03 真情

「よお、猪狩、ずいぶんヒマそうにしてるじゃねえか?」


 そんな風に呼びかけられたのは、さらに翌週のことだった。

 新宿プレスマン道場において、ユーリとジョンの過酷なスパーリングを見学していたときのことだ。


 声をかけてきたのは《G・フォース》の試合会場にて面識を得た、アトム級の元王者にして現在はランキング第二位のダムダム・サイトー選手だった。


「アイドルちゃんは、ジョンを独り占めで特訓中か。先週ぐらいから、ずーっとおんなじことやってんなあ」


 アトム級というのは、女子の中でも最軽量の階級だ。上限は四十六キロである。

 だからダムダム・サイトー選手も、フライ級の瓜子よりは小さい。小さいのだが───相変わらず、おそろしいほどの迫力だ。


 身長などは、百四十八センチしかない。が、身体の厚みも肩幅も、瓜子とは比べ物にならないぐらい、がっしりとしているのである。

 試合前にかなり減量で落とすタイプであるらしいので、現在の体重は瓜子と変わらないぐらいなのかもしれないが、それにしても上半身の逞しさが尋常でない。彼女は最軽量級でありながら、《G・フォース》でも指折りのハードパンチャーと称されている選手なのだった。


 螺髪のようにまとめあげた金色のドレッドヘア、仁王像のように厳つい顔、太い首に、太い胴体、長い腕に、短い足。そして両腕に刻みつけられた、風神と雷神の恐ろしげなタトゥー。ついた二つ名は、『暴虐の武神』である。


 年齢は二十七歳で、この新宿プレスマン道場においてはキック部門のサブ・トレーナーの名を拝命している。年齢的にも実績的にも、瓜子にとっては超がつくほどの大先輩だった。


「移籍の件はどうなったよ? 品Mと話はついたのか?」


「はい。会長にはもう話を通したんすけど……やっぱりいい顔はされませんでした。とにかく結論を急ぐなの一点張りで」


「そりゃあそうだろ。ランキング一位にまでよじ登った有望な若手選手を、ジムがそうそう簡単に手放すかよ。本当に移籍したいんだったら、今までのしがらみを全部ぶち壊すぐらいの覚悟がなきゃ、やってられねえぜ?」


「はあ……」


「それに品Mは《G・フォース》の最大派閥だからなあ。運営側ともツーツーの間柄だし、しばらくは冷や飯を食わされるって覚悟も必要かもしんねえな」


「…………」


 瓜子は思わず押し黙ってしまい、サイトー選手はにやにやと笑いだす。


「つっても、ランカー一位をないがしろにもできねえからよ。妥当な線としては、下位のランカーをお前さんにぶつけまくって、一位の座から引きずり落として、ベルト挑戦の候補から外しちまうってところかね。……ま、そんなセコい戦略はお前さんの突貫ラッシュで叩き潰しちまえばいいだけのこったよ」


「なんか……そういう派閥とか戦略とかって馬鹿らしいっすよね。そういう部分が肌に合わないってのも、自分が品Mを出たいと思った理由のひとつなんすけど」


「そう思うんなら、考えんな。考えんのはオレらの仕事じゃねえんだからよ。オレらはお客さんの前でいい試合ができりゃあそれでいいんだ」


 と、ぎょろりと大きい二つの目玉が、リング上のユーリたちを皮肉っぽく見すえる。


「ま、何がどんな風に転んだって、あのアイドルちゃんほどの四面楚歌になることもねえんだからさ。そんな深刻に思い悩むなよ、猪狩」


「……サイトー選手は、ユーリさんのことをどういう風に思ってるんすか?」


 思わず、そんなことを聞いてしまった。

 サイトーは、「ああ?」と額にしわを寄せる。

 怒っているわけではないのだろうが、おっかない顔だ。


「別に、どういう風にも思ってねえよ。難儀な人生送ってんなあって見物してるだけだ。あっちは総合、こっちはキック。競技も階級も違う相手に、そこまで深い関心はねえなあ」


「難儀な人生……本当にその通りっすよね」


「何だあ? まるで本当にマネージャーにでもなっちまったような目つきだな。お前さん、このまま裏方にひっこんじまうつもりかよ?」


 サイトー選手の意想外な言葉に、瓜子は慌てて首を振る。


「そんなつもりはないっすよ。スターゲイトの仕事は食べていくための手段なんですから、自分は絶対にキックを辞めたりはしません」


「そんならいいけどよ。なんか傍観者面が板についちまってるぜ? お前さんもいっぱしのファイターなら、自分が主役を張ることを第一に考えろや」


「はい。……ありがとうございます、サイトー選手」


 サイトー選手は雷神の描かれた右腕を振りながら、瓜子の前から立ち去っていった。

 その小さくも逞しい背中を見送りながら、瓜子はふっと息をつく。


 傍観者。

 そうかもしれない。

 最近の瓜子は、ともすれば自分のことよりも、二週間前に出会ってしまった二人の奇妙な同居人の行く末についてばかり思いを馳せるようになってしまっていた。


 他人の心配をしている場合などではない、ということはよくわかっている。なのに、気づくと彼女たちのことで頭がいっぱいになってしまっている。


 ユーリはどうしてこんなに特異な存在なのか。

 ユーリはこの先、どのような運命をたどるのか。

 そんなユーリに、サキはどのような思いを抱いているのか。

 そんな想念にとらわれてしまうのだ。

 これでは傍観者と言われてしまってもしかたがない。


「……何をぼけーっと突っ立ってんだよ、瓜」


 次に声をかけてきたのは、ジャージ姿のサキだった。

 仕事が長引いてしまったのだろうか。ずいぶんと遅い登場だ。


「ああ、ちっと病院に寄ってきたんだよ。やっと抜糸がすんでよー、これで思うぞんぶんスパーもできるぜ。……ヒマこいてんなら、おめーが相手すっか?」


「い、いえ、自分はまだ品Mの人間ですから……ユーリさんみたいに月謝を納めてるわけでもないし、この時間帯にはお邪魔できませんよ」


「クソ真面目だなー。そんなん、ここじゃあ誰も気にしねーぜ? それじゃあ、ちょいとストレッチにつきあってくれよ」


「あ、はい」


 現在は、プロ選手およびプロ志望の練習生、あるいはアマチュアでも大会を控えた中級者の選手などがトレーニングをするレギュラークラスの時間帯なのである。人数自体はビギナークラスより少ないものの、当然のことながら活力の質が違う。


 すでに稽古の開始から三十分以上は経過しているので、総合の選手もキックの選手もウォーミングアップを済ませて、それぞれのトレーニングに取り掛かっている。そんな彼らの邪魔にならぬスペースで、瓜子はサキとストレッチに励むことにした。


「……どうやら三月の興行で、アタシにオファーはねーらしい。お次が五月と考えると、何だかちっとヒマに思えてきちまうなー」


「それが普通のペースっすよ。キャリア一年ちょいで十二戦もしてるユーリさんが異常なんです」


 ちなみに《アトミック・ガールズ》は、おおむね隔月の周期で興行を打っている。それに加えて、ユーリは《JUFリターンズ》や《NEXT》などといった男子選手がメインの大会からまでオファーを受けて、日程の許すかぎり出場しまくっているのである。


「あいつは頑丈で、負け試合でもケガひとつしねーからな。どいつもこいつも客寄せパンダとして思うぞんぶんコキ使えるってわけだ。……まったく、難儀な話だぜ」


 サキの股割りを手伝いながら、瓜子はちょっと息を呑む。


「あの……サキさんは、ユーリさんのことをどんな風に思ってるんすか?」


「ん? 唐突だな、おめー。どーしてアタシがそんな質問に答えなきゃいけねーんだ?」


 瓜子はいっぺんで後悔という名の断崖に突き落とされかけたが、サキはあっさりと「ま、別にいーけどよ」と続けた。

 これはなかなかに、神経がもたないかもしれない。


「あいつは、すげー女だろ」


「……すげー女っすか」


「すげー女だよ。デビュー戦で一勝した他は一回たりとも勝ってないってのに《アトミック・ガールズ》の看板選手になっちまって、落ち目だった興行成績までのばしちまった。そんでもって、周りの選手連中からは虫みてーに嫌われてんのに、めげずに人の三倍は稽古してよ。そんでも勝てなくて、勝てないまま一年も経っちまった。……すげー女だし、すげーアホだ」


「……はい」


「選手連中に嫌われてるぶん、ファンの人気はものすげーしな。そのうち半分はアイドルの追っかけみてーなもんなんだろうけど、残りの半分は普通のファンだ。あいつの見てくれと、頑張りと、心意気と、なんもかんもをひっくるめて、あいつのことを応援してんだよ。そんで、あいつに勝ってほしいと願ってる。……だからあいつは、ここらでそろそろ勝たなきゃいけねーんだ」


「それはその通りなんでしょうけど……でも、サキさんはどうしてそこまでユーリさんの世話を焼いてあげてるんすか?」


 意を決して瓜子が尋ねると、サキはまた「どーしてアタシがそんな質問に答えなきゃいけねーんだ?」と同じ言葉を繰り返した。


 そして、「ま、別にいーけどよ」と続け───


「……あいつのことが好きだからだよ」


 いつもと変わらぬぶっきらぼうな口調で、はっきりとそう言った。


「す……好きだからっすか?」


「好きだよ。好きだし、感心もしてる。おめーはそうじゃないってのか?」


 瓜子が答えられずにいると、サキは静かに淡々と語り始めた。


「あんなに馬鹿正直に努力できる人間を、アタシはあいつの他に見たことがねーからさ。何せあいつは、もともとアスリートとしての才能なんてひとつも持ちあわせてなかったんだからなあ。……あいつは牛みてーな馬鹿力だけど、そいつだってウェイトトレーニングの賜物だし、ぐにゃぐにゃにやわらけー関節も、バケモンみてーなスタミナも、全部自分で鍛えあげた結果なんだ。スポーツのひとつもやってこなかったズブの素人が、プロファイターになりてーっていう夢のためだけに、一年や二年で自分の肉体を作りかえちまうなんて、並大抵の努力でできるはずがねーんだよ」


「……はい」


「それに、あいつの寝技に関してもそうだ。立ち技ってのは持って生まれたセンスだけでもそこそこ何とかなっちまうもんだけど、寝技ってのはそうじゃねーだろ。練習したら練習しただけ強くなるし、練習しなけりゃ強くはなれねー。寝技にマグレなしってのはよく聞く格言だ。……で、二年前まではズブの素人だったあいつが、ブラジルの柔術女と寝技で互角に闘えるってのは、あいつが馬っ鹿みてーにひたすら稽古を積んできた何よりの証拠だろ。天は二物を与えねーとか言うけどよ、あいつが天から与えられたのはあの冗談みてーに色気まみれの顔と身体だけで、それ以外のもんは全部自力でもぎ取ったもんなんだ。あんなにすげー女が、他にいるかよ」


 サキの口調は、あくまで静かだった。

 しかし、サキがここまで饒舌にふるまう姿を見るのは、瓜子にしても初めてのことだ。


「だけどな」と、サキはさらに言葉を重ねる。


「そんだけの努力を重ねてきたってのに、ここで負けたら、それだけでもうあいつの人生はぐちゃぐちゃになっちまうかもしれねー。だからアタシも、したくもねーおせっかいを焼くことに決めたんだ」


「……沙羅選手に負けたら《アトミック・ガールズ》にユーリさんの居場所がなくなるっていうお話っすか」


「そうだよ。そいつは大げさに言ってるんじゃねえ。アトミックの連中は、興行を盛り上げるためにはなりふりかまわねーからな。だからこそ、あいつも今まで客寄せパンダとして優遇されてきたんだろ。……だけど、あいつと同じぐらい話題性があって、きちんと結果も残せるミドル級の救世主、みたいな女が現れたら、あいつの居場所はなくなっちまう。こんだけキャラがかぶってたら、あの沙羅とかいうクソ女も、あいつのことは目障りだって考えるはずだしな。わざわざあいつを最初の対戦相手に選んだってのが、その証拠だ」


「サキさん……」


「もしもあいつが試合に負けて、クソ女が新しい女王になったら、どうなるよ? クソ女があいつをもうアトミックに出すなとか言いだしたら、それが通っちまうかもしんねーんだぜ? ……そんなふざけた真似は、このアタシが死んでもさせねー」


 そうしてサキは、瓜子を振り返ろうともしないままに、低くつぶやくように言った。


「喋りすぎた。あいつには言うなよ。……言ったら殺すかんな」

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