第2話

 そして、君と賭けをしてからちょうど三ヶ月経った日の夜、君から電話がかかったときは本当に驚いたよ。

 僕たちは携帯番号を教え合うほどには親しくなかった。きっと、クラスの連絡網から家の番号を調べたんだね。

 受話器から聞こえてきた君の声は少し遠くて、少し懐かしかった。

「もしもし、遅くにごめんね」

「ああ……構わないよ」

 それ以外の言葉は出てこなかった。

 聞きたいことはいろいろあって言いたいこともあったけど、なんだか胸が詰まってしまって、平静を装うのが精一杯だった。

「どうしてもお礼が言いたくて」

「お礼? 僕に?」

「うん」

「なんだろう。礼を言われるようなことはしてないけど――」

「今も、何も聞かないでいてくれてるし。ありがとう」

 君の言葉に照れ臭くなって、ぶっきらぼうに言ってみた。

「なに聞いていいのか分からないだけだよ」

 電話の向こうで君が少しだけ笑ったような気がした。

「それから……あの賭け」

「賭けって、信号の?」

「うん」

「青じゃなくて残念だったよ」

「ありがとう」

 今度は声を出して君が笑った。

 僕はなんだか幸せだった。

「あの日ね」

「うん」

「あの日……死のうと思ってたの」

「え……?」

「自殺しようって思ってた」

「…………」

 僕は、何も答えられなかった。

「夏休み直前、頭痛がして病院に行ったら、私の頭の中に小さい腫瘍ができてたの」

 君は独り言を呟くように話しはじめた。

「早期発見よね。まだすごく小さくて、この段階で見つかるのは奇跡に近いって言われて――でも、とても危険な場所だった」

 僕は思わず「そんなこと……高校生の本人に言うのか?」と聞いてしまった。普通なら、親は隠しておくんじゃないかと思ったんだ。

 君は、「実はね」と切り出した。

「私、中学のときに母を亡くして父と二人で暮らしてるの。父はどうしていいかわからなかったのね、きっと。それに、選べなかったんだと思う」

「選ぶ? 何を?」

「娘の生か死か――を」

「早期発見なら、そんな……」

「そんな簡単なことじゃなかったの」

 僕の言葉を引き継ぐように君は続けた。

「腫瘍自体は小さいんだけど、血管と神経にくっつくようにできてたの。剥ぎ取るときに少しでもそれらを傷付けたら死――よくて言語に障害が残るって」

「…………」

「手術しなければ一年もたない。しても死ぬ確率は50%、障害が残る確率は80%」

「そんなに……難しいのか」

「さあ! どうする? って言われても、私も父と同じね。選べなかった」

「……うん」

 僕だって選べない……選べないよ。

「あの日はそれを聞いた翌日で、入院するって学校に言いに行った帰りだったの」

「……うん」

 僕は君の話に頷いてばかりだったけど、他に言葉が見つからなかったんだ。

「死んでしまおうって思ってた。手術したって五分五分、障害が残ったら父に迷惑かけるし……手術せずに死を待つくらいなら、先に死んじゃおうって」

「…………」

 僕ならどうするだろうとか、そんなことは何も考えられなかった。君の考えに対して、何かを言うこともできなかった。ただ、君の話を黙って聞くことしかできなかった。

「先生には病院からの手紙を渡して、入院することを一応説明して。でも、そのときにはもう、どこで死のうかとかそんなことばかり考えてた。この学校に来るのも今日が最後だな、とか」

「……うん」

「校門を出て、最後にもう一回と思って校舎を見て。そしたら部活から帰るあなたが見えて。ジャージ姿で首にタオル巻いてて。なんだか羨ましかったの」

「羨ましい? 僕が?」

 驚いたよ。暑さと部活でへとへとで、汗まみれになって歩いてた僕なんかを、君が羨むなんて。

「私も、もう一度あの場所に戻りたいって思ったの。でも……でも……」

 君は声を詰まらせた。

 言いたいことはなんとなく分かったよ。死ぬと決めていたのに、不意に学校に戻りたいと思ってしまった君は、どうしたらいいのか分からなくなったんだね。そして、あれを思い付いたんだ。

「それで、あの賭けか……。赤ならこうする、青なら――って、自殺するかどうかを信号の色で決めてしまおうって思ったんだね」

 受話器の向こうで君は静かに泣いていた。

「ごめんなさい……あなたを利用してしまって……私……」

 君は泣きながら謝っていたね。

「いいよ、謝らなくて。何か違うって最初から分かってたから」

「え……」

「僕なんかと付き合いたいわけないって思ってたし、信号を見た君の顔でなんとなく違うって分かったから」

 君を傷つけないように言葉を選んだつもりなんだけど、なんだかひどい言い方になってしまったんじゃないかと後で反省したよ。

「……本当にごめんなさい。赤だったら自殺しよう、青だったら……とりあえず入院して……でも、手術するかどうかまでは考えてなかったの」

「それが、赤でも青でもなかった」

「うん。びっくりした……こんなことあるのかって、本当にびっくりしたの」

 あのときの君は、とても複雑な表情をしていた。

「ついてないって言ったよね」

「うん。でも、そんなことないって言ってくれたでしょ?」

「ああ、事情も知らずに……ごめんな」

「謝らないで。私、あなたの言葉で目が覚めたの」

 君はまた言葉を噛み締めるように、ゆっくりと話した。

「信号なんかで運命決めてどうするんだ――って、これで自分の意思で決められるじゃないかって、私に言ってくれて。私……あのときに決めたの」

「決めた? 何を?」

 少し間を置いたあと、君ははっきりと言った。

「生きよう、って」

 その言葉がとても力強く聞こえて、胸にズシンときたんだ。

「それじゃ……」

「あさって手術なの」

「そうか……」

「有名な先生がたまたま日本に帰ってきてて、手術してくれることになったの」

「それはよかった」

 僕は本当に、心からそう思った。

「でも、死ぬかもしれないし障害が残るかもしれない。そうなる前に、あなたにどうしてもお礼を言っておきたかったの」

「お礼って……」

「あのとき私に、私らしさを取り戻させてくれてありがとう」

「うん。そのお礼の言い方も君らしいよ」

「何よ、それ」

 君が笑ってくれた。

 僕は悲しくて切なかった。

「もしも……もしも手術が成功してあの場所へ戻ることができたら……私、真っ先にあなたに会いに行くから」

「……待ってる」

 頑張れとか、障害が残っても生きてとか言いたかったけど、君にはもうそんな言葉は必要ないと思ったから、僕は何も言わなかったんだ。

「……ありがとう。じゃ、またね」

 君は、あの日と同じ別れの挨拶をした。

「ああ、またな」

 僕も同じことを言った。

 電話は静かに切れた。



 そして――冬がきた。

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