04 祝福
「……いくぞ、瓜」
ばしんと背中を叩かれて、瓜子はようやく現実世界に回帰した。
耳鳴りがする。音がよく聞こえない。ゴングの音色が、ひどくくぐもってしまっている。
どうしてこんなに静かなのだろうか?
いや───そうではなかった。
暴力的なまでの大歓声に、瓜子の聴覚が潰されてしまっていたのだ。
会場内には、ユーリを祝福する大歓声が、嵐のごとく吹き荒れていたのだった。
『一ラウンド、四分五十五秒、アームロックによるタップアウトで、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の勝利です!』
リングアナウンサーも、そのように絶叫している。
それでは……あの光景は、白昼夢ではなかったのか。
リング上では、呆然自失となったユーリが、レフェリーに高々と右腕を吊り上げられていた。
沙羅選手は苦悶の表情でマットに倒れこんだまま、リングドクターやセコンドたちに取り囲まれている。
頭の後ろに痺れを感じながら、自分のものではないような足を動かし、瓜子はリングへと連なる階段を踏みしめた。
サキやジョンは、とっくにリングへと上がってしまっている。
「しゃんとしろ、牛。左膝は大丈夫か?」
いつものぶっきらぼうな口調で言いながら、サキはユーリの頭に大きなタオルを覆いかぶせた。
「サキたん……ユーリ、勝ったの?」
「さあ? どうだったかな」
もたれかかってくるユーリに肩を貸しながら、サキは親指を客席に向ける。
「まあ、何となく雰囲気でわかるだろ。いくらおめーが鈍牛でも、それぐらいは察してみせろや」
そんな会話も、瓜子にはひどく遠い。
場内に満ちた歓声は、まるで怒号のようだった。
そしてそれらの歓声は、やがてひとつの言葉へと収束していく。
まるで水平線の向こうから押し寄せてくる津波のごとく、その言葉はゆっくりと、しかし着実に迫り寄ってきた。
ユーリ。
ユーリの名を、彼らが叫んでいる。
千人をこえる観客たちが、熱狂し、心酔し、ユーリの名前を唱和し始めたのだった。
ユーリ! ユーリ! ユーリ! ユーリ!
ユーリは頭にかぶせられたタオルを肩まで引き下げると、汗をぬぐうのも忘れて、四方に視線をめぐらせ始めた。
ユーリ! ユーリ! ユーリ! ユーリ!
迷子になった子供のように不安げで、頼りなげだったユーリの顔に、じわじわと血の気がさしていく。
まるで大輪の花が咲き開くかのように、ユーリはゆっくりと微笑をたちのぼらせ始めた。
そうしてユーリが右腕を突き上げると、歓声があらためて爆発する。
ユーリは目を細め、これ以上ないぐらい幸福そうに笑った。
その笑顔が、ふいにぼやける。
何だろう。
耳ばかりでなく、目までもがおかしくなってしまったようだった。
ぐしゃぐしゃにぼやけた視界の中で、ふっとユーリがこちらを振り返る。
その顔がいっそう幸福そうに笑い、肩を貸してくれているサキをひきずるような格好で、ひょこひょこと瓜子に近づいてきた。
「うり坊ちゃん、勝ったよ!」
おめでとうございます……と答えたつもりなのに、うまく発声できなかった。
口までおかしくなってしまったのか。
「あはは。勝ったんだから、泣かないでよぉ」
泣く?
誰が?
ぼやけた世界で、ユーリがおかしなことを言っている。
と───突然、首の後ろに温かくてやわらかくて力強い何かが巻きついてきた。
ユーリの右腕だ。
その右腕でユーリの胸もとに引き寄せられるや、瓜子はぺろりと左の頬をなめられてしまった。
「うわあっ! な、何をするんすかっ!」
ようやく声が出た。
そうしてユーリの舌に蹂躙された左頬をぬぐうと、驚くべきことに、自分の顔が大量の涙で濡れていることが知れた。
「うり坊ちゃん、実は感激屋さんだったんだねぇ。ユーリのために泣いてくれて、ありがとぉ!」
「いや、これは違……うわわ、やめてくださいってば!」
ユーリは人間離れした馬鹿力で瓜子の首をロックしたまま、まるで犬か猫のように、瓜子の涙に濡れた頬をぺろぺろとなめ始めた。
「ちょ、ちょっと! ムチャクチャっすよ、ユーリさん! ……そ、それに、ほら、今は試合中でも稽古中でもないっすよ? 例の鳥肌はどうしたんすか?」
「うん。たぶん全身鳥肌だらけだと思うけど、関係なぁい」
天使のような笑顔でそう言い放つや、ユーリは瓜子の頬に自分の頬をおしあててきた。
殴るべきか、蹴りとばすべきか、瓜子は本気で考えこんだが、そうしてユーリの体温を全身に感じていると、手足から力が抜け落ちていってしまった。
ユーリは、ついに勝てたのだ。
デビュー戦以来、およそ一年と四ヶ月ぶりに。
おそらく───と、瓜子は思う。
おそらく、それだけの期間を敗北だけで過ごせる選手など、他にはそうそう存在しないのだろうな、と。
一年と四ヶ月で、間にひとつの引き分けをはさんでの、十連敗。そんな地獄のような日々に耐えられる人間など、そうそう存在するはずがない。
普通の神経をもった人間ならば、途上で挫折してしまうだろう。
絶望してしまうだろう。
自分には才能がないのだ、と。
たとえ、どれほどの夢を持っていたとしても。
どれほどの希望を抱いていたとしても。
そんなものは、木っ端微塵に砕け散ってしまうに違いない。
それでもユーリは、耐えぬいてきたのだ。
愚直に稽古を重ねてきたのだ。
フィジカル面において、ユーリは何の才能も持ち合わせてはいなかったのだと、サキは言っていた。
しかし、どのような苦境にも音をあげない、どのような運命にも屈服しない、その精神力は、立派な才能なのではないだろうか。
そんなユーリだからこそ、絶望的な日々の果てに、こうして勝利をつかみとることができた。
それがどれほど幸福なことなのか。それを知ることができるのも、きっとユーリだけなのだ。
ユーリの笑顔を見つめながら、瓜子はそんなことをぼんやりと考えた。
そんな瓜子を見つめながら、ユーリはさらに瞳を輝かせて、笑った。
「ありがとね! うり坊ちゃんのこと、大好きだよっ!」
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