フルーツタルトと恋する絵筆(その二)
「ダメだ」
奥さん本人が断りの言葉を言うよりも、「のばら」の従業員たちが驚きの声をあげるよりも、そして客たちがココの提案に賛同するよりなにより早く、店主がはっきりと短く拒否を告げる。
それはまさしく電光石火であった。
しかし、ココもココで、はいそうですかと素直に引き下がるようなやわな神経は持ち合わせていない。
客たちの期待のまなざしを援護射撃としてずいぶんと食い下がっていたのだが、
「理由そのいちとして店のほうが忙しくてそれどころじゃないということ。次に理由そのには私たちの貴重な余暇を奪う権利がキミたちにはないということ。そして理由そのさんとして――」
店主の青い瞳が、鋭く冷たく、よく磨かれた刃のように光る。
「私たちは、肖像画に描かれるつもりはないのだということ」
店主のあまりにも冷ややかで攻撃的ともとれる態度に、客はもちろん、従業員までもが、どうすればいいのかとたじろいでいる状態だ。
それほどまでにこの店主は絵が嫌いなのだろうか? とカルダーは思ったが、「のばら」の店内にはいくつか額入りの小さな絵が壁にかけられている。絵そのものが嫌い、と言うわけではないのだろう。
では肖像画だけを特別嫌っているのか――
カルダーがそんなことを凍り付いた空間で動けないままに思っていると、くつくつくつ、と抑えているのだろう笑い声がする。
一体誰が
「あはははははははははははは!」
凍てつく空間を溶かす、いや吹き飛ばすかのような、ばかに明るい笑い声は店主自らのもの。
「はは! 私の大事な大切な愛しの麗しの奥さんの姿をそんな簡単に描かせるとおもわないでほしいなぁ!」
あははははははは、となおも笑う店主。
その様子に、動けずに言葉も出せずにいた客や従業員もつられて笑い、
「店主さんは本当もう奥さんに惚れすぎだっつーの!」
「いやまったくお熱いことで、羨ましい」
と、口々に店主と奥さんの熱々っぷりをからかい、
そうして、「奥さんをモデルに絵を描く」と言う話はこれでお流れになったのであった。
「むー、むー、むー、むー、むー」
せっかくの色とりどりの宝石のような美しいフルーツタルトに手も付けずに、テーブルに突っ伏して謎の鳴き声をあげ、むくれているらしい姉ココ。
確かに、これまでに「のばら」の奥さんほどの美しいひとは見かけたことがないし、これからも見かけるとは思えない。美人画のモデルとしてはこれ以上ないほどに適していると言える。
しかし、旦那さんがあの態度だし、奥さん本人も乗り気ではなさそうだし、なによりもうこの場はそんな空気ではなく、そのような流れも来ていない。
浮世離れしているように見えるココにもそれぐらいは理解できるようだった。
喫茶「のばら」は、すっかりいつものまったりとした空気である。午後のお茶の時間が近いこともあり、結構な人の入りだ。
今も、入店してきたまっすぐな黒髪の娘が、同じく黒髪の給仕にカウンター席へ案内されている。
「姉さん、さっきの美人画の話だけど、俺はやっぱり風景画一本で」
「ダメ」
姉は突っ伏したままで、カルダーの意見をぴしゃりとはねつけてしまう。
「ダメだよ、カルダー、美人画を描きなさい。これはね、勉強、学習、修行、経験を積む、そういうものなのだよ。もしも、ここで風景画一本で行くのならば」
そこで姉は首をちょっと動かし、目線を合わせてくる。
「きみは生涯、画家として食べていけることはないだろうね」
「……っ!」
「絵筆に色気を宿しなさい。そのためにも美人画を描きなさい。姉に言われるのが嫌なんだったら、きみの最初の、そして現在のところ唯一なパトロンとして口を出させてもらうよ。つべこべ言わずに美人画を描け」
「……パトロン、か」
「そうだよ、きみを金銭的に支援している以上、私はきみのパトロンと言うやつだよね?」
「そりゃ、かなわないなぁ」
カルダーは溜息をつきながらデザート用のフォークを手に取り、自分の皿のフルーツタルトをひとくち分取り分ける。
卵をたっぷりつかわれているらしいカスタードクリームの上から苺がすべり落ちそうになっているところを、あわてて口に放り込む。
かみしめるまでもなく、とろけるように甘くて、さわやかに甘酸っぱくて、はっきりいって、美味いのがわかる。
このタルトのどこにも、カルダーの人生のように苦く、不味く、不出来なところなど見つからない。
「わかったよ、姉さん。俺は美人画を描くよ」
「さて、さて、さて」
カルダーが承諾したことで気を取り直したのか、それともようやくおなかに空きスペースができたのか、ココはやっとフルーツタルトにぱくつきながら次なる手を考えているようだった。
「さぁて! 弟よ、美人画を描くということで、アレだ、モデルが必要なんだが」
「ここの奥さんはダメだからね」
「わかっている、わかっているよ、さすがにわかっている、あれは触れてはいけない領域――アンタッチャブル――というやつだったと理解できたよ。私がうかつ過ぎだったよ」
前半はともかく、後半のつぶやきはよく意味がわからなかった。
優れた芸術家がよく行うとされる、他人に意味が解らないような奇妙奇天烈な言動はココもよくやるので、まぁいちいち気にしていたらやってられない。
「あぁ、給仕のお嬢さん、今度はシナモンチャイティーを貰えるかな。二人ぶんね。それで……だな、我が弟」
姉はコホンとわざとらしい咳払いをして
「カルダーよ、きみは親しい女性とかはいないのかな?」
「いない」
ほとんど条件反射的に、姉の言葉が終わるか終わらないかのうちに、返答をする。
わざわざ思い返すまでもなく、カルダーに親密な女性などいない。それでもどうしても何が何でも親しい女性の名を挙げろといわれたら、真っ先に姉のココが出てくる。ちなみにその次に来ているのは自分の母親という悲しみである。
「わかってはいたけど、けど、いくらなんでも否定完了が早すぎるよ……では、親密な仲になりたいときみが思っているような女性は、いないのかな?」
「…………いない」
今度は先ほどのように即座に返答はできず、かなり間をおいてからようやく言葉がでてきた。
「ふぅん?」
姉は、座ったままで両手を腰に当て、ぐるり、と店内を見回す。
「それじゃ、適正な報酬でもって誰かにお願いするしかないね」
「誰かって、誰だい」
「こういう規模の街では専門の絵画モデルを職業にしているご婦人はいそうにはないし。となると“そういうお店”にいくのが手っ取り早くはあるのだよね」
後半は、もちろんカルダーにしか聞こえないように声量を抑えている。とはいえ、こんなまだまだ明るい時間に、こんな誰が聞いているかもわからないような場所で、しかも姉と弟でする話ではない。
「きみはそういうのは、好みじゃなさそうだねぇ」
どうやらカルダーは相当渋い表情になっていたらしい、ココの方でもからかってくるわけでもなかった。そうして今の案は粛々と却下となる。
「まぁ、それほど深く考えなくとも大丈夫だよ。たとえば――」
ココは、短く切ってある金の髪を揺らしてカウンター席を見る。
「たとえばほら、あそこで本を読んでいる黒髪の娘さんにお願いするとか」
「!」
してやられた。
それが現在のカルダーの心情だった。
姉は黒髪の彼女が入店してくるのを、そしてその姿をカルダーが視線で追い、その後もちらちらと眺めていたのを、しっかりと分かっていたのだ。
……ほんの一瞬だけ、姉が心を読む魔法か何かを使ったのではないかと疑ってしまったが。
大陸東方の血が混ざっているのだろうと推測できる真っ直ぐの黒髪が美しい十五歳か十六歳ぐらいの少女。
この喫茶「のばら」には不定期に訪れていて、それは常連と言っていい頻度であるということ。
注文はいつも決まって、シナモンチャイティーとスコーンであるということ。
この店に来るのはどうやら、本棚にある書物を読むことをお目当てとしているらしいこと。
たまに友人らしき同年代の少女と一緒に来店していて、その少女からはルリエラという名でよばれていること。
それに、彼女が熱心に本を読みふける横顔が、とても美しいこと。
以上が、カルダーが“黒髪の娘さん”について知る情報のすべてであった。
つい、今の今までは、それだけだった。
だが、現在進行形で彼女の隣の席に姉のココが座って、次々に彼女の情報を聞き出している。
名前はやはりルリエラということ、年齢は十五歳だということ、本がとても好きだということ。その他にも彼女の家が街のどのあたりにあるのか、家族構成や、父親の仕事の内容といった情報までも、姉はきれいに巻かれた毛糸玉から毛糸を引っぱるかのように容易なことであるかのように、引き出していく。
「へぇ、ルリエラちゃんのひいおばあさまは大陸の東方から来たひとだったのか」
「えぇ……父方の曽祖母になります。私は親戚のなかでいちばん曽祖母にそっくりみたいで、よく祖父からは――」
それにしても、姉が優れているのは頭のよさや武術の腕前だけじゃなく、話術までも守備範囲とは。なんとなくはわかっていたが、こうもその手腕を目の当たりにするともはや嫉妬も羨望もなにもかも通り越してただ呆れるしか、ない。
「それでね、ルリエラちゃん。うちの弟も画家なんだけどね、貧乏画家だしろくにモデルになってくれる人も雇えなくてねぇ。情けない話なんだけどさ」
ココの指がテーブル席に残っていたカルダーを示した。
それにつられてルリエラが、カルダーを見て……青色がかったグレーの瞳でしばらく見つめる。
ゆっくりと瞬きをして、それから一言。
「あまり似てない弟さんなのですね?」
とりあえず、ルリエラは絵のモデルになることに関しては、家族に相談してみます、ということだった。
まっとうなお家のちゃんとしたお嬢さんがいきなり家族の承諾も無しに、いかにもあやしげで、しかも妙に体格のいい年上の男である画家の雇われモデルになる、というのはまぁ最初から無理がある。とりあえず本人は前向きに検討してくれているので、あとはルリエラの家族がなんと言うか、にかかっていた。
家族から承諾がもらえたら、明日も喫茶「のばら」に来るということになっている。
カウンターでティーカップを磨いていた店主が、それならこの店でスケッチをするといい、と申し出てくれたのである。
たしかに、いきなりカルダーの自宅に未婚の若いお嬢さんをつれこむことは、彼女に相当寛大な家族がいたとしても、無理がある話だったので、これはありがたいことだった。
「明日、か」
「なんだい我が弟カルダーよ、明日が待ちきれないのかい?」
日も暮れてしまい、月星が輝きだしているような空になってしまったので、一応の女性である姉ココを宿泊中の宿まで送っていると、つい言葉がこぼれてきた。それが聞こえたらしい姉は、そうすることが当然でありそしてまるで義務でもあるかのように弟をからかってくる。
「……んー」
「ん?」
「そうだね、待ちきれない。姉さんのおかげだよ、ありがとう」
「おやおや、やけに素直じゃないか。昼食後のきみとはまるで別人のようだよ」
次の日
喫茶「のばら」の開店直後から姉弟は待ち構えていた。
姉は、ルリエラがいつも来るのは昼食時間のあとだという情報を得ていたので、そのぐらいの時間までに行けばいいと思っていたらしい。
だが待ちきれないカルダーが姉の宿泊している宿の部屋におしかけてきたのでゆっくりのんびりと眠っているわけにもいかなくなってしまったのだった。
あくびを噛み殺しながら、ココはメニューを給仕の娘から受け取る。
「やれやれ、長期戦になりそうかなぁ」
そういって、朝食ということで野菜のサンドイッチと紅茶をストレートで濃いめに飲める銘柄をたずねて注文していた。
だが、ココの予想は外れることとなる。
ココがのんびりとサンドイッチを食べ終わったころに、ルリエラが店のドアを開けて現れたのだった。
ルリエラはひとりではなく、白髪の老人と一緒であった。どうもこの老人は彼女の血縁者……おそらくは祖父、ではないだろうか。
わざわざ家族を、それも家庭内でトップかそれに近いだろう権限をもっていると思われる祖父を連れてきた。とすると、この件はあっけなく断られてしまうのだろうか。
カルダーがそう考えている間に、ココはルリエラと、白髪の老人と挨拶を交わしていた。
白髪の老人はやはり、ルリエラの祖父にあたる人物でまちがいないようだった。
髪と同様に真っ白いふさふさとした眉と眉との間には、おそろしく深いしわが何本かよっている。いかにもな厳格そうな人物だ。
カルダーとココと同じテーブルの席に二人は座って、そしてルリエラがもうこれ以上は1秒たりとも耐えきれないとでもいうように口を開く。
「ココさん、それにカルダーさん。今回のこと家族のゆるしがでました。よろしくおねがいしますね」
「あぁ、やはりだめで……って、ん? ……ん?」
「……カルダー、話はちゃんと落ち着いて聞くんだね」
やれやれと、わざとらしくココが溜息をつく。
ルリエラの祖父は、かっかっかっと遠慮のない笑い声をたてている。その笑顔は意外と茶目っ気がある、といえなくもない。
「わしのようなのが来たので、断られるとおもってセリフを準備しとったのか」
「……って、え、あの、いい、のかな?」
「カルダー君や、少しだけ聞いてくれるかな。わしはな、若いころ画家になりたかったのだよ」
ぽつり、ぽつりと、老人が話し始める。
「しかし、自分にはこれといって絵の才能は無かった。根性も無かった。成人して親の決めた仕事をして、なんとなく生きてきた。通せるだけの意地すらも持ってはいなかったのだ」
「……」
「そんなわしではあるが、どうやら意地を通して生きているらしい君と、お近づきになりたい」
と、カルダーに向かってしわだらけの大きな右手を差し伸べる。一瞬困惑しそうになったが、きちんとその手を握り返すことができた。
ぎゅっと握手を交わしてから老人は満足そうに笑い
「というわけでわしと君はお近づきになった。いわば友人だ。友人がわしの孫ルリエラの絵を描いてくれるというのなら、大歓迎だよ」
「……ありがとうございます!」
カルダーは礼の言葉とともに、深々と頭をさげようとした、のだが、座ったままであったために、テーブルにしたたか頭をうちつけてしまう。
だぁんっ! と言う音が店内に響いて、なんだなんだと、客たちが好奇の目で見てきていた。
「それじゃ、よろしくおねがいするよ」
「はい、よろしくお願いしますね」
カウンター席で、椅子をひとつ間にはさんで座り、ぺこり、ぺこりと、カルダーとルリエラはお互いに小さく礼をする。
ルリエラの手には書物。カルダーの手には紙を何枚も束ねたものと、木炭の筆。
絵のモデルと言っても、ルリエラには基本的に自由にしていてかまわないと言ってある。すると彼女はすぐに店の本棚から本を数冊持ってきたのだ。
ルリエラが、本を開いて読み始める。
その顔は、まさしくカルダーがいちばん好きな表情だった。
カルダーは紙の上で木炭筆を踊らせ始めた。
これが のちの世に 「美人画の巨匠」と畏敬と尊敬の念を込めてよばれる画家の「最初の一枚」とされる絵であった。
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