03 決着
カウントファイブで、沙羅選手は立ち上がった。
しかしダメージは甚大であるようだった。
それはそうだろう。道場でのスパーリングにおいて、ボディプロテクターを装着した男子選手ですら、ユーリの膝蹴りには音をあげそうになっていたのだから。
「ユーリさん! 二分半経過! 残り半分です!」
セコンドとしての仕事を忘れかけていた瓜子は、慌ててストップウォッチを確認しながら、そう叫んだ。
ムエタイ流の構えをとりつつ、ユーリが小さくうなずいた気がする。
ファイティングポーズをとりながら、沙羅選手は遠い間合いで息をついている。
「……ファイト!」
動かぬ二人にレフェリーが声をかけると、しかたなさそうにユーリが前進した。
たちまち沙羅選手は血相を変えて、怒涛のラッシュを仕掛けてくる。
まだそんな体力が残されていたのかと、瓜子は驚く。
しかし、両者の距離は遠い。
右のローキック。
ユーリは左足を浮かせて受け流す。
左右のワンツー。
ユーリは身を引き、スウェーでかわす。
ボディアッパー。
かすりもしない。
大振りの、左ハイキック。
それもスウェーで軽々とかわし、ユーリは軸足に左のローを叩きこんだ。
ほとんど倒れこむような格好で、沙羅選手はロープにしがみつく。
「くそっ!」
遠い間合いからの、片足タックル。
ユーリは左側にステップを踏み、沙羅選手の突進をするりとやりすごした。
べしゃりとマットに倒れこんだ沙羅選手は、すかさず仰向けの状態になって、ユーリの方向に足を開いた。
グラップラーのユーリを、グラウンドに誘っているのだ。
しかし、ユーリは遠ざかる。
グラウンドに移行するのは、自分主体で確実に有利なポジションを取れるときだけと、あらかじめサキから言い渡されているのである。
グラウンドの実力には未知数の部分が多い沙羅選手を警戒しての安全策であった。
「ブレイク!」
レフェリーが割って入り、沙羅選手を立ち上がらせる。
沙羅選手は、両目をぎらつかせながら薄い唇を噛んでいた。
「すごい……一方的じゃないっすか?」
中間距離においては左のインロー、近距離においては首相撲からの膝蹴り。
たった二つの武器だけで、ユーリは沙羅選手を追い込んでしまった。
これほど一方的な展開になるなどとは、いったい誰に予想できただろうか。
観客席も、沸きに沸いている。
「ふん。序盤には一方的に攻めこまれたんだから、これでようやくおあいこだろ。ダウンだって一個ずつなんだからな」
サキは焦れったそうにそうつぶやいたが、しかし、ダメージの差は明らかだった。
このまま判定にもつれこんでもユーリの優勢は動かぬはずだし、それ以前に、現在はまだ一ラウンド目の途上だ。残り二ラウンドと二分弱……そこまで長引くような試合展開では、すでになかった。左足と脇腹にダメージを負った沙羅選手は、すでに青息吐息の体なのである。
「甘えよ。あいつはザコじゃねえ。どんなに生意気で根性のヒン曲がったクソ女でも、一国一城のチャンピオン様なんだからな」
サキの不穏なつぶやきに応じるように、沙羅選手が再び突っかかってきた。
遠い間合いからの、猛ラッシュだ。
その回転力は大したものだが、しかしやっぱり間合いが遠すぎる。すべての攻撃を受け止め、受け流しながら、ユーリはじっくりと左ローを繰り出すスキをうかがっているようだった。
と───ふいに、沙羅選手の頭が足もとに沈みこんだ。
その代わりに、長い右足が上空に振り上げられる。
前方に宙返りしながら蹴りを叩きこむ、胴廻し回転蹴りという空手の大技だ。
「うわわ」と、さすがに意表を突かれた様子でユーリが左側にステップを踏む。
沙羅選手は背中からマットに倒れこむと、そこからすかさずユーリの足もとにつかみかかった。
タックルなどと呼べたものではない。ただユーリのくびれた腰に両腕を回して、しがみついているだけの格好だ。
ユーリは慌てて沙羅選手の肩をつかみ、何とかその拘束から逃れようとする。
沙羅選手は両腕をがっちりとクラッチして、そこを支点に膝立ちの体勢になった。
まずい。
沙羅選手の体勢が低すぎるため、これでは首相撲にも持ちこめない。
「慌てんな! 片腕でいいから、何とか相手との間にこじ入れろ!」
ジョンよりも先に、サキがよく通る声でアドヴァイスを送った。
得たりと、ユーリはグローブに包まれた右手を沙羅選手の肩口あたりからねじ込んでいく。
沙羅選手は沙羅選手で、相手をマットに押し倒そうと、必死に力を込めているのだろう。ユーリは顔を真っ赤にして、両足を開き、腰を落として踏ん張りながら、じわり、じわり、と右腕を下方にもぐりこませていった。
力勝負なら、ユーリに分があるはずだ。
そう思いながらも、瓜子は息を詰めずにはいられなかった。
「うぐぐぐぐ……」
白い面に汗を浮かべつつ、ユーリが何とか肘のあたりまで腕を差しこむことに成功する。
「てやぁっ!」
そうして気合い一閃、鈎状に曲げた右腕を上方に引き上げる。
沙羅選手の身体は力ずくで引きずり起こされ、胴に回されていた両腕はユーリの右肩から左脇までをななめに抱えこむ形になった。
これなら、五分の体勢だ。
いわゆる、四ツの体勢である。
ユーリはすかさず、今度は右腕を下から差しこんで、沙羅選手の首裏へと指先を回していく。
そうしながら、ぐいぐい右肘で相手の左肩を圧迫していくと、こらえかねたように、沙羅選手のクラッチが解除された。
両者の身体に隙間が生まれ、その隙間からユーリは膝蹴りを叩きこむ。
不十分だ。
しかし、その勢いで沙羅選手の体勢は完全に崩れた。
ユーリはがっしりと沙羅選手の頭部を抱えこみ。再び首相撲の形を完成させる。
「蹴り殺せっ!」
サキの声とともに、ユーリはふわりと左膝を舞い上げる。
ユーリの左膝が、沙羅選手の右腰に激突し、ガキンッ、と硬質の音色を響かせた。
その一撃で、沙羅選手はマットに崩れ落ちてしまう。
「ダウン!」
大歓声。
しかし、サキは右の手の平をマットのエプロンにおもいきり叩きつけた。
「くそっ、またダウンかよ! なかなかトドメにいけねーなー」
「大丈夫っすよ! これなら、勝てます!」
第一ラウンドの残り時間は、一分半ほどだ。
このラウンドで決着がつかなくとも、ユーリの勝利は揺るがないだろう。
それぐらい、沙羅選手の倒れ方は弱々しかった。
「だから、甘えって言ってんだろ。これぐらいであきらめるヤツが、チャンピオンなんざになれるかってんだよ」
沙羅選手は肩を上下させながら立ち上がり、決死の形相でファイティングポーズを取る。
カウントは、エイトで停止した。
ニュートラルコーナーにもたれていたユーリは、顔にへばりつく長い髪をはねのけながら、強い眼差しで沙羅選手を見る。
「ユーリさん! ラスト一分です! まだまだ仕留める時間はありますよ!」
ユーリは小さくうなずいてから、すっとファイティングポーズを取る。
その姿を見て、瓜子も、サキも、ジョンも驚いた。
ムエタイの構えではない。拳を胸の高さまで上げ、ぐっと腰を落とした、まるきりレスリングのような構えだ。
しかも何故だか、前に出ているのは右足である。
ユーリがサウスポーのスタイルで練習している姿など、瓜子は肉眼でも映像でも一度として見たことはない。
「な、何やってるんすか! 余裕をかますには早いっすよ!」
それと相対する沙羅選手は、最後に膝蹴りをくらった右の腰をおさえながら、左腕だけを顔の前にかざしている。
かなりダメージが深いのだろう。両足はそろってしまっているし、腰も全然落としていない。ほとんど棒立ちのような体勢だ。
しかし、沙羅選手の目は死んでいなかった。
いくぶん青ざめた顔の中で、切れ長の目だけがギラギラと燃えている。
こういう目つきをしている選手は、怖い。
こういう目つきをして、最後まであきらめなかった選手だけが、劣勢をくつがえして勝利をもぎ取ることができるのだ。
「ユーリさん! 元の構えに戻してください! 危ないっすよ!」
「瓜、黙れ」
サキが短く、叩きつけるように言った。
その声の硬い響きに瓜子は息を呑み、半ば呆然とサキの横顔を振り返る。
サキは───いつでも沈着冷静なサキが、沙羅選手にも負けない勢いで両目を燃やしていた。
「あいつ……左の膝を痛めちまったんじゃねーか?」
「え?」
「最後の膝蹴りは、イヤな音がした。クソ女が押さえてんのも、脇腹じゃなく腰骨のあたりだ。……あいつ、相手の腰骨に膝蹴りをぶち当てて、自分の左膝をぶっ壊しちまったんじゃねーのかな」
「そんな……」
瓜子は、ユーリに視線を戻した。
右足を前に出し、腰を落とした、レスリングのようなクラウチングスタイル。
不自然なぐらいに前のめりの体勢で、体重は右足一本にしか掛かっていないようだった。
後方に下げた左膝も、もちろん曲げている。しかし、なんだか弛緩していて、まったく力を感じない。外見的に異常は確認できなかったが、明らかにユーリの左足は死んでいた。
それを見てとったのか、沙羅選手は羅刹のごとく口もとをねじ曲げて笑い、右足を少しひきずるような格好で、コーナー際から動こうとしないユーリのもとに近づきはじめる。
おたがいに片足が使えないならば、パンチの技術とスピードで勝る沙羅選手のほうが、圧倒的に有利である。そもそもユーリは、打撃戦に応じられるような体勢をしていなかった。
(負ける……のか?)
瓜子は、目がくらむほどの絶望感を味わわされた。
右足しかきかない状態でタックルなど仕掛けても、成功する確率はゼロに等しい。相手はレスリング巧者であり、もともとスピードでも勝っており、足へのダメージもユーリよりは軽そうなのだ。
せっかく習得した左ローと膝蹴りを使うこともかなわなくなり、ユーリはこのまま負けてしまうのか。
善戦した───と喜ぶべきであろうか?
いや。
瓜子はまったく、これっぽっちも喜ぶ気にはなれなかった。
頑丈さだけが取り柄だと笑われていたユーリが、よりにもよってこんな大一番で負傷をして、それが理由で負けてしまうなどとは……運命神を雲の上から引きずり落とし、八つ裂きにしてやったって、腹がおさまりそうになかった。
「ユーリさん……!」
思わず、叫んでしまう。
しかし、言葉が続かない。
このような状況で、ユーリにどんなアドヴァイスが送れるというのか。
瓜子はそのままへたりこみ、いっそユーリの代わりに泣いてしまいたかった。
「牛!」
そのとき、その声が響いた。
「作戦はおしまいだっ! そんなクソ女、自力で片付けちまえ!」
サキだった。
サキがこれほどの大声をあげるのを耳にするのは、瓜子にしても初めてのことだった。
その声とともに、ユーリが動いた。
(ああ……)
やっぱり駄目だ。
ユーリも混乱してしまっている。
そんな距離から踏み切っても、相手に届くわけがない。
両者の間には、まだ二メートルほども距離が空いている。
ユーリの左足が万全だったとしても、せめてもうあと一歩ぐらいは踏みこんでおくべきだろう。
ましてやユーリは、片足だ。右足だけの力で前方に飛び出したユーリは、両腕をのばした格好で、ぶざまにマットへと倒れこんだ。
いや───
倒れこんだかに見えた。
その後の光景は、まるでスローモーションのように、瓜子の頭の中をゆっくりと通りすぎていった。
マットに頭からダイブしたユーリは、左の手の平をマットにつき、それで自重を支えながら、折りたたんだ右足でもう一度マットを踏み、そこからもう一度跳躍して、まるで野生の獣のごとく、沙羅選手の胴体に飛びかかったのだった。
足を止めて待ちかまえていた沙羅選手は、カウンターで左膝を繰り出したが、それがユーリの顔面をとらえるより早く、ユーリの両腕が沙羅選手の腰に巻きついていた。
沙羅選手の身体が後方に吹っ飛び、背中からマットに叩きつけられる。
その勢いのまま、ユーリは沙羅選手の左側にすべりこみ、横四方、サイドポジションをとっていた。
右の足が沙羅選手の顔の上に乗り、白い指先が沙羅選手の左手首をからめとる。
腕ひしぎ十字固めの体勢だ。
沙羅選手はすかさず両腕をクラッチし、ユーリが引く力に合わせて上体を起こそうと試みる。
ユーリはあっさりと右足を外し、のしかかってくる沙羅選手を、ガードポジションで迎え撃った。
ガードポジション───上になった相手の胴体に両足を巻きつけて、コントロールするポジションである。
しかし、左足がきかないために、あっさりと左側からパスガードされてしまう。
今度は、沙羅選手のサイドポジションだった。
ユーリの胸に、沙羅選手の胸が乗る。
喉咽もとに、右の前腕がおしつけられる。
ユーリは右手で沙羅選手の首裏をつかみ、左腕を股の間にさしこむと、ブリッジをして、さらに体勢をひっくり返した。
再び、ユーリのサイドポジションだ。
ふくよかな太ももが沙羅選手の左腕をはさみこみ、しっかりと体重を乗せて相手を抑えこんでから、右の手首を捕まえる。
左手一本で沙羅選手の右腕を背中の側にねじりあげ、相手の肩の上から回した右手で自分の左手首をつかむ。
ダブルリストロックである。
チキンウィングアームロック、あるいはキムラロックともいう。
沙羅選手は懸命にブリッジで返そうとしたが、ユーリの身体はべったりと沙羅選手の上にのしかかり、暴れても、もがいても、小ゆるぎひとつしなかった。
ユーリが腕をしぼりあげ、沙羅選手の右肩がおかしな方向にねじまがっていく。
しかし、ギブアップをしようとはしない。
ユーリは唇を噛み、上体をのけぞらせた。
沙羅選手の背中が少し浮き上がり、その分さらに右腕が深くねじ曲がり、このままいくと、ぽきりと右腕が肩から外れてしまうのではないか……と、思えたとき。
反対側でもがっちりと固定されていた沙羅選手の左手が、ぴしゃぴしゃとユーリの太ももを叩いた。
「タップアウト!」
レフェリーの手が、ユーリの腕をおさえつける。
それと同時に、ゴングが乱打された。
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