05 夜の悦楽

 新宿プレスマン道場は、JR新宿駅から徒歩で十分ほどの歓楽街の外れにあった。


 居酒屋やらスナックやらが並んでいる界隈に、やや唐突な感じで出現する。建物自体は何のへんてつもない雑居ビルであるのだが、その一階の右側半分がガラス張りになっており、道行く人々にもサンドバッグを蹴る姿やエアロバイクを漕ぐ姿が見える造りになっているのだ。


 三鷹のマンションに寄ったため、時刻はすでに午後の七時を回っている。

 ネオンの瞬く歓楽街の夜の情景に、懸命に稽古を積んでいる人々の姿が四角く浮かびあがっている。それはなかなかに非現実的な光景でもあった。


 一月の冷たい夜風に首をすくめながら、瓜子はかたわらのユーリを振り仰ぐ。


「あの、本当に自分みたいな立場の人間がいきなり足を踏み入れて、大丈夫なんすかね?」


「だいじょぶだってば! みんな優しいから心配いらないって!」


 瓜子が心配しているのは優しいだとか厳しいだとかの話ではなく、礼儀だとか仁義だとかにまつわる話のほうだった。

 いずれはこちらでお世話になる予定であるが、いまだに籍は品川MAに残している瓜子なのである。こんな自分がぬけぬけと練習場所を拝借することが許されるのか、出稽古の経験もない瓜子には何とも判断がつかないのだった。


「でも、ちょっぴり遅くなっちゃったね。もうビギナークラスのお稽古が始まっちゃってるだろうから、そーっとお邪魔いたしませう」


 呑気に笑いながら、ユーリは『新宿プレスマン道場』とペンキで書き殴られたガラスの扉に手をかける。

 ここまできたら腹をくくるしかないか、と瓜子もその後に続いた。


「どうもぉ。お疲れ様でぇす」


 そうして屋内に踏み入ると、たちまち周囲からは「押忍!」「押忍!」と威勢のいい声が返ってきた。

 人数は、十五、六名ばかりもいただろうか。なかなか盛況だ。

 また、それだけの人数が稽古をしても窮屈でないスペースが確保されている。


 新宿プレスマン道場は、どちらかといえば新興に類する格闘技ジムである。メインはもちろんMMA、総合格闘技だが、立ち技専門のキック部門も負けないぐらいの実績を残しており、現在はどちらの部門でも五名ずつのプロ選手が在籍しているはずであった。


 創始者は、格闘技ブームの黎明期に活躍していたオランダの元柔道家レム・プレスマンという人物で、もともとは彼が秘蔵の若手選手を育てあげるために作られたアジトのような練習場所であったのだが、日本における格闘技ブームが終焉するとともにプレスマンは北米に移り住んでしまい、彼の格闘技理念や思想を継いだコーチ陣や選手たちの手によって七年前に再スタートを切った、というのがこの道場の成り立ちであった。


 現在はビギナーコースの稽古時間という話であったから、その場にいるのはみんな初心者かアマチュア志向の道場生たちなのだろう。年齢はさまざまであるが男性の姿しか見えず、そしてその大半はユーリの登場に目の色を変えてしまっていた。


「そら、気を抜くと怪我をするぞ! ……桃園さん、自主練だったら奥でやってくれ」


 トレーナーらしき人物が、こわい目つきでこちらをにらみつけてくる。

 五十手前の、そんなに長身ではないががっしりとした体格の男性だ。

 瓜子の記憶に間違いがなければ、それはMMA部門の正トレーナー、立松という人物であるはずだった。

 いずれ移籍をする予定であったので、瓜子もこの新宿プレスマン道場については綿密に情報を集めていたのである。


「うん? そっちのちっこいのは───」


「自分は品川MAの猪狩という者です。稽古中にお邪魔してしまって申し訳ありません」


 ユーリが余計なことを言わない内に、瓜子は頭を下げてみせた。

 立松コーチは「ああ」と不機嫌そうにうなずく。


「サキやサイトーから話は聞いてるよ。しかし、お前さんがこっちに移るのはまだ先って話じゃなかったか?」


「うり坊ちゃんは、ユーリのトレーニングパートナーとしてお招きしたんですぅ。お邪魔はしませんので、隅っこのスペースをお借りしていいですかぁ?」


 立松は無言で小虫でも払うような仕草をした。

「ありがとうございまぁす」とにこにこ微笑みながら、ユーリはムートンブーツを脱ぐ。


「……手が止まってるぞ! 集中できないなら、家に帰れ!」


「押忍!」


「すいません! 押忍!」


 やにさがっていた男どもも、慌てた様子でおのおのの稽古に回帰する。

 それを横目に、ユーリはスキップするような足取りで道場の奥へと向かい始めた。


「あの、ユーリさん、本当に大丈夫なんすか? 立松コーチ、めっちゃ不本意そうなんすけど」


 瓜子が小声で呼びかけると、「だいじょうぶだってばー」とユーリに返される。


「あれはユーリを嫌ってるだけだから! なんの心配もいらないよん」


「……それを聞かされても、全然安心できないんすけど」


 しかし、ビギナーコースの道場生にも容赦のない立松コーチの立ち居振る舞いには好感がもてた。

 土台、瓜子も古臭い熱血型の思考をした人間なのである。


「さ、ここが女子用の更衣室だから、とっとと身支度を済ませちゃおう!」


 道場の右奥が更衣室になっていた。

 縦長の、六畳ぐらいのタイル敷きの部屋である。鍵つきのロッカーがずらりと並んでおり、奥には曇りガラスの張られたシャワールームがうかがえる。


「鍵つきだから問題ないと思うけど、貴重品の管理は自己責任ね。鍵は水筒とかタオルとかと一緒に袋に入れて持ち歩けばいいと思うよん」


「……押忍」


「えー、どしたのうり坊ちゃん! いきなり道場生モード?」


「……道場では道場生らしく振る舞うべきじゃないっすか?」


「堅苦しいにゃー。女性選手で押忍なんて、ここではサキたんとかダムダムさんぐらいしか使わないよぉ?」


 ダムダムというのは、瓜子が《G・フォース》でお世話になっているベテラン女子選手、ダムダム・サイトーのことであろう。

 なかなか珍妙なリングネームであるが、瓜子にとっては足を向けて寝られない存在である。


「だったら自分も、そのお二人にならいます」


 そんな風に答えながら、瓜子はベンチコートを脱ぎ捨てた。

 ユーリのほうは、とっくに下着姿になってしまっている。


 日中の収録では、打撃ありのルールでしかも男性が相手であったためか、胸もとと局部にきちんと防具を装着していたが、この場ではそのままトレーニングウェアを着ようとしている。なおかつその練習着は、黒とピンクを貴重にした長袖のラッシュガードにロングのスパッツというものであった。


 やはり、練習で肌を傷つけないよう考慮しているのだろうか。顔と手足の先以外は完全に隠蔽する格好だ。

 ただし、身体のラインが丸分かりのぴっちりとしたコスチュームなので、色気の度合いは水着姿と大差がない。


 そうして、試合中には結ばないロングヘアをアップにまとめあげながら、ユーリはぐりんと瓜子を振り返ってきた。


「どしたの、うり坊ちゃん? うかうかしてると、ビギナークラスの練習時間が終わっちゃうよぉ?」


「……押忍」


 瓜子はジャージとスウェットを脱ぎ捨てた。

 とたんに、ユーリが「へえ」と感心したような声をあげる。


「すごいすごい! 綺麗にシェイプされた身体だねぇ? その身長で体重は五十三、四キロって言ってたから、もっとゴツゴツの筋肉ボディなのかと思ってたよ!」


「はい。この二年で五キロはウェイトが上がったはずなんすけど、身体のサイズはあんまり変わらないんすよね」


「ううん、いいと思う! きっちり引き締まってるのにあんまり筋肉の線は出てなくって……かっちょいいプロポーションだにゃあ」


 と、うっとり目を細めるユーリである。

 何とはなしに、瓜子は背筋が寒くなってしまう。


「あの、もう一度確認させていただきますけど、ユーリさんにそっちの趣味はないんすよね?」


「んー? くどいにゃあ。ユーリは綺麗なものが好きなだけだよん。お稽古を開始しないとユーリもスイッチは切り替わらないんだから、うり坊ちゃんのほうこそうっかり手を触れないように気をつけてよねー」


 小さく溜息をついてから、瓜子は練習着に腕を通した。

 こちらはスポーツ用のTシャツにハーフパンツという、至極ありきたりなトレーニンウェアである。

 ユーリが装着していなかったので、局部を守るアブスメントガードも省略させていただく。

 だが、そうしてひさびさに稽古の準備を整えると、否応なく気持ちが引き締まってきた。


「よし、それでは出陣だぁ!」


 ユーリとともに、更衣室を出る。

 またあちこちから視線が飛んできたが、それにはかまわず道場を横断し、ユーリはまた別の扉に手をかけた。

 プレスマン道場は、トレーニングルームがふたつのフロアに分けられていたのだ。


 そちらでも、同じぐらいの数の道場生が稽古に励んでいた。

 こちらは壁にキックミットやプロテクターなどが下げられているだけで、他にトレーニング器具は置かれていない。一面にマットが敷かれただけの、だだっ広い空間であった。


 そこで、男たちが取っ組み合っている。

 表側のフロアよりも熱の入った雰囲気だ。

 あんまりユーリのほうに目を向けてこようとする者もいない。


「月曜日のこの時間はビギナークラスの人たちも人数が少ないみたいで、こっちのフロアはプロ選手とか、アマでも大会を控えた選手とかが自主練をしてるんだよ。だからユーリも練習し放題ってわけ」


 ユーリがぼしょぼしょと囁きかけてくる。

 確かにそこには正規のコーチもおらず、ただベテランっぽい男子選手が指揮を取ってそれぞれの稽古に取り組んでいる様子であった。


「みんな総合の選手なんですか? サイトー選手の姿もないみたいですし」


「うん。きっちり決まってるわけじゃないけど、月曜と木曜が総合優先で、火曜と金曜がキック優先っていう風に住みわけてるみたい。で、水曜は外部から柔術の先生が来てくれて、土曜の昼間は初心者が優先って感じかにゃ。……ちなみに総合のほうはプロアマ含めてユーリとサキたんしか女子選手が存在しないのだよ」


「なるほど」


 そんな会話をしていると、実に面妖なる物体がこちらに接近してきた。

 直径六十センチていどの巨大な玉、いわゆるバランスボールなどと呼ばれる合成樹脂のボールにまたがったサキである。


「よー、お早い到着だったな」


「あはは。何やってんの、サキたんってば!」


「血圧あげんなって立松っつぁんに怒られちまったから、これぐらいしかやることがねーんだよ」


 しかしサキは、床に足をつけぬまま、バランスボールにまたがった状態でころころ移動してきたのだ。

 いったいどれだけのバランス感覚を有していればそのような芸当が可能になるのか、瓜子にはちょっと想像もつかなかった。


「瓜も来たんだなー。こんな頭じゃなきゃ、お手合せを願いたかったもんだぜ」


「……自分が正式な門下生になれたあかつきには、どうぞよろしくお願いいたします」


「さ、それじゃあウォーミングアップを始めよー! まずはストレッチからねぇ」


 そうして他の道場生の邪魔にならぬよう壁際にまで移動して、おのおのストレッチに取りかかる。

 すでにテレビ局の楽屋でも知れていたことであるが、身体の柔軟さはなかなか尋常でないユーリであった。


 股割りなどは、ほとんど百八十度の開脚状態で、ぺたりと上半身が床についてしまう。たしかドキュメント番組では自分の爪先に手が届かないぐらい身体が固くてコーチ陣に笑われていたユーリであるのに、大した成長だ。


 瓜子も負けじと、身体をほぐす。

 眠っていた筋肉が目を覚まし、全身に血が巡る心地好さがあった。

 ここ十日ばかりはロードワークとシャドーぐらいしかしていなかったので、ひさびさの稽古を前に身体が喜んでいるかのようである。


(きちんと身体を動かしてなかったから、うじうじ思い悩むようになっちゃったのかな)


 稽古に誘ってくれたユーリには、感謝するべきなのだろう。

 十分ばかりもかけて入念にストレッチをすると、ユーリは「さて!」と嬉しげな面持ちで立ち上がった。


「うり坊ちゃんは、キックのランカーなんだもんね。そしたらまずは、タックルの切り方からお稽古してみりゅ?」


「あ、いや、自分のことなんかよりユーリさんの練習を優先してくださいよ」


「お気遣いなく! ここはギブアンドテイクで参りましょう。うり坊ちゃんにはタックルの切り方を伝授してあげるから、その前にユーリの打ち込みを手伝っておくんなさいませ。……まずは両足タックルからね」


 ユーリが瓜子の正面に立ち、左の手足を前に出したファイティングポーズを取る。


「うり坊ちゃんもかまえてくれる?」


「押忍」


「まず、左のジャブが当たるぐらいの距離に調節いたします」


 ユーリがゆっくりと左腕をのばしてくる。

 その拳が瓜子の鼻先にぺちんと当たったので、反射的に「あ痛」と言ってしまった。


「あ、ごめん! わざとじゃないので許してね?」


「押忍」


「よし、ではまず両足タックルってのがどんな技なのかを教えておくね。えーと、これは相手の足もとに組みついて、マットに押し倒す技術なのです。まずはここから体勢を低くして、相手の懐に踏み込みます」


 言葉通り、身体を屈めたユーリが瓜子の足もとに踏み込んでくる。


「そしたら、自分の胸もとを相手の前足の腿に押しつけつつ、両腕を相手の膝裏に回します。で、前足を上に持ち上げるから、転ばないように気をつけてね?」


「押忍」


 抱え込まれた左足が宙に浮く。

 瓜子はユーリの左肩に腹を当てて、転倒しないようバランスを取った。


「そしたらさらに前進しつつ右足のほうを膝カックンさせるから、うり坊ちゃんは無理せず倒れてくださいませ。お尻から落ちると痛いし危ないから、背中から落ちてね? あと、おかしな具合いに手をつくとこれまた危ないから、最初は浮かせておいたほうがいいかにゃ」


「押忍」


「では行きまーす。はい、カックンと」


 右足の膝裏を引き寄せつつ、さらにユーリが前進してくる。

 言われた通り、瓜子は背中からマットに倒れ込んだ。

 ほどほどの衝撃が背中を走り抜けていく。


「こんな感じだよん。痛くなかったかにゃ?」


 瓜子の上にのしかかっているユーリが笑顔で問うてくる。

 痛いことはなかったが、ユーリが笑顔で瓜子の身体に触れているのが奇妙な感じだった。すでにテレビ局でも判明していたことであるが、稽古中や試合中は本当に他者と触れ合うのも苦痛にならないらしい。


「じゃあ今度は一連の動きを普通のスピードでやってみるから、同じように上手く倒れてね。柔道の要領で受け身を取れそうだったら、腕を使ってもいいから」


「押忍」


 ユーリとともに立ち上がり、また左の手足を前に出す。

 すると、再びユーリの左拳がぺちんと顔に当たってきた。


「あ痛」


「あ、ごめん! わざとじゃないから許してね?」


「……いちいち腕をのばさなくても、目算で距離ぐらいつかめるもんじゃないっすか?」


「ごめんってばー。ユーリ、目算で距離をつかむのが一番の苦手項目なのだよねぇ」


 それはずいぶんと致命的なウイークポイントを背負ってしまっているものである。

 ともあれ、両足タックルの実践であった。

 適切な距離を取ったユーリが、そこから再び瓜子の足もとにもぐりこんでくる。


 瓜子の左腿に胸を押しあて、左足を持ち上げて、右の膝をたたんでくる。その動きがひと呼吸で完成され、瓜子はすみやかに倒れ込むことになった。

 指示の通りに片腕で柔道流の受け身を取ったが、やっぱりほどほどの衝撃が背中を走りぬけていく。


「こんな感じー。ご理解いただけたかにゃ?」


「押忍」


「それじゃあ、最初に打ち込みのお稽古をさせてね。十回踏み込んで最後だけ倒すから、うり坊ちゃんはそのまま立っててくださいませ」


 打ち込みというから瓜子がバタバタ倒されるのかと思ったが、そうではなかった。これは踏み込みのフォームの反復練習であるらしい。


 身体を屈めて瓜子の足もとに踏み込んでくる。そうして瓜子の膝裏に手を回しつつ、それが触れる前にまた元の体勢に戻るのだ。

 それを十回繰り返して、最後だけマットに押し倒された。


「よーし、次はサウスポーでかまえてくれる?」


 言われた通り、瓜子は右足を前に出した。

 ユーリは同じリズムで同じ動作を繰り返す。


 それが左右で三セットずつ繰り返された。

 最初の模範動作もふくめて、瓜子は八回倒されたことになる。


 すると、不思議なことに瓜子の息も少しだけ上がってきた。

 衝撃が心臓に負担をかけるのか。ダメージはないままにスタミナだけが削られていくのだ。


 だが、ユーリのほうは平気な顔をしている。

 機械のように同じ動作を繰り返し、それをやりとげるとユーリは満足そうに「ふう」と息をついた。


「ありがとー! ふだんだったらこのまま片足タックルの打ち込みになるんだけど、その前に両足タックルの回避方を伝授いたしませう」


「あ、いや、その前に、よかったら自分もタックルの掛け方を練習させてもらえませんか?」


「ふにゅ? 逃げ方より掛け方に興味あり?」


「興味は同じぐらいにあります。キック出身のストライカーっていっても、逃げるばかりが能じゃないでしょうし」


 同じストライカーのサキとても、ときにはタックルを見せることがある。

 それが決まらずとも、タックルをフェイントで使えばより打撃を当てることが可能になる、ということなのだろう。

 また、タックルが決まればそれで試合を有利に進めることが可能になる。サキにタックルを決められた選手は、たいていそのままパウンドのラッシュでマットに沈むことが多かった。


「そっかー。それは素晴らしい心がけだね! それじゃあユーリにタックルを掛けてみるといいよ! 手順はだいたい理解できたでしょ?」


「押忍」


「注意事項としては、倒れたときの指先に気をつけてね? 相手の身体に巻き込まれると、ぽっきりいっちゃうこともあるらしいから」


「押忍」


 瓜子はユーリの前に立った。

 左ジャブが当たるぐらいという距離も、目算で調整する。

 ゆるやかにファイティングポーズを取りつつ、ユーリは笑顔である。


(まず、相手の前足の腿に自分の胸もとを押しつける、と───)


 瓜子は身を屈め、ユーリの両足を抱きかかえた。

 が、ユーリは倒れない。

 左の前足がわずかに浮いているばかりである。


「そのまま相手の左足を上方向に引き上げつつ、自分は前進するのだよん」


「押忍」


 だが、いったん勢いを止めるとそこから力を込めるのは難しかった。

 瓜子はマットに両膝をつき、ただユーリの足もとに抱きついているだけの格好になってしまう。


「ふみゅふみゅ。今のは力が前と上に分散しちゃってた感じだね。前進の勢いは止めないまま、右腕を上に引きあげるのです」


「押忍」


「あと、目線が下に下がっちゃってたね。体勢は低くしても、顔は正面に向けておくの。これ、鉄則」


「押忍」


 意外に教え上手なのだなと内心で感じ入りつつ、瓜子は再チャレンジした。

 が、やはりユーリは倒れない。


「えーっとね、今のは踏み込みの足の位置が悪かったかにゃ。ユーリは相手の両足のちょうど真ん中あたりを目印にして踏み込んでるよ。で、相手の足を抱え込むのと同時に右足のほうも踏み出すの。そしたら左膝は下についちゃってもいいから、右の踏み込みでさらに前進するイメージだね」


「押忍。……自分もちょっと、相手を持ち上げるまでのフォームを練習させてもらっていいっすか?」


「うん、もちろん!」


「あ、でも、こんなことしてたら自主練の時間が終わっちゃいますかね?」


「いいよいいよ! うり坊ちゃんの気の済むまで頑張ってみなされ!」


 見上げると、ユーリはむやみに楽しそうな顔をしていた。


「……えーと、何がそんなに楽しいんすか?」


「んー? うり坊ちゃんが組み技に夢中になってるのが嬉しいだけだよん。ほら、サキたんもストライカーだから組み技なんて眼中なし! って感じだからさぁ」


「ふん。それでも試合でタックルを決めた数は、牛より多いけどな」


 バランスボールにまたがったまま、サキは退屈そうに瓜子たちの練習風景を眺めている。

 瓜子は額の汗をぬぐってからユーリの前に立った。


「それじゃあ今度は、ユーリさんの足をつかむまでで動きを止めますね」


「りょうかーい! 心の準備はしておくから、上手くいきそうだったらそのまま倒しちゃってもいいよん」


「押忍。ありがとうございます」


 顔の角度、目線、足の踏み込み位置を気をつけながら、ユーリの足もとにもぐり込む。

 ユーリの両足を抱きかかえ、後ろに残っていた右足も前に進める。


「うん、今のは悪くなかったんじゃないかにゃ」


「押忍」


 今のフォームとタイミングを、身体に叩き込もう。

 そのように考えながら、瓜子は身を起こした。


 もう一度、雑にならないよう気をつけながら、フォームを確認する。

 そうして身を起こすと、ふいたばかりの汗が頬を伝った。


 心臓がとくとくと鼓動を速め、心なしか呼吸も乱れがちになっている。

 たったこれだけの練習で、スタミナが切れてしまったのだろうか。


 そんな馬鹿なと思いながらもう一度踏み込むと、頭上から「んー」という悩ましげな声が降ってきた。


「今のは、ちょっと頭が下がり気味だったかにゃ。あと、踏み込むより先に手が出ちゃってたよ?」


「押忍」


「頭を下げて両腕を前に突き出す、これはクワガタタックルといって、悪いタックルのお手本とされております。目線が下に行くと相手の反撃をくらいやすいし、腕が先に出ると相手が逃げやすくなっちゃうのだよね」


「押忍」


 しょうもない見栄などかなぐり捨てて、瓜子は深く呼吸をした。

 そして、首裏の筋肉をもみほぐす。


「低い体勢で相手の懐にもぐりこむってのは、ずいぶん体力を使うものなんですね。たったこれだけの時間で、もう首と足の筋肉が張ってきました」


「うんうん! ユーリも昔はこれだけで足がぷるぷるしちゃってたよー」


 それでもさきほどのユーリは、平気な顔で笑っていた。

 いかに連戦連敗の身とはいえ、ユーリも二年ほどは修練を積んできた身であるのだ。

 なんとなく、胸の奥が熱くなってくるのを感じてしまった。


「それじゃあ、もう一回行きます」


「らじゃーでぇす」


 瓜子は足を踏み込んだ。

 どん、とユーリの腿が胸もとに当たる。

 いける、と思った。

 なのでそのまま力をゆるめず、ユーリの左足を持ち上げる。


 左膝をマットにつき、右足を前に出して、さらに前進。

 左肩に、ユーリの腹が乗っている。

 ユーリの重さが、自分にゆだねられているのだ。

 ユーリの右足を引き寄せつつ、身体は前へと押し進める。


 ユーリの身体がふわりと浮いて、背中からマットに倒れ込んだ。

 瓜子も均衡を失って、そのままユーリの上に倒れ込んでしまう。


「成功だね! 今のはフォームもタイミングもばっちりだったよん」


 笑いをふくんだ、ユーリの声。

 顔を上げると、ユーリは今まで以上に楽しそうに笑っていた。


 ユーリのやわらかい足に胴体をはさみこまれつつ、瓜子は息も切れぎれに「押忍」と答えてみせる。

 一気に力を使ったためか、馬鹿みたいにスタミナを削られてしまっていた。


「……これっぽっちの稽古で息が上がってたら、お話にならないっすよね」


「そんなことないよー。ユーリはうり坊ちゃんよりちょっぴりだけウエイトがまさってるから、その分しんどいんだろうねぇ」


「ああ、ユーリさんは六十キロ近くあるんでしたっけ。忘れてました」


「……そこで具体的な数字を口にする必然性は皆無でありますぞよ、うり坊ちゃん」


「冗談です。ご指導ありがとうございました」


 なんとかユーリのもとから身体を引き剥がし、マットにへたりこむ。

 同じように身を起こしつつ、ユーリはにっこり微笑んだ。


「まあやっぱり、打撃技と組み技じゃあ使う筋肉が違うってことなんだろうね。足りない分は、補強練習で鍛えあげればいいのさあ。そのへんのトレーニング方法は、後でじっくり伝授してあげるから!」


「押忍」


「そんじゃあお次は、タックルの切り方だね! お時間までに片足タックルまで進めるかなー? うーん、なんだか楽しくなってきた!」


 稽古中にこんな笑顔でいる人間を見るのは、瓜子にしても初めてのことであった。

 だけどべつだん、それを不真面目とそしる気持ちにはなれない。

 瓜子自身も、楽しかったからだ。


 瓜子は呼吸を整えながら、ユーリに続いて立ち上がった。

 そうしてユーリと過ごす二日目の夜は、静かながらも確かな熱さをはらみつつ過ぎ去っていったのだった。

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