02 黒き英雄

 二人そろってげっそりとしながらリビングに向かうと、ジャージ姿でストレッチをしていたサキが横目でにらみつけてきた。


「……おめーら、ぎゃあぎゃあうるせーよ。何かおもしれーことでもあったのか?」


「な、何でもないよぉ。サキたんは気にしないでぇ」


「ああそーかい。……ま、気を落とすなや、桃色天使」


「ふぎゃあああぁぁぁっ! きっちり聞こえてんじゃん!」


「あんだけ騒いでりゃ聞こえるっつーの。おめーもこりねー女だなー。そんなにあのエロDVDが恥ずかしいんなら、とっとと不燃ゴミに出しちまえばいーじゃねーか」


「そ、そんなバチアタリなことができるわけないでしょぉ? いかに黒歴史とはいえ、ユーリの生きた証でもあるんだから! アレはユーリがお墓に入るときに、ユーリと一緒に燃やしてもらうのっ!」


「げーっ。火葬場からピンク色の煙が出てきそうだな。その煙を嗅いだだけで妊娠しちまいそうだわー」


 サキは淡々とストレッチをこなし、ユーリはわなわなと肩をふるわせている。その顔が珍しく羞恥に染まって、なおかつ子供のように唇をかみしめていることに気づき、瓜子も少しだけ気の毒になった。


「ま、まあその話はもういいじゃないっすか。ところでサキさん、帰ってきたばかりなのにトレーニングでもするんすか?」


「おう。丸一日なんにもしなかったら、身体がなまって寝つけなくなっちまうからなー」


「そんなのズルい! だったらユーリもお稽古する!」


「ターコ。おめーは明日試合だろ? ただでさえこの二ヶ月間は休むのをサボってたんだから、試合前日ぐらいしっかり休んどけ、このタコスケの桃色天使」


 休むのをサボる、というのはユーリにぴったりの表現かもしれない。よく寝て、よく食べ、よく働き、いつでも元気いっぱいだからあんまり気にもならないが、本当にユーリはトレーニングホリックといってもいいぐらいの練習中毒なのだ。


 ところで愛すべき桃色天使は、わめきだしたいのを必死にこらえているような顔つきでサキのすました横顔をにらみつけるや、ドカドカと足を鳴らしてDVDデッキのほうに近づいていった。


「いいよーだっ! サキたんの意地悪! ドS! 変態性欲者! ユーリは明日にそなえてDVD鑑賞するから、邪魔しないでよねっ!」


「おお、桃色天使の鑑賞会か? アタシの視界には入らないように気をつけてくれや」


「違うよっ! ふおおおおっ! 憎い! 殺したい! サキたんを殺してユーリも死のうかな……」


「ぶ、物騒なこと言わんといてください。……DVDって、今さら沙羅選手の研究でもするんすか?」


「んーん。ちがーよ。試合前には必ず観るDVDがあるの。良かったら、うり坊ちゃんもご一緒するぅ?」


「桃色天使だ桃色天使」


「違うってのにっ! うり坊ちゃん! あの何だか真っ赤な頭をしてる男みたいな女の人を、ユーリの代わりに蹴っ飛ばしてきてくんない?」


「で、できないっすよ、そんなこと」


 閉口しながら、瓜子はユーリの隣に腰を下ろす。本当はサキと一緒に身体を動かしたかったが、そんなことをしたらユーリが究極的にいじけてしまいそうなので、やめておいた。卒業記念プレゼントに対する、せめてものお礼だ。


 そうしてやがて画面に映しだされたのは、桃色天使ならぬ、漆黒の柔術衣を着た外国人選手だった。


「あ……ベリーニャ・ジルベルト選手っすか」


 テレビの上には同じ人物のポスターがでかでかと貼られているのだから、見間違えようもない。ユーリはようやく幸福そうな笑顔を取り戻しつつ、「うん!」と大きくうなずいた。


「試合前には、必ず観るの! テンションあがるし、ぐっすり眠れるし、運がいいときなんて、夢の中でベル様に会えるんだぁ」


「はあ……」


「てゆーか、試合前日だけ観る! って決めておかないと、毎日でも観たくなっちゃうからさ。ご利益が落ちないようにセーブしてるの」


「ご利益って……まるで神様っすね」


「まったく試合に勝たせてもくれねーんだから、たいした神通力はなさそうだけどなー」


「そこの人! こちらは心なごやかにDVD鑑賞を楽しむの会なのです! 部外者は勝手に口をはさまないでくださいませ!」


「ああ、うぜーうぜー」


 試合前日にこんな仲たがいをして大丈夫だろうか、といささか胸をざわつかせながら、瓜子はおとなしくテレビ画面に集中することにした。


 新宿プレスマン道場への移籍を決心してから瓜子もあらためてMMAの試合を映像で研究するようになったのだが、このベリーニャ・ジルベルトという選手はほとんど日本に来たこともなく、瓜子の手持ちのソフトには一試合たりとも出場してはいなかったのだ。


 ユーリをこれほどまでに心酔させるベリーニャ・ジルベルトというのは、いったいいかなる選手なのか。瓜子としても気にならないわけはなかった。


 が───映像がどれだけ進んでも、映しだされるのはインタビューや道場での稽古、あとはせいぜい道着を着た柔術の試合ばかりで、瓜子が期待するような展開にはなかなか至らなかった。


「あの……これって何のDVDなんすか?」


「うにゃ? そりゃあもちろん、ベル様のスペシャルなドキュメント番組だよん。ケーブルテレビで放映されたのを録画してた人がいたから、こっそりダビングしてもらったにょ」


 画面上の黒い姿に視線を固定しながら、ユーリはさも幸せそうに笑っている。


「恐れ多きことながら、ユーリなんかのドキュメント番組を作ろうって話になったのも、ユーリがこの番組のことをプロダクションの社長さんに話したからなんだよぉ。……ベル様、素敵でしょ?」


 素敵……かどうかはまだよくわからないが、とりあえず美人は美人であるようだった。


 黒い髪に、黒い瞳。肌もけっこう浅黒い。いかにもブラジルの生まれらしい彫りの深い顔立ちで、身体つきは意外にほっそりとしている。無差別級のチャンピオンだという話であったからもっと大柄なのかと思ったが、身長も体重もユーリと大して変わらぬ数値であるらしい。


 試合や稽古のときはきりっと凛々しく、インタビューを受けているときはふんわりとやわらかく、時おり見せる笑顔は年齢よりもずいぶん幼げにさえ見える。

 この番組が収録されたのは三年前で、当時の彼女はまだ二十二歳であるとのことだ。確かにまあ、道着などを着ていなければ格闘家などにはまったく見えない、綺麗でおだやかな女性だな、と思った。


 と───突然画面が切り替わり、褐色の裸身で画面がいっぱいになった。

 水着姿での、グラビア撮影の風景だ。


 スタイルがいい。

 とてもしなやかで、鞭のように引きしまった肢体をしており、それでいて必要以上の筋肉はついていない。手足が長く、胴はシェイプされ、純白のビキニが目にまぶしい。


 そして、表情がまた変わっていた。

 セクシーというのとは、いささかならず違うのだろう。少し困惑しているような、どんな表情を浮かべるか迷っているような、ちょっと憂いげな面持ちだ。

 長い黒髪をかきあげて、優美にポーズをとりながら、少し不安そうに笑う。その頼りなげな笑い方に、瓜子は初めて心を動かされた。


「あぁー、素敵素敵! ベル様最高! しんぼうたまらんわぁ!」


 ユーリもはしゃいで、身体をよじっている。


 南国のビーチにおけるグラビア撮影。

 ハリウッド映画に出演した際の、撮影風景。

 柔術衣を着た子供たちに囲まれながら、またインタビュー。

 タンクトップにショートパンツという格好での、早朝ロードワーク。


 そして、最後の最後でようやくMMAの試合が紹介された。

 彼女がアメリカの《スラッシュ》という大会で、無差別級の女子チャンピオンとなったときの映像だ。

 どうやら八名の選手が参加したトーナメント戦で、これに優勝した彼女が初の無差別級王者として認定されたものらしい。


 試合場は、ロープを張られたリングならぬ、金網を張られた八角形の舞台、いわゆるオクタゴンである。

 アメリカにおけるMMAの試合ではこのケージの試合場が主流だが、日本ではあまり定着していない。リングならば他の競技と共有・転用が可能だし、それにやっぱり金網というアイテムから連想される野蛮さや殺伐とした雰囲気が日本人の気質には合わなかったのかもしれない。


 何はともあれ、瓜子が初めて目の当たりにする、ベリーニャ・ジルベルト選手の試合だった。


 一回戦は、レスリングをバックボーンとするカナダの選手。

 これには危なげなく、相手の片足タックルをがぶった上でサイドポジションをとり、アームロックで一本勝ち。


 二回戦は、ムエタイと柔術をバックボーンとするアメリカの選手。

 これには立ち技で少しおされたが、みずから倒れこみグラウンドに引きこむと、下から三角絞めを極めて、やはり一本勝ち。


 そして、決勝戦が圧巻だった。

 逆のブロックから勝ち上がってきたのが、身長百八十四センチ、体重九十五キロという、信じがたいほど大柄なロシアの選手であったのだ。


 バックボーンは、サンボと柔道、それにボクシング。ダイジェストの試合で観るかぎり、ただ大きいだけの選手ではない。立ち技においても寝技においても、その巨体とパワーをフルに有効活用できる、確かなテクニックを有した選手であるようだった。


 ちなみに当時のベリーニャ選手は、百六十八センチの六十キロだ。

 身長差は十六センチ。体重差は三十五キロ。

 いかに無差別級とはいえ、非人道的なまでの体格差である。


 安全性が叫ばれる昨今、このような体格差の認められるMMAの試合はあまりにも前時代的であった。

 並んで立つと、頭半分以上も相手のほうが大きく、幅も厚みも二回りは違う。


 しかし、ベリーニャ選手は打ち勝った。

 相手のパワーに翻弄され、グラウンドでは上を取れず、強烈なパウンドでダメージを負いながら、第一ラウンドの終了まぎわ、ハーフガードの状態にあった相手の身体をひっくり返し、見事にチョークスリーパーでタップを奪ったのである。


 試合後、ベリーニャ選手はゆっくり立ち上がり、レフェリーに右腕を取られつつ、静かにまぶたを閉ざしていた。

 そんな中、二メートルはあろうかという金網を飛びこえて、大勢の兄弟やコーチたちが八角形の試合場になだれこみ、そのうちの一人が笑顔でベリーニャ選手を抱きすくめる。


 この人物なら、瓜子も知っている。北米でも最もメジャーな───ということは、全世界で最もメジャーなMMAの興行、《アクセル・ファイト》において数年間もミドル級の王者として君臨しているジョアン・ジルベルトという男子選手であるはずだった。


 やはりこの選手も、ベリーニャ選手にとっては超えなくてはならない兄のひとりであったのか。

 格闘技雑誌の表紙でよく見かける無表情で端正な若者の顔が、心から嬉しそうに微笑している。


 そんな兄に抱きすくめられながら、ベリーニャ選手のなめらかな頬に透明のしずくがすうっと音もなく流れ落ちた。

 そして、マットの敷かれたリビングにおいても、ユーリが声を殺して泣いていた。


 ぎょっと身を引いた瓜子とユーリのあいだの空間に、うっすらと汗ばんだサキが仏頂面で割りこんでくる。


「ったく、十回も二十回も観てるくせに、相変わらず涙腺直撃かよ」


 ユーリは無言でサキの首っ玉にかじりつくや、今度は「わーん!」と大声で泣きはじめた。

 さっぱり展開についていけない瓜子のかたわらで、サキは面白くもなさそうに肩をすくめる。

 そのほっそりとした指先は、ごくさりげなくユーリの栗色の髪をくしゃくしゃにかき回していた。

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