第4話 復活
来る日も来る日も、彼は絵を書き続けた。今まで私はこんなにも真剣にカンバスに向かい続けた事があっただろうか・・・。その様に自問してしまうくらい、彼は真剣に絵を書き続けた。そして、出来上がった作品は今までにない大作だ。
彼は描き終わると、早速、村長にこの絵を寄贈したいと話に行った。
「先生、いらっしゃい。今日は何の御用ですか?」
「はい、実は新しい絵が出来上がったので、絵を掛け替えたいのですが・・・」
「うーん、困りましたなあ」
村長は腕組みをして考え込んでしまった。
「どうかしましたか?」
村長は少し困惑気味の顔で、話し始めた。
「実はですねぇ・・・」
とその時、徳さんが部屋に入ってきた。
「村長、話すよりも実際を見てもらいましょうよ。恐らく今日も来るから」
「そうだな」
一体何のことなのか。東には全く、意味が分からない。
時計が十時を指した時、徳が村長室のドアを軽く開き、外の様子をうかがった。
「ほら、おいでなすった。先生覗いてごらん」
徳さんに促され、ドアの隙間から外を見て、東は驚いた。なんと、百合が彼の絵の前に立って、ジッと絵を見つめている。
「あの子はね、先生の絵を見ていると、子供の頃の色んな思い出が浮かんできて、楽しくなるんだそうだ。でも先生に嫌われちゃったから、もうアトリエには行けないって、毎日のようにあの絵を見に来てるんだよ」
「べ、別に嫌いになった訳じゃありません。彼女には立派な職業がある。しかし私はしがない貧乏絵描きです。私には彼女を養っていく力がないんです。いや逆に苦労をかけてしまう・・・だから・・・」
徳さんは、少し苛立った顔で、東を睨みつけた。
「先生、あの子は先生と先生の絵が好きなんだそうだ。それ以上の何が必要なのかね。苦労なんて何とも思わない、そんな子を見捨てて、あんた本当に男なのかね」
今までにない徳の迫力に、東はたじろいだ。しかし、どうすれば良いのが全く分からない。
「先生、あんた、あの子が嫌いなのかい?」
「いや、別に嫌いなわけではないけど・・・」
「好きなのかい、嫌いなのかい。ハッキリしなさい。男でしょう」
「どちらかというと、好きです」
「どちらかというとではなく、好きなんでしょ」
「あ、はい、好きです」
「じゃあ、声をかけてあげなさいな」
徳さんはドアを開け、東の背中を思いっきり押して、外に追い出した。その音を聞いて、振り向いた百合が、驚いて硬直している。全く予期せぬ出来事だったのだろう。声も出せずに、ただ東の顔をジッと見つめている。
「ゆ、百合さん・・・」
「東さん・・・、ごめんなさい、私、帰ります」
「ま、待って。僕の絵を見に来てくれませんか。新しい絵が完成したんです」
殆ど勢いで出た言葉。しかし、その言葉を聞いた百合は嬉しそうに「はい」と返事をしていた。お金があるとか、ないとかじゃないんだ。自分の絵をこんなにも愛してくれている。その人を大事に出来ないなら、絵描きをやめた方が良いのかもしれない。徳さんの言う通りだ。人には必ず沿うべき相手が居るのかも知れない。しかし、今までの彼ならば、添い遂げるべき人がいたとしても、見逃していたかもしれない。村の人たちが彼の背中を押してくれたからこそ、その相手を見つけ出すことができたのだ。そんな思いが彼の心の中に充満していった。
二人は役場を出て、アトリエに向かい歩き始めた。そんな二人を窓から見つめる二つの影。村長と徳さんは如何にも満足げな表情で、二人の歩く姿を窓越しに見つめていた。
「流石は世話焼き徳さんだ。良かった良かった」
「幼い頃から知っている百合チャンの哀しむ顔を見たくなかっただけだよ」
「そうだな」
友達も居ないのに、いつも元気で明るく振る舞っていた百合。彼女は、最後の最後まで、この村を愛してくれていた。それだけに、村長も徳さんも彼女を応援していたのだ。
「百合さん、済まなかった。君を傷つけてしまって」
アトリエに帰ると、東は百合に頭を下げた。結局、自分の劣等感が百合を傷つけたと思ったら彼は謝らずにはいられなかったのだ。すると、百合はニッコリと笑顔を作り、首を小さく横に振った。
「いいんです。私が東さんの気持ちを逆なでしてたんですから。でも、私、決して裕福でもなんでもないんですよ。一人で生活できるだけの稼ぎがあるだけですから」
「だけど、その世界では有名なんですよね」
「この世界は名前だけでは食べていけないんです。だから、小物をネット販売して、なんとか生計を保ってるんです。それに流行りものですから、飽きられたら終わりなんです。今は流行っているから生活できているけど、いつ廃れるかは誰にも分からないんです」
なる程、言われてみれば、そうかも知れない。
「しかし、それに輪をかけて、もっと大変な思いをしなくても、まだ他に沢山素敵な人が居るでしょう」
「私の願いはただ一つ。この生まれ育った村で、自然と触れながら生活がしたいんです。私には都会の生活は合わないんです。小さいときから村の大人たちと接して、畑仕事や家事を手伝ってきました。だからこの村の生活が体に刷り込まれて居るのかも知れません。両親も町の暮らしに馴染めず、はじめの頃は大分苦労したようです。最近では又村に戻りたいなあ、なんて時折話をしています」
「もう一つお聞きしても良いですか。私は四十歳を過ぎています。貴女とは十歳以上離れているんですが、それは気にならないのですか」
「人に興味を持ったり、好きになるのは歳の差なんて関係ないですよね。私、東さんは素敵な方だと思ってますし、この村で生活しようとしているあなたに憧れさえ感じてるんです」
「ありがとう、とても嬉しいです。今の私には、貴女にしてあげられる事は何もないけど、それでもお付き合いしていただけますか」
「はい、喜んで。東さん、私の願いを聞いてくださいますか」
「何でしょう」
「是非一度展覧会に作品を出品してください。私は、自分の美的センスを養うために、美術館に絵を見に行くこともあります。東さんの作品は、負けてないと思うんです。素人が何をと、思うかも知れませんが・・・」
清は意を決したのか、森で二人が出会った時のように、明るい笑顔で彼女を見つめた。確かに絵を評価するのはプロだが、絵を気に入って購入してくれるのは素人なのだ。だとすれば百合の言葉は、東にとってなによりもの味方ではないか。
「やってみましょう。どうせだから、来年の国内最高峰の展覧会に出品しちゃおう。駄目で元々なら一番でかい展覧会に出品する方がやりがいがある」
百合には東の生き生きとした姿が、とても眩しく見えた。
「もしもヌードモデルが必要ならば、私を使ってください」
「どの様な作品を描くかは、まだ分からないけど、先ずは色々試してみなくてはです。良かったら写生に行くときは付き合って下さいますか?」
「よろこんでお付き合いさせていただきます」
百合はとても嬉しそうだ。そんな彼女の姿を見ていると、東もとても嬉しく感じた。とにかく、自分の絵をこんななも愛してくれている彼女のためにも、何としても今の自分にとって最高の絵を描かなくては・・・。そんな思いが沸々と湧き上がってくるのだ。今ならば、本当に良い作品が描けるかも知れない。
「東さん、もう一つお願いして良いですか」
「ん、何でしょう」
百合はにっこりと微笑みながら、少し俯いて、上目遣いに東を見つめている。
「このアトリエの模様替えさせてもらって良いですか。私が感じる東さんのイメージに変えてみたいんですけど・・・。全部私の手作業でやりますから、お金はかかりませんよ」
「ああ、貴女にお任せしますよ」
翌日から、百合は室内の模様替えを始めた。とはいっても、そんなに大々的なものではない。室内の壁の色をかえたり、カーテンを新しくしたり、要は全体的な部屋の色を白を基調とした配色に変更したのだ。とはいえ、それだけでも部屋の雰囲気はガラッと変わった。
「ちょっと変えるだけで、こんなにも違うんですね」
東は驚嘆している。と同時に何となく恥ずかしそうだ。
「どうしました?」
「いやね、私は画家の癖に、今まで部屋の事には無頓着すぎたようです。色には力がある筈なのに、そんな事お構いなしにいたなんて・・・」
百合が部屋を白く統一したのは、新しく第一歩を踏み出すのに、過去の色にとらわれず、真っ白からスタートして欲しいとの意味合いだったのだ。そして、その思いを東は感じ取ったのだろう。彼の言葉は素直な感想だった。
「さて部屋も綺麗になったし、明日はスケッチに行こう。百合さん、都合は如何ですか」
「はい、行きます。それから、部屋を一つ私の作業所にしても良いですか。そうすれば、いつでも一緒に行動できるから」
「それは構いませんよ。この建物は元々私の物ではありませんから」
百合は一旦家に戻り、沢山の荷物を持って帰ってきた。
「結構な荷物だね。整理するのを手伝いますよ」
「ありがとうございます。でもすぐ片付きますから、それに東さんも明日の準備があるんじゃないですか」
「大丈夫。僕はスケッチブックと色鉛筆があればいいんですから」
「あとはお弁当ね。明日は私が作りますね」
二人はまだ出会ってから間もないというのに、その雰囲気は既に何ヶ月も付き合っているかのようだ。百合も嬉しくって、作業場の整理をしながら、ついつい鼻歌がでてしまう。
そんな百合を微笑ましく見つめながら、東は彼女のデッサンをしている。どういう作品を制作するか、まだハッキリとイメージが湧かないので、取り合えずは、どの様な場面でもスケッチブックに残しておきたいのだ。
「東さん、ポーズが必要ならいつでも言ってくださいね。動きを止めますから」
「大丈夫です。自然にしていてください。それが一番なんです」
「そうですか?。私必要とあらば、裸でも何でも注文通りにする覚悟はありますよ」
「その気持ちだけ戴いておきます」
部屋に二人の笑い声がこだました。結局、その日は百合は作業場を整え、夕飯を一緒にとった後、帰宅していった。
翌朝、東が目覚めると、既に百合が来ており、朝食の支度をしている。「早いね」と東が声をかけると、百合はにこやかに微笑んだ。
「おはようございます。今日は徳さんに朝食の支度を私がしますって言ってきたので、頑張っちゃいます」
「そうですか、じゃあ頑張ってもらっちゃいます」
今日も又、二人の楽しい一日が始まろうとしている。東は四十数年間、こんなにもワクワクしながら朝を迎えたことはなかった。とにかく、彼の目に映る風景は、全て新鮮で、吸っている空気さえも、昨日までとは全く違うような気がするのだ。
「村の東側の森の中に流れる小川を知ってますか」
東が百合に訊ねた。
「子供の頃、父と休みの日によく行きました。森で迷子になったら、この小川に沿って流れる方向に歩いていけば、村に帰れるんだよって父に教わったんです」
「なる程、それは間違いがなくて分かりやすいですね。今日はその小川に沿って森の中に行きましょう」
「はい、懐かしいわぁ」
百合は、まるで子供のように燥いでいる。第一、東は朝食の時にこの様な弾んだ会話ができるなんて夢にも思ってなかった。つまり、このシチュエーションだけでも、彼の人生の中で十大ニュースの一つなのだ。
二人は楽しく朝食を済ませ、早速森へと向かった。森の入り口までは百合の車で行き、そこから歩いて中に入る。ブナやナラの木が鬱蒼と生い茂った中に、幅五メートル程の小川が流れている。川岸は大小の砂利が川の両側に三メートル位の幅であり、上流はずっと北の山に向かっている。
「東さん、この先に小さな滝が有るのをご存知ですか」
「いや、知らなかった。滝が有るんですか」
「はい、私が一番好きなところなんです。滝と言っても高さが人の背丈位しかなくて、大きな丸い岩肌に沿って川の水が、白く泡をたてながら流れ落ちているんですけどね」
「なる程、じゃあ今日のスケッチは其処にしましょう」
三十分程歩いていくと、森の先が少し明るく見え始めた。太陽の光が反射しているのだろうか、周りの木々が、その光を浴びてきらきらしている。
「凄い、まるで羽衣のようだ。美しいですね」
「でしょ」
百合は靴を脱ぎ、裸足になって川の中に足を入れた。
「つめたーい」
「百合さん、自由に遊んでいて下さい。僕はスケッチをしてますから」
まるで、百合の姿は森に遊ぶ妖精のようだった。自然の中で、自由に戯れる妖精。
「そうだ、これでいこう」
「どうしたんですか」
「テーマが決まったんです」
「えっ」
「モデルは百合さんです」
「私を描くんですか」
「はい、この森の中で自由に戯れる貴女を描くんです。タイトルは『森に戯れる妖精』です。だから私の前で自由に振る舞っていてください」
「はい」
百合は本当に自由奔放に振る舞っていた。滝の飛沫が日差しを反射して、彼女を輝かせているだけではなく、彼女自身が自然と調和して輝いているのだ。東はそんな彼女の姿を追いかけながら、もしかすると、彼女は本当に妖精なのかも知れないと感じてしまうほどだった。東は描いていくうちに段々と不安になってきた。
ふと、百合が東のスケッチを覗きに来た時、彼は思わず立ち上がり、百合を強く抱きしめてしまった。急の事で驚いた彼女は、東の胸の中で声をあげた。
「東さん、苦しい、どうしたんですか」
ハッと我に返り、彼は顔を真っ赤にしている。
「ご、ごめんなさい。百合さんが本当に森の妖精に見えてしまって、なんだか自然の中に溶け込んで、消えて居なくなりそうな気がしちゃって・・・。それで今のうちに捕まえておかなくっちゃって・・・。あとは夢中でした」
そう言ったとき、今度は百合が東に抱きついた。
「大丈夫ですよ。私は東さんが私を嫌いにならない限り、ずっと貴方の前から居なくなりませんから」
「もし許されるなら、一緒に住みませんか、あの廃校に」
東からの申し出を百合は素直に受け入れた。
「しかし、あくまでも共同生活です。僕の作品が展覧会で入選したら、その時改めてプロポーズをさせてください」
「はい、でも、入選に拘らないでくださいね。私はいつでも貴方の申し出を受ける準備がありますから」
お互いの心は、結ばれている。しかし、先ずは作品を手掛けることを優先させたい。何故ならば、今の自分の想いを全て作品の中に表現することが、自分を想ってくれる百合への答えになるような気がするからなのだ。
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