04 黄昏刻の告白
「ああ面白かった! さあ、これでようやく道場に行けるね!」
残りの撮影を終えてスタジオを出ると、赤坂の街はすでに夕闇に包まれつつあった。
帰宅ラッシュで混雑する寸前の街並みを歩きながら、瓜子は暗い目でユーリを見る。
「ユーリさん。……ユーリさんは、進むべき道を間違えたんじゃないっすか?」
「ええ? そんなことないよぉ。駅は絶対、こっちの道だって!」
「そういう意味じゃありません。……ユーリさんは格闘家なんて目指さずに、そのままアイドルとして生きていけば良かったんじゃないんすか?」
試合衣装の詰まったボストンバッグを手に、ユーリはサングラスの向こう側できょとんと目を丸くしたようだった。
「なぁにバカなこと言っちゃってんのさ! そーゆー世界は向いてないから、イヤになって辞めちゃったんだって言ったでしょお? 人の話はちゃんと聞いてよねぇ」
「向いてますよ。少なくとも、全然勝てない格闘技なんかよりは。……あのカメラマンとかプロデューサーだとかいう人たちも、みんなそんな風に言ってました」
「ははぁん。うり坊ちゃんは、それを真に受けちゃったんだぁ? バカだなぁ! 自分のことは自分が一番よくわかってるから、余計な心配はご無用よん」
「心配なんかしてないっすよ。ただ、ユーリさんは道を間違えたって言ってるだけです」
ぶん殴られたって、かまわない。
ヒステリーを起こしたユーリが、瓜子を解雇せよ! と千駄ヶ谷あたりに直訴したって、かまわない。
瓜子は胸中に渦巻く疑念や憤懣を吐き出さずにはいられなかった。
「……あっそ。そんなら間違った道を選んだユーリは、間違った場所にゴールしちゃうのかもねぇ。それがいったいどんな場所なんだか、今からワクワクしちゃうにゃあ」
しかし、ユーリはあっけらかんとしている。
それで瓜子は、よけいに激昂してしまった。
「何をへらへら笑ってるんすか! ユーリさんの人生でしょう? 少しは真面目に考えたらどうなんすか?」
「考えるのは性に合わないにょ。ユーリは思うままに生きるだけ! ……うり坊ちゃんって、おかしなコだねえ」
「おかしいのはそっちっすよ! どうして自分がおかしいんすか?」
「えー? おかしいじゃん。……それなら、うり坊ちゃんはもし今アイドルとしてスカウトされたら、キックボクシングを辞めてまでデビューするぅ? キミは天性のスターだ! アイドルとして生きるために生まれてきたんだ! って熱烈にアプローチされたら、どうよ?」
「……そんな馬鹿げた想像はできません。自分はユーリさんじゃないんすから」
「それじゃあ、うり坊ちゃんがこの先スターゲイトでメキメキ頭角を現したら、どう? キミはマネージメント業務の天才だ! 正社員になってくれ! 部長になってくれ! 社長になってくれ! ……そして、キックボクシングなんて辞めてくれ! って言われたらどうなの? キックボクシングを辞めるのかにゃ?」
「……そんなことはありえないし、何があったって自分はキックを辞めたりはしませんよ」
自分に言いきかせるように、瓜子は強い口調でそう答えた。
ユーリは「ふむふむ」と悪戯っぽく笑っている。
「それなら、そのキックで全然勝てなくなっちゃったらどうなのかにゃ? 何年たっても戦績は上がらなくて、絶対にチャンピオンにはなれないの。それでも辞めない?」
「辞めないっすよ。勝てないなら勝つまでチャレンジし続けるだけです」
「だったら、うり坊ちゃんだって同類じゃん。自分にできないことを他人におしつけるなんて、おかしいよ」
どこか満足そうに言って、ユーリはまた歩くことに専念しようとしはじめる。
しかし、まだまだ瓜子には納得できなかった。
「ちょっと待ってくださいよ! 自分とユーリさんじゃ比較にならないでしょう? だって、ユーリさんは……格闘技の才能、全然ないじゃないっすか? 自分はこれでも、十八歳でランキングの一位にはなれました。連戦連敗のユーリさんが格闘技に執着するのとは、まったく意味合いが違いますよね?」
「ユーリだって、好きで連敗してるわけじゃないもん。だけど、ユーリに才能があろうがなかろうが、うり坊ちゃんには関係ないっしょー? 言葉責めプレイなんてサキたんだけで間に合ってるんだから、うり坊ちゃんはもうちょい違うキャラを目指してよぉ」
「……何すか、それ? 年下の自分にこれだけ好き放題言われて、頭に来ないんすか?」
瓜子の言葉に、ユーリはまたけらけらと笑いだす。
「才能ないとか、格闘家に向いてないとか、そんな罵倒は聞き飽きてるよぉ。ついでに言うなら、格闘技なんて辞めて芸能活動に専念しろ! っていう熱いメッセージもね、この一年間、耳からタコがにょろにょろ這い出してくるぐらい聞かされ続けてるの。ユーリの情動を揺さぶりたいんだったら、もうちょい新しい角度からのアタックが必要だねぇ」
「……どうしてですか? ユーリさんは、どうしてそんなんで選手を続けていられるんすか?」
周囲の人間に罵倒され、白い目で見られ、どんなに努力しても結果を残せず、その反面、別の方向からはスターだ何だともてはやされ、お前の生きるべき道はこっちだ、早くこっちに戻って来い、と熱望され───それでどうして、現在の場所に踏みとどまっていられるのだろう?
瓜子など、いきなり親もとから引き離されただけで、迷妄の真っ只中に突き落とされてしまったというのに。
「どうしても何も、プロファイターになるのがユーリの悲願だったんだもん。夢がかなってまだ一年ちょいしか経ってないのに、そんなあっさり引退する気になれるわけがないじゃん」
歩きながら、ユーリはそう言った。
サングラスのせいで目もとはよく見えないが、口もとはにこやかに笑っている。
「スカウトされて、家を飛び出して、プロダクションのお世話になって、こんな自分にも価値はあるんだ、かわゆいアイドルになって世間を見返したるぞぉ! って、生まれて初めて人生の目標ができて……そんで、一年ぐらいでころっと挫折して。この先どーやって生きていけばいいのかもわかんなくなったとき、ユーリはベル様のドキュメント番組を観たのさぁ」
「ベル様って……あの、リビングに貼ってあるポスターの選手っすね?」
「そう、ベリーニャ・ジルベルト! ジルベルト柔術の創始者ルイス・ジルベルトの曾孫で、女子格闘技界の絶対王者! デビュー以来ほとんど負けなしの世界チャンピオンなのに、すっごい可愛くて、すっごいスタイルもよくて、本業は道場のコーチなんだけど、ときどきモデルの仕事もやってて、なんとハリウッド映画に準主役で出演したこともあるぐらいなんだよ! ……そのベル様が、ユーリの憧れなの」
たぶんユーリは、うっとりとまぶたを閉ざしている。
その幼い少女みたいな横顔を見つめながら、瓜子はわけのわからぬ鈍痛のようなものを胸の奥に感じた。
「で、ベル様がその番組で言ってたの。自分は物心がつく前から柔術の稽古をしていた。だけど兄たちには全然かなわなかった。……ほら、ブラジルの人って、産めよ増やせよ地に満ちよ、ってな感じで子沢山でしょ? ベル様には五人もお兄ちゃんがいて、それもみーんな柔術の選手だったのね。で、小さい頃から稽古してたけど、身体も大きくてキャリアも長いお兄ちゃんたちには、なかなか勝てなかったんだって。それが悔しくて、毎日毎日稽古して、どんなに苦しくってもお兄ちゃんたちに勝つまではやめられないって、血のにじむような努力を続けて……それで気づいたら、女子格闘技界のチャンピオンになっちゃってたんだって! すごいよねぇ?」
「……はあ」
「流した血と汗は嘘をつかない。自分は柔術をやるために生まれてきた。挫折と敗北感にまみれた半生だったけど、それでも自分はジルベルト家に生まれてきたことを神に感謝している。そして五人の兄を超える日が来るまで、自分はファイトし続ける。……《スラッシュ》の無差別級トーナメントで初優勝したとき、ベル様はそんな風に答えててね、ユーリはなんだか涙が止まらなかったの! うらやましくって、悔しくて、何もできない自分が情けなくて……それで、ベル様みたいになりたい! って思ったんだよ」
てくてくと歩きながら、ユーリの言葉はいつまでも止まらなかった。
「弱いなら、強くなればいい。アイドルとか芸能人とかは何をどう頑張ればいいのか全然わかんなかったけど、格闘技だったら、ひたすら稽古すればいいんだ! って。そんな単純なもんじゃねーよってサキたんには罵倒されちゃうけど、ユーリは考えたりするの苦手だから、強くなりたいっていうわかりやすい目標と、へとへとになるまで稽古を頑張ればいいっていうわかりやすい努力の仕方が、すっごく性に合ってたんだよぉ」
もともとおしゃべりそうな娘ではあったが、それでもユーリがこれほど熱っぽく語る姿は初めて見た。
ユーリはきっと、本音で語っているのだ。
昨晩出会ったばかりの、ユーリの行動を否定ばかりしている、瓜子に。
瓜子は正体不明の息苦しさを感じながら、ぐっと唇を噛みしめた。
「自分は……ユーリさんを見てるのが、つらいっす」
「うにゅ? どうしてさぁ? ユーリが何か、うり坊ちゃんを不愉快にさせるようなことをしちゃったかなぁ?」
「不愉快っていうか……正直、自分はユーリさんのことを、アイドルが片手間で《アトミック・ガールズ》に参戦してるって思ってたんですよ」
「うんうん。よく言われるよぉ。何せ全然勝てないもんだから、真面目にお稽古してないと思われちゃうんだろうねぇ」
そう、瓜子もそのように思っていた。
どう見ても真面目にトレーニングをしている身体には見えないし、外見通りにユーリは弱い。それでもファンからの人気は絶大だし、格闘技に興味などなかった一般層の目を向けさせる役にも立っている。だから、いわゆる客寄せパンダとして《アトミック・ガールズ》の首脳陣もこの不真面目そうな選手の在籍を許しているのだろう───瓜子は、そんな風に考えていたのだ。
しかし、わずか一日足らず行動をともにしただけで、瓜子の認識はひっくり返されてしまった。
美しいフォームの、ハイキック。
お笑い芸人をあっさりと返り討ちにした、柔術選手顔負けのサブミッション。
あれは、アイドルが片手間でできるような芸当ではない。
そして、自宅のリビングに敷きつめられたスパーリング用のマット。
わざわざ道場から不要品を拝借してきたという、エアロバイクやバーベルのセット。
サキの指導による、時間外のトレーニング。
ユーリは、きちんと稽古をこなしているのだ。
そのわりにはふよふよとやわらかい身体をしているが、筋肉のつきにくい人間はいる。脂肪の落ちにくい人間もいる。女ならば、なおさらだ。
ユーリはきっと、人並み以上のトレーニングをしている。人並み以上の情熱も持っている。彼女の言葉を信じるならば、莫大な借金を抱えるリスクまで犯して、ようやく踏み入ることのできた格闘家としての人生なのだ。人並み以上の情熱を持っていないわけがない。
しかし、それでも勝てないのだ。
その運命の理不尽さにこそ、瓜子は息苦しくなっているのかもしれなかった。
「ユーリがどれほど真面目に稽古に取り組んでいるかは、これからイヤってほど見せつけてあげるよん。ほら、赤坂駅が見えてきた! ……ね、うり坊ちゃんはこの後どうするの?」
「どうするって……仕事が終わりなら、先にマンションに戻ってますよ」
「うにゅ? キックのトレーニングは?」
「……コーチが解雇されて以来、品川MAには行ってません。新しいコーチに指導され始めたら、よけい移籍の話がしづらくなっちゃいますから。……あ、申し訳ないっすけど、あのマンションのトレーニング機器をお借りしてもいいっすか?」
「ええ? ひとりで筋トレ? そんなの全然楽しくないじゃん!」
通行人の耳もはばからずに大きな声あげつつ、ユーリがくるりと瓜子を振り返る。
「だったら、プレスマンでお稽古しようよ。ユーリで良かったら、寝技の基礎を教えてあげるよん」
「……どうしてっすか?」
驚く瓜子の姿を見返しながら、ユーリは不思議そうに小首を傾げる。
「だってうり坊ちゃん、MMAでもデビューを目指してるんでしょ? 寝技が楽しいか楽しくないか、実際にやってみなくちゃわからないじゃん。夕方はビギナーコースの稽古時間でコーチたちは相手をしてくれないし、サキたんはおでこがあんなだから、実はユーリもトレーニングパートナーが欲しかったところなのだよ」
「…………」
「寝技は楽しいよぉ? サキたんはもっと立ち技を磨けってうるさいけど、ユーリはベル様みたいなグラップラーを目指してるんだから、もっともっと寝技を極めていきたいのさぁ!」
ユーリは相変わらず、楽しそうに笑っている。
瓜子には、もはやかける言葉も見つからなかった。
すべての人間が結果を出せるわけではない。すべての人間が、そのベル様とかいう選手のように栄光をつかめるわけではない。そんな容易いものではないからこそ、その場所には価値があるのだ。
しかし───どんなに才能のない人間でも、夢を見る資格はある。
資格だけは、ある。
その平等さこそが、よりいっそうの悲劇や絶望を生み出すのかもしれない。瓜子はガラにもなく、そんなことまで考えてしまった。
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