ACT.3 眠れる牛

01 同業者からの挑戦状

「《アトミック・ガールズ》から、三月大会のオファーが届きました」


 いつでも冷静な千駄ヶ谷女史の声が、そのように告げてきた。


「対戦予定の相手は、NJGPのジュニア王者、シャラ=サンシャインこと鴨之橋沙羅かものはし しゃら選手です。彼女のことはご存知ですね?」


「……カモノハシって面白い苗字ですねぇ。あれって哺乳類なのにタマゴを生むんでしたっけぇ?」


 緊迫感のかけらもないユーリの笑い声にも、にこりともしない。


 ところは新宿、プレスマン道場。

 前大会から六日後の、土曜日。

 本日は仕事もオフであったので、一般道場生にまざって日中から稽古に励んでいたところを、千駄ヶ谷女史に呼びだされてしまったのである。


 しかし、勤務時間外とはいえ千駄ヶ谷女史の登場とあっては直属の部下たる瓜子も知らんぷりすることはできず、学年主任に呼びだされた不良生徒のような心境でユーリの隣に立ち並ぶことになった。

 サキの同居を隠している後ろめたさが、瓜子をそんな心境にさせるのかもしれない。


「《アトミック・ガールズ》においてはシャラ=サンシャインのリングネームは使用せず、本名の『沙羅』で登録するそうです。よって私も、沙羅選手と呼ばせていただきますが───沙羅選手のことはご存知ですね?」


「それはもちろんご存知ですよぉ。バラエティとかクイズ番組にもバンバン出てる、あのアイドルレスラーちゃんですよねぇ? たしか『ジュピター』のモデルとかもやってませんでしたっけぇ? あのコがアトミックに参戦するなんて、なんだかライバル出現な感じだにゃあ」


「ライバルというよりは、商売敵というべき存在でしょう。ユーリ選手と彼女の活動状況は、実に酷似しています。……加えて彼女は本業のプロレスのみならず、総合格闘技の試合においても確かな実績を残しておりますしね」


「はあ……でも、トータルのかわゆさだったらユーリのほうが上だと思うんですけどぉ、そんなことないですかねぇ?」


 ふっくらとした唇に指先をそえながら、上目づかいに千駄ヶ谷女史を見つめる。

 ユーリのこういうふざけたところは、いまだに瓜子も好きにはなれない。


「昨年末に発売された格闘技マガジンの人気投票において、沙羅選手は五位にランクインされておりましたね?」


「はいはい。恥ずかしながら、ユーリは三位をキープでしたよん」


「はい、見事な結果だと思います。……しかし、その半年前に実施された人気投票において、沙羅選手の名前は存在しなかったはずです。やはりタイトル防衛戦の成功や、昨年度における連勝記録、格闘技戦の勝利などという輝かしい実績によって、沙羅選手の人気と知名度は飛躍的に上昇し続けているのでしょう。……今回の対戦依頼、ユーリ選手はお受けしますか?」


「え? プロデビュー以来、《アトミック・ガールズ》での皆勤賞がユーリの自慢なのに、出場依頼を蹴るなんて、そんなもったいないことできるわけないじゃないですかぁ」


「ですが、直接対決は危険です。なまじ活動方針が酷似しているために、この対戦で敗北すれば現在の人気度が逆転される可能性は高いでしょう。……そして、スター不在と言われて久しい《アトミック・ガールズ》のミドル級において、真のスターが誕生してしまうかもしれません。もしもそのようなことになったら、ユーリ選手は非常に苦しい立場に立たされてしまいます」


「ええ? ど、どうしてですかぁ?」


「少し考えれば、おわかりでしょう。良質のビジュアルで、モデルやタレントとしての人気も高い女子ファイター。そんな特異な素性を持つ選手が二人もいて、片方が強く、片方が弱ければ……弱いほうは、強いほうの引き立て役にしかなれない。そんな風には思いませんか?」


「あうう……」


「現時点での貴女の存在は《アトミック・ガールズ》において、なくてはならないものです。およそ一年前に貴女がプロデビューを果たしてから集客率は目に見えて上昇しましたし、DVD販促キャンペーンでも目覚しい業績をあげ、物販商品も抜群の売れ行きを誇っています。だからこそ、試合結果においてはまったく実績を残していないにも拘わらず、ユーリ選手には毎回欠かさず出場依頼がやってくるのですよ」


「はいぃ……」


「ですが、以前に《アトミック・ガールズ》のブッキングマネージャーが真情を吐露していたことがあります。『ユーリ選手に実力がともなっていれば完璧なのに……』とですね。ファンの心を魅了する、カリスマ性を持った強いチャンピオン。興行主が心から切望しているのは、そういう真のスター選手なのです」


「それが沙羅選手だっていうんですかぁ? だけど、いくら強いったってプロレスとMMAは別物ですよねぇ?」


「だからこそ、真のスターへの第一歩目として、彼女は貴女を踏みにじろうとしているのですよ。《アトミック・ガールズ》に参戦するにあたって対戦相手にユーリ選手を指名してきたのは、他ならぬ沙羅選手本人なのです」


 ここにいたって、ユーリはようやく事の重大さが理解できたようだった。

 長い髪をタオルでかき回しつつ、「うーん!」と悩ましげな声をあげる。


「まいったにゃあ。これは一世一代の大勝負になりそうだぁ……試合の日まで二ヶ月もないけど、『P☆B』さんに新しいコスチュームのデザインを頼みこんでみようかなぁ」


 いや、やっぱり理解はできていないのかもしれない。

 なかなかに脱力した空気があたりに漂いはじめたとき、どうやらさきほどから聞き耳をたてていたらしいサキがひょこひょこと近づいてきた。


「スターゲイトさん、押忍。……部外者が口をはさませてもらうけどさ、そこまでやられて逃げる手はないんじゃねーの? その沙羅とかいうレスラーはアタシもテレビや雑誌で観たことあるけど、すっげー生意気で、おまけに計算高そうなやつだったぜ? どのみち同じミドル級なんだったら、いずれはぶつかる相手なんだろうしなー」


「それは……サキ選手の仰る通りです。ユーリ選手が絶大な人気を誇っているかぎり、彼女は挑戦を表明し続けるでしょう」


「だったら、挑戦を受けますよ! ユーリだって、日々成長してるんです! いつも死ぬ気で頑張ってますけど、今回は選手生命を懸ける覚悟で頑張りまぁす!」


 と、ユーリは満面の笑みを浮かべつつガッツポーズをつくる。

 その無邪気で深刻さのない笑顔を、サキは横から鋭くねめつけた。


「牛。選手生命を懸ける、つったか?」


「え? う、うん」


「死んでも勝ちたい。本気でそう思ってんのか?」


「お、思ってるよぉ。それはふだんも一緒だけどねぇ」


「そうかい。……その言葉が嘘じゃないんなら、アタシがおめーを勝たせてやるよ」


 そう言って、サキはくるりときびすを返した。

 ユーリはきょとんと目を丸くしており、瓜子はさっぱりわけもわからぬまま立ちつくし、そして千駄ヶ谷女史は去りゆくサキの背に深々と頭を下げた。


「よろしくお願いいたします、サキ選手。……それでは《アトミック・ガールズ》からの参戦オファーは承諾する、ということでよろしいですね? 健闘をお祈りいたします、ユーリ・ピーチ=ストーム選手」


                 ◇


 日本に吹き荒れた格闘技ブームが終焉して、すでに長きの歳月が過ぎ去っていた。


 いつがブームの始まりであり終わりであるのかは意見が分かれるところであろうが、少なくとも瓜子が小学生の頃は民放のゴールデンタイムでも頻繁に格闘技の試合が放映されていたと記憶している。特に最盛期などは、年の瀬に複数の格闘技イベントが放映されていたほどだ。


 まるで熱病にうかされていたような、あれは狂乱の時代であった。

 しかし流行というものは、流れゆくから流行と呼ばれるのである。

 格闘技ブームも、ご多分にもれず流れゆき、この世から消滅することになった。


 しかし終わったのは格闘技ブームであり、格闘技という競技そのものが根絶されたわけではない。

 むしろブームが過ぎ去ったからこそ、その存在はこの国にしっかりと根を張れたのだろうとも思う。


 たとえば格闘技ブームより以前に、格闘技ジムなどこの国にどれほど存在しただろうか。

 瓜子が小学校生活を歩んでいる間にも格闘技ジムは増設されまくっていたし、そもそもそれ以前にはボクシングジムや空手道場ぐらいしか見かけたことはなかったと瓜子の親などは言っていた。


 それもそのはずで、格闘技ブームの中心には総合格闘技という目新しい競技が据えられていたのである。

 これもまた起源については意見が分かれるところであろうが、少なくとも格闘技ブームが訪れるまで総合格闘技という競技が一般層の目に触れる機会はなかったのだ。


 その母体ともいえるような団体やイベントは、80年代の後期からすでに存在していた。

 しかしそれらはあくまでマイノリティな好事家のための存在であったはずだ。

 それが格闘技ブームの到来によって、一気に花開くことになった。

 総合格闘技、MMAという競技が、瞬く間に一般層にも認知されることになったのだ。


 そうして数々のジムや道場が乱立することになった。

 格闘技ブームを経たからこそ、総合格闘技や柔術などのジムがあちこちに出現することになったのである。


 もちろんブームの終焉とともに経営不振に陥ったジムも少なくはなかっただろう。

 しかしその多くは、いまだにしっかりと軒をかまえている。

 たとえブームが過ぎ去っても、総合格闘技という競技に魅了された人々は一定数存在するのである。

 一過性の流行としてではなく、総合格闘技は新しい文化としてこの国に定着したのだ。


 北米においては、いまだにMMAの巨大イベントが存在する。

 そこで世界チャンピオンになれば巨万の富をつかめるという、ボクシングにも負けない栄光への道が開けてもいる。


 また、そのような栄光を目指すばかりでなく、ただ己の鍛錬や楽しさのためにトレーニングを続けている者もいる。

 空手や柔道やボクシングばかりでなく、総合格闘技やキックボクシングという競技もまた「一般的なもの」として認知されることになったのだ。


 ユーリやサキが身を置くこの新宿プレスマン道場も、格闘技を愛する人々をプロやアマチュアの分けへだてなく受け入れる、そういった格闘技ジムのひとつであった。


                 ◇


「よーし、頑張るぞぉ! うり坊ちゃん、トレーニングを再開いたしましょう!」


 あたりをはばからぬユーリの大声に、道場中の視線が集まってしまう。

 その視線が、瓜子にはちょっと煩わしい。


 さすがにプロの選手やコーチ陣たちはユーリの色香に惑わされたりもしないか、あるいは惑わされていることを隠そうとする心意気を有してくれているのだが、アマチュア志向の一般会員ではそうもいかない。グラビアアイドルとしてもそこそこ有名なユーリの存在に心を惑わされるな、というほうが土台無理な話だった。


 何せユーリは、目立つのである。

 そして、色気の塊なのである。


 特に土曜日の昼下がりである現在は、平日の稽古に参加しにくい社会人を中心としたアマチュア門下生が大勢集まっており、ユーリのもたらす影響も甚大であるようだった。

 そんな彼らを指導している立松コーチも、きわめて渋いお顔になってしまっている。


 しかし当のユーリは何を気にする様子もなく、長袖のラッシュガードにロングのスパッツといういつもの稽古着で道場を闊歩していく。

 瓜子としては、溜息を噛み殺しつつそれに追従する他なかった。


 まあこの時間帯はユーリたちのほうこそが異分子であるのだから、何も文句を言えた筋合いではない。

 ユーリと瓜子はビギナークラスの人々の邪魔にならぬようマットの端に移動して、こっそりと稽古の続きに取りかかることにした。


「さあ、それじゃあハーフガードの状態からパスを狙ってくる相手を撃退するお稽古の途中だったよね? ユーリがまた上に乗っかるから、うり坊ちゃんはさっき教えた通りの手順で……」


「人の世話を焼いてる場合か、牛」


 そこで待ち受けていたサキが、ぱしんとユーリの頭をひっぱたく。


「いったいなぁ! サキたん、何をするんだよぉ」


「そりゃあこっちのセリフだっつーの。死ぬ気の覚悟はどこ行った? 玄関先に落っことしてきたか?」


「んにゃー? うり坊ちゃんとのスパーだって、有意義な稽古になるんだよ! うり坊ちゃんってすごくすばしっこくて、それを抑えこむのは一苦労なんだから! キックしかやったことないくせに、なかなかグラップリングの素質もあるんじゃないかにゃあ」


 そう。この六日間、ユーリはヒマさえあれば瓜子のために寝技の稽古をつけてくれており、現在もその真っ最中であったのだ。

 何とも親切な話だが、なれない寝技の稽古で瓜子はもうクタクタだった。


 かつてユーリも言っていた通り、キックと総合では使う筋肉がずいぶん違ってくるのだろう。腕も足も背中も腹も、あまり覚えのない感じで筋肉がきしんでいる。それにやたらと息が切れてしまうのも、自分のスタミナが落ちたのではなく、これまでとは質の異なる持久力が必要とされるためなのだろうと瓜子は考えていた。


 何にせよ、寝技の稽古は新鮮で楽しかった。

 ただし、身体がクタクタであることに変わりはなかった。


「そいつはけっこうな話だけどな。だけど、今のおめーが頑張るべきなのは、寝技じゃなくって立ち技の稽古だろーが?」


 そのようにのたまわるサキのほうは、ようやく包帯は取れたものの、七針もの裂傷が一週間ていどでふさがるわけもなく、いまだスパーリングもロクにできない身の上である。


 Tシャツにハーフパンツという瓜子と同様のトレーニングウェア姿で、額に痛々しいガーゼを貼りつけられたサキは、ふだん以上に感情の読めない切れ長の目でユーリをにらみつけており、それと相対するユーリといえば、ひっぱたかれた頭をさすりながら不満そうに唇をとがらせていた。


「立ち技のお稽古だって、きちんとやってるよぉ。だけどやっぱりユーリはグラップラーなんだから、お稽古も寝技重視になるのが自然の摂理でしょ?」


「重視どころか、ここ数日は寝技の稽古ばっかりじゃねーか。瓜は立ち技のエキスパートなんだから、おめーが教わることだって多いはずだろうがよ?」


「だから、教わってるってば! ……だけどうり坊ちゃんって、ちびっこいじゃん? アトミックのミドル級でここまでちびっこい選手はいないから、スパーをしてても何か感覚が違うんだよねぇ」


「……チビで悪かったっすね」


 瓜子は仏頂面で言い、サキは少しだけ目を細める。


「何だかんだと言い訳しやがって。けっきょくおめーは寝技が好きなだけなんだろ? アタシとスパーができなくなったとたん、待ってましたとばかりに立ち技の稽古をサボりまくってんじゃねーか。そんなに寝技に没頭してーんだったら、総合の選手なんざ廃業して柔術家にでもなれや。そしたら沙羅とかいう女レスラーとキャラかぶりすることもねーだろうがよ」


「サキたん……何か怒ってるの?」


 さすがにちょっと心配そうな顔になって、ユーリが身をよじる。

 確かにサキは、ふだんといくぶん様子が異なるようだった。

 無表情なのも、口が悪いのも、ふてぶてしいのもいつも通りなので判別が難しいのだが、何というか、切れ長の目に宿った光がふだん以上に尖っている気がする。


「怒ってねーよ。おめーを勝たせてやろうと思ってるだけだ。……おめーが本気で勝ちてーならな」


「そりゃあ勝ちたいよ。だけどそれはいつものことだし、いきなり練習方法を変えたって実を結ぶとは限らないと思うにょ」


「それじゃあ聞くけど、おめーはどうして試合に勝てねーんだ?」


 ユーリはまたピンク色の唇をとがらせて、恨みがましくサキの顔を見つめ返す。


「それはユーリが、まだまだ未熟者だから……って、泣き言を言わせるプレイを楽しみたいの?」


「ちげーよ。おめーが勝てねーのは未熟だからじゃない。おめーが究極にアホだからだ」


「あう……」


「もっと親切に言ってやるなら、おめーは戦略がアホすぎんだよ。自分の長所をまったく活かせず、短所を相手につけこまれる。いっつもそんな負け方ばっかりじゃねーか。……おい、瓜、おめーの目から見て、この牛はどんなタイプのファイターに見える?」


 突然矛先を向けられて、瓜子もたじたじになってしまう。


「えーっとですね……寝技の技術は、素晴らしいと思います。自分は素人なんでエラそうなことは言えないっすけど、びっくりするぐらい技も多彩だし、男子選手とのスパーでも全然負けてないし、正直言って、ユーリさんがここまで高い技術を持ってるとは想像してませんでした。本当に、打撃なしのルールだったらどこに出しても恥ずかしくない腕前なんじゃないっすかね」


「うふふー。うり坊ちゃん、大好き!」


「……反面、立ち技のほうはセンスが感じられません。パンチもキックもフォームは綺麗なんすけど、ちっとも当たらないし、スピードも遅いっす。ひとつひとつのフォームは綺麗でも、コンビネーションは単調だし、動きは直線的だし、何より距離感のつかみかたが最悪ですし、これだけ体格差があっても立ち技の勝負ならユーリさんに負ける気はしないっすね」


「……うり坊ちゃん、だいっきらい……」


「それにやっぱり、絶対的に筋肉の量が足りてないんじゃないすかね? それなのに体重は六十キロ近くもあるもんだから、よけいに動きがトロくなっちゃうんでしょう。寝技で上に乗られると、牛みたいに重くて身動き取れなくなりますけど」


「うわぁ、だいっきらい! だいっきらい! う、うり坊ちゃんまでユーリを牛呼ばわりした! こんなに筋骨隆々なんだから、体重がちょっぴり重めなのはしかたないでしょーっ!」


 ユーリが子供のように地団駄を踏み、また練習生たちの注目を集めてしまった。

 そちらに軽く手を振ってから、サキが鋭い眼差しを瓜子に向けてくる。


「瓜。なかなかの観察眼と言いてーところだけど、ひとつだけ間違ってるぜ? この牛が鈍重なのは、判断能力やら動体視力やらに難があるのと、一発一発の攻撃が馬鹿丁寧すぎるせいで、筋力不足のせいじゃねーんだ」


「はあ。そうなんすかね」


「そうなんだよ。むしろ、こいつの取り柄はパワーだけなんだからな。このぶっとい身体で体脂肪率はひとケタなんだから、こいつは文字通り筋肉の塊なんだよ」


「そ、それはユーリさんが言い張ってるだけっすよね?」


「いんや。アタシだって確認済みだし、そいつが測定器の故障じゃねーってことも身にしみてわかってる。きっと特異体質なんだろうなー。こんなコンニャクみてーにぐにゃぐにゃの肉だけど、脂肪じゃなくって筋肉なんだよ。……なんか胸もとに垂れさがってる爆弾みてーなふたつのシロモノ以外はな」


「コンニャクじゃなくてマシュマロ! それからセクハラ発言にもお気をつけて!」


「うるせーよ、乳牛。……納得いかねーか、瓜?」


 納得できるはずがない。

 確かに良質の筋肉は柔軟性に秀でているものだが、ここまでやわらかい筋肉など存在するものか。


「しょうがねーなー。ちっとこっちに来てみろよ」


 そう言って、サキはフロアの最奥部へと足を向けた。

 そこで、壁に掛かっていたキックミットをひょいっと取り上げ、瓜子のほうに差し出してくる。


「瓜、こいつで牛の蹴りを受けてみろ。そうしたら、こいつの馬鹿げた怪力が体感できるからよ」


「はあ……」


 瓜子は確かに、ユーリの打撃技を一度としてくらったことがなかった。軽い手合わせのマス・スパーでも、ユーリは空振りを繰り返すばかりであったのである。


 もちろんあれだけフォームが出来上がっているのだから、まともにくらえばダメージはまぬがれられないだろう。しかし、当たらない攻撃の威力を知ることに、いったい何の意味があるというのだろうか。


「さ、しっかりかまえとけよ? 牛、おめーはこのミットめがけて、ミドルを蹴ってみろ」


「うにゃ? ハイじゃなくて、ミドル? 蹴り足をつかまれやすいから、ミドルは好きじゃないんですけども……」


「いいから、蹴れっての。手加減ぬきの全力だぞ?」


「何なのさ、まったくー。いつもの愉快ではにかみ屋さんのサキたんに戻ってよぉ」


「そんなヤツはハナからいねーよ。蹴らねーんなら、アタシがおめーを蹴っ飛ばすぞ」


「わわぁ。蹴ります蹴ります! うり坊ちゃん、後ろは壁だから、吹っ飛ばされないように気をつけてね?」


「……はあ」


 いくら瓜子が小兵でも、相手が中量級以上の男子選手でもない限り、キックミットごと吹き飛ばされるわけがない。

 それでも瓜子は十分に腰を落とし、両手でキックミットをかまえてみせた。


 ユーリは入念に足の向きを整えてから、「いくよー?」と気のぬけた声をあげる。

 そうして、ユーリの右足がふわりとマットを離れ、優美な曲線を描きながらキックミットへと突き刺さり───瓜子は、後方にぶっ倒れることになった。

 防音材を張られた壁に、どしんと背中を叩きつけられる。


「ちょ、ちょっとうり坊ちゃん、大丈夫? だから気をつけてって言ったじゃん!」


 ずるずると崩れ落ちそうになる瓜子の身体を、ユーリがやわらかい両腕で抱きとめる。

 が、瓜子が体勢をたてなおそうとするなり、いきなりパッと支えを外されてしまい、けっきょく床に崩れ落ちてしまう。


「うえー、気持ち悪い。おしゃべりしてたから、お稽古モードが解除されちゃってたわん。……ごめんねうり坊ちゃん、色々な意味で」


「……はい。色々な意味で、ショックがでかいっす」


 キックミットに守られていた両腕に、びりびりと痺れが走りぬけている。

 何なのだ、この馬鹿げた破壊力は?


「だから、こいつは筋肉の塊だってんだよ。おまけにフォームもきっちりしてるし、六十キロ前後って目方を考えたら、まずは最高級の破壊力だろ。……こんだけの武器を持ってるくせに、どーしておめーはそれを有効に使おうとしねーんだ?」


「だって、当たんないんだもん! それに、ユーリはストライカーじゃないし!」


「……そーだな。おめーはいっつもそう言って、打撃で攻める練習を二の次にしてきた。せいぜいタックルにつなげるための前戯か、あるいは一発逆転の奇襲技だろ。立ち技にそのていどの価値や意味しか見いだせねーんなら、総合なんざ辞めちまえって言ってんだよ、アタシは」


「どうしてさ! ベル様だって、立ち技にはそこまで力を入れてないよ!」


「それはあいつが子猿みてーにすばしっこいからだろうが。それに、あのフットワークは柔術じゃなくボクシングのテクニックだぜ? ……とにかくな、レスラーだろうが柔術家だろうが、何かしらスタンド状態で主導権を握れないかぎり、どうしたって不利な状態からグラウンドに移ることになるんだ。おめーの寝技の技術を活かすには、まず立ち技を磨くしかねーんだよ」


「わかってるよー。だから、立ち技だって一生懸命お稽古してるもん! こうやって地道に頑張ってれば、いつか試合に活かせる日も───」


「いつかじゃ間に合わねーって話だろ? どんだけサンドバッグを蹴り込んだって、おめーが言う通り相手に当てることができなきゃ意味はねーんだよ」


 サキは荒っぽくユーリの言葉をさえぎった。


「MMAってのは、すべてを極めようと思ったらキリがねー競技だ。だから、どこに稽古の重点を置くかは人それぞれだよ。アタシだって、寝技の稽古にはそこまで比重を置いてねーしな。……だけどおめーは二年間も稽古を積んできて結果を残せなかったんだから、そろそろ次のステップに進むべきなんじゃねーのか?」


「ううう。だけどさぁ……」


「だけどじゃねー。これ以上ごねるつもりなら、アタシはおめーの調教から手を引かせてもらう」


「……え?」


「家賃代わりの個人レッスンもおしまいだ。そうすっと代わりに払うもんもねーから、アタシはあの部屋を出ていくしかねーな」


「な、何を言ってんのさ、サキたん! ユーリを見捨てちゃうつもり?」


 ユーリは真っ青な顔をしてサキにつかみかかった。

 細い肩をぎりぎりと握りしめられながら、サキはいつものふてぶてしい表情でユーリの惑乱した顔をにらみ返す。


「今がおめーの正念場なんだろ? 正念場で踏ん張れねーやつをそばで眺めてんのはムカつくからな。そんなら、野宿でもしたほうがマシだ」


「何それ! 全然意味がわかんない! サキたんがいなくなったら、ユーリはさびしくて死んじゃうよぉ!」


「そんなら死ねよ。アタシも道端で凍死するかもだけどなー」


「ちょ、ちょっと、サキさん……ユーリさんも、落ち着いてください!」


 瓜子はようやく立ち上がることができたが、半べそでサキを見つめているユーリとそんなユーリを無表情に見つめ返しているサキをいったいどのように仲裁すればいいのか、さっぱり手段も思いつかなかった。


「ドウしたのー? ケンカしたら、ダメだよー?」


 と───救いの声が、頭上から降ってくる。

 それは、おもに立ち技のコーチ役をつとめている、ジョンという名のオランダ人だった。


 スキンヘッドで、肌は黒く、身長は百八十五センチていど。黒人特有のしなやかな肉体を、オレンジ色をしたプレスマン道場のトレーニングウェアに包んでいる。見た目は強面だがとても明るく陽気な性格をしており、今も気さくににこにこと微笑んでいる。


「よー、わに。コーチのお仕事は終了か?」


 コーチ相手でも、サキの態度は変わらない。

 ちなみに「鰐」という呼び名は、彼の現役時代のリングネーム、ジョン=アリゲーター=スミスから来ているらしい。その胸に刻まれた「鰐」という漢字のタトゥーを、瓜子も一度だけ拝見したことがある。


「スコしテがアいたから、ハナシをキきにキたんだよー。ボクにソウダンってナニかなー?」


「……この牛に、おめーさんの得意技を仕込んでやってほしいんだ」


 サキの言葉に、ユーリはぎゅっと眉根を寄せる。


「時間外で働けとは言わねー。こいつもいちおう月謝を払ってる門下生だろ? レギュラーコースの正規の稽古時間に、みっちり鍛えあげてやってほしいんだよ。……頼めるか?」


「モチロン! ソレがボクのおシゴトだからねー」


 ジョンの笑顔から視線を外し、サキはあらためてユーリのほうを見た。


「まずはこいつが、アタシからの宿題だ。イヤならイヤってハッキリここで明言しろよ、牛」


 ユーリはうっすらと涙の浮かんだ瞳でサキの細面をにらみつけると、「……イヤだけど、やる」と、それはそれは不本意そうに、不貞腐れた子供のような口調でそのように答えたのだった。

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