02 奇策

「ファイト!」


 レフェリーが叫ぶ。

 それと同時に、沙羅選手が飛び出した。

 まるで、前大会のユーリのように。


 華麗なハイキックが空を引き裂き、あわててガードを上げようとしたユーリのこめかみを直撃する。

 ふわふわの試合衣装を着たユーリの身体が、まるで交通事故にでもあったかのように吹き飛ばされ、崩れ落ちた。


 悲鳴のような歓声が、会場内を揺るがせる。


「ダウン!」


 そのままユーリにのしかかろうとする沙羅選手をおしとどめ、レフェリーがカウントを数えはじめた。

 ハイキックってのはこう蹴るんだよ、とばかりに沙羅選手は肩をすくめている。


「あのタコ……ダウン制度のないルールだったら、これで終わってたぞ」


 吐き捨てるようにつぶやいて、サキがバリバリと真っ赤なショートヘアをかきむしる。

 もちろん瓜子は、目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けていた。


「だ、だ、大丈夫すかね、ユーリさんは? これ以上ないぐらいのクリーンヒットでしたけど……」


「クリーンヒットすぎてダウンになったのを、ラッキーと思うしかねーだろ。中途ハンパにくらってグラウンドに持ちこまれてたら、また最短試合記録を更新するところだったぜ」


 ポーカーフェイスだけは崩さぬまま、サキは荒っぽくそう言った。


「まさか、前回の牛の真似をするとはな。つくづくナメきったクソ女だ。……ま、こんなんで終わるんだったら、あの牛も潔く引退しちまえばいいんだ」


 しかしユーリは、立ち上がってくれた。

 ダメージのほどは───どうなのだろう。びっくりまなこで頭を振り、ロープをつかんでよろよろ立ち上がる。


 カウントは、セブンで停止した。


「ファイト!」


 再び沙羅選手が、距離を詰める。

 左の、鋭いミドルキック。

 左ジャブから、右フック。続けざまに、ボディアッパー。

 ぐらついたところに、右のロー。もう一度、左ジャブから、右フック。


 怒涛のラッシュだ。

 ユーリは必死に頭部やボディを守りつつ、いいように殴られ、蹴られてしまっている。


「馬鹿野郎……これじゃあいつもと同じ展開じゃねーか」


 やはりユーリは、スピードに難がある。グラウンド状態ではくるくると器用に動けるのに、スタンド状態では反応が鈍すぎる。

 こうしてさんざんにパンチやキックをくらった後、強引に押し倒されてパウンドや関節技を極められるか、あるいは三度のダウンを奪われてTKO負けを喫するのが、これまでのユーリの負けパターンだった。


「ダイジョウブだよー。ユーリ、シッカりガードしてるねー」


 ただひとり落ち着きはらったジョンがそうつぶやいたとき、突然、沙羅選手が後方に引き下がった。

 ユーリが、両腕で突き飛ばしたのだ。

 まるで、子供のケンカのように。


 ユーリのファンは歓声をあげ、沙羅選手のファンはブーイングをもらした。

 沙羅選手は顔をしかめて肩口を払い、あらためてファイティングポーズをとる。

 それに合わせて、ユーリもようやく構えることができた。


「ったく……やっとかよ」


 サキのつぶやきが、場内のざわめきにかき消される。

 ユーリの構えが、ふだんとはまったく異なっていたのだ。


 左腕と左足を前に出すオーソドックスのスタイルはいつもの通りだが、拳の位置がずいぶんと高く、こめかみよりも上にあるぐらいだった。

 それに、腰の位置も高い。普通はもう少し腰を落として前傾姿勢をとるものだが、背筋をのばし、重心のほとんどを後方の右足にかけた、完全にアップライトの体勢だ。


 膝はやわらかくクッションをきかせ、踵は少しマットから浮かせている。そうして高く掲げた両腕の隙間から、ユーリは真剣な面持ちで唇をすぼめ、静かに沙羅選手を見つめ返していた。


 多少なりともキックの知識があればわかるだろう。これはムエタイそのままの構え方だ。

 ぴたりと一筋の乱れもなく、付け焼刃とは思えないほど、立ち姿がさまになっている。


 しかし───


「おいおい、立ち技で挑む気かよ!」


 観客席から、男の声で野次が飛んだ。

 アップライトのスタイルは、総合の試合でも珍しくはない。ただしそれは徹底的に寝技を嫌うアウトタイプのストライカーか、あるいは、打・投・極のすべてに自信のあるオールラウンダーに限ってのことだ。立ち技の攻防を苦手とするグラップラーに相応しいスタイルではない───と、ユーリの戦績を知る者ならば、誰しもそう思うだろう。


 あるいは相手が生粋のストライカーで、タックルを仕掛けられる恐れもまったくない、ということであれば、これぐらい重心が高くても危険なことはないかもしれない。

 しかし沙羅選手は、空手とレスリングをバックボーンとするオールラウンダーである。立ち技で互角にやり合う技術がなければ、みずからの首をしめるようなものだ。


 沙羅選手は小憎たらしそうに口もとを歪めて、ごく無造作に右のミドルキックを放った。

 ユーリはすっと上体をそらし、お返しとばかりに左のローキックを放つ。

 沙羅選手の左の内腿にユーリの左足の甲が当たり、バシンと濡れ雑巾を叩きつけるような音色が響いた。


 痛そうな音である。

 痛いに違いない。

 威力よりもスピードを重視した軽い蹴り方だったが、何せユーリは馬鹿力なのである。

 その一発で、沙羅選手の顔色が変わった。


「ふん……ようやく修行の成果を拝めるな」


 サキが低い声でつぶやく。

 その間に、いったん距離を取った沙羅選手がステップを踏んでいた。

 じりじりとユーリの左手側に回りこもうとする。

 それに合わせて、ユーリも身体の向きを変えていく。


 沙羅選手が、半歩だけ踏みこんだ。

 とたんに、ユーリの左足が飛ぶ。

 今回は沙羅選手も、左足を軽く浮かせてキックの威力を受け流した。

 しかし、バシンッ、という音色の小気味よさに変わりはなく、同じ箇所を蹴られた沙羅選手は明らかに痛そうな顔をした。


「あんだけ力を抜いて、やっと人並みの初速だ。つくづく鈍重な牛だよな」


「だけどあのロー、重いっすよ。自分も何度かスパーにおつきあいしたっすけど、レガースをつけてても骨まで響きました」


 前に出した左足で、相手の左内腿を狙うインローである。本来はステップを踏みながらその中で撃つのが定石であるが、それではユーリの鈍重さをカバーすることができない。よって、ユーリは相手を完全に待ち受ける格好で、撃つ瞬間に上体を後方にややひねりながら、その反動で左足を振り上げていた。


 素早く当てて、素早く引く、左ジャブのイメージである。

 相手の出足を止めるのを目的とした攻撃であるが、それでもユーリの蹴りは重い。並の選手の右ローと同等かそれ以上の威力があるだろう。


「……お」と、サキが身を乗り出す。


 今度は沙羅選手が、右のローを放ってきた。

 しかし、あちらは奥足からの蹴りなので、ユーリのインローに比べれば軌道が大きい。間合いが遠いこともあって、ユーリでもしっかり回避することができた。

 そして、あちらの蹴り足が戻るのに合わせて、三たびローキック。


 沙羅選手は一度引き下がり、左足を踏みこみながらの右ストレート。

 それをスウェーでかわしつつ、距離を詰めてこようとする沙羅選手の腹に、左の前蹴り。


 また両者の距離が同じだけ空く。

 沙羅選手が踏みこむ。

 また左のローキック。

 これで四発目の命中だ。


「地味だぞーっ!」

「打ち合えよ!」


 おそらくは沙羅選手側のファンだろう。歓声の隙間を縫うように、男の声で野次が飛んでくる。

 しかし、攻めあぐねているのは沙羅選手のほうだった。


 ユーリは左のローと前蹴りしか使っていないのに、沙羅選手はまったく自分の間合いに入ることができなくなってしまったのだ。

 さらに言うなら、ユーリのローキックも最初の一発以外はクリーンヒットしていないのだが、沙羅選手の左の内腿は早くも青紫色に変色しはじめていた。

 馬鹿力、おそるべきだ。


「面白いぐらいにハマったな。鰐の指導のタマモノだぜ」


「ユーリがガンバッたからだよー。ソれに、サキのサクセンがヨかったねー」


 サキの作戦。そのひとつ目が、この徹底した誘い受けだった。

 グラップラーであり、かつ猪突猛進のケがあるユーリに、サキはこのように真逆のスタイルを伝授してみせたのである。


 ユーリは距離感をつかむのが苦手と言っていた。それなのに、自分から突っ込んで打撃技の餌食になることが多かったのだ。

 自分の蹴りの射程距離はどれぐらいか、それを把握した上で、常に相手の正面に立つ。それで相手が射程圏内に踏み込んできたら、左ローか前蹴りで迎撃する。言ってみれば、それだけの話であった。


 いかに不器用なユーリでも、他のすべての行動を封じてそれだけに専念すれば、何とか貫徹することはできそうであった。


 もちろん普通は、インローと前蹴りだけでそこまで完璧に相手を止められるはずもない。

 これは、ユーリの有する規格外の破壊力を大前提にした、奇策なのである。


「削り合いなら、おめーの勝ちだ。ついでにおめーはスタミナのバケモノでもあるんだから、敵さんは早々に削り合いをあきらめて、接近戦を仕掛けるしかなくなるだろうぜ」


 以前にサキがそのように言っていた通り、沙羅選手は頭から突っ込んできた。

 パンチの間合いであるならば、スピードで勝る沙羅選手のほうが圧倒的に有利なのだ。ダウン明け直後の一方的な乱打戦でも、それは証明されている。


 ユーリは愚直に左のローキックを放ち、その一発に耐えた沙羅選手が、右のボディアッパーをユーリの土手っ腹に叩きこんだ。


 ああっ……と観客たちがどよめく。

 ユーリは「おえっ」と身を屈め、両腕を力なく突き出した。

 オープンフィンガーグローブに包まれた手の先が、沙羅選手の肩口に乗せられる。


「はんッ!」


 沙羅選手は吠えるように笑い、ユーリの白い腹をさらに容赦なく殴りまくった。

 その間に、ユーリの両腕が沙羅選手の後頭部にまで回されて、ぐっと下方に抑えこもうとする。

 沙羅選手は煩わしそうに身体を引こうとして───そこで初めて、危地を察したようだった。


 沙羅選手の動きが止まる。

 その頭が、ユーリの胸もとにまで引きつけられている。

 ユーリは沙羅選手の首の後ろで手を重ね、前腕で相手の側頭部をはさみこんだまま、がっちりロックしてしまっていた。

 ムエタイの首相撲だ。


「この……!」


 沙羅選手はがむしゃらに身をよじったが、ユーリの腕はぴくりとも動かない。

 ユーリは「ふう」と一息ついてから、おもむろに相手の身体を右側にひねりあげた。

 ユーリの胴体にしがみつこうとしていた沙羅選手の両腕が、その勢いで引きはがされる。


 さらに今度は左側へ、腕の力だけではなく全身を使い、反動も利用して相手の身体をひねりあげ、同時に足を掛けようと試みる。

 その外掛けから逃れようとして、沙羅選手の体勢が完全に軸を失った。

 そこにユーリが、沙羅選手の顔面にめがけて真っ直ぐに白い膝小僧を突き上げる。


 ドゴンッ、と物凄い音がした。

 うわあっ……と観客席が沸く。

 沙羅選手は両腕で顔面をブロックしていたが、その腕が折れてしまったのではないかというほどの音であり、迫力であった。


 あれ、失敗かなあ? という面持ちで、ユーリはさらに相手の身体を振り回す。

 そして、何の前触れもなく、また膝蹴り。

 沙羅選手は低くうめき声をあげながら、ユーリの足もとへと腕をのばした。


 このままガードするだけでは腕を壊されると判断し、膝を振り上げるスペースを潰しにかかったのだろう。これならば膝蹴りの威力を減じられるし、タイミングが合えば相手の膝を抱え込むこともできる。組み合いからの膝蹴りに対しては、ごく正しい判断であった。

 むろん、正しいゆえに、ジョンやサキにしてみても想定内の行動である。


「ユーリ、パターンBだよー」


 そんなに大きくないのに通りのいいジョンの声が響きわたる。

 その指示で、ユーリは首相撲の体勢のままステップを踏み始めた。

 片腕を下方にのばしたまま、沙羅選手も引き倒されまいとそれについていく。

 沙羅選手の頭をはさんだユーリの両腕は、それだけ大きく動いても微動だにしていない。おそるべきはユーリの怪力であり、また、ジョン=アリゲーター=スミスの指導力だった。


「一度喰らいついたら、死ぬまで離さない。それがアリゲーターの由来なんだってよー」


 サキは、そんな風に言っていた。

 この首相撲からの膝蹴りこそが、現役時代におけるジョン=アリゲーター=スミスの最も得意とする技だったのだ。


 ユーリは華麗にさえ見えるステップで沙羅選手を振り回し、また白い右膝を振り上げた。

 ただし今度は真っ直ぐ顔面を狙うのではなく、横からスイングして、相手の脇腹を狙ってだ。


 ユーリの素晴らしいラインを有する右足が、直角に折れ曲がり、虚空に弧を描きつつ、沙羅選手の左脇腹に突き刺さる。


 もう一度右に振り、左に戻しながら、今度は左膝。

 レバーを直撃された沙羅選手はたまらず膝をつき、そのままグラウンドの攻防になだれこもうとしたユーリの肩を、レフェリーがおさえつける。


「ダウン!」


 わああぁぁっ……と、ひときわ大きな歓声が上がった。

 ユーリが相手からダウンを奪ったのは、デビュー戦以来のことであったのだった。

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