壮大な? 結婚式

壮大な? 結婚式



 ボー先生というペンネームに変えたZ氏は、アネモネと壮大な結婚式を挙げることにした。何故壮大か? 彼らは宇宙のど真ん中で結婚式を挙げるのだ。そしてその式場は、異次元汽車の中。

 費用なんか一円もかからない。お金はかからないけれど、壮大なのだ。豪勢ではない。豪勢なんて、宇宙全体に比べたら、豆粒よりも小さい。

 異次元汽車の運転手が、車内放送で、「これより結婚式を執り行います」と宣言をした。そして、太鼓とかラッパが鳴る、派手な音楽が流れた。

 Z氏とアネモネは、腕を組んで、異次元汽車の中の通路をゆっくりと歩いた。通路の先には、ホルム博士が立っていた。

 ホルム博士はまずZ氏と握手をし、アネモネとも握手をした。

 ホルム博士はこう宣言した。

「異次元には、結婚というちゃんとした形式はありません。市役所はありますが、市役所は気まぐれです。せっかく作った書類も、鼻紙になって、クルクル丸められて、屑籠に入ることが多いです。しかし人生、杓子定規だけで生きていたら、息がつまって、それこそ自殺したくなります。異次元が最も恐れるのは、心の病と自殺です。その二つの罠にとらわれないことこそ、我々が生きている意味があります。

 とにかく楽しく踊るのです。楽しくない時も、楽しいふりをして踊るのです。そうしていれば、いつしか心は楽しくなります。

 ボー先生、アネモネさん、あなたたちは楽しいですか?」

「楽しいですわ」とアネモネはすぐに答えた。

 しかしZ氏は、簡単に楽しいとは言えなかった。

「うん、分かります、分かります」と言って、ホルム博士はZ氏の肩を軽く叩いた。

「地球上の世界は、異次元のように甘くはないのでしょう。何事も、規則規則で縛られて、あなたは、一人前の社会人として振る舞わなければならない。そのプレッシャーに押しつぶされているのですね」

「よくお分かりですね」と言って、Z氏はすがりつくような目をして、ホルム博士を見た。

「博士のおっしゃるように、少しだけ働こうと思って仕事に就いたのですが、少しだけでも、仕事は大変です。ぼくはもう、地球上よりも、この異次元で暮らしたいです」

「仕事が厳しいのなら、そこの仕事はやめればいい。何もそこだけが世界ではないのですから」

「そんなに簡単に言わないで下さい」

「いえ、わたしは敢えて簡単に言います。嫌だと思えばやめればいい。そしていいと思うものが見つかるまで探せばいい。それに、あなたには、小説を書くという大事な仕事があるでしょう」

「それも、うまく行かないのです。何度応募しても落ちるばかりで」

「応募なんか落ちたっていいです。あなたは、異次元では既に有名な小説家なのですから、それでいいじゃないですか。それではご不満ですか?」

「いえ、そんなことはありません。ありませんが……やはり……」

「地位と名誉が欲しいのですか?」

「欲しいです」

「お金がたくさん欲しいですか?」

「欲しいです」

「たくさんのお金なら、わたしが稼ぐわ」とアネモネが明るく言い張った。

「ボー先生、心配しないで。わたしとともに幸せな人生を歩みましょう。人間、何よりも大事なのは、幸せな人生だと思うわ。ボー先生はそう思わないの?」

「思うよ、もちろん」

「思っているわりには、暗い顔ですねえ」と言って、ホルム博士は笑った。そして「リーとローさん」と呼びかけた。

「はい」と返事があって、不意に二人の双子が現われた。すぐそばにいたらしい。



「しかし、変な結婚式ですね。こんな暗い話をしていていいのですか?」とZ氏は不安になってたずねた。

「異次元も時には真面目になります」とホルム博士はまだ微笑んでいる。

「リーとローさん、お二人に何か祝福の言葉を」

「人生は」

「苦しいけど」

「人生は」

「楽しい」

「なるほど」とホルム博士は頷いた。

「単純だけれど、いい言葉です。ボー先生も、小説家になろうとお考えの人なのですから、リーとローさんのおっしゃりたいことはお分かりでしょう。無理な自信などはいりませんが、必要以上に自分を追い込むこともいけないことです。

 ところで、これは結婚式です。人生設計の教室ではありません。だから、あなた方は誓わなければなりません。お互いをお互いが永遠に愛するつもりかどうかを。どうです、アネモネさん、あなたはボー先生を永遠に愛することを誓いますか?」

「あら、わたしが先なの? 普通こういうのは、男の人が先だと思っていた」

「異次元には、基本的に、普通という言葉はないのです。その場その場の臨機応変で、物事は進行していくのです。だって、人間の心というのは、激動の昭和みたいに、波乱に満ちていますからね」

 ホルム博士はそう言って、ハハハハと笑った。アネモネもクスッと笑って、「激動の昭和だって」と言って、Z氏の肩を軽くつついた。

 Z氏は、ホルム博士をはじめとする、みんなの優しさを感じて、心が熱くなってきた。そして思わずこう叫んだ。

「誓います!」

「おっと、ボー先生が先に誓うなんてびっくりした」とホルム博士が笑いながら言った。

「でも、この際、どっちが先で、どっちが後なんて、どうでもいいのです。ボー先生はまごころで誓われました。さあ、どうです、アネモネさん、あなたも誓いますか?」

「もちろん、誓うわ」と言って、アネモネはいきなりZ氏に抱きついて、頬っぺたにキスをした。

 おーっと歓声があがり、その後、拍手が巻き起こった。

「よかった、よかった。これで正式に結婚が成立した。わたしは嬉しいよ。さっきから、涙が出て仕方がないんだ」とメキシコ人改めリッパ大臣が不意に現われて、二人の前でハンカチを目に当てた。

「リッパ大臣、どうして式の最初からいなかったのですか? こんな大事な式に遅刻してはいけないじゃないですか」とホルム博士は注意をしたが、別に怒っている様子ではなかった。どちらかというと、にこやかな顔をしている。

「わたしは、遅刻はしておらん。ちゃんと隣の車両から、二人の様子を見ておった」

「どうして隣の車両にいたのですか?」ホルム博士は相変わらず笑っている。

「わたしは涙もろいんだ、本当は。ホルム博士は知っているくせに、わたしに意地悪を言っている。いやな奴だ」

 いやな奴だと言われて、ホルム博士は今度は本当にハハハハと笑った。



「わたしはいやな奴です」といきなりホルム博士が宣言した。

「異次元のような巨大な世界の指導者になりたいのなら、少々はいやな奴にならなければなりません。これは異次元に限りませんな。ボー先生、地球上の世界の指導者も、みんないやな奴でしょう? どうですか?」

「そんなこときかれても」とZ氏は困惑の笑顔を浮かべた。

「ぼくは、地球上では、存在があるかどうかも分からないような人間ですから、指導者になんか、会う機会はありません」

「会わなくても、見てるでしょう、いつも」

「何を?」

「テレビです。地球上の指導者たちは、テレビによく映るはずです。ボー先生くらいの才能があれば、画面を見ただけで、いい奴かいやな奴かくらい、分かるでしょう」

「そんな能力があったら、ぼく自身がテレビに出る仕事をして、アネモネに優雅な生活をさせていますよ」

「どうもいけませんね」とホルム博士は不意に真面目な顔をして、アネモネを見た。

「アネモネさん、ボー先生に何かあったのですか?」

「実は、大きな声でしゃべれないと言って、この頃塾の仕事を休んでいるのです」とアネモネが言ったが、別に心配そうでもなかった。むしろ微笑んでいる。

「大きな声ですか」とホルム博士は今度はZ氏に向かった。

「異次元では、あんなに立派に演説をされたのに、どうして自信をもってしゃべれないのですか? それに、大きな声って、何ですか? あなたは、人前でしゃべるには、大きな声でしゃべらないといけないと思っているのですか? 人前で平気に大きな声でしゃべる人間がよくいますが、そういう人間は、みな馬鹿です。人間、馬鹿じゃなかったら、人前で平気に大きな声でしゃべれるわけがありません。あなたが人前で平気に大きな声でしゃべれないとしたなら、それは、あなたが馬鹿じゃない証拠なのです。むしろ、馬鹿じゃないことを、喜ぶべきなのです」

「そんなことを喜んでいたら、一円も給料が貰えないじゃないですか」とZ氏は不満を述べた。

「分からないのですか、わたしの言うことが。人前だから、大きな声でしゃべらなくてもいいのです。むしろ小さな声でしゃべるべきなのです」

「人前で小さな声でしゃべったら、誰もぼくの声が聞こえなくて、授業にならなくて、やっぱり給料が貰えません」

「でも、生活費の大部分はわたしが稼いでいるのよ」とアネモネが軽く話に入ってきた。

「だからつらいんだ」とZ氏はうつむいた。

「男にとって、女を養えるほど稼げないというのは、つらい」



「自慢じゃないが、わたしは今までお金なんか稼いだことはない」とリッパ大臣が胸をそらした。

「わたしは、はっきりと自慢するね。わたしは、お金なんか稼いだことはないし、これからも稼ぐ気はない。お金なんか稼いでいる暇があったら、アネモネさんにキスの一つもしてやりなさい。それで十分アネモネさんの仕事の疲れは吹っ飛びます。そうですね、アネモネさん?」とホルム博士。

「そうだわ、ボー先生。それに、あなたはお金を稼ぐために生きているのじゃなくて、小説を書くために生きているのじゃなくて?」

「そんな理屈、地球上では通用しないよ」

「あなたは、地球上で通用するために生きているの?」

「えっ?」

「人間が生まれてきた意味は、地球上で通用するためじゃないわ。それくらい、異次元汽車旅行を経験したボー先生が知らないはずはないわ。人間には、本当は、正しい生き方とか、間違った生き方とかは決まっていない。あなたはそれくらい知っているはずよ。それが分かっているからこそ、小説を書こうとされている。そうでしょう? 正しい生き方なんてどうでもいいの。あなたは、一つでも多くの小説を書けばいいの。そして、わたしと二人で永遠の幸せをつかむ。そうしたことが出来たら、それで十分でしょう? 塾で大きな声が出ないことなんか、全然大事なことじゃない。ホルム博士もおっしゃったでしょう、大勢の人の前では、むしろ小さな声でしゃべりなさいって。地球上の正しいことなんかにとらわれているから、そんな簡単なことも分からなくなるのよ」

 なるほど、アネモネはいいことを言う。Z氏は、やっと目が覚めた思いがした。

「けれど、そんな大事なこと、どうして今まで言ってくれなかったんだ?」とZ氏はアネモネにたずねた。

「だって、ボー先生って、人に注意をされたら、腹が立つんじゃなくて落ち込むもの。そしてすぐに自分を責めてしまう。人に反発し過ぎるのもよくないけれど、人に何か言われて反省し過ぎるのもよくない。ボー先生は、反省し過ぎるの。それで今まで言わなかった。けれどここでなら言える。何しろここは異次元汽車の中なんですもの。変な常識に縛られない、自由な場所ですもの。ボー先生、ファイトで行きましょう」とアネモネが励ましの言葉を述べた。述べながら、涙を流している。



「さて、誓いの言葉は終わりました」と車内放送の声が聞こえた。

「異次元汽車は、今、幸せの丘に到着しました」

「おお、幸せの丘か」とリッパ大臣は、腕を組んで考え深そうに言った。そして不意にホルム博士の方を見て、

「幸せの丘って、何だ?」とたずねた。

「おいおい、あなたは幸せの丘も知らないんですか? それとも忘れたのですか? わたしとあなたとは、いとこどうしでよく幸せの丘に登ったものですよ」とホルム博士が言った。

「うん、そうだった、そうだった」とリッパ大臣は頭を掻いて言った。

「本当に思い出したの?」とアネモネが言った。

「いい加減なことを言ってごまかしても、分かるわよ。ホルム博士は並大抵以上の力を持った人なんですから」

「それは、まいった。実は、わたしは幸せの丘というものを思い出せない」とリッパ大臣は降参した。

「リッパ大臣は、メキシコ人であった時代が長かったですからねえ、その時代に忘れたのでしょう。人は不遇の時を過ごすと、多くの大事なことを忘れます。あなたを不遇にしたのは、わたしの責任です。謝ります」と言って、ホルム博士はリッパ大臣に向かって頭を下げた。

 そしてこう続けた。

「リッパ大臣をメキシコ人からリッパ大臣に昇格させた張本人は、ボー先生なのですから、あなたは、いつまでもボー先生に感謝しないといけません」

「おお、そうだった、そうだった」と言って、リッパ大臣はZ氏に向かって頭を下げた。Z氏は、

「頭なんか下げないで下さい。ぼくは何も特別なことはしていません。むしろぼくの方こそあなたに感謝しなければなりません。アネモネのような素晴らしい人に巡り合えたのは、あなたのおかげなのですから。どうもありがとうございます」と言って、リッパ大臣に向かって頭を下げた。

「あら、二人ともしゃちほこばって頭を下げたままだわ」とアネモネがクスッと笑いながら指摘した。

「あまり堅苦しくしていたら、また不遇の時代に戻るわよ、リッパ大臣」

「それは困る」と言って、リッパ大臣は頭を上げた。

「メキシコ人なんて呼ばれたら、わたしは自分が誰だか分からなくなる。第一わたしはメキシコ人じゃないですからな。メキシコ人じゃない人間がメキシコ人なんて呼ばれたら、アイデンティティーの危機に陥ります」

「自己同一性ですか、懐かしいですね。大学に行っている間はよく聞きましたね、その言葉。しかし実は随分な大人になってからの方が大事な言葉なのだと思いますよ。アイデンティティーを失った大人が多過ぎます。ボー先生のいらっしゃる地球上では、そういう人間はもっと多いでしょう」とホルム博士はZ氏にたずねた。

「そうですね。常識のとりこになった大人たちが多いと思います。常識のとりこになることが、立派な大人だとみんな思っているのです。人形のように、飼いならされて、それが成熟だと思っている」

「おっ、ボー先生、やっと本音が出ましたね」とホルム博士が叫んだ。

「そうよ、そうよ」とアネモネが同調した。

「そうやって、本音を言って生きていけばいいの。小説家になろうという人なんですから、社会に飼いならされようとしなくていいのよ。人が聞いて眉をひそめるような本音をバンバン言って、人に嫌われたらいい。小説家みたいな仕事は、人に嫌われるくらいの覚悟がないと務まらないわ」

「なるほど、そうだね」とホルム博士は本気で納得した。そしてこう言った。

「異次元汽車を降りて、幸せの丘に行きましょう」



 人に嫌われることと幸せとは、全く別のことのように見えるが、実は結構近いところにある。それは、Z氏も三十を過ぎた頃から次第に分かるようになってきた。

 人に好かれよう、好かれようとすればするほど、人はどんどん幸せから遠ざかってしまう。それは単なる言葉遊びではなく、れっきとした真実だ。

 幸せの丘を登りながら、Z氏はホルム博士にこのようなことを言った。するとホルム博士は、

「そうですよ、あなた。人に嫌われないと、幸せにはなれませんよ」と断言した。

 やがて一同は幸せの丘の頂上に達した。頂上というほどたいしたものでもない。百メートルほど登れば、そこに狭い台地がある。その台地が頂上なのだ。何故頂上だと分かったのかというと、台地の中央に太い石の棒が立っていて、そこに『幸せの丘の頂上』と彫り付けてあるのだ。

 幸せの丘自体はたいしたことはないが、頂上から見る景色は絶品だった。一面の草原が広がり、草原の向こうには小さな湖が散在し、湖の周りにはたくさんの花が咲いている。その向こうには山が並んでいて、山は青だったり緑だったり黄色だったり、それらを織り交ぜた微妙な色だったりしていて、とても絢爛としていた。

 なるほど、丘そのものはたいしたことはなくても、ここは幸せの丘だ。幸せとは、自分そのものの状態を指すのではなく、周囲の状況によって左右されるものだ。周囲の状況というのは、自分一人の力では作り出すことは出来ない。ある意味定められたものでもあり、恵みでもある。

 そして、人間は、周囲があるからこそ、自分も生きていける。周囲がなく、孤立した人間が幸せを感じるはずがなく、第一生き続けることすら出来ない。

 もっとも、周囲といっても、それは友達の数ではない。友達の数が多ければ幸せだなんて思っている人は、多くの友達に振り回されて不幸になる。

 周囲とは、この幸せの丘の周りにある周囲と同じようなものだ。人間も含む様々なものが、周囲なのだ。道端の石ころ一つにも魂が宿り、それが人間の心にも微妙な影響を与えている。

 そういう深い知恵を、今Z氏は胸の中に刻みつけた。

 それは、そこにいる他の人たちも考えたことだ。

 異次元とは、何と美しいところだろう。



「どうです、ボー先生、幸せの丘の頂上に来たら、幸せを感じるでしょう?」とホルム博士がたずねた。

「はい、本当の意味で幸せを感じます」とZ氏は、心をこめて答えた。

「さあ、ここで夢吉人形を使うのです」とホルム博士が言った。

「夢吉人形?」とZ氏は、意外な言葉に驚いた。

「夢吉人形をお持ちでしょう?」

「はあ、持っています。これです」と言って、Z氏は右のポケットから小さな人形を取り出した。

「あなたは、夢吉を、単なる悪人だと思いますか?」とホルム博士がたずねた。

「悪人ではないのですか? 悪人だから、成敗されて、こうして人形の形に閉じ込められたのでは?」

「実は違うのです。夢吉は、自分の名前の通り、夢を抱いて生き、夢を実現するために戦ったのです。そしてその戦いでわたしに負けた。それだけなのです。わたしは異次元の指導者だから、夢吉に『はい、どうぞ』と異次元の世界を提供するわけにはいかない。そんな無責任なことは、誰に頼まれても出来ません。それでわたしは夢吉と戦い、そして勝ちました。しかしそれは単なる勝ち負けの問題で、本質的な事柄ではないのです。

 夢を抱くことは素晴らしいことです。その夢が馬鹿げていたとしても、それの何が悪いのですか? ここは異次元の世界ですよ。異次元の世界につまらない常識なんか、存在しません。基本的には何でもありなのです。

 わたしはボー先生にそのことを知っていただきたかった。それで、あなたに夢吉人形を差し上げたのです。でもあなたは、地球上の世界に帰って、少し自分を見失ってしまったようですね。

 アネモネさんの言ったように、あなたは小説を書くために生まれてきたような人なのです。売れている売れていないなんてどうでもいいのです。あなたは、あなたの書きたいことを、書きたいように、毎日毎日書いていけばいいのです。その作業には、変な常識なんか必要ではありません。逆にあなたは常識というものを、全て忘れ去るべきなのです。そしてあなたの書く世界の中に埋没していけばいいのです。

 わたしは、あなたが自分の納得出来る小説を書くことが出来たなら、あなたに異次元の世界の指導者の地位を譲り渡してもいいと考えています。わたしは、戦いに敗れてあなたに異次元の世界を取られるのではありません。わたしは、自然の摂理に従って、あなたにこの世界をお譲りするのです。

 あなたは、地球上の世界では一人の小説家として生き、異次元の世界では、指導者として生きていくことになります。

 しかしそれまでの道のりは長いです。小説家としてのあなたが、自分の納得出来る小説を書く、そんな時が来たら、あなたにとっても、宇宙全体にとってもパラダイスです。

 そのパラダイスに向かうために、その夢吉人形は役に立ちます。それは単なる人形に見えて、単なる人形ではありません。あなたの魂を鼓舞する人形です。さあ、夢吉人形を空に向かって差し出して、叫びましょう。『ぼくは夢をかなえる』と」



 Z氏は、ホルム博士の顔をじっと見つめながら、何も言わなかった。人が見ている前でそんな恥ずかしい真似は出来ないし、第一これはホルム博士の冗談かと思ったのだ。

 するとホルム博士は「どうしたのですか?」とたずねた。

「いえ、どうもしません」とZ氏は答えた。

「どうかしているじゃないですか。何故わたしの言う通りにしないのです?」

「何をするのですか?」

「夢吉人形を空に差し出して、『ぼくは夢をかなえる』と叫ぶのです」

「それでは、本当にするんですね?」

「嘘だと思ったのですか?」

「はい」

「うーん」とうなって、ホルム博士は腕を組んだ。

「ボー先生は、やはり重症ですね、アネモネさん」

「はい、わたしは心配しているのです」とアネモネの声は沈痛そうだった。

「ボー先生」

「頑張って」と双子が声を出した。

 双子は幸せの丘の頂上で眠っていたのだ。本当の意味で幸せを体感していた。その双子が真面目な顔をしてこう言ったので、Z氏はさすがに驚いた。

「ぼくは、そんなに重症だったのですか?」と彼は双子にたずねた。

「常識になんか」

「縛られてはいけません」

「そうだ、そうだ」と横合いからリッパ大臣が叫んだ。

 一緒に来た、顔の知らない人たちも「そうだ、そうだ」と叫んだ。

「あなたの人生の目的は、常識に縛られずに、すこやかに生きていくことです」とホルム博士が言った。

「常識から外れると、精神的にすこやかに生きることは難しくなります。けれどそれは普通の人たちの場合です。ボー先生は、小説家という、常識を逸脱した仕事をなされるのだから、常識から外れれば外れるほど、精神的にすこやかになるはずなのです。それがあなたの生きる道なのです。さあ、どうぞ、叫んで下さい、さっきの言葉を」

「どんな言葉でしたか?」

「ガクッときますね、そんなことを言われると。さすがのわたしも怒りますよ」

「いえいえ、冗談です。ぼくはちゃんと覚えています。何だか幸せの丘の頂上の空気を吸って、みなさんと一緒にいると、勇気が湧いてきました。ぼくは叫びます」と言って、Z氏は胸に手を当てて、息を整えた。そして夢吉人形を空に差し出して、こう叫んだ。

「ぼーくーはー、夢をーかーなーえーるー!」



 ドッドッドッドッと大きな地響きがして、異次元汽車が目の前に現われた。運転手が大勢の人たちに向かって敬礼をした。すると運転手の横にもう一人若者が立っていた。

 若者も敬礼をしていた。そしてその若者は、夢吉だった。

 夢吉は、運転席から外に出て、宙に浮いた。そして「ボー先生」と言った。それは、以前見た険悪な物言いではなかった。穏やかにはにかんだ言い方だった。

「はい」とZ氏は答えた。

「わたしの魂を解放して下さって、ありがとうございます。これであなたの夢はかないます。いや、既にもうかなっています」

 夢吉は、そう言って、空高く昇っていき、やがて見えなくなった。

 Z氏は、「あっ」と言って、空に手を差し出した。夢が逃げるような気がしたからだ。

 しかしホルム博士が「大丈夫です」と言った。

「夢吉は、空高く消えましたが、あなたの夢はあなたのここにあります」と言って、胸に手を当てた。

 Z氏も胸に手を当てた。

「小説に大事なのは心です。そして人間が生きていくために大事なのも心です。あなたは心を大事にしなければなりません。困った時は心にたずねるのです、どうすればいいだろうかと。きっと心が返事をしてくれます。さあ、異次元汽車に乗って、あなたの世界に帰りましょう。これからが本当の戦いです。ボー先生、あなたは戦えますか?」

「はい」とZ氏は力強く答えた。アネモネの手を握る手にも力がこもった。



 異次元汽車が見覚えのある窓のそばに止まった。窓は開いていて、窓の向こうに二人の人間が立っていた。それはZ氏のお父さんとお母さんだった。

 お父さんが手をあげて「やあ」と言った。Z氏も手をあげて「やあ」と言った。アネモネは、深々と頭を下げた。

 お父さんとお母さんも頭を下げた。そしてお父さんがこう言った。

「結婚式、おめでとう。遠くで式をするといったから、ここで待っていたんだ。それに、この本面白かったよ」

 Z氏は空中を歩いて、お父さんのそばに行った。そして本を手に取った。そこには、彼が書き上げたばかりの小説の題名があった。

「これは、誰の本?」

「お前の本じゃないか。変なことを言う子だ」とお母さんは、静かに微笑んだ。

 Z氏は、アネモネを連れて部屋の中に入った。異次元汽車が音をたてて発車した。

 Z氏は、異次元汽車に向かって「ありがとう」と叫んだ。そしてかたわらのアネモネにも「ありがとう」と言った。

 最後にお父さんとお母さんにも頭を下げて「ありがとう」と言った。

 夢はかなった。

 そして彼は、現実になった夢を抱いて、世界と戦っていく。

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異次元汽車旅行 中川家成 @booklike0522

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