の場でさらすとは何事かと、うり坊ちゃんのママ様はお怒りになられてしまったのかにゃ?」
「違うっすよ! 自分が総合のトレーニングをしてるってことを、ユーリさんがインタビューでバラしてたじゃないっすか! うちの母親は、それを激怒してるんです!」
「……それって、ママ様にはナイショだったにょ?」
グラスを両手で抱えこみ、ストローを口にくわえたまま、ユーリは子猫のように首を傾げる。
腹立たしいぐらいに、愛くるしい仕草である。
「どちらかというと、それはママ様にナイショにしていたうり坊ちゃんのほうにこそ罪があるのではないかしらん? あと、ユーリはナイショだってことも聞かされてなかったから、普通に喋っちゃったんだけど……これってやっぱり、ユーリが悪いのかにゃあ?」
「……そもそもユーリさんがリングの上でこんなことをしなければ、うちの母親が格闘技雑誌なんかに目を通すこともなかったはずっすよ」
「それは論理のすりかえだと思われます! ユーリはこれでも自分が悪いならば平身低頭で謝りたおす準備がありますけれども、今のところは一ナノグラムも罪悪感をかきたてられておりませんぞよ?」
「……もういいっすよ」
瓜子は最大限に口をへの字にして、冷たいプールサイドに腰を下ろす。
撮影班のスタッフはまだ対岸で何やかんやと動き回っており、いっこうに業務の開始される気配もない。
「それにさ、いくら高校を卒業したって、二十歳を超えるまではまだ未成年なわけだしね。ママ様は保護者の立場から、あれこれ口を出す権利も義務もあるのでございましょう。それを口やかましいと感ずるのはしかたのないことなれど、肉親ならばこそご心配もなされているのでしょうから、あんまり冷たくあしらうのは親不孝だとユーリちゃんは愚考いたします」
「もういいって言ってんじゃないっすか! ユーリさんだって、十九歳の未成年でしょう?」
「ユーリには、ユーリを叱ってくれるパパもママもいないもぉん」
それならどうして実家を毛嫌いしてるんだよ! ……と言いかけて、瓜子は危ういところで言葉を呑みこむ。
一時の感情にまかせて、とんでもない失言をしてしまうところだった。
そんな瓜子の様子を眺めながら、ユーリはのほほんと笑いだす。
「ごみんごみん。流儀に反する発言を連発してしまったわい。この話はもうおしまいね。……それにしても、うり坊ちゃんが『あたし』とか言うのは新鮮だったにゃあ。思わずほっぺにチューしたくなるぐらい、かわゆらしかったですぞ?」
「……まったく反省してないみたいっすね、ユーリさんは」
瓜子がゆらりと立ち上がると、ユーリはまた「にゃはは」と笑った。
沙羅選手との対戦から、およそ一週間。
ユーリは相変わらずユーリのままだったし、ユーリをとりまく環境にも、これといった変化は訪れなかった。
それはまあ、そうなのだろうとしか言い様がない。ユーリにとっては今後の格闘技人生を左右するかもしれない大一番だったが、世間的には動員千二百余名のささやかな格闘技イベントがしめやかに開催され、つつがなく終了した、というだけのことなのだ。
ユーリが格闘技雑誌の表紙を飾ったところで、女子ファイターの社会的な立場がいきなり向上するわけでもないし、なべて世はこともなし、であった。
「……だけど、ユーリは本当に勝てちゃったんだなぁ」
と、問題の雑誌をぺらぺらとめくりながら、ユーリが感慨深そうにつぶやく。
「まだ言ってるんすか。一週間も経ったんだから、いいかげんに納得してください」
「そうは言っても、デビュー戦以来の、一年と四ヶ月ぶりの勝利だからねぇ。ユーリは今でも甘ぁい夢を見ている真っ最中で、目を覚ましたら沙羅選手との対戦前日だったりして、とかいう疑念を完全には笑いとばすことができないのだよ」
「ふーん。プロファイターとしてのデビュー戦の前日、とかではないんすね」
瓜子が意地の悪いことを言うと、予想以上に強い口調で「やだよそんなの!」とユーリがわめいた。
「そこまで大昔にさかのぼっちゃったら、うり坊ちゃんやサキたんまで夢の産物になっちゃうじゃん! そんな地獄が現実化したら、ユーリはさびしさのあまり孤独死してしまうよ!」
「……孤独死の使い方を間違えてるっすよ」
「うにゅ? ああ、まあ、肉親もなく殿方と結ばれることもないユーリは、どのみち孤独死するしか道がないのだけれどもね」
「……自虐ネタはやめてください」
「にゅっふっふ。べつだん自分を虐げているつもりはないですわよ? うり坊ちゃんがいて、サキたんがいて、ついには試合にまで勝てちゃって、今が人生最良の時なのではないかと思えるぐらい、ユーリは幸せいっぱいだもにょ」
いつでも眠たげに見えるユーリの目が、ひどくおだやかな光をたたえて、瓜子を見る。
「ほんとのほんとに幸せだなあ。うり坊ちゃんに出会って以来、いきなり運気が上がってきたみたい! ユーリにとって、うり坊ちゃんは幸運を運ぶ天使のような存在なのかもしれないよ」
「何を言ってんすか。自分と出会った当日には、三十五秒で秒殺されたくせに」
「ああ、そんなこともあったねぇ。……うん、いいんだよ。幸運を運ぶ天使でも、災厄を呼び寄せる悪魔の使いでも。ユーリは、うり坊ちゃんが大好きだから」
「…………」
どんな皮肉を返してやろうかと、瓜子はしばし考えこんだが、気のきいた台詞を思いつくよりも早く、プールの対岸から「ユーリさん、お待たせしましたぁ!」という声が聞こえてきてしまった。
ようやく撮影の準備が完了したらしい。
「よぉし、今日も元気にお仕事だあ!」
言葉通り元気いっぱいに立ち上がり、白いガウンを颯爽と脱ぎ捨てる。
その下から現れたのは、当然のこと、ピンクのビキニに包まれた色気満点の水着姿だった。
「それじゃあ行ってくるね! ちゃんと見守っててよ、うり坊ちゃん!」
「あ、プールサイドを走ったら危ないっすよ、ユーリさん!」
瓜子の言葉など聞かばこそ、ユーリは猛然と駆けだしていく。
沙羅選手との試合で負傷した左膝も、痛がっていたのは最初の三日ほどで、すっかり完治してしまったようだ。
「やれやれ」と頭をかきながら、瓜子もその後を追おうとした。
すると、それを待ち受けていたかのように、背後から声をかけられた。
「今日もユーリ選手はお元気そうですね。ほれぼれするようなバイタリティです」
「うわ、びっくりした! ……どうしたんすか、千駄ヶ谷さん?」
それは一週間ぶりに見る、スターゲイトの千駄ヶ谷女史だった。
遊泳場にはいささか不似合いなスーツ姿で、女史はクールにふちなし眼鏡の角度を正す。
「少し時間が空いたので、撮影の様子を視察に参りました。……という旨を事前にお伝えしようと思ったのですが、どうやら猪狩さんの携帯端末は電源が入っていないようですね?」
「え? ああ、すみません! そういえば、さっきオフにしたままでした」
「……緊急の連絡が入ることも少なくはないので、勤務中は携帯端末のチェックを怠らないように、という私の指示は覚えていますか?」
「は、はい! どうもすみません……」
「覚えているのならば良いのです。ミスをしない人間など、この世には存在しないのですから」
叱責されるよりも胆の冷える千駄ヶ谷女史のクールな言葉を聞きながら、瓜子はもう一度「すみません」と頭を下げる。
「だ、だけど、千駄ヶ谷さんが現場に顔を出すなんて珍しいっすね? それこそ緊急のご用事でもあったんすか?」
「緊急……というほどではありませんが、重要な用件ではあるでしょうね。ユーリ選手に、対戦依頼のオファーがあったのです」
「試合のオファーすか。アトミックの五月大会っすね?」
「ええ。それに《NEXT》のほうからもオファーをいただきました。そちらは、四月の興行です」
「ええ? それはずいぶんハードっすね……」
しかし、ユーリにしてみれば、これが平均的なペースなのだろう。そうでなくては、一年と四ヶ月でこれだけの試合数をこなすことはできない。
対戦成績、十三戦二勝十敗一引き分け。
それが現在の、ユーリの戦績だ。
「ちなみに、お相手は誰なんすか? ……あ、自分なんかが聞いて良ければ」
「それはもちろん、貴女も知っておくべきでしょう。貴女はユーリ選手のマネージメントに携わっている立場なのですから。……四月の《NEXT》は
「え……秋代選手って、数年前の分裂騒ぎのときにアトミックを離反した、ミドル級の元チャンピオンじゃないっすか?」
「その通りです。さすがによくご存知ですね」
「そ、それにオリビア・トンプソン選手っていったら、玄武館の元王者で、たしか『日本人キラー』とか呼ばれてる強豪選手っすよね?」
「それもその通りです。昨年度の対戦では、ユーリ選手も一ラウンドでKO負けを喫しておりましたね。約一年ぶりのリベンジマッチというわけです」
「……どうしてなんですか?」
瓜子が問うと、千駄ヶ谷女史は髪の毛数本ぶんだけ首を傾げた。
「それが、どうしてそのような強豪選手とばかり試合を組まれてしまうのか、という質問なのでしたら……ユーリ選手が、沙羅選手に勝利をおさめたから、と答えるしかないでしょうね」
「それにしたって、極端じゃないっすか! 秋代選手も、オリビア選手も、実績でいえば沙羅選手よりも全然格上でしょう?」
「格闘技においては、勝利するごとに対戦相手のレベルが上がっていくのが通例なのではないですか? ユーリ選手にはそれだけの期待がかけられている、ということです」
それはそうなのかもしれない。が、ユーリを大事に育てよう、という頭はこれっぽっちもないのだろうか? 外部団体の《NEXT》はともかく、《アトミック・ガールズ》の首脳陣は、ユーリに重荷を背負わせすぎだ。
「それに、ユーリ選手が格上の選手とばかり試合を組まれてしまうというのは、今に始まったことではありません。現に、オリビア選手とは昨年すでに対戦済みでありますし、一月に対戦したジーナ・ラフ選手も、実績としてはオリビア選手と大差ないぐらいでしょう」
「はあ……それはそうなんでしょうけど……」
「《アトミック・ガールズ》の首脳陣にしても、ユーリ選手のマッチメイクに関しては毎回頭を悩ませているようですよ。たとえば無名の新人選手などと試合をさせて、それでもユーリ選手が敗北してしまったら、さすがに観客から見放されてしまうかもしれない。また、ユーリ選手に反感を抱いている他の選手たちにも申し訳が立たなくなる。負けて当然、勝てれば大殊勲、といった試合でなければ、周囲を納得させることができないのでしょう」
それもその通りなのだろう。
しかし、そもそもファン人気の高いユーリに毎回の出場を求めているのは、運営側のほうではないか。
やっぱり瓜子には、心から納得することなどできない。
「お察しの通り、これは薄氷を踏むような方法論です。……ですが今回、ユーリ選手は見事に薄氷を渡りきったではないですか?」
「え?」
「ご本人はもちろん運営側も心から願っていた大殊勲を、ユーリ選手はついに勝ち取ることができたのです。その成果は、おそらく私の想像をも上回るほどに大きかったのでしょう」
言いながら、千駄ヶ谷女史は視線を巡らせた。
大きなプールの向こう側で、楽しく仕事に励んでいるユーリのほうに。
「ユーリ選手は、デビュー戦以降まったく勝利をおさめることもできないまま、《アトミック・ガールズ》の看板選手に成りおおせてしまいました。そのユーリ選手が順当に勝利をおさめられるようになったとしたら、いったいどうなるのでしょう? ……そんな想像をしただけで、胸が躍りませんか?」
「はあ……」
「私は、躍ります」
能面のような無表情のまま、千駄ヶ谷女史はそう言い切った。
「秋代選手もオリビア選手も、名うての強豪ファイターです。この二人をも打ち負かすことができれば、ユーリ選手の実力は本物です。……そのときこそ、女子格闘技界の歴史が動くでしょう」
「……打ち負かすことができればっすよね?」
「可能でしょう。貴女や、サキ選手のサポートがあれば」
女史の冷徹な眼差しが、ユーリから瓜子へと移動する。
「私は、そう確信しています」
瓜子は溜息をこらえながら、頭をかき回した。
「サキさんはともかく、自分は文字時通り微力を尽くすしかないっすけどね。そもそもユーリさん本人からして、たかだか一勝を上げただけで夢見心地なんすから。あまり過度な期待をかけるのは、酷なような気もします」
「夢、ですか。……閑吟集は、ご存知ですか?」
「え? な、何すか?」
「何せうぞくすんで、一期は夢よ、ただ狂へ……以前から、ユーリ選手にはぴったりの言葉だと、私は思っておりました」
伝票の数字でも読み上げるような口調で、千駄ヶ谷女史はそう言った。
しかしそれでも、彼女はやっぱり彼女なりに昂揚しているのかもしれない。
ユーリの有する、不可思議な熱やきらめきにあてられて。
「我を忘れて、面白おかしく遊び暮らせ……あるいは、狂ったように一生懸命生きればいい。かの言葉には、そんな二通りの解釈があるそうですが、どちらにせよ、ユーリ選手を象徴するような言葉ではありませんか? ユーリ選手をユーリ選手たらしめているのは、面白おかしく一生懸命になれるという、そのユニークなパーソナリティに起因しているのだろうと私などは考えています」
「……これといって、異存はないっすよ」
瓜子は小さく息をつき、ユーリのほうを振り返った。
「業務に戻ります。……あんまりほったらかしにしておくと、あとで死ぬほど文句を言われそうっすから」
「そうですね。私も戻ります。試合のオファーに関しては、貴女のほうから伝達をお願いいたします。……それでは」
立ち去ろうとする千駄ヶ谷女史に一礼してから、今度こそ瓜子はユーリのもとへと歩を進める。
(……ユーリさんが勝とうが負けようが、そんなことは別にどうでもいいんだよ)
そんなことを、ふっと考えてしまう。
ユーリは無事に大一番を乗りきった。これ以降はべつだん誰に勝とうが負けようが、それはユーリの人生だ。本来的に、瓜子には関係ない。
秋代選手もオリビア選手も、下手をしたら沙羅選手以上の強敵だ。付け焼刃の戦略などでは、勝利するほうが難しいだろう。
だけど、瓜子には関係なかった。
たとえ誰に勝とうとも。
たとえ誰に負けようとも。
ユーリがユーリであるかぎり、瓜子はそのかたわらに在りたい、と思う。
ユーリという、きわめて不可思議な存在を見守るために。
そして、同じ志を持つ同胞として、同じ夢を追いかけるために。
家を失い、師を失い、そうして、新しい仲間を得た。
これからも瓜子たちは、色々なものを失いながら、色々なものを得ていくのだろう。
最後に残るのは、何なのか?
そんな想像は、するだけ無駄だ。
女子格闘技界という未踏の荒野を駆け抜けるのに、そんな想像は、無駄だし無意味だとしか思えない。
瓜子やユーリにできるのは、走り続けることだけだった。
(早く……)
早く、《アトミック・ガールズ》のリングに立ちたい。
ユーリやサキの、隣に立ちたい。
そんな思いを胸中に抱えこみながら、瓜子はユーリのもとへと走った。
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