04 武神と侍

「うっぴゃー! 疲れたぁっ!」


 素っ頓狂な雄叫びをあげながら、ユーリがリングから転がり落ちてきた。

 マットにへたりこみ、ぜいぜいと荒い息をつくその背中を無表情に一瞥し、サキは音もなく立ち上がる。


「サイトー、ひさびさにスパーしねーか?」


「おお、サキ、重役出勤だなあ。デコのケガはもういいのかよ?」


 鏡に向かって猛撃をふるっていたサイトー選手が、にやりと笑いつつ振り返る。ベテラン選手でかつサブ・トレーナーであるサイトー選手に対してもサキの傍若無人な口調はまったく変わらず、しかも完全に許されているらしい。礼儀と格式を重んじる品川MAでは考えられない光景だ。


「鰐、リングを借りるぜー」


「イいよー。ユーリ、サンプンだけキュウケイねー。キンニクをヨくホグしといてー」


 黒い肌をもつオランダ人のトレーナーも、スキンヘッドをタオルでぬぐいながらリングを降りた。


 サキとサイトーが、スパーをするのか。

 まだサキの言葉から受けた衝撃からは脱せないまま、瓜子は思わず胸を高鳴らせてしまう。

 瓜子にとってサキは最も憧れる選手であり、サイトーは最も尊敬する選手であるのだ。


「うー、しんどいよぉ。死んじゃうよぉ。お水お水」


 そんな瓜子のかたわらで、ユーリはだらしなく寝そべったまま、壁ぎわに放りだされていた手提げ袋をあさっている。

 いくら休憩時間とはいえ、道場の中でぐらいもうちょっとシャンとできないのか───と、瓜子は反射的に苛ついてしまったが、ユーリの全身を濡らす汗の量に気づいて非難の言葉を呑みこんだ。


 一回り……いや、二回りも大きな体格を持つジョンコーチと、小休止をはさみつつ何十分も取っ組み合っていたのだ。疲れないわけがない。

 しかもユーリはこの稽古前に一時間ばかりも瓜子と寝技の基礎練習に励んでいたし、その後のフリーな練習タイムも時間いっぱいまで居残るのが常であった。


 トレーニングそのものに対してはユーリが誰よりも真剣に、必死に取り組んでいるという事実を、瓜子もこの二週間で嫌というほど思い知らされてしまっている。ユーリが人の三倍は稽古をしているというサキの言葉は、比喩でも何でもなく厳然たる事実に過ぎないのだ。


「うー、サキたんは相変わらずカッコイイなぁ……」


 ユーリの言葉に、瓜子はハッと視線を巡らせる。

 リングの上では、すでにスパーリングが始まっていた。


 サイトーはキックの選手なので、もちろん立ち技限定のスパーなのだろう。リングの中央にサキが立ち、その周囲をサイトーがぐるぐると回っている。そんな二人の両腕には、スパー用の巨大な十六オンスのボクシンググローブが装着されていた。


 サキは百六十二センチで、体重は五十一、二キロ。

 サイトーは百四十八センチで、体重はサキをやや上回るぐらい。

 どちらも純然たる軽量級の二人だが───その闘いは、スパーリングとは思えないほどの緊張感と迫力に満ちみちていた。


 サキは、蹴り技を得意とするアウトボクサーである。

 サイトーは、豪腕を武器とするインファイターである。


 サキは的確なローやサイドキックでサイトーを牽制し、サイトーはときおり鋭いジャブを放ちながら、懐に飛び込むスキをうかがっている。

 まだおたがいに相手の様子を探っている段階にすぎないのだが、その前哨戦だけで瓜子は背筋に鳥肌が立ってしまった。


 何せ『暴虐の武神』と『サムライキック』である。これが公式戦ならば、たとえ異種格闘技戦だとしてもメインを張れるカードだろう。


「……ユーリはベル様に憧れて総合を始めたからさ。ストライカーなんてのは、どうやって攻略するかっていう対象でしかなかったんだけど……」


 ユーリが、ぼんやりとした声でつぶやいている。

 どんな表情をしているかはわからないが、瓜子と同じように視線を釘付けにされていることは間違いない。


「サキたんはむちゃくちゃカッコイイよねぇ。ベル様より先にサキたんを見てたら、ユーリもストライカーを目指してたかもなぁ」


 サキの構えは、独特だ。

 サウスポーのスタイルで、身体の右側面を相手に向けて、左拳は胸の高さだが、右の拳はだらりと下げている。なおかつ重心は後方に引いた左足に乗せ、右のフリッカージャブと蹴りだけで、相手を近づかせない。少し変則的なテコンドーか、あるいはカンフー映画を思わせる立ち姿なのだった。


 右腕を下げているのでガードは甘いが、めったにパンチをくらうことはない。反応速度が尋常ではなく、また、サイドキックの射程が長いからだ。並の選手ならば、自分の間合いに踏み込むこともできないまま、いいように蹴られてリングに沈むことになる。

 しかしもちろん、サイトーは並の選手ではなかった。


「……うきゃっ!」


 ユーリが、悲鳴のような声をあげる。

 サウスポーにかまえたサキの右側───つまりはサキの背中側に回りこむことに成功したサイトーが、頭から突進しはじめたのだ。

 この角度では、ジャブもサイドキックも当たらない。

 サイトーの凶悪なパンチ力を知る瓜子も、思わず声をあげそうになってしまった。


 しかし、サキもむざむざと打たれはしなかった。

 サイトーが背中側に回りこむやいなや、くるりと半回転して左のバックハンドブローを見舞ったのである。


 それを左のグローブで受け、サイトーはさらに距離を詰めようとする。

 サキは身軽にバックステップを踏む。

 それを追いかけ、サイトーのラッシュが始まった。


「うわ。うわわあ」


 惑乱した声をあげたのは、もちろんサキでなくユーリである。

 サイトーのラッシュは、暴風雨じみている。

 右も左も関係ない。すべて横殴りの、フックの嵐なのだ。

 両腕に刻まれた風神と雷神が、極彩色の軌跡を描く。


 よく見れば、大振りのフックとショートフック、顔面へのフックとボディへのフックを使いわけているのだが、回転力が半端ではないのでほとんど見分けはつかない。何にせよ、一発でもクリーンヒットすれば致命傷だ。


 さすがにサキもガードを上げて、何とか後方に引き下がろうとする。

 バシン、バシン、と巨大なグローブが両方の腕を打ち、そのたびにサキの身体は頼りなく揺れた。


「うわぁ。やばいよぉ。サキたんが壊されちゃうよぉ」


 と───ふいに、とてつもなくやわらかい物体がものすごい力で瓜子の左腕にからみついてきた。

 きっとユーリがしがみついてきたのだろう。

 しかしもちろん、瓜子にもそれを確認しているゆとりなどなかった。


「……あっ!」


 突然軌道を変えたサイトーの左拳が、ななめ下からサキのボディをえぐる。

 カミカゼアッパーと称される、サイトー必殺の左ボディアッパーだ。

 瓜子は、その左腕の風神がにやっと笑ったような錯覚に陥ってしまった。


 サイトーと比べてはあまりにもほっそりとして見えるサキの身体が、ほとんど宙に浮くような格好で後方に吹き飛ばされる。


 サイトーは、右腕を振りかぶりながら、それを追撃した。

 とどめの、ライジングフックである。

 スパーリングなのに、容赦もへったくれもない。


 が───容赦がないのは、サキも同様だった。

 後方に吹き飛ばされ、両者の間合いがほんの少しだけ開くなり、サキは左の足をおもいきり振り上げた。

 機械のような正確さで、サキの爪先がすうっとサイトーの側頭部にのびていく。


「うおっ!」


 太い首をよじって、サイトーがその鋭利な左ハイキックを回避する。

 そしてサイトーは突進の足を止め、巨大なグローブで頭を抱えこむような体勢をとった。

 その左の前腕あたりに、楕円の軌跡を描いたサキの左のかかとがめりこむ。


 ハイキックからの、かかと落とし。

 スワロウ・フライト・リバーサル、燕返しと名付けられた、サキの一番の得意技だった。

 その優美な動きからは想像もつかないほどの破壊力に、サイトーはぐしゃりと崩れ落ちる。


「いってえ! スパーで本気だすなよなあ、赤毛!」


「こっちのセリフだ、金髪」


 リングの真ん中であぐらをかいたサイトーが痛そうに左腕を振り、その姿を見下ろしながら、サキは大きく息をつく。

 そして、瓜子は力強くやわらかい物体に嫌というほど身体を揺さぶられた。


「カッコイイカッコイイ! うー、あんなにカッコイイ技だったら、ユーリだってもっと張りきっちゃうのになぁ。ユーリがジョン先生に習ってる技って、なんだかめっちゃ地味くない?」


「……何でもいいから放してください。ユーリさんの身体、汗でべたべたっす」


 瓜子が振り返ると、予想以上に近い距離から、ユーリがきょとんと見つめ返してきた。

 力まかせに瓜子の左腕を抱きすくめていたふよふよの白い腕が、はじけ飛ぶように離れていく。


「おえーっ! どうしてさわっちゃうんだろ! うり坊ちゃんも、ユーリが接近してきたら回避してよね! うわー、鳥肌鳥肌!」


「……勝手なことばかり言わないでほしいっす」


 ユーリはげんなりとした表情で両腕をさすっている。その白い手の甲に本当に鳥肌が立っているのを見て、瓜子はユーリ以上にげんなりとしてしまう。何というか、当たり屋にイチャモンでもつけられているかのような気分だ。不愉快きわまりない。

 そんな二人の不毛なやりとりなど知らぬげに、リング上では再びスパーが始まっていた。


「……やっぱすごいっすね、あのお二人は」


「んー? そりゃあそうだよ! 女子総合のエースと、女子キックのエースだもん! 最近は男子選手がパッとしないから、今のプレスマンの顔はサキたんとダムダムさんなんじゃなぁい?」


 おとなしくストレッチを始めながら、ユーリは自慢げにそう答えた。


「……そういえば、ユーリさんはどうして半年もここに通ってるのに、プレスマンの所属選手にならないんすか? 別にスターゲイトに制限されてるわけじゃないっすよね?」


「うん。だけど試合のオファーも、ファイトマネーとかチケットの管理も、ぜーんぶスターゲイトさんにまかせきりだからねぇ。だったら別に、所属はフリーのままでいいかなって……規定通りの月謝を払って、トレーニングの指導だけしていただく。そーゆーフランクな関係性だったら、ユーリに何かあってもプレスマンには迷惑かかんないでしょ?」


「何かって何すか?」


「んん? 知らにゃいけど。ただ、ユーリって存在そのものがスキャンダラスじゃん? ストーカー騒ぎんときは警察沙汰になっちゃったし、身におぼえのない熱愛発覚! とかでレポーターに追い回されることもあるしさぁ。実際問題、それでこれまでも色んなジムを転々とすることになったわけだしねぇ」


「…………」


「で、半年前にこちらでお稽古させてくださあいって頼みに来たとき、取り仕切りの立松コーチさんにはすっごく渋いお顔をされちゃったから、所属はフリーのままでいいですぅってユーリのほうから提案したんだよん」


 そんな形でも、ユーリは迫害されているのか。

 胸中にわきあがる暗雲のような感情を抑えつけながら、瓜子は八つ当たり気味にユーリのとぼけた顔をにらみつける。


「熱愛発覚って、自分も二回ぐらいスポーツ新聞で見た記憶があるっすよ。ベテランおっさん俳優と、若手ダンスグループのリーダーでしたよね。……身におぼえはなかったんすか?」


「ないよぉ。あるわけないじゃん。指一本さわることもできないのに、どうやったら熱愛なんてできるのぉ?」


「だったら、きちんと否定するべきじゃないっすか? どっちもうやむやのまま終わっちゃいましたけど、自分の周りでもユーリさんは男にだらしない女ってイメージになってましたよ」


「否定はしたもん。ただ、信じてもらえなかっただけー。ユーリのおかしな体質については、そんなおおっぴらに話すわけにもいかないしねぇ。この道場でも、サキたんとコーチ陣ぐらいにしかユーリの鳥肌体質は明かされていないのだよぉ」


 あぐらをかき、うーんと大きくのびをしてから、そのまま身体を左右に倒し、背筋と上腕のストレッチを開始する。


「まあいいじゃん。それでもユーリのことを好きって言ってくれるファンのために、ユーリは寝る間も惜しんで頑張るだけなのです!」


 それは、嘘だ。ユーリは人並みに、きちんと睡眠をとっている。

 ただ、食事と、睡眠と、仕事をしている時間以外のほとんどすべてをトレーニングに費やしているだけ───なのだ。


 これほど練習熱心な人間を、確かに瓜子も今までに見たことがない。

 格闘家としてプロデビューする前は、これよりもさらに過酷なトレーニングを積んでいた、ということなのか。


 確かにデビュー直前に放映されたドキュメント番組において、トレーニングに取りかかる前のユーリは、普通の女の子に過ぎなかった。力は弱く、身体は固く、運動神経も人並み以下。ルックス以外には何の取り柄もない、十七歳のグラビアアイドルに過ぎなかったのだ。


 わずか十ヶ月のトレーニングでプロデビューというのは、実のところ、ありえない話ではない。ダイエット目的でキックや総合のジムに通い始めたOLや大学生が、才能を見込まれてプロデビュー、という実例は、世間で知られている以上に多いのだ。


 しかし、そういった選手には、必ず「才能」といったものが付随していた。

 ユーリは、そうではない。フィジカル面における才能などひとかけらも持たないまま、ユーリはただ「プロファイターになりたい」という熱情だけを糧に、ここまでやってきた。


 そんなユーリが、わずか二年で瓜子をキックミットごと吹き飛ばすほどのミドルキックや、一流の柔術家と互角に渡り合えるぐらいのグラウンドテクニックなどを身につけた、ということは……サキに示唆されるまでもなく、尋常な話ではないのだろう。


 しかしユーリは、その尋常でない努力の成果を、いまだに発揮しきれていない。

 人並み外れたルックスの良さと、そこから発生するスキャンダラスな側面ばかりが取り沙汰されて、地上最弱のプリティファイター、格闘家もどきのグラビアアイドルなどという汚名に甘んじてしまっている。


 このままでいいはずがない。

 きっとサキは、そう思ったのだろう。

 今の瓜子と、同じように。


「……それに、ユーリの体質を知ってる人は、ちゃあんと信じてくれるからさぁ。サキたんとか千さんとか、そーゆー大事な人達さえ信じてくれれば、ユーリは生きていけるのです! うり坊ちゃんだって、今ならユーリを信じてくれるでしょ?」


「……ユーリさんは、サキさんのことをどう思ってるんすか?」


 瓜子は、また聞いてしまった。

 ユーリはストレッチを続けながら、「ん、大好き」と、あっさり答える。


「どーせサキたんにとっては、ユーリのことなんて大した存在じゃないんだろうけどさぁ。それでもいいの! ユーリはサキたんがそばにいてくれるだけで幸せなのさぁ」


 瓜子は、われ知らず拳を握りしめてしまう。


「何なんすか、それ? ユーリさんのそういうところ、自分は腹が立ってしかたがないです」


「んにゃあ? そーゆーとこってぇ? ユーリは自分のどーゆー部分が人を怒らせちゃってるのか、いまいちピンとこないんだよぉ。だから、反省のしようがないのでありまする」


 そうじゃない。

 あっけらかんと笑いながら、周囲に何も求めない。誤解をされやすいタイプなのに、能動的に誤解を解こうともしない。決して傷ついていないわけはないのに、それを微塵も見せようともしない。瓜子には、それが腹立たしいのだ。


「……しかたないじゃん? ユーリは難しいことわかんないから、本能のままに振る舞うだけなの! 好くも嫌うも、あとはご自由に! ユーリも勝手に好いたり嫌ったりするから、そこんところはおたがいさまなのさぁ」


 そう言って、ユーリは瓜子を振り返り、天使のような顔で笑った。


「ちなみにね、うり坊ちゃんのことは、けっこー好きだよん。最初はうっぜーとか思ってたけど、なんか、意外に優しいんだもん。うり坊ちゃんだったら、サキたんと一緒にずーっと同じ部屋で暮らしてもいいかもにゃあ」

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