03 決意と確信

「……こうしてアイドル格闘家ユーリ・ピーチ=ストームは誕生することになったのです」


 DVDが終了し、五分ばかりも泣きじゃくった後、ユーリは何事もなかったかのようにそうしめくくった。


「いや……何が『こうして』なのか、さっぱり意味不明なんすけど?」


「んにゃ? だからさ、ユーリはこの番組に感動して、格闘家になるって決めたんだよ! あのときも、別の意味で涙が止まらなかったにゃあ」


「別の意味?」


「うむ。あのときは、ベル様みたいじゃない自分が情けなくって、悔しくって、そんでもって可哀想で……そうだ、それならベル様みたいになればいい! っていう至福の結論に達するまでは、苦しくて苦しくてそのまま死んじゃいそうなぐらいだったのよん。本気で呼吸も止まりかけてたし」


「…………」


「だけど、今は幸せさぁ。何とかかんとかプロのファイターにはなれたからね! ……ただ、こいつを観るとどうにも過去の出来事とかを思い出しちゃってねぇ。幸せなのに、めためたに情動を揺さぶられちゃうのさぁ。あははははぁ」


 照れかくしのように笑い、赤い目をこする。

 やっぱり瓜子は、かける言葉が見つからなかった。


「……アタシには、まったくピンとこねーけどな。ま、感動のツボなんてのは人それぞれだ。あのベルなんちゃらっつー柔術女には、この牛のツボをおしまくる何かがあるんだろ。確かにカリスマ性みてーなもんは感じなくもねーしなー」


「カリスマ性……ですか」


 確かに、見る者を素通りさせない存在感が、あのベリーニャ・ジルベルトという選手にはあった。

 ブラジリアン柔術の名門・ジルベルト家という奇異なる一族に生まれ落ち、否応なく波乱に満ちた人生を送らなければならなかった、彼女。その誇り高く清廉な生き様には、瓜子とて少なからず心を揺さぶられる。


 ユーリの人生を変えたのは、彼女なのだ。

 しかし、瓜子の人生を変えたのは、彼女ではない。


 瓜子が格闘技を始めるきっかけとなったのは、現在マットの上で豪快にあぐらをかいている真っ赤な髪をした女性であったし、迷走し、情熱のぶつけどころを見失っていた瓜子の心に新たな活力を注ぎこんでくれたのは───あまり認めたくはないが、その隣で膝を抱えこんでいる、長い髪をした色っぽい娘さんであることに間違いはなかった。


 波乱に満ちた人生という意味では、このユーリ・ピーチ=ストーム選手だって、ベリーニャ・ジルベルト選手に負けていないかもしれない。

 だからこそ、瓜子も奮起することができたのだ。

 自分の身に訪れた苦境など、何ほどのこともない。もう一度、ただ強くなるという夢や目標のために邁進したい。瓜子は、心からそう思うことができたのだった。


「……急に考えこんじゃってどーしたの、うり坊ちゃん?」


 と、白くて無駄に色気にあふれた顔が、ぬうっと目の前に接近してくる。


「な、何でもないっすよ。さわったら鳥肌立つくせに、あんまり近寄らんでください」


「うわぁ、なんだかトゲがあるなぁ。もしかして、まだサプライズで学校に忍びこんだこと怒ってるのぉ?」


 そんなことは、すっかり忘れていた。

 それに、瓜子が怒るような話ではないではないか――あの、非常識なクラッカーの炸裂さえなければ。


「怒ってません。……そんなことより、明日は頑張ってくださいよ、ユーリさん?」


「うにゅにゅ? そんなの、言われるまでもなぁい! 流した血と汗はユーリを裏切らないんだよっ!」


「おめーを裏切るのは、おめーの頭の悪さだけだもんな。……だけど、明日ばっかりはシャレになんねーぞ、牛?」


「わかってますって! 心配性だにゃあ、サキたんもうり坊ちゃんも!」


 どうしてそんな風に笑っていられるのか、その神経が瓜子にはわからない。

 明日、負けてしまったら、ユーリは自分の居場所を失ってしまうかもしれないのだ。

 弱い選手は、必要ない。そんな非情で容赦のない世界に、ユーリや瓜子たちは生きているのだから。


(大丈夫……なのかな、本当に)


 ユーリがこの二ヶ月間、どれほど愚直にトレーニングを積んできたか、瓜子は目の前で見守り続けてきた。

 しかし、ユーリはもう二年も前からそうして誰よりも真剣に稽古を重ねてきたのである。


 それでもユーリは勝てなかった。女子選手離れした立ち技の破壊力と、どこに出しても恥ずかしくない寝技の技術、人並み外れたパワーとスタミナ、柔軟性、バランス感覚───血のにじむような鍛錬の果てにそういった強さを体得していながら、それでもユーリは勝てなかったのだ。


 たまに、そういう選手はいる。道場では無類の強さを誇りながら、なぜか試合ではそれを発揮できないタイプの選手が。

 もしかしたら、ユーリもそういうタイプの選手なのだろうか。


(だけど……)


 勝ってほしい、と思う。

 いや、勝たなければならない、と思う。

 せめて《アトミック・ガールズ》の首脳陣に愛想を尽かされてしまわないていどには、自分のポテンシャルを発揮してみせなくてはならないのだ。


 しかし、沙羅選手も強い。

 まだまだMMAファイターとしては経験値が足りないが、それでも一流の部類だろう。少なくとも、これまでのユーリに比べれば、はっきりとした実績も残している。


 もしもユーリが沙羅選手に敗北し、それをきっかけとして《アトミック・ガールズ》を去るような羽目になってしまったら……そんな想像をしただけで、瓜子は鉛でも呑みこんだように胃のあたりが重苦しくなってしまうのだった。


 そして、自分自身の心境の変化に驚いてしまう。

 二ヶ月前、初めて顔をあわせるまでは、ユーリのことなど格闘家もどきのグラビアアイドルとして軽蔑し、嫌悪していたぐらいなのである。

 わずか二ヶ月で、たいした変わり様だ。


 だけど、瓜子を責めることは誰にもできないだろう。同じ部屋に住み、仕事まで同伴し、道場や自宅でまで同じように汗をかき───そんな風に、文字通り二十四時間行動をともにしていれば、誰だって認識を改めるに違いない。


 それはもちろん尊敬できる人格者とは言いがたいし、わけのわからぬ言動には振り回されっぱなしだし、いまだにうんざりとさせられることも多いのだが、それでもユーリは真剣だった。真剣であり、必死だった。ベリーニャ・ジルベルトのような選手になる。その夢がかなわないのならば、この世に生まれた意味がない、と───いつもにこにこと無邪気に笑顔を振りまきながら、ユーリは誰よりも真剣であり、必死であったのだ。


 どうして実家を毛嫌いするのか。どうして接触嫌悪症などという因果な体質になってしまったのか。それは、瓜子にはわからない。たった二ヶ月のつきあいでそのようなことを尋ねるのははばかられたし、ユーリのほうも話したくはなさそうだった。ならば、よけいに詮索することはできない。


 ただわかるのは、そんな因果な体質さえ無効にしてしまうぐらい、ユーリは格闘技に夢中なのだ、ということだけだった。


 そんなユーリから、闘いの場を奪っていいわけがない。

 ユーリは《アトミック・ガールズ》を去ってはいけない。

 ユーリは明日、沙羅選手に勝たなくてはならないのだ。


「……またうり坊ちゃんがフリーズしちゃってるぅ。どしたの? もうおねむなの?」


 と、ユーリが再び顔を近づけてくる。

 身体を引くことさえ忘れて、瓜子もじっとその顔を見つめ返してしまう。


「眠くないっすよ。ユーリさんこそ、眠そうじゃないっすか」


「うむ。ドタバタ騒いでわんわん泣いたら、すっかりくたびれ果てちゃったよ。明日の大一番にそなえて、今日は早々に寝ちゃおうかにゃあ」


 いつも以上にとろんとした目で瓜子を見つめ、それからサキのほうも見つめ、ユーリはふにゃりと子供のように笑う。


「一生懸命試合をするから、明日は応援よろしくねぇ。この二年間のすべてをぶつける気持ちで、ユーリちゃんは頑張りまぁす」


 最後まで呑気にそんなことを言いながら、ユーリは「くわぁ……」と猫みたいに大あくびをした。

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