異次元汽車旅行

中川家成

異次元での冒険

 小説家Z氏が小説を書いていると、天井から人が降りて来て机の上に立った。

「おい、原稿用紙が汚れるじゃないか」とZ氏は不平を述べた。

「今は小説など書いている場合じゃない。それは小説だろ?」

「うん、小説だ」

「どんな小説だ?」

「それよりも早く机の上からのいてくれないかな。そんな高い所にいたら話をしようにも話が出来ない」

「お前は分かってないなあ。おれは話をしに来たんじゃない。おれはお前を連行に来たんだ」

「どこに?」

「お前はどうせ暇だろう?」

「ぼくは暇じゃない。今でも来年の三月末日締め切りの懸賞のために書いていたんだ?」

「注文もないのに?」

「いやに侮辱的な言葉だな?」

「芸術家は名を上げるまではいかなる侮辱的な言葉にも耐えねばならん」

 Z氏は椅子から立ち上がり男の足をつかんだ。

「おい、何をする!」

「ここはぼくの部屋だ。ぼくがここの主人だ。主人のぼくを悪し様に言う者は立ち去れ!」

 男はスッと浮かび上がった。Z氏は驚いて手を離す。

「これは悪かった、悪かった」と言って男はZ氏の背後の畳の上に立った。

「あなたの根性を試したかっただけで、わたしには悪意はないんです」と男は口ひげをひねくってニコニコしている。

 Z氏は男の顔をじっと見た。それから服装を見た。メキシコの楽器演奏家のような格好をしている。

「さあ、行きましょう」

「どこへ?」

「異次元汽車旅行です」

「それは何です?」

「汽車旅行です」

「異次元?」

「そうです。あなたは選ばれたのです。ホルム博士はあなたに非常に会いたがっています」

「誰です? それは」

「まあ、知らんのも無理ないですな。地球の者はみんな自分のことばかり考えて、宇宙を見ておらんですから。その中ではあなたは知恵に溢れる人です。わたしのような怪しい者に怒りを表わす根性も持っておられる」

「誰でも怒るでしょう」

「そうでしょうか? いきなり魔法のように現われた不気味な者に、素直に怒ることが出来ましょうか? 誰でも怖がるはずです」

 Z氏は眉を寄せて考えた。そのようでもあり、そのようでもないような気がした。

「そんな難しい顔をしないで、さあ、行きましょう」と言って男は窓を開けた。

 そこは二階の窓なのに、窓の外には古ぼけた汽車が止まっていた。



 汽車の箱の中には誰もいない。メキシコ人とZ氏は並んで腰掛けた。垂直に切り立った堅い座席だ。

「何時頃に帰って来れるのかな?」とZ氏はたずねた。

「すぐに帰れます。それよりも楽しみましょう。この汽車に乗れるのは大変な幸運なんですよ。どうです、わくわくして来たでしょう」

 確かにZ氏は少しわくわくしてきた。この頃何かとストレスのかかることが多かったのだ。田舎から両親が出て来て、「早く家に帰れ」と言う。「いつまでも変な夢を見ていたら親子の縁を切るぞ」と脅かした。

 縁は切られてもいいが、金を切られるのはよろしくない。そこで彼は今回書いている小説に命をかけているわけだ。

 だがそういうプレッシャーは精神にはよくない。彼は徹底的なスランプに陥っていた。

 突然笛の音がきこえた。Z氏は考え事から目覚めて飛び上がった。

「来た、来た、来た、来た」とメキシコ人は喜んで拍手をした。

 汽車の連結部のドアが開いて、全くそっくりな顔とそっくりな服装をした若い双子の女性がこちらに来た。

「わたしたちは」と一人が言うと、

「車掌です」ともう一人が続けた。

「異次元汽車旅行に」

「ようこそ」

 二人は全く同時に頭を下げた。あまりにも深く下げるので、背中がよく見えた。

「おい、早く歌を歌え!」とメキシコ人がわめいた。

 すると恐ろしくすばやく双子は頭を元に戻した。鋭い風を切る音がきこえたほどだ。こんなに速い動きをしたら、首が飛んで行きそうだとZ氏は驚嘆の表情で双子を見つめていた。

「わたしたちは」

「歌手ではありません」

「分かっている。車掌だろう? だがシルクロードの楼欄という国では、車掌は歌を歌うんだぜ」

「ほんと!」

「ですか?」

「本当だとも」とメキシコ人は尊大にパイプをくわえている。

 突然プーと蒸気の上がる音がして、汽車がガタリと動き始めた。双子はそろって横倒しになった。Z氏は驚いて助けようとしたが、双子はまたあの素早い動きで元のように立ち直った。

 きっとこの子たちはバネで出来ているんだ、とZ氏は結論づけた。



「切符を」

「拝見します」

 Z氏はメキシコ人の顔を見た。メキシコ人はパイプをくわえたまま平気な顔だ。

「無賃乗車」

「ですか?」

 メキシコ人はポケットから二枚のスライスチーズを取り出した。

 双子は一枚ずつ受け取るとしげしげと眺めた。

「これはなん」

「ですか?」

「切符じゃないか」

「これは食べるもので」

「切符ではありません」

「サハリンではチーズが切符として使われておる。知らんのか?」

「知りません」

「でした」

「それでは行ってもよろしい。それともここで歌を歌ってくれるか?」

「わたしたちは」

「歌手ではありません」

と言って双子は、スライスチーズをムシャムシャ食べる。よほどおなかがすいていたらしい。

「ほら、窓の外を見なさい。一面の暗闇だ」とメキシコ人はZ氏に窓を示した。本当に真っ暗だ。どこをどう走っているのか見当もつかない。

「ここはどこです?」

「知らないんですか? ここは宇宙です」

「宇宙のわけがないでしょう。ロケットじゃあるまいし」

「ロケットのようなちゃちなものと一緒にされたら困ります。異次元汽車は何のショックを受けることなく宇宙に出ることが出来るんです」と言ってメキシコ人は胸をそらせた。よく威張る男だ。

 双子は立ち去ってはいなかった。通路をはさんだ隣の座席に並んで座り、二人折り重なるようにして眠ってしまった。

「無邪気な寝顔だな」とメキシコ人はZ氏の腕をこづいて双子を指さした。ことによるとあのスライスチーズには、睡眠薬が入っていたのかも知れない。メキシコ人は実は人売りで、こうして眠らせた若い女性をどこかの国に売り払っているのかも知れない。

 メキシコ人は煙をモクモクと巻き上げながらパイプを吹かしている。



「もうすぐ明るくなりますよ」とメキシコ人が言うが早いか、突然光が目の前に殺到して、Z氏は危うく目がつぶれそうになった。

「だからもうすぐ明るくなると言ったんだ」

「もっと早く言って下さいよ」

「人間というのは忘れっぽいときいていたから、寸前に言おうと思ったんだ」

「寸前過ぎます」

「寸前過ぎるというのは寸前が過ぎるということか? 寸前が過ぎたらその瞬間ということになる。それを過ぎたら未来に行く。さてはわたしが未来に行く能力があるということを見破ったな」

「そんなものは見破ってません」とZ氏は瞼をこすりながら怒った。

「それよりも外を見なさい。こんないい景色を見なかったら生涯の痛恨事ですぞ」

 Z氏はやっと目があいたが、その瞬間感動のあまり涙が出そうになった。

 最初に見えたのは地平線にかかる大きな虹だった。いままで見たことのないはっきりした虹だった。美しさの全てを心得ている絵描きが精魂込めて描いた絵のようだ。

 太陽が降り注ぐそこは一面の花畑だった。Z氏は小説家のくせに花の名前をほとんど知らない。だがあまりにもたくさん咲いているので、これはこの花、あれはあの花と名前を述べる必要はないようだった。

 ただただ美しい花々、と言ってよかった。

「ここは宇宙なんかじゃないじゃないですか。ここはどこです?」

「宇宙さ」

「宇宙に花は咲いていないでしょう」

「とんでもない偏見だ。だから人間は分からず屋だというんだ。地球に咲いている花は元々宇宙に咲いていたものなんだ。神様がお情けで地球にちょっぴりお裾分けをしたに過ぎない」

「人間が随分嫌いみたいですね」

「わたしは昔人間に磔にされた」

「あなたが、あの……」

「キリストではない。わたしは単にホルム博士の国の一国民に過ぎない。そんな尊敬の目で見ると照れるじゃないか。おいおい、急にがっかりして軽蔑の目に変わるな」

 通路を隔てて隣に座っていた双子が突然立ち上がり、「次は『花よあなたはどこ行った』です。お降りの方はとっとと出て行って下さい」と同時に唱和した。

「おお、着いた、着いた。ここで降りよう」とメキシコ人はZ氏の腕を引っ張った。そのまま引きずって歩き、Z氏はお花畑の中に顔から落ちた。



 メキシコ人は指を口の中に入れて指笛を吹いた。Z氏は顔についた花を拭っていた。いい香りがする。このまま顔につけて歩いていたいものだ。

 空から一つの雲が走って来て、二人の前に止まった。雲を操縦しているのは小さな男の子だった。

「おじさん、こんにちは」と男の子はメキシコ人に向かって手を上げた。

「おお、久しぶりだな、少年」

「おじさん、今日のお客さんは随分ボーッとした人ですね」

「おい、そんな穿ったことを言ったらお客さんに失礼じゃないか。嘘でもいいから立派な方だと言え」

「はい、おじさん、その立派な方を一体どこに案内すればいいんですか?」

「パーティに連れて行ってくれたまえ。この方は今まで地味な生活をしてこられて、あまり楽しみというものをご存じない。そうだろう?」とメキシコ人はZ氏を振り返った。Z氏はさっきから顔をしかめて立っていて、この問いにも答えない。

「そんなに陰気な顔をしていたら、幸運も逃げますぞ。どうです、わたしと一緒に歌を歌いませんか?」

「ぼくは歌など知りません」

「何も知らんということはないでしょう。『散歩をしたひまわり』ならどうです?」

「そんな歌、なおさら知りません」

「わたしが歌ってみせますから、あとで一緒に歌いましょう」

 Z氏がはいともいいえとも言わないうちに、メキシコ人はどしどし歌い出した。


  ひまわり ひまわり

  なぜあなたは丸くて黄色いの?

  ひまわり ひまわり

  なぜあなたは高くて大きいの?

  それは宇宙の広さを

  みんなに教えるため


「どうです、覚えました?」

「一回では覚えられませんよ」とZ氏はメキシコ人の陽気さに完全に圧倒されている。

「おじさん、そんな歌よりも早く雲に乗って下さい。電池が切れるじゃありませんか」と意外にも男の子が救ってくれた。

 メキシコ人とZ氏は雲に乗り、男の子の操縦で空高くに飛んで行った。



 Z氏はもちろん雲の乗り物に乗ったことはない。そんなものがあるということも知らなかった。確か今は冬の始めだが、空の中は非常に暖かかった。

 何だか胸の中がワクワクする。さっきの機嫌の悪さは一切吹き飛んでしまった。

「はい、着きましたよ」と少年が言うと雲は急降下を始めた。Z氏は雲のハンドルをぎゅっとつかんだ。

 森の中央に開けた場所があって、そこにテーブルがしつらえてある。席には西洋の王侯貴族のような人々が座っていた。Z氏たちが雲に乗って地面に着くとみんな一斉にこちらを振り向いた。振り向くだけで誰も一言もものを言わなかった。

「諸君」とメキシコ人が大きな声で呼びかけた。この男には、空気が気まずいとかいうことはどうでもいいことなのだ。

「諸君、パーティは盛況かね?」

「盛況に見えるかな?」と顔中白い髭だらけの老人が顔をしかめて言った。隣の若者は口のまわりにしきりにジャムを塗りつけている。

「沈黙は金なりと申します。ただただガーガーわめき合っているだけがパーティとは言えますまい。高貴な沈黙というものがある」

「きみはさしずめ下品な喧噪だな」と白髭の老人が真っ向から責めた。

「お褒めの言葉ありがとうございます」とメキシコ人はへこたれた様子はない。「わたしはしゃべらないと心は通じ合わないという主義の持ち主で。だからこうしてしゃべるのです」

「お前は余計なことをしゃべり過ぎだ」

「余計なこととは何でしょう? 実用の役に立たないことですかな? わたしはこれでも実際家で、実用というものをこの世の何事よりも珍重する者です」

「それよりもその人は誰だ? 見慣れぬ人ですが」とジャムを口のまわりにつけた若者がたずねた。

「よくきいて下さった。この方は何を隠そう、今日の異次元汽車旅行のお客さんです」

「なんだ、お客さんか。曲芸でもしてくれると期待していたのに」

「曲芸どころかこの方は小説家なんですぞ」

「それで?」と眼鏡をかけて細くしゃちほこばっている婦人が冷たくきく。

「小説家といえば、言葉の曲芸師ではないですか」

 みんなフーンという顔付きでZ氏を見るばかりだ。感心した様子はない。メキシコ人の言うことはことごとく空振りになった。

 メキシコ人はどこからかラッパを取り出して、プップクプップップと吹いた。

「それではただいまから妄想レースを始めます!」

「また妄想レースか」と白髭の老人が顔をしかめた。

「小説家先生をわざわざ招いておいて妄想レースをしない手はないでしょう」

「誰も招いてはおらんよ」

「まあまあ、そう言わんと」



「さて、一番手は司会の拙者がいたしましょう。妄想レースとは――知ってらっしゃいますね?」と急にZ氏を振り返った。

「知らないなあ」

「おっと、これは忘れていた。人間というのは欲得ずくのことは何でも知っているのに、こういう大事なことを何も知らんということを。言葉のスペシャリストである小説家ですら知らんのだから、嘆かわしい。まあ、きいていなさい」と言ってメキシコ人は不意に眉を寄せて考え始めた。丸い剽軽な顔には眉間の皺は逆に滑稽だ。

「昔わたしはオリオン座の一部だった。これは確かな筋からきいたことで、わたしは今その確かな筋から命を狙われておる。確かな筋というのは、それはそれは巨大な筋で、たとえ何億光年のかなたに逃げ延びても必ず捕まえられるそうだ。わたしのような気の弱い者は確かな筋の言うことをきかざるを得ない。わたしの持っている霊妙な発想力は宇宙全土を支配するに充分足る。わたしはこの能力をその筋に捧げようと思っている」

 メキシコ人はそこで語を切って、あとを続けようとしない。

「おいおい、それだけか?」と相撲取りのような巨大な体格をした貴族が、沈黙の中に言葉を投げた。

「ハッタリのわりには面白くないんじゃな」と針金のような僧侶が鼻を鳴らした。

「わたしのはただの前振りですから、面白くないのは当たり前です」と明るく言っているように見えて、メキシコ人の顔は赤く、心は傷ついているようだ。

「それでは針金大僧正さんは何かありますかな?」とメキシコ人は針金大僧正に向かって拳を立てた。かかって来いと意気込んだポーズだが、どうも負けそうだ。

「わしかな? わしは神様のこと以外はいたって無知なので、面白くないかも知らんよ」

 メキシコ人の顔はさらに赤くなった。針金大僧正の言い方が非常に小馬鹿にしてきこえたからだ。

「まあ、いいさ、お耳汚しにわしの話をどうぞ。わしはこう見えても実は時計なんじゃ。父は遊園地のからくり時計で、母は遊園地に遊びに来た総理大臣の息子がつけていた腕時計さ。だからわしの体はいつもチクタク鳴っておる。時に腹が立つとボンボンボンボンと言う。これは四時に腹が立った時のことじゃけど」



「それぎりですか?」とメキシコ人は皮肉な目で針金大僧正を見た。

「それで充分じゃろう。何しろ妄想レースなのだから、あとの展開はギャラリーに任せる」

「わたしはギャラリーの代表として、今のはとびっきり面白かったと発言します」とメキシコ人は片手を上げて、宣誓のような格好をした。

「針金大僧正を揶揄するとは何事だ。針金大僧正は王であるわしよりも知恵の溢れたお方なのだ」と白い髭の老人がメキシコ人に向かって、指を立てた。

「誰が王なんですか? あなたは単に老人ホームの厄介者じゃないですか。わたしに勲章をくれない王など、わたしは王として認めません」

「わがままな奴だ」

「そうだ、お前はわがままだ」とジャムを口のまわりにつけた若者が口のまわりのジャムをなめながら、白い髭の老人と同じようにメキシコ人に向かって指を立てた。

「わたしは今重要な仕事の最中です。その仕事とは何を隠そう、この人です」と言ってメキシコ人は、Z氏をみんなの前に押し出した。

「若いのか年寄りなのか分からんただのおっさんじゃないか」と相撲取りが太い声で不平を述べた。

「みなさん、みなさんは確かに常識から外れたいかれた人達だ」

どこからかコーヒーポットが飛んで来て、メキシコ人の頭にゴツンと当たった。メキシコ人はそれにもめげずこう続けた。

「まあまあ、怒らないできいて下さい。あなた方はいかれていても眼識という点では誰よりも優れておられる。それを見込んでいち早くこの人をあなた方に紹介したのです。この人は小説家です。しかもこの人はホルム博士のお気に入りの小説家なのです」

 一斉におお、と歓声が上がった。

「それは素晴らしい」と白い髭の老人がわざわざ席を立って、Z氏の方に歩み寄った。老人ではあるが歩き方はしっかりしている。握る手にも力がこもっている。

「わしはホルム博士とは小学生時代の同級生なのだ」

「でも今は森の中の変人さ」と口のまわりのジャムをなめる若者は、椅子の上で腰を振った。

「こら」と針金大僧正が注意をした。

「腰の振り方が悪い。それでは腰痛になるぞ」

「どうです、この方の妄想話をぜひききたいでしょう」と騒ぎは無視してメキシコ人は威張った。

「きいてもいいわね」と一人の婦人が週刊誌から顔を上げて言った。

「みなさんの絶大なる応援を得たことで、この方もさぞ話す気が増してこられたことでしょう。どうぞ」とメキシコ人はZ氏に向かって右手を上げた。



「どうぞ」と言われても困る。Z氏は急に緊張して立ちすくんだ。

「どうかされたのですか?」とメキシコ人はよくよく人の気を知らない奴だ。

 一分くらいの沈黙の時が流れた。Z氏の胸はさらにざわざわするばかりだ。

「あなたは小説家でしょう? お話の百や二百は持ってらっしゃるでしょう」とメキシコ人は責めた。

「ぼくは……ぼくは、人前で話すのが苦手なもので……」

「なあに、こんな連中、人じゃありません。頭の変な棒です」

「誰が棒だ」と白い髭の老人が異議を唱えた。

「確かにわしは針金じゃが、棒ではない」と針金大僧正も主張した。

「そう、あなたがたは棒ではござりますまい」とメキシコ人は弁明した。

「だが頭が変であることは確かだと思いますが」

「そんなに褒められるとなあ」とジャムをなめている若者が頭を掻いた。

「そう、よくお分かりですね。頭が変だというのは、この世界では褒め言葉なんですぞ。あなた方の世界ではもちろん逆でしょう?」とメキシコ人はZ氏の方を向いた。

「頭が変だと言われて喜ぶのは、自殺志願の芸術家くらいでしょう」とZ氏は不意に振られたがうっちゃった。

「そうでしょう、そうでしょう。ところで気分は大分落ち着きましたか? 妄想レースの第三コーナーに立てますかな?」

「何を話してもいいのですか?」

「何でもいいです。頭が変になることを賛美するこの世界では、妄想こそが大事な思想なんです」

「それは新しいですね」とZ氏は次第に調子づいて来た。

「なあに、さほど新しいとは言えません。こんなのを新しいと言う人間がどうかしてるんですよ。どうです? そろそろ話していただけませんか?」

「小説家の修業のために」

「小説家の修業のために」

「ぼくはいつも頭の上に山を持っているんです」

「山ですか、へえ~」

 一斉に「ほお~」という声が上がった。反応がどうも大袈裟でやりにくい。

「山と言えば火山というものがありますが、ぼくの頭の上の山はれっきとした活火山なんです」

「へえ~、それはすごい」とメキシコ人はいちいち変な相槌を打つ。



「だから時々噴火するので、うるさくて仕方がない」

「それはそれはうるさいでしょう」

「あの、ちょっと」と口のまわりのジャムをなめる若者が話を止めた。

「いちいち合いの手を打つのはやめましょう。あなたもうるさくないですか?」とZ氏に問いかけた。

「少しうるさいですね」

「うるさいのならうるさいで、あなたも文句を言ったらどうです。あなたの小説が売れないのはそうした気の弱さが起因していると思いますが、どうです?」

 非常に生意気な若者だが、言っていることは当たっているように思われた。

「おい、何てきついことを言って大事な方を落ち込ませているんだ!」とメキシコ人がジャムをなめる若者に向かって拳を振り上げた。

「乱暴はいかん。乱暴はいかん」と針金大僧正が笏を両手で揺すりながら、祈りの格好をした。

「前代未聞だわ」と婦人が週刊誌を空にほうり上げた。

「こんな騒ぎになるとは困った。今から裁判を開かなければならない」と白髭の王は携帯電話の伝言をきいている。

 するとさっきからこの顛末を見物していた雲に乗った少年が、ヒラリと地面に降り立って、「おじさん、もうすぐ異次元汽車の発車の時間ですよ」と呼ばわった。

「おお、それはまずい。異次元汽車は一回乗り遅れると次の汽車が来るまで、三十光年くらい待たねばならんからな」とメキシコ人は慌てて靴紐を結び始めた。ここに来てくつろぐために草履に履き替えていたのだ。

 メキシコ人はZ氏の腕を引っつかんで雲の上に乗せた。あまりにも急なことなので、Z氏はゴホゴホと咳き込んだ。

「もし間に合ったら、わしのタイタン星の別荘をお前にやる」

「月給、日本円にして二千七百円しか貰っていらっしゃらないお方が、別荘なんか持ってらっしゃるはずがないでしょう」

「少年よ、減らず口をやめよ――メキシコ人の博士の言葉。とにかく急いでくれ。たのむ」

「はい、はい、任せて下さい」

 少年が雲の上をぐいっと踏み込むと、雲は恐ろしいスピードで飛び始めた。

 Z氏は少し愉快な気分になっている。そして頭の上の活火山の話の続きを考えていた。



 異次元汽車の中に入ると、入り口付近であの双子が待っていた。

「おかえり」

「なさい」

「相変わらずこけしみたいな様子をしているな。女性はせめて肉まんにならないといけない」とメキシコ人は双子に向かって軽口を叩いた。

 雲に乗った少年は雲に乗って飛び去っていた。お礼に別荘どころか金もなく、メキシコ人はズボンのポケットからくしゃくしゃになったダイヤの4を出して渡した。

「これできみも億万長者だな」とメキシコ人が言うと、少年は笑いもしなかった。

 汽車はポーと汽笛の音を立てて走り始めた。

「時間は今何時ですか?」とZ氏は急に不安になってたずねた。外は明るいが彼は眠った覚えがない。時間の感覚がおかしくなると精神に変調を来すと、彼がかつて読んだ本にしっかり書いてあった。

「何時と思うかね?」

「朝ですか?」

「きみはここをどこと心得る」

「どこでしょう」

「異次元だよ、異次元。異次元に時間があると思うか? こういう所に来てまでつまらない常識に縛られるのはやめなさい。なあ、双子ちゃん。あなた方は自由だろう?」

「わたしたちは」

「自由である時もあれば」

「自由でない時も」

「あります」

「今日初の台詞四分割だな。ところでホルム博士は今日研究所にいらっしゃるかな?」

「ホルム博士はいつも研究所に」

「いらっしゃいます」

「それは結構。いつも研究所にいらっしゃる指導者というのはいいもんだ。用があればいつでも研究所に伺えばいい。ただ、手土産だけは欠かしてはならん」

 メキシコ人はチョッキのポケットから一枚の名刺大の紙を取り出した。今度はスライスチーズではなかった。

「これは何だと思う?」とメキシコ人は主に双子に話しかけた。

「わかりま」

「せん」

「これは願い叶い用紙と言うんだ。何を隠そう、このわたしが発明した」

 双子は何も答えなかった。一人があくびをするともう一人にもうつる。

「何か願いはないかね?」とまた双子に向かうが、双子は突然眠り込んでしまった。

「よく眠る子たちだ。まあいい、寝る子は育つというからな。ところで」とメキシコ人は久しぶりにZ氏に向かった。

「何か願い事はありますか?」

「ぼくの願いは小説家になることです」

「そんな荒唐無稽な願い事じゃなくて、もっと現実的な願い事を。たとえば一万円の電子レンジを五千円で買いたいとか」



「ぼくはそんな願い事は持ちません」

「大事なことだよ。たかが電子レンジと馬鹿にしてはいけない」

「その紙を使うと何でも願い事が叶うんですか?」

「何でもね。保証するよ」

「それではちょっとビールを出して下さい」

「良い子のお話にビールが出て来るのはいただけないが、登場人物が大人だからやむを得まい」と言ってメキシコ人は、願い叶い用紙に『ビール』と書いた。

 すると用紙から煙が立ちのぼり、Z氏は驚いてのけぞった。煙は汽車の箱一杯に広がり、双子が目を覚ましてゲホゲホと咳をしている。

「ドドーン、ドドーン、ドドーン」と野太い声がして、煙の中から丸まると太った男が姿を現わした。

 男は口の中に煙を吸い込んで行った。次第に箱の中の空気はきれいになる。

 最後の煙を吸い込んだところで、男もゲホゲホと咳をした。たれ目が涙で一杯になる。

「やったー、やったー、出て来た、出て来た、発明は成功だ」とメキシコ人は喜んでいる。

「ご主人様はあなたですか? ドン」

「そうだよ」とメキシコ人は胸をそらせた。

「漫画みたいな顔をしてるな。ドン」

「何を言う。ご主人様の顔を漫画みたいだとは何事だ」

「おいどんは正直なもんで。大体今まで寝ていて急に起こされたもんだからむかついているんだ。ドン」

「どうして語尾にドンと言うんだ?」

「おいどんの名前はドンという。だから語尾にドンと言う。当たり前じゃないか。ドン」

「そんなこと当たり前じゃない。ドン。あっ、つられたじゃないか」

「まあまあ、そんなに興奮せんと。落ち着いて話し合いましょうや。ドン」

「それよりもビールはどこだ? おれはビールと書いたはずだ」

「ビールは飲んじゃった。おいしかった。ドン」

「やっぱり発明は失敗か。ビールがないのならお前に用はない。元に戻れ」

「どうやって? ドン」

「この紙に入るんだ」

「こんな薄っぺらなところにどうやって入るんだ? ドン」

「お前はこれからどうするつもりでいたんだ?」

「おいどんは戻るつもりはないですたい。ドン」

「おいおい、冗談はやめてくれ」

「おいどんは真面目だから冗談は言わない。ドン」



「困ったなあ」とメキシコ人は苦悩のために顎を撫でた。ドンという名前の太った男は、ポケットからキャンディーを取り出してなめている。

「よし、それなら仕方がない」とメキシコ人はポンと手を打った。

「お前もこの旅行に同行しなさい。ホルム博士に会わせてあげる。どんなに出来損ないだとしても、お前は大事なわたしの発明品だから」

「おいどんは品物ではない。ドン」

「お前は一体どこから来たんだ?」

「おいどんは二万二千年の間壷の中で眠っていた。ドン」

「アラジンの?」

「アラジンかアメリカジンかは知らんぞなもし。ドン」

「お前も冗談を言うんだな。まあ、よろしい。長いこと壷の中にいて常識に対する勘を失っているんだな。わたしがお前を教育してあげよう」

「あんたなんかに教育されたくないがな。あんたが誰よりも常識を知らん様子じゃて。ドン」

「傷つくことをドシドシ言う男だな。それでは社会を渡っていけないぞ」

「つまらんサラリーマンの説教みたいな言い方はやめてくれ。おいどんの夢は高く大きい。ところでこの御仁はどなたかな? ドン」とドンはZ氏のそばに歩み寄った。

「この方は小説家先生だ」

「おお、小説家先生か。かねがね小説家先生の噂はきいていて、眠っている間に本を読んでいたざます。ドン」

「どうもその変なしゃべり方には慣れない。それよりも眠っている間に本を読める人はいないぞ」

「このおいどんをどなたと心得る。おいどんはそんじょそこらの人ではないぞ。壷に入っていた大魔王だ。一同、頭がたか~い。ドン」

「せっかくの威勢もドンでドンと落ちるな」と言ってメキシコ人は笑い出す。自分ではなかなかのウィットだと思ったらしい。

「もうすぐ」

「異次元立図書館です」

 双子が通路を隔てた隣の席から声を出した。

 汽車がプーと汽笛を鳴らした。

「おお、異次元図書館だ。あなたにはぜひ紹介しておきたかった場所です」とメキシコ人はZ氏の方を真っすぐに見た。

「おいどんは本は嫌いたい。ドン」とドンが言うと、メキシコ人はポケットの中から長さ一メートルほどのハンマーを出して、ドンの頭の上にドンと落とした。

「この世界で生きて行きたかったら、お前のような奴は無口になれ!」



 ドンはドンと倒れ、通路の上で眠った。メキシコ人はドンの腹をまたいでドンドン先に進んだ。

「わたしたちも」

「行きたいです」と双子が後をついて来た。むろんZ氏もしんがりながら汽車を出た。

 そこは町だった。しきりに自動車が通る。Z氏の生きて来た地球と同じ殺伐とした風景だ。

「この自動車の群れはホログラムなんだ。町を再現するために映し出されている。どうだ、町らしいだろ?」と言ってメキシコ人はさっさと道を横切った。一台の乗用車がメキシコ人に衝突した。Z氏は目を伏せてうずくまる。目を開けると、メキシコ人は平気な顔をして道路の向こうで手を振っていた。

 ホログラムだと言われていても、こんなことをされたら驚く。メキシコ人は明らかに趣味の悪い男だ。

「おい、図書館はどこだった?」とメキシコ人は大きな声できいた。

「図書館、図書館と言いながら歩くと」

「図書館に着きます」

「よし、みんなで図書館、図書館と言おう。それ、図書館、図書館――こら、みんなで言わんか」

「そんな言い方では」

「人は動きません」

「人の動かし方の研究をしているわけではない。異次元図書館前に着いたら誰でも図書館に行く権利がある。わたしは当然の権利を行使しているだけだ」

「論理が」

「おかしいです」

「つべこべ言うな。――なあ、きみは一緒に言ってくれるだろう?」とメキシコ人は急に猫なで声になってZ氏の肩を抱いた。

「はあ、まあ、いいでしょう」と気の弱いZ氏には双子のような根性はない。

「せ~の~、図書館、図書館……」

 二人で図書館を二十二回ほど言ったところで、突然町の風景は舞台の書き割りのように左右に割れて消えて、まるでお城のような巨大な建物が目の前に聳え立った。

 Z氏は「あっ」と絶句した。

「すごいなあ。わたしも噂にはきいていたが、こんな立派なものだとは思わなかった。おい」とメキシコ人は双子に険のあるきき方をした。おじさんを怒らせるとあとがねちっこくていけない。



「おい、ここにはどうやって入るのだ?」

「ドアを開けて」

「体をその中に入れます」

「そういう意味じゃなくて、許可証か何かいるのかときいているのだ」

「許可証など」

「いりません」

「それはよろしい」と言ってメキシコ人は正面のドアを開けた。巨大なドアだ。Z氏が知っている地球上の図書館とは大いに趣が違う。入るためには許可証が必要なのかと、メキシコ人がきいた気持ちが分かる。

 中に入ると正面に大きな階段があって、それが壁に突き当たり、巨大な踊り場が形成されている。踊り場からさらに左右に階段が伸びていた。

 一階部分の階段の左右には透明なドアがあり、その向こうに大勢の人が見えた。

 中はごく普通の図書館の風景だ。

「まずこちらに」

「どうぞ」と双子は階段脇の奥にメキシコ人とZ氏を導いた。

 双子は「お二人を」「お連れしました」とドアをノックした。中から男の高い声で「入ってくれ」と言う。

 メキシコ人は、こんな段取りはきいていないとばかりに双子を睨むが、双子は平気な顔をしてとっとと中に入っていく。

 中には黒っぽい背広を着た男たちが五人ほど、並んでこちらを向いて座っていた。さしずめ会社の面接といった風景だった。

 椅子が四脚並べられてあり、双子とメキシコ人とZ氏は五人の背広の男たちに面と向かって座らざるを得ない。

「さて、全員が揃ったところで会議を続行します」とさっき声を出した高い声の男が発言をする。見ると白髪の痩せた老人だった。

「あなたは会議、会議とおっしゃるが、図書館は国営であるから別にわざわざ会議などで決めることはない。なあなあでよろしい」と西郷隆盛のような顔をした壮年の男が息巻いた。

「これこれ、お客さんが来られたばかりなのに、そんな不適切な本当のことを発言なされては困ります」とさっきの老人が制した。見たところこの老人は議長といった格だ。

「ところでせっかくお客さんにいらしていただいたのですから、そろそろ何か発言なさってもらいませんか?」と背の低い生意気そうな若者が手を上げた。

「さよう」と老人は少し考え、「あなた、あなた、まさしくあなた。あなたは何か意見はないかね?」とZ氏を強く指さして言った。

 Z氏は驚いてうしろにのけぞりそうになった。



 五人の目が一斉に自分に集中されて、Z氏は手に汗をかいた。

「なに、そんなに構えることはない。これは会議といっても議題も趣旨もないから、どんなことを言ってもいいのですぞ」と老人は今度は優しく言った。

「議題も趣旨もなくて、どんなことをしゃべるのです?」とZ氏は小首を傾げた。議題も趣旨もない会議というものに興味をそそられたのだ。

「今、あなたの頭の中にあること。人は決して永遠の中に生きるものではなく、現在に生きるものだ。その現在がたとえ妄想であろうとも、それは真実だ。そうは思わんか?」

「それは興味深い意見です」とZ氏は身を乗り出した。

「妄想についてはこの方は詳しいです。何しろ小説家ですから」とメキシコ人は相変わらず声が大きい。

「小説家は妄想家なのかね?」と老人はZ氏に問いただした。

「妄想家でなければあんな嘘っぱちは書けません」とメキシコ人は勝手に答えた。

「わたしはご本人にきいているのです。あなたはバッテン印のマスクでもかぶっていて下さい」と老人が言うと、西郷隆盛が上着のポケットから本当にバッテン印のマスクを取り出してメキシコ人に歩み寄った。

 メキシコ人はおとなしく、西郷隆盛にバッテン印のマスクをかぶせられた。

「リーとローさん」と老人が呼ぶと双子は同時に「はい」と答えた。

「異次元汽車でのお仕事はどうですか?」

「楽しく働かせて」

「いただいています」

「ところであなた方からもご意見を伺いたいのですが」

「わたしたちは」

「若輩者ですから」

「確かにあなた方は若い。あなた方は若い。だが知恵はたいしたものだ。世界全域にあなた方の賢さは知れ渡っておりますよ」

「おほほほ」

「ほほ」

「ところで、あなた」と老人はまたZ氏に向かった。

 Z氏は思わず「はい」と答えた。

「あなたは本が好きかな?」

「はい、好きです」

「小説家でも本を読まない人がいるとききますが」

「そんな人がいるのですか?」

「おそらく怠けた小説家でしょう。あなたは怠けておられますか?」

 妙な質問だ。頭を掻いて、「一向に売れませんから、おそらく怠けているんでしょう」と答えた。



「静かだなあ」と今まで何一つ言葉を発しなかった坊主頭の青年が、天井を見上げて呟いた。

「そうだ、静かだ」と肩まで髪の伸びた芸術家風の青年が答えた。

「まるで何も争いはないかのようだ」と坊主頭。

「ぼくたちの世界はこうでなくっちゃならない」

「ホルム博士はこの危機をどう切り抜けるのだろうか?」

「ホルム博士とて、今のこの危機は切り抜けるのが難しいだろう」

「そんな不敬なことを言っていいのか?」

「きみは大政翼賛会みたいなことを言うなあ」

「なんだ、それは?」

「なんだか知らん。昨日インターネットで『正義』という言葉を検索していたら出て来た」

「今時『正義』か。珍しい奴だなあ」

「おい、そこの二人、私語は慎みたまえ」と老人が注意した。とはいえ老人は、さっきからこの二人の会話を興味深そうにきき入っていた。老人が熱心にきいているので他の者も邪魔が出来なかったのだ。

 坊主頭と長髪はドンと椅子を引く音を立てて起立して、そのまま部屋の隅に並んで立った。

「皮肉な奴らじゃ。だが皮肉は時には必要なものじゃ。直接怒りを発すると怒りを発した方が被害をこうむることがあるからな。何も悪くないのに」と老人は哲学を述べた。

「わたしたち」

「この方を」

「閲覧室に」

「ご案内します」と双子は穏やかに口をはさんだ。

「それはそれは迂闊じゃった。わしにはつくづく議長は向いとらん。ところであなた」と老人はZ氏に向かう。

「何か議題は考えつかれたかな?」

「はい」とZ氏ははっきりとこう言った。

「今までの一連の不思議な出来事を考えて、ぼくはこう思いました。常識とは何かと。常識がいかに人の心を苦しめるものか、そういうことを話し合われたらいかがかと思います」

「なるほど、なるほど」と老人はいつの間にか部屋の中を小走りに歩き回っていた。坊主頭と長髪は、音楽もないのにしきりに指揮の真似をしていた。

「その議題は確か、先月の第三週に出たかと思います」と小さな若者が、分厚いノートをのぞき込みながら言った。そのノートを西郷隆盛が取り上げてみんなに広げて見せた。そこには女性の裸の写真が何枚も貼り付けられてあった。

「鼻血を出すことは健康やいなや?」と西郷隆盛が朗吟した。

「かしこまりました。わたしも常識について沈思熟考します」と小さな青年は反省の弁を述べた。



 双子はZ氏を連れて閲覧室に入った。メキシコ人もバッテン印のマスクをはずされて後に続いた。マスクをはずしても非常におとなしい。

 閲覧室の中に入ると、不思議なことが起こった。外のガラスからは沢山の人が動く姿が見えたのに、中に入るとその人々がみんなピタリと動きを止めていた。

「これは人々が」

「内面に入っているからです」と双子は説明した。Z氏の反応を待つまでもなく、双子はとっとと奥に進んだ。

「ここに」

「あります」と双子は数限りない棚の林の中の一つの棚の前に立ち止まり、二人で同じ所を指さした。

 Z氏は首を傾げながら双子のそばに歩み、双子の指さす所を見た。

『水色の奇跡』という題名の本を見てZ氏はひどくびっくりした。作者名にZ氏の名前がある。

『水色の奇跡』とは以前Z氏が書いて、出版社に投稿した意欲作だ。見事に落選して、ずっと引き出しの奥に眠っている。

 本になどなったはずはないのだ。

「驚きになるのも」

「無理はありません」と双子はZ氏をなだめた。

「それについてはわたしの所見がありますが、述べてよいかな?」とメキシコ人が久しぶりに声を発した。双子は同時に指を立てて「シーッ」と制した。メキシコ人はがっくりと首を垂れた。

「小さな声で話されるのなら」

「述べてもいいです」

 メキシコ人の首がピコンと上がった。嬉しそうに顔が上気している。

「生まれてこの方小さな声で話したことはないのですが――どうです、小さいでしょうか? そうですか、よかった――この一世一代のチャンスをものにするためならば、自分の性格を三百六十度でも曲げましょう」とメキシコ人は小さく咳払いをした。

「あなた、あなたはあまりにも自己評価が低すぎます。それではあなたの作品を慕う人々に対して失礼ですぞ」

「ぼくの作品を慕う人などいませんよ」

「います。少なくともここに一人います。何を隠そう、このわたしがそうです」



「あなたは異次元の世界では立派な小説家なのです。あなたの小説は、見事異次元の世界について言い表しています。まるで何度もこちらの世界に来ているかのように。そしてあなたはまさしく何度もこちらに来ているのです。それはあなたの意識の領域ではありません。あなたの無意識はあなたを何度もこちらに連れて来ているのです。どうですか? わたしの話は適切ですか?」とメキシコ人は双子にたずねた。

「とても」

「適切です」

「この本を少し見ていいでしょうか?」とZ氏は双子にきいた。

「もちろん」

「いいです」

 水色のきれいな表紙の本だった。日本の安土城みたいなお城の絵が精巧に描かれてある。

「この絵を描いた方を」

「わたしたちは知っています」

「はあ、そうですか」とZ氏は本を見ることに夢中で、上の空になっていた。

「それは」

「この方です」と双子は棚から離れた所に立っている、一人の若い女性を指さした。その女性はもちろん止まっている。

 背は高いが短い髪をした女性だ。一目で活発そうな人だと分かる。それでいて考え深い。決して軽薄ではない、重い表情をしている。重いが暗くはない。深さのともなった明るさの人だ。

「この方を知っているかね?」とメキシコ人は、すっかり小さな声でしゃべることに慣れた様子で、Z氏に向かった。

「知りません」

「あなたは知らずとも、あなたの無意識はご存じじゃ」とメキシコ人はまたもやもったいぶった言い方をした。小さい声なので、もったいぶってもどこか滑稽だ。

「この方とお話」

「なさいますか?」

 Z氏には話したい気持ちはあるが、ためらわれた。彼はこの止まっている女性に、すっかり心を奪われてしまったのだ。

 この人とぼくの間には何かがつながっている、とZ氏は直感した。あがってしまって変なことを言って、このつながりを壊したくない。

 余計な心配だ。だからいい年をしてまだ孤独のままなのだ。

「うん」とZ氏は子供みたいな返事をした。

 双子は女性のそばに行き、「アネモネさん」と言いながら肩を叩いた。二人で女性をはさんで両肩を同時に叩いた。女性の顔がみるみる生気を帯びてきて、最初に首が動く、そして顔が動く。次第に目の焦点が合ってきて、双子を見て挨拶し、その目がZ氏に向かうと途端にニコニコ笑い、「ボー先生!」と叫んだ。



「わたしはあなたを待っていたのです。今日ここにボー先生がいらっしゃるとラジオできいて、ここに二時間立っていました。だって、あなたこの頃ちっともわたしに会って下さらないんですもの」

「ボー先生?」

「あら、あなたはボー先生でしょう?」と女性は目を丸くしてきいた。あまりに目が丸くなったので、目の玉が落ちるのではないかと心配したくらいだ。

「ぼくは……」とZ氏は名前を言った。

「それは知っているわ。でもわたしたちの間ではあなたはボー先生。初めて会った時、エドガー・アラン・ポーが好きだとおっしゃったから、ぼくはエドガー・アラン・ボーと名乗るとおっしゃったじゃない。だからあなたはボー先生」

「この人は今」

「地球上の記憶しか」

「ありま」

「せん」

「そんなこと分かっているわ。そんなにもったいぶって言わないで。わたしは記憶があってもなくてもボー先生が好きなのよ」

「この表紙の絵はあなたが描いたのですか?」

「そうよ、あなたにイメージを語ってもらって描いたの。いいでしょう?」

「いいですね。本当にぼくのイメージ通りだ」

「さあ、行きましょう、行きましょう」とアネモネはZ氏の手を引っ張る。

「どこに行くんですか?」

「屋上に決まってるでしょう。この図書館は屋上が一番の見物なの」

「この人は異次元汽車に」

「戻らないといけません」と双子が釘を刺した。

「そうなの? とても不便なのね。じゃあ、わたしも異次元汽車に乗る。そういえば五百年くらい乗っていなかったわ。異次元汽車で、デート、デートね」とアネモネはZ氏の手を揺さぶりながら踊り始めた。

「アネモネさんの声の大きいのは責めないのかね?」とメキシコ人は不満そうに口を尖らして双子に訴えた。

「可愛い女性の声なら」

「いいのです」

「それはえこ贔屓だ、偏見だ、差別だ」とメキシコ人はにわかに騒ぎだした。アネモネはズボンのポケットから大きなハンマーを取り出すと、メキシコ人の頭をゴツンと叩いた。



 西郷隆盛とZ氏の二人でメキシコ人を担架で運んだ。帰り道は車は通っていなかった。

 アネモネはZ氏のそばにすり寄って、しきりにしゃべっている。

「わたしはこれでも以前は暗い女の子だったの。それがボー先生と親しくしゃべるようになって、すっかり明るくなっちゃった。ボー先生には人を元気にする力がある。それはどういうことかと言うと、現在のその人の状態を否定しないということなの。ボー先生はわたしを決して否定しなかった。あなたはこのままではいけないとか、変わらなければならないとか、決して言わなかった。あなたはこのままでいいが、もう少しよくなるために、だんだん努力しようと言ってくれた」

「誰かれなしにそんなことは言わないよ。駄目な人には駄目と言うよ」

「わたしは駄目じゃなかったのかしら?」

「そうだよ」

「だから嬉しいの。あなたのように人を見る目がある人に駄目だと言われなかったことが」

 異次元汽車に到着した。メキシコ人は箱の中の通路に横たえられる。

「この人は、口はやかましいけれどいい人でごわす」と西郷隆盛がメキシコ人を指さしてZ氏に言った。

「それはいいんですが、ぼくは地球に帰れるんでしょうか?」とZ氏は初めて話の通じる人に出会った予感がしたので、西郷隆盛にたずねた。

「やはり帰りたいですか?」

「帰りたいです。自分の家がありますから」

「あなたは水たまりと靴のたとえをご存じですか?」

「いや、知りません」

「それならば帰りたいと思うはずです。水は本来ある場所にあるととても重宝されるけれど、水たまりでは靴に避けられるばかりです。あなたもそろそろ自分の本来いるべき場所を見つけるべきです。そうすればあなたの花が咲きますたい」

 西郷隆盛はこれだけ言うと、踵を巡らせて異次元汽車から出た。Z氏はもう少ししゃべりたいとばかりに追いすがったが、セーターの裾をアネモネに握られて動けなかった。

「そろそろ」

「座って下さい」と双子は座席に並んで腰掛けて静かに言った。アネモネは大きなハンマーを網棚に置いて腰掛けた。必然的にZ氏はアネモネの隣に座る。

 きれいな女性に好かれることは気持ちのいいことだ。ただ彼女は少し話し方が大袈裟なので、面食らっているのだ。

 大きなハンマーで思い出したが、ドン大魔王の姿はどこにもない。



 汽車が走り出すと、アネモネはポケットから本を出して読み始めた。今まであんなにしゃべっていた人が、突然自分の世界に入り込んだのでZ氏は驚いた。

「何を読んでいるんだい?」とZ氏はこうきいた方がいいと判断した。

「ホルム博士の『妄想語録』よ」と言ってアネモネは、文庫本くらいの小さな本をZ氏に手渡した。小さい本だが堅い表紙で、背表紙の部分に金箔が貼られているように見える。

「へえ~、なかなかいい本だね」

「本当に記憶がないのね。あなたいつもこの本を見ていたじゃないの」

「知らないなあ。ホルム博士というのは随分と有名な人みたいだね」

「有名も何も、この世界で知らないのはきっと今のあなただけよ」

「怒ってるのか?」

「知らないことを怒れないわ。ただじれったいだけ。でも考えてみれば今のあなたが本当のボー先生だから、今のあなたと親しくすればわたしはボー先生の全てを知ることになる。素晴らしいわ」とアネモネは胸の前で手を組み合わせた。

「これは詩の本かね?」

「これはお言葉よ。お言葉には深い意味があって、浅いところには意味がないの。たとえばこのお言葉――」と言ってアネモネは本を取り上げて読み上げた。


――太陽の光がこの身に入り込んで

  こんにちはと言う

  わたしの心臓は

  眩しい眩しいと動悸する

  二つの肺がハハハと笑い

  心臓は赤面する


「意味が分からないなあ」

「これは恋についてのお言葉よ。ホルム博士ってなかなかロマンチックなの」

「それは」

「違います」と双子が不意に口をはさんだ。

「何が違うの?」とアネモネは口を尖らした。

「それは真理を得た人のことを」

「言っているのです」

「まあ、あなたたちはわたしを否定するの? いやな人たちだわ」

「感情的に」

「ならないで下さい」

「うん? ここはどこだ?」と言いながらメキシコ人が体を起こした。

「けんかはいかん、けんかはいかん」



「そういえば、恋の詩という」

「見方もあり得ます」と双子は相変わらず前を向いて言った。

「いいのよ、別に。否定しても。人というのは他人を否定するために生きているんだから」

「そんなやけな言い方を」

「しないで下さい」

「アネモネさんは短気でいかん。どれ」とメキシコ人は網棚から大きなハンマーを降ろした。

「これをどうしますかな?」

「わたし、出し方は知っているけど、しまい方を知らないの」

「そういう時にはおじさんに任せなさい。一生にいっぺんくらいはおじさんというものが役に立つことがある」

 メキシコ人はハンマーの柄の部分を平手でコツンと叩いた。ハンマーはみるみるうちに小さくなり、銀行のカードみたいになった。

 Z氏は珍しいものを見て驚嘆すした。メキシコ人は目ざとくZ氏の反応を見つけて、「どうです、少しはわたしのことを尊敬しましたか?」と鼻の頭を指で軽く弾いた。

「西郷隆盛さんがあなたのことを、いい人だと褒めていました」とZ氏は直接答えることを避けた。

「うっ、何? あの男がわたしを褒めていた? わたしにバッテン印のマスクをつけたあの男がわたしを褒めていた?」

「あれは職務上のことだから、仕方ないでしょう」

「あなたは妙に見識ばったことをいうんだな」とメキシコ人はZ氏に対して指を立てた。

「西郷隆盛さんは嫌いですか?」

「実はな、怖いんだ。分かるだろう? わたしはああいうタイプの人は苦手なんだ。落ち着いてこちらをじっと見ているようなタイプが」

「それではわたしたちも」

「苦手ですね?」と双子がきいた。

「可愛い女の子は別だよ、子猫ちゃん」

「まあ、すけべなおっさん」とアネモネが足で軽くメキシコ人の膝頭を蹴った。

「アネモネさんは性格がはっきりしているからいい」とメキシコ人はニコニコ笑っている。

 どこかから『ボレロ』が鳴る。メキシコ人がコートの裾をまくり上げて、携帯電話を取り出した。異次元にも携帯電話があるんだな、とZ氏は不思議そうな顔をして「もしもし」と言うメキシコ人を見た。



「はっ、そうですか。分かりました。大丈夫です、こちらには小説家先生がいらっしゃいますから。お名前はボー先生とおっしゃるらしいのです。アネモネがそう言っておりました。あっ、アネモネですか。髪の短い長身の美人です。おっ、美人ときいてよだれの音がきこえましたよ。は、はい、ふざけるのはやめます。さっそく異次元汽車の軌道を変えて研究所に向かいます。ホルム博士はお元気ですか? はあ、そうですか、そういう機密事項は教えられないですね。近所のおっちゃんの安否をきいてるんじゃないですからね。はい、分かりました。車掌に棒つきキャンディーを一年分渡しておきます。それでは」

 メキシコ人は鷹揚に胸をそらせて、携帯電話をポケットにしまった。自分ほど重要な人物はいないという認識らしい。

「さて、わたしには用事がありますので、この箱を去ります」

「棒つきキャンディーだけで大人は動かないわよ」とアネモネがもっともなことを言う。

「分かっとるよ、分かっとるよ、口が汚れた時に拭くタオルもちゃんとつけておく」

 誰も言い返さない。メキシコ人は全員を言い負かしたと勘違いをして、意気揚々と箱を去った。

「メキシコ人は本当はもっと偉くなる人だったの」とアネモネが説明した。

「何しろホルム博士とはいとこどうしですもの」

「へ~」

「でも、性格が軽薄だからという理由で、こういう旅回りの仕事をさせられているの。若い頃は前科もあったっていう噂よ」

「どんな?」

「銀行強盗の見張り役。自分が強盗しないで見張り役に回されるところがあの人らしいわ。どこでも人に好かれるの」

「ぼくも好きです」

「スキー場の雪の上でバーベキューをして、警察に事情聴取も受けたらしいわ」

「別にたいした罪じゃないでしょう」

「銀行強盗の見張り役の時もね、犬の遠吠えを支店長の咳払いと勘違いして大騒ぎをして、結局何も盗めなかったらしいわ」

「それじゃあ罪にならないじゃないか」

「そうよね、なのにあの人はわざわざ警察に行って『わたしは強盗の見張り役をしました』と言ったらしいの。でも監獄に入っても仲間の名前は決して言わなかった。『わたしが見張り役をして、わたし一人で盗みをしようとした』と言い張ったの。あの大きな声だから、警察の人も耳栓の調達が間に合わなくて、あの人の主張が通ることになったの」



「ピンポンパンポ~ン」と車内放送が始まった。

「ただ今異次元汽車はポッポ・ジャックされました。これから進路を変更して、ホルム博士の研究所に向かいます」

「おい」とメキシコ人の声がスピーカーからきこえた。

「ポッポ・ジャックとは人聞きの悪い。わたしはこうして棒つきキャンディーを一年分持って依頼に来たんじゃないか」

「よく棒つきキャンディーを一年分も持ってらっしゃいましたね」

「わたしは何でも持っている。持っていないのは良心だけだ」

「ご冗談を。あなたはとても立派な良心の持ち主ですよ。あなたのことを愛さない人はおりますまい」

「おお、嬉しいじゃないか」

「まあ、車内放送でこんなコントをするのはやめて……」

「今の言葉はコントか?」

「いえいえ、滅相もない。それではホルム博士の研究所にレッツ・ゴー」

 また口にバッテンマークのマスクをかぶせられたのか、メキシコ人の声はきこえない。

「面白い人ね。わたし、大好き」とアネモネが高い声で言った。

「そのわりには」

「つらく当たるんですね」と双子が皮肉を言った。

「当たり前じゃないの。あの人は独身の男よ。ニコニコ笑って大好きなんて言ったら、市役所に婚姻届けを取りに行きかねないわ。これぐらいの警戒はレディーのたしなみね」

「そうです」

「か」

「あなたたちは二人いて、しかも皮肉が鋭いから、男は誰も怖くて寄って来ない。それはそれであなたたちの防御の方法なんでしょう?」

「そんなこと意識した」

「ことはないです」

「それにしても仲がいいわねえ。いつもせりふを分割してしゃべるんですもの」

「これは」

「癖です」

「癖というより立派な芸よ。ザ・ピーナッツも茉奈佳奈も真っ青だわ」

「それは」

「誰です」

「誰だっていいじゃないの。あなたたちみたいな賢い人。――あら、メキシコ人が帰って来たわ」

「やあ、やあ、皆さん、お待ちかね。車内放送はきいたかね」

「ききました。なかなか面白かったわよ」とアネモネ。

「わたしがやるとどうしていつもこうなるんだろ。他の連中はもっとスマートに仕事をこなすのに」

「スマートさなんかまるで機械みたいで、わたし嫌いだわ。あなたのようなやり方が人間的でとても立派だわ」

「おお、そう思うか。それは嬉しい。今日市役所に行って、婚姻届を貰って来よう」

「ほらね」とアネモネは双子の方を見た。



「研究所のある森に」

「入りました」と双子が相変わらずせりふを分割する。

「懐かしいなあ」とメキシコ人は顎を撫でた。

「一昨日来たばかり」

「じゃありませんか」と双子は突っ込みを入れる。

「一昨日は一昨日だ。今日は今日だ。だから懐かしい」

「強引」

「ですね」

「男は強引でなくっちゃ。なあ」とメキシコ人はZ氏に話を振った。

「強引なのは考え物です。人が本当に動くのは強引さによってじゃないです」

「おっ、なかなか立派な哲学を言うなあ。ご高説を拝聴しようじゃないか」とメキシコ人は珍しく皮肉的だ。

「ところでホルム博士というのは、大統領か総理大臣ですか?」とZ氏はメキシコ人の言葉には答えずに双子にたずねた。

「異次元に、大統領とか総理大臣とかいう趣味の悪いものはいないわ」とアネモネが代わりに答えた。

「異次元の中で一番立派な人なんだね?」

「そうよ。わたしたちでは思いも及ばない知恵を持ってらっしゃる」

「子供の頃はわたしの方が賢かったのになあ」とメキシコ人はため息をついた。

「あなたは今でも賢いわ。すぐに市役所に行くとさえ言わなければ」

 汽車がガタンという音をたてて止まった。蒸気の音がスースーきこえた。

 汽車から降りると、黒い背広を着た集団がホームにズラリと並んでいるのが見えた。みんな無表情で直立不動だ。きっと警備員か何かだろう。

 メキシコ人は黒い背広の集団に向かって「やあ」と手を上げた。誰も反応しない。メキシコ人の顔は悲しみに曇った。



「これはこれは、リーとロー様」と駅前で大きく腹の出た男が出迎えた。彼も黒服を着ている。口ひげを生やしているので、きっと偉い人なのだろう。

「わたしもいるんだがね」とメキシコ人は僻んだ。

「あなたがいるってことは、見たら分かります」

「双子がいることも見たら分かるだろう」

「なんせ可愛いお嬢様方だから」

「わたしも可愛いお嬢様よ」とアネモネが、物おじすることなく割って入った。

「はて? さて?」

「知らないでしょう、わたしのこと。それはそうだわ。わたしここに来るのは初めてですもの」

「おお、よく見ればとても可愛い。ワンダフルです」

「よく見ないと可愛くないの? わたしを見る時は顕微鏡が必要ね」

 腹の大きく出た男は、鷹揚にハッハッハッと笑った。

「わたしの名前はアンダンテ・カンタービレと申しまして……」

「つくづく思うが、お前にはそんな繊細な名前は似合わない。ドン・ガバチョ二世にでも変えろ」

「親につけてもらった名前を変えろだなんて、それはあまりにご無体な」

「ご無体なんて思ってはいないだろう。子供の時にわたしのあとを鼻水を垂らしてついて来た子供が、今では国民的名士だからな」

「おかげさまで」

「この方がボー先生だ」とメキシコ人はZ氏を前に押しやった。Z氏は不意をつかれて立ちすくんだ。

「これはこれは、お待ち申しておりました。ホルム博士がお待ちです」と言って大きな手を差し出した。Z氏も手を出さざるを得ない。Z氏の手は、アンダンテ・カンタービレの大きな手の中に埋没してしまった。

 アンダンテ・カンタービレは口笛を鳴らした。太ったむさくるしい雰囲気には似合わない、美しい音色だった。

 六人がいるそばの地面に突然四角の切れ目が現われ、少しずつ陥没して行った。

「地震ではないので安心しなさい」とメキシコ人は驚くZ氏の肩に手を置いて励ました。

 四角の穴は随分深い所まで掘り下げられて、手前に階段が現われた。

「さあ、どうぞ」と言いながら、アンダンテ・カンタービレは先に階段を降りた。

「何、こんなのは怖くはないですよ」と言って、メキシコ人はスキップをしながら階段を降りた。アンダンテ・カンタービレに「こら」と叱られている。

 Z氏もアネモネも双子も降りた。



 自動ドアを抜けて中に入ると、そこはきれいなビルのフロアのようだった。陥没した穴から入った場所とはとても思われない。

「ホルム博士の研究室はこの地下ビルの最下階にあります」とアンダンテ・カンタービレが言った。

「お前の名前はボテバラービレだ」とメキシコ人が後ろから言った。

「そんなこと言ってるから、あなたはメキシコ人だなんて呼ばれるのよ」とアネモネは注意した。

「ただの民族の名前じゃないの」

「わたしだってちゃんと名前くらいありますよ。それは――」

「まあ、まあ、それよりもあったかいコーヒーでも飲みませんか」とアンダンテ・カンタービレはわざと遮った。

「ちょうど喉が乾いていたの」とアネモネ。

「わたしたちも」

「いただきます」

 メキシコ人の本名はどこかに飛んで行った。

 アンダンテ・カンタービレが壁のボタンを押すと、壁から不意にテーブルが迫り出してきた。そしてコーヒーカップに入れたコーヒーが六個、壁からテーブルに向かって流れてきた。

「面白い機械ですね」とZ氏は素直に驚嘆した。

「ここでは何でも言ったものが出て来ます」とアンダンテ・カンタービレは腹をドンと叩いた。

「お前の退職願いを出してほしいな」とメキシコ人が嫌みを言った。

「それは出ませんな。何しろ永久に必要のないものですから」とアンダンテ・カンタービレは余裕だ。

「それじゃあ、婚姻届を出してくれ」

「まあ、まだ言ってる。いやな人だわ」とアネモネが不満を述べた。

「すまん、すまん、お詫びのしるしにケーキを出そう。ここのティラミスはおいしいぞ。おい、ティラミスを出せ」とメキシコ人は偉そうに命令した。

 アンダンテ・カンタービレは今度はムキにならずに、「かしこまりました」と言って、口の中で小さく何か言っている。するとテーブルの上のベルトコンベヤーに、ティラミスが流れて来た。

 アネモネは喜んでティラミスに飛びついた。

「リーとローさんもいかがです?」とアンダンテ・カンタービレは上品にたずねた。

「わたしたちは」

「結構です」と双子は答えた。

「わたしは結構じゃないわ。お上品ぶっても上からお金は降って来ないわ」とティラミスを頬張るアネモネの口は悪い。

「一同、敬礼!」と、どこかから男の声がした。

「ホルム博士です」とアンダンテ・カンタービレの顔はにわかに緊張した。



 まるで大病院の院長回診のように、何人かの人間が団子になってこちらに近づいて来た。一番前の中央にいる男がホルム博士なのだろう。上品な顔立ちをした長身の男だ。

 アンダンテ・カンタービレは大きな腹を突き出して敬礼をした。メキシコ人は顎を撫でてニヤニヤしている。余裕の態度だ。女性たちも気をつけの姿勢で緊張しているのに。

「やあやあ、お兄さん」とホルム博士が少し小走りになって、メキシコ人の元に近づいた。メキシコ人はビクリと身を震わせた。「やあ」と言って上げた手がこわばっている。

「今回はどうもすみません。この方ですか?」とホルム博士はにこやかな顔をZ氏に向けた。

「そ、そ、そうだよ」とメキシコ人の声は不意にかすれた。

「なかなか立派な顔立ちをされた方だ。人間、大事なのは顔立ちですな。お兄さんはそうは思いませんか?」

「うん、思う」とメキシコ人は相槌のような返事をした。

「アンダンテ・カンタービレ」とホルム博士は命令口調になる。

「はい、何でしょうか」

「この方たちをタヌキの間にお連れしろ」

「かしこまりました」

 ホルム博士の一団は颯爽としてその場を去った。

 アンダンテ・カンタービレはハンカチで額を拭うと「こちらにどうぞ」と先に歩き出した。

「急にホルム博士が来たのでびっくりしたんだろう」とメキシコ人はアンダンテ・カンタービレをからかった。

「なに、そうでもありません」

「嘘をつけ。汗をかいてガチガチだったじゃないか」

「あなたこそ緊張してたじゃないの」とアネモネが突っ込みを入れた。

「わたしはホルム博士とはいとこどうしだ。緊張するような間柄ではない」

「それにしてはどもっていたわ」

「大人をからかうもんじゃない。見たことも見ないと言うのが大人というもんだ」

「あなたこそ子供よ。すぐ市役所で婚姻届って言うでしょう。中学生以下よ」

「市役所のことは単なるジョークだ。ホルム博士とのことは、大人どうしのプライドがかかった重要なことなのだ」

「市役所のことも、わたしの女性としてのプライドのかかった重要なことよ」

 二人は永遠に平行線だ。



「それにしてもタヌキの間というのは変だなあ」とメキシコ人はアネモネにそっぽを向きながら、いつもの大声で言った。

「タヌキの間のどこが変なのでしょうか? ホルム博士の知恵に溢れた命名を侮辱なされるのですか?」

「だって子供みたいだろう?」

「そんな風に」

「憎まれ口を」

「言わないで」

「下さい」と双子が注意をした。

「憎まれ口か。そうだな、どうもここに来てからわたしは精神が不安定になっているようだ」

「メキシコ人は可愛そうな人なのね」とアネモネが同情した。

「分かってくれるか。もう市役所の婚姻届のことは言わない。わたしはもっと自分の精神を安定させることに集中する」

「メキシコ人はいい人よ。みんなそう思うでしょう?」とアネモネがアピールした。

「そうです。いい人です」とアンダンテ・カンタービレが同意した。

「とても」

「いい人です」と双子も賛同した。

「ボー先生はどう思う?」とZ氏はアネモネにたずねられた。

「うん、いい人だと思うが……」

「随分自信がなさそうね。でもあなたはまだメキシコ人と知り合いになってから日が浅いから、何も判断は出来ないわね。あら、もう着いたの? 本当だ、タヌキの間っていうプレートがかかってある。面白いわね」

「あなたまでホルム博士の命名を侮辱するのですか?」とアンダンテ・カンタービレが不満を述べた。

「あら、いやだ、面白いと言って褒めたのよ。世の中面白いのが一番。面白くてそれが人の不幸につながらないことなら、どんどんするべきだわ。だからこんな真面目な場所にタヌキの間なんて名前をつけたホルム博士は素晴らしいと思うわ」

「どうもありがとうございます」

 アンダンテ・カンタービレは単純な男だ。

「さて」と一通り全員がタヌキの間のソファに腰を掛けると、アンダンテ・カンタービレが口を開いた。

「ボー先生ですね?」

「はい、多分ぼくはボー先生なんですね?」とZ氏はアネモネに顔を向けた。

「そうよ、あなたはボー先生」とアネモネは簡単に答えた。

「それならばボー先生、ここで略式で事情聴取をします」とアンダンテ・カンタービレは書類入れから一枚の白紙を取り出すと、Z氏の前に腰掛けて構えた。



「あなたの職業は何ですか?」

「ぼくの職業ですか。ぼくはただの無職です」

「おや、あなたは小説家じゃないんですか?」

「売れていないから、小説家と称することは出来ません」

「あなたの世界ではどうか知りませんが、こちらの世界ではあなたは売れてらっしゃる」

「図書館にあるあなたの本を見たでしょう?」とアネモネが口をはさんだ。

「あなたはれっきとした小説家よ」

「というわけで、職業欄には小説家と書いてよろしいですね?」

「そう書いていただければ嬉しいです」

「ところで、あなたは日に何回白昼夢を見ますか?」

「白昼夢ですか? ぼくは年がら年中白昼夢を見ているようなものです。だから社会に適応出来ないんです」

「そうですか。随分悲観なさっているんですね。もっと面白い質問をしましょう。あなたは空の雲が好きですか?」

「好きですねえ。どうしてぼくが空の雲を好きなことを知っているんですか?」

「知らないから質問しているんですよ。それでは空の雲は時々何に見えますか?」

「この頃雲を見なくなったのでもう一つピンとこないですが、まあ、羊ですか」

「それは極めて月並みだ。たとえば、バッキンガム宮殿が洪水で流されるようには見えませんか?」

「ぼくはバッキンガム宮殿を見たことがないので……」

「写真でも?」

「見たことはあるかも知れませんが、覚えていません」

「それでは万里の長城は?」

「それならテレビで何回も見ました」

「万里の長城は何キロあると思いますか?」

「う~ん、知りません……」

「わたしも知りません。ところで――どうかしましたか、急にがっくり肩を落とされて」

「知っているのかと思って」

「わたしは、能ある鷹は禿を隠すと言われるほどの男ですよ」

「それはどういう意味ですか?」

「物事、意味があるようで意味はない。意味がないようで意味がある。そうしたもんです」

 Z氏はアンダンテ・カンタービレの顔を見つめて、何とも言いかねている。

 ドアがコンコンとノックされて、ホルム博士その人が部屋の中に現われた。



「やあ、皆さん、皆さん。お待ちかねで。実に性格のおとなしい男が参りました」と耳にキーンと鳴るような高い声だ。

「ただ今事情聴取しておりました」

「事情聴取とは堅いですなあ。わたしはおとなしい男だから、そんな警察のような言葉はよう使わん」

 アンダンテ・カンタービレは直立不動で苦笑いをしていた。

 他の全員もホルム博士に敬意を表するために立ち上がった。

「ちょっとその紙を貸しなさい。どれどれ――空の雲が羊に見える? 月並みだが健康的でよろしい。わたしは時々ギロチンに見えるから、極めて健康に悪い。ところでボー先生でしたな?」

「そうです。この人がボー先生です。わたしが連れて来ました」とメキシコ人が発言した。

「きみにきいたわけではないんだが、まあいいでしょう。せっかくこの人をここまで連れて来てくれたのだから、ありがとうです」とホルム博士はメキシコ人の肩を叩いた。そしてZ氏の顔を穴のあくほど見つめていた。

「あなたはとても男前ですね」とホルム博士はメキシコ人の肩越しにZ氏に声をかけた。

「いえ、全然女性にもてないです」

「わたしは好きよ」とアネモネが割って入った。

「おお、このご婦人は?」とホルム博士はメキシコ人の肩越しに、双子にたずねた。

「アネモネさんとおっしゃって」

「ボー先生のファンの方です」

「おお、久しぶりですな。あなたたちお二人の声をきくと、とても心が休まります。ところでボー先生」とホルム博士はメキシコ人のそばから離れて、奥にある豪華な椅子に腰掛けた。

 他のみんなも思い思いにソファに腰掛けた。

「あなたは今ここに何をしに来たのかご存じですか?」

「いえ、知らないです」

「異次元汽車に乗る前にあなたは何をしてらっしゃいましたか?」

「小説を書いていました」

「どんな小説ですか?」

「うんこ星人の話です」

「ほー、それは純文学ですか?」

 うんこ星人ときいて純文学を連想するホルム博士は、極めて変わっている。



「あなたの『水色の奇跡』面白く読ませていただきましたよ」とホルム博士は椅子から少し身を乗り出した。

「あれは随分以前に書いた小説で、実に真面目な小説です」

「そうですな。でも人間、真面目なのが第一です」

「博士、昨日はお休みになれましたか?」とアンダンテ・カンタービレがたずねた。

「眠れることは眠れたが、またあの町に連れて行かれた」

「そうですか、困りましたなあ」

「わたしが毎夜夢の中であの町に連れて行かれるものだから、首脳たちが実に困っておる」

「博士のお言葉がなければ、わが異次元の秩序は乱れるばかりです」

「そこでだ」とホルム博士はまたZ氏の方に身を傾けた。

「わたしはきみをここに呼んだんだ。きみにとても多くのことを期待しておる」

「はあ」とZ氏は全く要領を得ない。

「『水色の奇跡』のあの想像力にはわたしは感服しておる。ぜひきみに助けてもらいたい」

「何をすればいいのですか?」

「何をすればいいのだね?」とホルム博士はアンダンテ・カンタービレにたずねている。

「は? 何をすればいいのか、ご存じないのですか?」

「わたしがいつも即興でものを考えることは知っておるな?」

「はい、存じております」

「ならばそんなに驚くことはないだろう。わたしがびっくりするじゃないか」

 突然メキシコ人が「ハハハハ」と笑った。

「何がおかしいんですか?」とアンダンテ・カンタービレはかなりムッとしている。

「このいいかげんなところがわたしは大好きで。これが魅力というものですな。ホルム博士にはいつも感服させられます」

「それは皮肉ですかな?」

「そんなに怖い顔をしてわたしを見ないで下さい。杓子定規な顔は異次元には似合いませんよ」

「そうだ、そうだ、メキシコ人の言う通りだ。アンダンテ・カンタービレはどうも頭が堅くていかん」とホルム博士が指摘した。

「どうも話がおかしいです。どうしてわたしだけが悪者になるんですか?」

「人生とはそういうものだ」



「ボー先生、わたしが夢の中で政務をとっていることをご存じかな?」とホルム博士はたずねた。

「知らないです」

「おい、知らないと言ってるぞ。わたしはそんなに無名なのか?」とホルム博士はアンダンテ・カンタービレを睨みつけた。

「博士は有名でございます。宇宙の果てまでその名は鳴り響いております。地球の人間が遅れているだけです」

「地球の人を目の前に置いて、地球の人の悪口を言うのか。ひどい奴だ」

「どうしてそうなるんです? わたしがまた悪者ですか? おかしいなあ」

「おかしくない。あなたはそういう役の人だ。そのために人より沢山の給料を渡している」

「へへへ、ありがとうございます」

「ところでさっき眠っている間に町に連れて行かれると言ったが、それについて説明しよう」と言ってホルム博士は椅子から立ち上がった。そして部屋の中を靴音をたてて歩き始めた。

「わたしはこう見えても冗談が好きだ」

「どう見えるんだね?」とメキシコ人が笑いながら突っ込みを入れた。アンダンテ・カンタービレはメキシコ人をギロリと睨んだ。

「ハハハハ、どう見えるかは諸君の目に任せよう。とにかくわたしは楽しいことが好きだ。そしてこの宇宙を楽しいことの宝庫にしようと思っておる。だがわたしは同時にこの異次元の指導者でもある。指導者というものは、そういつもギャグを言って勤まるわけではない。そこでわたしは一つの妙案を思いついた。夢の中にいる時に真面目な決定を下そうと。夜になるとわたしのベッドのまわりに異次元の首脳たちが集まる。わたしが眠ると、首脳たちはわたしに様々な質問をする。わたしは眠りながら難問を次々と解決していく。それで毎日の政務が片付くわけだ。

「ところが、この二週間ほど前から、わたしは眠ったまま質問に答えなくなった。わたしは夢の中でどこか知らない町に連れて行かれる。だから首脳たちの質問がきこえないのだ。異次元の政治活動は今停滞しておる。どうかしてこの難局を切り抜けないといかん。そこできみを呼んだのだが、今の説明で分かったかな?」

「はあ、それで、ぼくは何をすればいいのですか?」

「彼は何をすればいいのかな?」とホルム博士はまたアンダンテ・カンタービレにたずねている。

「えっ、本当に分からないんですか?」とアンダンテ・カンタービレは驚く。



「わたしはあなたの『水色の奇跡』を読んだ時、わたしのこの難しい局面を解決してくれるのはあなただと直感したんだ。これはあくまでも直感で、確かな根拠はない。ところであなたはこの異次元に来てから、妄想についてたずねられることはあったか?」

「しょっちゅうたずねられますね」

「異次元では妄想は大事なものなんだ。理性というものは重んじられない。あなたがここで歓迎されるのは、あなたが美しい妄想を持っておられるからだ」

「美しい妄想ですか」

「妄想、妄想といって、何でもいいわけではない。わたしたちが望むのはあくまでも美しい妄想だ」

「それで、わたしは何をすればいいのですか?」

「正直言ってわたしにもよく分からん。ただあなたなら大丈夫だと考えるのだ」

 実に曖昧模糊とした依頼だ。

「博士、事は急を要します」とアンダンテ・カンタービレが口をはさむ。「今すぐにでもこの方に何かをしていただいた方がいいのでは?」

「わたしは夢の中の町に行きたいと思っているのだが、あなたも来てくれるかな?」とホルム博士はZ氏にたずねた。

「夢の中の町に行けるのですか?」

「夢の中にいる時にちゃんと住所を書いておいたから行ける。ほら、ここだ」とホルム博士は一枚の紙を胸ポケットから取り出した。それはアンダンテ・カンタービレの名刺だった。

「わたしの名刺の裏に書きなさったのですな。それはひどい」とアンダンテ・カンタービレは恨み事を言った。

「いつも寝る時にお前の名刺を枕元に置いておくのが、ひどいことなのか? わたしはお前に守られないと、生きていけないのに」

「ああ、すみません。そんなこととは知らず恨み事など言って。わたしこそひどい家来です」

「そうだ、お前はひどい家来だ」

「あれ? やっぱりわたしは悪者ですか?」とアンダンテ・カンタービレは首をひねった。

 ホルム博士はハハハと軽く笑って、アンダンテ・カンタービレの名刺の裏をZ氏に指し示した。


  「異次元の果て三百二十一丁目」



「きみたちはみんな異次元汽車の乗客だろう?」とホルム博士は手を広げて全員に問うた。

「そうだよ、あなたに会うために、わざわざ棒つきキャンディー一年分で運転手を買収してきた」とメキシコ人が急に元気になって妙なことを言った。

「棒つきキャンディー一年分はいい案だ。綿菓子一年分だと持ち歩きにくいからね」とホルム博士も負けてはいない。

「わたしも久しぶりに異次元汽車に乗ろう」とホルム博士は子供みたいな無邪気な声を出した。

「博士のように偉大な人には、空飛ぶ家を用意してありますが」とアンダンテ・カンタービレが異論をとなえた。

「空飛ぶ家は確かに便利だが、わたしだってたまには古典的に汽車に乗りたいじゃないか。暗殺を恐れているのか?」

「もし博士の身に何かあれば、わたしなど生きている価値はなくなりますから」

「なに、お前なら紳士服の大きいサイズのモデルになれるだろうから、食うには困らん。何なら今から百貨店に電話をして、手を打っておこうか?」

 アンダンテ・カンタービレは、呆れてしまったのか何も答えない。ホルム博士は今度は双子に顔を向けた。

「あなた方は今、異次元汽車の管理をしているときいたが?」

「管理などは」

「しておりません」

「管理というと堅苦しいのお。監督か?」

「同じことだと」

「思います」

「メキシコ人には、わざわざこの方を連れて来ていただいてありがたいと思っている」

「本当にありがたいと思ってるのか? わたしなど、この研究所に入る価値もないと思ってるんじゃないかね?」

「そんな意地の悪いことは言わぬが花だよ。意地の悪いのはわたしかなあ。何しろわたしはわたし一人の体ではないから、少々の意地の悪いのは仕方がない。メキシコ人にはどうもすまんと思っている」

 ホルム博士は神妙になってしまって、場の雰囲気がどうも暗くなってしまった。アンダンテ・カンタービレはメキシコ人をギロリと睨んだ。

「さて、行こうか」とホルム博士は急に大きい声を出した。切り替えの速さが、指導者の指導者たるところだろう。

「アンダンテ・カンタービレ、お前も行くか?」

「わたしは研究所での仕事が残っておりますので」

「そうだな。お前は電車に酔うんだったな」

「電車に酔うからではありません。仕事が残っているから行けないんです」

「まあ、まあ、そう無理しないで」とホルム博士はアンダンテ・カンタービレの肩をポンポンと叩いた。



 階段を上り四角い穴から外に出ると、そこは駅だった。いつの間にか人だかりが出来て、みんなホルム博士に手を振った。ホルム博士は右手を上げてニコニコしている。

 駅長は最敬礼でホルム博士一行を出迎えた。

「どうしてわたしがここに来ることが分かったのかね?」

「アンダンテ・カンタービレ閣下にお教えいただいたので」

「あいつは余計なことをするなあ。わたしは誰も送る者がいなくても僻まんのに」

 異次元汽車の運転手は、駅のベンチで棒つきキャンディーを食べていた。ホルム博士を見ると、急いで立ち上がり敬礼をする。そのはずみで棒つきキャンディーが一つ落ちて、運転手は惜しそうに地面に落ちた棒つきキャンディーを見つめている。

「すまんことをした。わたしごときのために、貴重な棒つきキャンディーを台なしにして」とホルム博士は手を上げて謝った。

「わたしのあげた棒つきキャンディーだから、彼の懐は何も痛みません」とメキシコ人が口をはさんだ。

「あげた物はいただいた者の所有となる。さすればあげた者がとやかく言う筋合いはない」とホルム博士は妙な説教をした。

 Z氏とアネモネが隣どうしに座り、その前にホルム博士が一人座った。双子とメキシコ人は通路の向こうの四人座席に向かい合って座った。

「わあ~、これから夢の中の町に行けるのね」とアネモネはウキウキしている。

「あなたは夢の中の町が怖くはありませんか?」とホルム博士がアネモネにたずねた。

「怖いけれど、ボー先生が一緒だから大丈夫」

「それはよろしい。ところでボー先生、あなたは随分無口ですね」

「わたしは長い間小説を書くために家にこもっていたので、社交を忘れてしまったのです」

「それはいけない、それはいけない、人間、何と言っても社交が第一ですから。わたしのような冗談の嫌いな人間でも、こうして無理に冗談を言っているんです」

「無理に言ってらっしゃるんですか?」

「いや、本当は無理ではありません。これは一種の言葉のアヤです」

「どんなアヤです?」

「随分突っ込みますね」



「ほら、見なさい」とホルム博士は窓の外を指さした。見ると空の上の方に光のカーテンがかかっている。

「美しいでしょう」とホルム博士はZ氏に対して自慢げだ。

「地球ではこれをオーロラと呼ぶんでしょう? あなたはオーロラを見たことがありますか?」

「ぼくはありません。第一この頃外に出ていないので、普通の空も見ていないです」

「それはいけない、それはいけない、では夢の中の町に行く前に、ちょっと面白い所に行きましょう」

「面白い所とはどこです?」

「人生はカーニバルです。つまらぬ遠慮や世間体なんか気にしていちゃあ駄目です。そういうものにとらわれない人を達人と呼ぶんです。楽しみましょう、楽しみましょう。リーとローさん」

「はい」

「なんでしょう?」

「カーニバルの町はこの辺だったかなあ?」

「お忘れですか?」

「あなたが作った町なのに」

「わたしが最も力を入れて作ったのはカーニバルの町だ。あまりにも沢山作ったので、どこにどれだけあるのか忘れてしまった」

「まあ」

「無責任」と双子は笑っている。

「彼は昔からこのように無責任だった。なんで指導者になんかなれたのか、わたしには理解出来ない」とメキシコ人が苦言を呈した。

「ハハハハ、わたしは呑気者なんだ。これからの世の中で一番大事なのは呑気さだよ」

「わたしは納得出来ない」

「あなただって呑気じゃないの」とアネモネがメキシコ人に突っ込みを入れた。

「市役所に行って婚姻届を取りに行こうなんて、何度も言うじゃない。わたしがいやな顔をしているのを知っているのに」

「あれは冗談だよ」

「趣味の悪い冗談は犯罪よ」

 メキシコ人はアネモネの言葉にシュンとなった。

「あなたはダンスをしたことがありますか?」とホルム博士は、その場の気分を変えるためにZ氏に話しかけた。

「子供の頃フォークダンスをしたぎりで、大人になってからはしたことがありません」

「ダンスは大人のためにあるんです。子供がするのはお遊戯です。異次元ではどこでもダンスをします。カーニバルの町に入ったら、普通に歩いていてはいけないのです。ダンスで揺れながら歩かなくてはならないのです」

「難しいですね」

「ダンスを難しいなどと言ってはいけません。ダンスは喜びです。心を喜びでいっぱいにする習慣をつければ、知らず知らずのうちに体が揺れてくるのです」



「次はカーニバル」

「二百三十一丁目です」と双子が言った。

「もうすぐ着くのか。異次元汽車もいいもんだな。これから旅行に行く時は異次元汽車に乗ろう」とホルム博士は嬉しそうだ。

「でも異次元の指導者が、民間の人の乗る乗り物に乗っていたら、不都合があるんじゃないですか?」とアネモネ。

「きみは、アンダンテ・カンタービレみたいなことを言うんだね」

「はい、ちょっと真似をしてみたんです」

「だがああいう人物も必要なのだ。わたしは彼のおかげで随分助かったことがある」

「どんなことがですか?」

「忘れた」

「忘れたんかいな」とメキシコ人がこけそうになった。

「何はともあれもうすぐ駅です。ボー先生、体を揺らして下さいね。人生はダンスです。人生は幸福のためにあるんです」と言ってホルム博士は席を立って、もうダンスを始めている。

 ドアがプシューと開くと、突然何かが爆発するような大きな音が鳴り響いた。少しウキウキし出したZ氏は驚きのあまり立ち尽くした。

「大丈夫です。みんなクラッカーを鳴らしただけで、決してピストルではありません。ほら、クラッカーをもらいましたよ。あなたも鳴らしてみましょう」とホルム博士はZ氏たちにクラッカーを配った。

 駅のホームでは騒がしい音楽が鳴っていた。まるでパチンコ屋みたいだ。

「そんな冷めた顔をしていたら、幸せが逃げますよ」とホルム博士は大きな声で言ってクラッカーをポーンと鳴らした。アネモネは足を踏み鳴らして踊り、クラッカーをポンとやった。Z氏は踊ってはいないが、楽しそうな人々を見ているうちに顔がほころび、景気づけにクラッカーをポンと鳴らした。次にメキシコ人。彼はいかにもこのような雰囲気が好きそうだ。クラッカーを鳴らすと、ホームにいる若い女性たちと握手をしている。

 双子は冷静な顔をしてポンポンと一つずつ鳴らし、青い空を見上げている。

 ホルム博士は両手を上にあげて踊りながら、駅の改札を出た。その踊り方は、ダンスというより阿波踊りのようだった。

 駅の建物の中にも大勢の人がいて、みんな踊っている。外に出てもまた踊る人々の群。

 お酒も飲まないのに酔いが回ってくる気がした。



 空に大きく、『ダンスをしよう、生きているのなら』という雲でできた文字が浮かび上がっていた。ビルの屋上で若者たちが盛んに歌う。人々の目は陶酔の境に酔っていた。

 Z氏は次第に恥ずかしさを忘れて踊っていた。

 長らく家に閉じこもり、売れるあてのない小説を書き続けた鬱憤が全てこの場に放出された。もう家になど帰らなくてもいいと思った。こうしてここで一生過ごしたい、本当だ、人生はカーニバルだと心で思い、口に出して叫びもした。

 花火がドンと打ち上がり、空に雲の文字で『ホルム博士の演説』という文字が浮かびあがった。「こっちに来なさい」とホルム博士がZ氏の手をつかんで引っ張った。恐ろしいスピードで階段を上がるホルム博士に、Z氏は必死の思いでついていった。

 そこは市役所のような格式ばった建物のバルコニーだった。マイクが立っていて、バルコニーの下には大勢の人々がひしめいている。

 ホルム博士はマイクの前に立って、両手を振り上げた。すると人々は一斉に「うぉ~!」と歓声をあげた。

「皆さん、せっかくのダンスを中断させてごめんなさい。ダンスというものはいいですねえ。わたしもさっきからずっと踊っていまして、今は汗だくです。気持ちのいい汗です。空はキラキラ輝いて、わたしの心の中もキラキラと透き通って行きます。とても文学的でしょう? わたしはつい二時間程前から文学に目覚めました。何故というに、わたしはかの高名なボー先生と知り合いになったからです。ここにいらっしゃる方がボー先生です」とホルム博士はZ氏を自分の前に押し立てた。自然とマイクがZ氏の口のあたりに来た。

 世界がシーンと静まり返った。後ろからホルム博士が「何か笑えることを言いなさい」と小声で言う。

 そんな簡単に笑えることが口から出るわけがない。

 ホルム博士は不意にZ氏を押しのけて、「ボー先生は実に感極まって何も言えない様子でして。わたしがインタビューしましょう。さてボー先生、あなたは秋刀魚に大根おろしを添えますか?」

「は?」

「は? じゃないでしょう。わたしは今重要な質問をしているのです。ちゃんと考えて答えなさい」

「秋刀魚というものは長い間食べていません。昔母と一緒に暮らしていた頃は母がいつも大根おろしを添えてくれました」

「母は偉大です」と言ってホルム博士はまた両手を振り上げた。するとバルコニーの下の大勢の人が一斉に「うぉ~!」と声を上げた。



 妙な演説はなおも続いた。

「わたしは今日、異次元汽車に乗ってここまで来ました。異次元汽車というものはいいものですねえ。わたしの子供の頃には既にあった、古き良き乗り物です。だれでも憧れますねえ、異次元汽車の運転手には。あの運転手は棒つきキャンディーが好きなのだそうです。大人なのに棒つきキャンディーが好きなんて、ある意味で素晴らしいじゃないですか。固定観念を捨てて物事を見ると、どんな物事でもある意味で素晴らしいと思えるものなのです。

 ところでわたしはこれから夢の中の町に行きます。夢の中の町という名前を、ご存じの方はいらっしゃいますでしょうか?」

 シーン。

「いらっしゃいませんか。そうでしょう、これはわたしが考えた名前で、今ここで言う前にはまだ公には発表していなかったのですから。ここにいるボー先生がわたしに同行して下さいます。それからメキシコ人――メキシコ人には皆さん優しくして下さいね。何しろわたしのいとこですから。でも縁故による優遇は皆さんの最も嫌うところですね。まあ、適当にしてやって下さい。決して悪い人間じゃない。ちょっと僻みっぽいのですね。僻みっぽいというのは、多くのチャンスを逃すものですよ。人生、楽しまなくっちゃいけません。カーニバル町にいらっしゃる方々はみんなそのことをご存じですね。それでは改めてボー先生のお話を伺いましょう」と言ってホルム博士は、またZ氏をマイクの前に押し出す。

「笑えるようなことでなくてもいいから、何か思いついたことを言ってやって下さい。この町の人はお祭り好きで寛大ですから、少々の冗談でも怒りませんよ」とホルム博士は小さい声で知恵をつけた。

 Z氏は、よし、やるぞ、と思った。今のホルム博士の演説をきいて不思議に元気づけられたのだ。

「ぼくは非常に真面目な男ですから、笑えることは言えませんが」と始めると後ろにいるホルム博士が、ハハハハハと笑った。振り返って見るとホルム博士は頭を掻いて、どうもすみませんという顔をしている。そんな顔をされたら怒ろうと思ってもその気を失う。

「小説などを書く人間が、真面目一筋ではいけませんね。ぼくはここに来てそれを知りました。楽しむこともしなければいけません。もっと自分も笑って、人も笑わせなければなりません。しかも自然に。心を踊らせるんですね。閉じこもっていた家から玄関に出て、靴をはいて踊るんです。踊りながら通りに出て、なお踊るんです。冷たい目や白い目なんかどうってことないです。楽しむことを知らない可哀想な人達はそんな歪んだ目を一生していて不幸になればいいんです。ぼくと共に楽しむ気のある人なら、ぼくは一生懸命楽しませてみせる。人生、その覚悟です。

 文学は、額に青筋を立てた人のためにあると思ったら、大間違いです。そんなに青筋が好きならば、葉っぱにでもなればいいのです」

 また後ろでホルム博士がハハハハハと笑った。今度は下にいる大勢の人も笑った。Z氏の方が頭を掻いて照れる。



「それでは皆さん、わたしはボー先生とともに夢の中の町に向かいます」とホルム博士がマイクの前に割り込んで宣言した。何も割り込まなくても「ちょっとすみません」と言えばさがるのにとZ氏は少々不満だ。それにやっと話にも調子が出てきたのだ。

 ホルム博士は、Z氏を引き立てるようにして建物から出た。外では人々が踊っていた。国家元首のホルム博士が出て来ても知らん顔だ。

「わたしは夢の中の町に行ってはいけないの?」とアネモネが精一杯の大きい声できいた。

「行ってもいいに決まってるじゃないか。何と言っても女性は華だからね」

「わたしは華になるために行くんじゃないの。ボー先生と一緒にいたいだけ」

「それは失礼」とホルム博士は大仰に頭を下げた。

「わたしは別に僻みっぽくないがの」とメキシコ人も不満を述べた。

 するとアネモネがすかさず、「あら、僻みっぽいわ」とやり込めた。

「すぐに怒るじゃないの」

「すぐに怒るのは相手が間違っているからだ」

「相手の中にわたしは入れないでね。わたしはあなたの相手じゃないから」

「なかなかきついお嬢さんだな」とさすがのホルム博士も苦笑いをした。

「なかなか」

「いいお話でした」と双子がZ氏に握手を求めた。Z氏は「ありがとう」と言って順繰りに握手をした。

 六人は踊る阿呆の中をかき分けかき分け、駅にたどり着いた。汗をかいたのでホルム博士がソフトクリームを買ってくれる。国家元首にソフトクリームを買ってもらえるなんて光栄だ。

 異次元汽車に乗り込んだ。ガタガタと音をたてて汽車が走り出した。向かいに座ったホルム博士がZ氏に向かって「どうです?」ときく。Z氏は「へ?」と間抜けな返事をしてホルム博士を見つめた。

「人前でしゃべるのもなかなかいいでしょう」

「緊張しましたが、今日はうまくいきました」

「あなたはもっと自信を持ったらいい。自信を持ったら、なにがしかの方法で元気に生きていけるものです」



「わたしは貧しい村に生まれました」とホルム博士の身の上話が始まった。

「兄弟姉妹がわたしを除いて十人いまして、わたしは次男です。生来わたしはよくしゃべる子供でしてね。親にいつも叱られてました『うるさい!』と。わたしの才能を理解出来なかったんですね。それでわたしは養子に出されました。うるさかったのです。養家の両親は、ほとんどおじいさんおばあさんみたいな年の人で、わたしを非常に可愛がってくれました。わたしがうるさくしゃべっても、『うるさい!』とは言いませんでした。むしろわたしのためにわざわざおしゃべりの時間を作ってくれたくらいです。

 わたしを出世に導いてくれたのは養父でした。家のありったけのお金を使って教育を受けさせてくれて、ありったけのコネを使って政府の仕事につかせてくれました。

 自慢になりますが、わたしはチャンスさえあれば何でもこなす男です。実の両親にいじめられていた時に、『とにかく前向きに、とにかく前向きに』と心掛けていたことが、わたしをここまで大きくしたのかも知れません。

 今では実の両親とも仲良くしていますよ。とにかく負けないことです。相手に負けても構いません、自分の弱気に負けないことです。

 話が真面目になってしまいましたが、眠くはありませんか?」

「眠いどころか、とてもいいお話でした」とZ氏は感服した旨を告げた。

「あなたはどんな人生をお歩みになりましたか?」とホルム博士はZ氏に水を向けた。

「わたしの人生などといって、たいしたことはありません。普通の親の元に生まれて、大学まで出してもらったのに、三十になる今でもまだ恩返しすることが出来ません。小説家になることに異常にこだわっていて、普通の仕事に就いても長続きしないのです。いつの間にか社会不適応者になってしまいました」

「ハハハハ、社会不適応者だなんて、そんな気の弱いことを言っては駄目です。地球にいる社会適応者をもっとよくご覧になって下さい。みんな甘ったれですよ。勤め先があって家庭を持っているからかろうじて大人に見えるだけですよ。あなたのように真剣に人生を考える人は少ないです。まあ、あまり地球の人々の悪口を言うのはやめましょう。ところでリーとローさんはどんな人生を歩みましたか?」

「わたしたちは」

「まだ二十一です」

「人生はまだ始まっておらんですか?」

「わたしたちは自分の」

「すべきことをするだけです」

「そこがリーとローさんの凄いところです。若い人でそんなに悟っている人はいませんよ」

「わたしたちは」

「悟ってはいません」



「若い女性に悟っているなんて言うもんじゃないわ。まるでおばあさんになったみたい」とアネモネが好きなことを言う。ホルム博士の詩集を読んでいた時とは大違いだ。まるで尊敬の念がない。

「いやいや、実にそうですね。わたしは冗談を言うのは苦手ですが――」

「誰が?」とすかさずメキシコ人が突っ込みを入れた。

「おっ、突っ込みが早わざですね。そうでなくっちゃわたしの一族とは言えません。まあ、こんなに冗談が好きなのは一族の中でもわたしだけですが。だが冗談というのは周囲を明るくします。世の中が全て冗談で進行すれば、こんないいことはありませんよ。生きて死ぬまでの人生です。一生冗談だらけでもいいでしょう。世の中を冗談どころでなくしている奴らを称して悪人というのです。犯罪者だけが悪人ではありません。冗談を上っ面だと責める者は、どれほど内容のあることをしているかと言ったら、たいしてしていないですよ。毎日毎日、世の中を面白くなくするために働いているようなもんです。もっともわたしの考えは異次元だから通用するので、ボー先生のいらっしゃる世界では今のところ通用しないでしょうが。どうです、ボー先生、冗談の通用する世界で暮らして行きたくないですか?」

「現実は苛酷ですからね」

「とんでもない、現実は苛酷なものではありません。現実を苛酷にしたのは悪人たちです」

「そんなことより、わたしの人生については、いつきくつもりなんだ?」とメキシコ人がしびれを切らして話を遮った。

「メキシコ人の人生ならわたしはよく知っておるがな」とホルム博士は鼻で笑った。

「あんたは知っておっても、他の者が知らんだろう」

「ここにメキシコ人の人生をききたい人はおるかな?」

 シーン。

「ほら、誰もおらん。だがこんな可哀想なことをしたら、国家元首たるわたしの名前にかかわる。メキシコ人はどうしてメキシコ人という名前なのかな?」

「この小説に登場した時にメキシコ人みたいなという表現をされて、それがそのまま名前になった」

「それでは小説の作者の責任だな。作者は誰だ?」

「知らん」

「ボー先生は知っていますか?」

「知っているような気がします」

「誰ですか?」

「ぼくたち全てじゃないですか?」



「もうすぐ憂愁の」

「湖です」と双子が案内をした。

「今晩の泊まりはここに決まりだな」とホルム博士は相変わらず元気だ。

「ここは魂の集まる所です。魂が寄って集まって一つの意志を形作っています。とても不思議で奇妙な場所です。ボー先生ならきっとお気に入りになるでしょう」

「軟弱な文学青年が好むような所だ」とメキシコ人が憎まれ口を叩いた。

「軟弱どころか、憂愁の湖ではとてつもない緊張感が必要なのですよ。メキシコ人は、憂愁の湖には行ったことはないのかな?」

「そんなロマンチックな場所に、メキシコ人は似合わないわ」とアネモネは相変わらずメキシコ人に対しては散々だ。

「わたしも似合わないかな?」とホルム博士はアネモネにたずねた。

「ホルム博士は似合うんです。人間の奥が深いんですねえ」とアネモネは珍しく褒めた。

「どうせわたしは人間の奥は浅いですよ」とメキシコ人は僻む。

「メキシコ人は」

「優しいです」と双子。

「ありがとう、きみたちのような物の分かった人達にそう言われると嬉しい」

「ところで」

「もう着きました」と双子が窓の外を指さした。

「おっと、気が付かなかった。憂愁の湖は魂たちの住む所だから、汽車も気を使って静かに止まるんだな」とホルム博士が言った。

「わたしの優しさについて話は発展しないのか」とメキシコ人が不満を述べた。

「あとで発展しましょう。今はとにかくおなかがすいたでしょう、皆さん」

「わたしは蟹が食べたいわ」とアネモネが元気に手を上げた。

「憂愁の湖に蟹はないですよ。何しろ湖ですからね」

「じゃあ、何があるんです?」

「大丈夫、かにかまぼこならあります」

「う~ん、仕方がないわ。かにかまぼこで我慢するわ」

「かにかまぼこのことよりも、わたしの優しさについての議論の方が先だと思うが」とメキシコ人が割り込んだ。

「腹が減ってはいくさは出来ないですよ、メキシコ人」とホルム博士はメキシコ人の肩をトンと叩いた。

「かにかまぼこに、ごはんはついているのか?」

「もちろんです。みそ汁までついています」

「あとでわたしの優しさについて話してもらえるかな?」

「いいですよ。みんな楽しみにしていますから」



 カーニバルの町の駅とは正反対で、ひどく静かな駅だ。駅員の姿もない。ホルム博士はホームに降り立ち、両手を空に伸ばして「オー」と欠伸をした。

「ここには」

「人は住んでいません」と双子が説明した。

「魂ですか?」とZ氏がたずねた。

「分かってますねえ」とホルム博士は感服したような声を出した。

「あなたがそう言ったじゃありませんか。ここは魂の住む町だって」

「そうでした、そうでした、あなたのような頭のいい人はごまかせませんね」

「頭がよくなくっても、これくらいのことは分かります」

「では、誰がわたしたちに、かにかまぼことごはんとみそ汁をふるまってくれると思いますか?」

「魂ですか?」

「そうです」

「それは、ちょっと……」

「気味が悪いですか」

「そういうわけでも……」

「ないけど、気味が悪いでしょう。分かります、分かります。魂という概念を人は好みますが、魂そのものに会うことを人は恐れるものです」

「さすがホルム博士ですわ。素晴らしいことをおっしゃいます」とアネモネが尊敬に溢れた言い方をした。

「ハハハ、異次元では言葉が全てなんです。おっと、あなたも異次元の方でしたね」

「わたしは異次元ではとても経験の浅い者ですから」

「いえいえ、それだけのお元気があれば、充分な見識の持ち主という証拠です」

 改札口を出ると、そこは鬱蒼たる雑木林だった。ホルム博士は斧を振り上げて道を作って行った。そのあとをアネモネ、Z氏、双子、メキシコ人の順について行った。

「よし、やっと着いた」と前でホルム博士が言った。見ると土手のようなものが横に延び、土手の向こうには大きな湖があった。

「ここが憂愁の湖です」とホルム博士は手を広げた。

「どこにも旅館はないじゃないか」とメキシコ人が不満げに言った。

「どうして旅館なんかいるんですか?」とホルム博士はメキシコ人を振り返った。

「かにかまぼことごはんとみそ汁を出してくれる旅館さ」

「わたしは旅館でそれらのものが食べられると言いましたか?」



「それではどこで食べるんだ?」

「憂愁の城でです」

「城があるのか?」

「はい、あります」

「どこにあるんだ?」

「ホルム博士に対してそんなぞんざいな言い方しないで」とアネモネはメキシコ人に注意をした。

「分かった、分かった。ついかにかまぼことごはんとみそ汁に気を取られて、言葉づかいがお留守になった」

「妙に素直になったのね」

「わたしはいつでも素直さ」

「どこが」

「さあ、湖を渡りましょう」とホルム博士は湖に向かって手を差し伸べた。

「湖など渡らなくても、岸を歩けばいいじゃないですか」とメキシコ人の声は何だか明るい。

「そういうわけにはいきません。何故というに、城は湖の真ん中にあるからです」

「ないじゃないか」

「ないようであるのが城というものです」

「ハハハ、そんなわけがないじゃないか」とメキシコ人は笑っている。ホルム博士もメキシコ人を見て嬉しそうだ。

「わたしもこればかりはメキシコ人に賛成よ。だって何も見えないんですもの」とアネモネは湖のあちこちを見回した。

「リーとローさんは、分かってらっしゃるでしょう?」とホルム博士は双子に目配せをした。

「開けて」

「びっくりです」

「面白いことを言うじゃないか」とメキシコ人はニコニコ笑っている。

「あなたも急に面白くなったわ」とアネモネがメキシコ人の変化を指摘した。

「さっきまで僻んでばかりいたのに、急に優しくなったわ」

「うん、わたしもよく分からないんだが、急に心が軽くなってね。何だか細かいことにこだわる気がしなくなったんだ。こうして皆さんと一緒に時間を過ごすだけでも楽しいと感じるようになった。きみのおかげのような気がする」

「それは嬉しいわ」

「ここはそういう場所なのです」とホルム博士が静かに説明を始めた。

「魂が洗われるのです。わたしは若い頃よくここに来て、ゆっくり考え事をしたものです。わたしは決して冗談ばかりの男ではないんですよ。考え事もする」

「当たり前ですわ。冗談ばかりでは指導者にはなれませんわ」とアネモネも機嫌がいい。



 ホルム博士が指をパチンと鳴らすと、湖の中から黒い物が浮かび上がってきた。見ると潜水艦だった。

「わあ、潜水艦だ、本格的だわ」とアネモネが喜んだ。

「かにかまぼことごはんとみそ汁」とメキシコ人が呟いた。

「さあ、乗りましょう」と言って、ホルム博士は先に潜水艦の中に入って行った。あとの者も次々と乗り込んだ。

 中は飛行機のように座席が並んでいる。運転席は見えない。

 ホルム博士はまた指をパチンと鳴らした。

「これはわたしの専用の潜水艦だ。指導者ともなればこういう役得もある」とホルム博士は得意そうだ。

「どうやって動いているんですか? 操縦士もいないようだけど」とアネモネが質問をした。

「この潜水艦はただの潜水艦ではありません。生きているんです。魂の一つが潜水艦になったのです」とホルム博士は答えるが、誰も何も返事をしない。生きている潜水艦の中にいるというのは、常識から考えても少し気味が悪い。

「少し話しかけてみましょう。――おい、潜水艦さん、久しぶりだねえ。どうしていた?」

「やあ、こんにちは」と上の方から低く太い声がきこえた。みんな少なからずビクリとした。

「元気にしていたよ。何しろここは空気がいいからねえ。のんびり過ごせるよ」

「わたしもここは好きさ。死んだら是非ここに招待してもらおうと考えている」

「招待どころか、わしたちこそあんたに来ていただきたい」

「こんな冗談好きの男でもいいのかい?」

「魂たちは落ち着きがあるのはいいけれど、いささか性格の暗い者が多くてね、あんたのような明るい人は待ち望まれている」

「潜水艦さんも、性格は暗くはないでしょう。どことなくウィットが感じ取られる」

「それはそれはありがたいお言葉だ。ところで今日は沢山のお客さんだね」

「そうなんだ、これから夢の中の町に行くところで、今から打ち合わせをするんだ」

「かにかまぼことごはんとみそ汁は?」とメキシコ人が口をはさんだ。

「おお、そうだ、そうだ、城の中にはかにかまぼことごはんとみそ汁は用意されてあるかな?」

「ありますよ、今日はその上に大根の漬物も用意されてあります」

「おお、それは嬉しい」



「はい、着きました」と潜水艦の太い声。

「早いじゃないか」とメキシコ人は叫んだ。

「ハハハハ、ちょっとの距離ですからねえ。すぐに着きます」とホルム博士はまだ嬉しそうだ。

「城に着いたの? でもこんな近くじゃないわね。だって近くに城なんか見えなかったもの」とアネモネは潜水艦にきいたつもりだが、ホルム博士がこう答えた。

「そうです。城です。城は水中にあるんです。水中にあるから見えなかったんです」

「助けてくれ、わたしは泳げない」とメキシコ人は怯えて言った。

「大丈夫です。潜水艦を出ればそこは城の中で、そこには水はありません」

「さあ、着きました」と潜水艦が言った。

「さっきテレパシーで、かにかまぼことごはんとみそ汁と大根の漬物の用意をしておけと、伝えておきました。城に入ったらすぐにお食事です。本当にかにかまぼこでいいんですか? おからもありますよ」

「おからは今日の朝食べたんだ」とホルム博士は答えた。

「わたしは本当はステーキが食べたい」とメキシコ人が呟いた。潜水艦もホルム博士もきこえていないのか、きこえてもきこえないふりをしたのか、何も答えない。

 ハッチが自動的に開いて、ホルム博士が出た。「どうぞ、どうぞ」と言いながらアネモネや双子を引っ張り上げた。Z氏とメキシコ人は自力で上がった。

「いやあ、ありがとう、ありがとう」とホルム博士は潜水艦に手を振った。陽気な国家元首だ。

 ドアを開けるとそこは壮麗な景色だった。遥か上の方まで吹き抜けで、中央に大きな階段が螺旋状に上まで延びている。手前の方の壁は全てガラス張りで、湖の中の様子が手に取るように見えた。数限り無い照明がきらきら光って飛んでいる。

 螺旋階段を昇るのかと思うと、ホルム博士は階段の支柱にあるボタンを押して、ドアを開けた。自動ドアになっていた。

「時間がある時は螺旋階段を昇るんですが、今日はおなかがすきましたからね。早く部屋まで行きましょう」

 円筒形のエレベーターが音もなく昇った。何だか宙に浮いているようで気持ちがいい。

 チーンと音がしてエレベーターのドアが開いた。壮麗なシャンデリアが並ぶ廊下に出た。下にもここにも六人以外の人影はない。しかし何だか騒がしい感じがした。色々な気配が感じられて、寂しいという思いはしなかった。

 シャンデリアの廊下をまっすぐ行ったり右に曲がったり左に曲がったりして、ホルム博士は一つのドアの前に立ち止まった。ドアの上に『国家元首の部屋』と書いたプレートがかかっている。



 大きな木製のテーブルに、六人分の、かにかまぼことごはんとみそ汁と大根の漬物が並んでいた。六人は何も言わずに、ムシャムシャと食事をしている。

「ボー先生、おかわりはいかがですか?」とホルム博士はたずねた。非常に米がおいしかったので、Z氏はまだ食べたい気がして「おかわりを下さい」と答えた。

 するとテーブルの上の炊飯器の蓋がひとりでに開いて、見えない手がしゃもじをつかみ、しゃもじごとごはんが飛んできて、Z氏の茶碗の中にスポッと入った。

 Z氏は目を丸くして、一部始終を眺めていた。

「ハハハハ、驚きましたか? これしきのことで驚いてちゃあ、憂愁の湖では暮らせません」

 Z氏は別に憂愁の湖で暮らす気はない。

「ここには実に大勢の魂がいて、ひしめき合っているんです。わたしたちには見えません。ここはいわば魂のための保養所です。彼らは、ごはんを食べたり喧嘩をしたりゲームをしたりして、二十四時間営業です」

 道理で、誰もいないように見えて沢山の気配がすると思った。

 メキシコ人もおかわりをした。しきりに漬物がおいしい、おいしい、と喜んでいる。

 やがて食事が終わり、楊枝を使いながらホルム博士は、「コーヒーを飲みながらミーティングを開きましょう」と宣言した。

 コーヒーが六人分飛んできて、めいめいの前でゆっくり着地した。

「さて、今晩はここに泊まります。明日はいよいよ夢の中の町に到着します。夢の中の町にいらしたことのある方は?」と言ってホルム博士は手を上げた。双子が同時に手を上げた。

「リーとローさんはいわば異次元の首脳ですから、いらしたことはあるでしょう。メキシコ人はどうですか?」

「悪かったね。わたしは首脳でもないから、行ったことないよ」とメキシコ人は不満げな言葉を吐くが、顔は結構にこやかだ。

「ハハハハ」とホルム博士は笑い、

「まあまあ、メキシコ人も明日夢の中の町に行くわけですから、もう異次元の首脳になったも同然です。アネモネさんもそうです。ボー先生、あなたも首脳ですよ、よろしいですか?」と言った。

 何がよろしいのだろうと思いながら、Z氏は「はい」と答えた。

「夢の中の町は決して危険な町ではないんですが、今回はわたしの夢を取り戻すという依頼をしに行くわけですから、少し厄介なことが起こるかも知れません。わたしの夢というのは、わたしだけのものではありませんから。国家の運命にかかわるものですから。自分で言うのも何ですが」



「さて、皆さん、ごはんは食べましたか? どうですか、ボー先生」とホルム博士はしきりに話しかける。

「おいしかったです」とZ氏はありきたりな言葉で答えた。こんなに勢いよくたずねられてはまずいとは言えない。

「特にごはんがおいしかったです」

「異次元のごはんは特別なんです。秋田産の米の写真を撮って、それを実体化させているのです」とホルム博士は突然妙なことを言った。

「あなたは全く信用されておらん」とホルム博士はZ氏の考えていることを読んだようだ。

「写真を実体化など出来るはずがないと思っておいでだ」

「出来るんですか?」

「さあ、分からん」

 メキシコ人が椅子から転げ落ちた。アネモネが「大丈夫?」と声をかけた。メキシコ人は「我がいとこは何と面白いんだ」とため息をつきながら席に着いた。

 ホルム博士のような国家元首に対しては、Z氏はもちろん文句は言えない。黙っているとホルム博士は「さあ、会議、会議」と妙に慌てている。

「夢の中の町の町長は」

「お元気ですか?」と双子がたずねた。

「元気なんじゃないだろうか? だがそういえばこの頃電話がかかってこんなあ。前は『餅の中に、あんこが入っているか爪楊枝が入っているか、見分ける方法を教えてくれ』と相談してきおった。わたしは『餅の中に爪楊枝が入っている確率はほぼ零に近い』と答えた。すると町長は『昨日三回も爪楊枝の入った餅を食べてしまった。危うく死ぬところだったんだ』と怒り始めた。ああ、それは町長が嫌われているからだなと思ったが、それは言わずに、『それは難しい問題だ。今度の予算審議委員会で議題にしよう』とごまかしたのだが、それがよくなかったのかなあ」

「町長は失脚した」

「のかも知れません」と双子。

「それはどういう根拠で?」

「二人で同時にそんな」

「夢を見たんです」

「それは由々しき事態だ。夢を取り仕切るはずの町長が、夢の中で失脚するとは。話がややこしくて真実味がある」

「夢の中の町が誰かに」

「征服されたんでしょうか?」

「だとすると、今度の夢の中の町行きは危険な旅になる。これから開く会議も真剣だな」



「これまで何度も言いましたが、わたしは夢の中で政治をするんです。大事な局面になると、わたしはベッドに横になります。ベッドのまわりには異次元の首脳たちがいて、眠りに入ったわたしをインタビューするのです。わたしが眠っている時に言った言葉が、異次元の行く末を決めるのです。だからわたしが眠っている時に夢の中の町に連れて行かれて、首脳たちのインタビューに答えられなくなるというのは、困った事態なのです」

 ホルム博士はこう言って、一同の顔を順繰りに見回した。Z氏と目が合った時、「どうです、分かりましたか?」と個別にきいた。

「はい、分かりました」とZ氏は答えた。ホルム博士はZ氏の答え方が非常に簡単だったので、少しがっかりした様子だった。

「あなたは、夢の中で政治をするということに、何も疑問を感じないのですか?」とホルム博士は珍しく、真面目に切り込んできた。

「感じますけど……」

「その場その場で常識が変わるから、そういうこともあるだろうとお考えですか?」

「まあ、そうですね」

「そんなに物分かりが良いようでは駄目です。分からないところにもっと詰め寄ってみないといけません。あなたは物分かりが良いというよりごまかしているんです」とホルム博士は急にきつい言い方をした。Z氏は何も答えられない。社会経験の乏しいZ氏は、目上の人の説教にあうと、いつもこうしてシュンとしてしまう。

「あなたは空想をしたことがありますか?」とホルム博士はZ氏を離さない。

「あります」

「妄想は?」

「妄想もあるでしょう」

「あなたをお呼びしたのは、その妄想力のためなんです。夢の中の町は全部が全部妄想なんです。常識なんか毛ほどもありません。異次元の者でも、どうやってそこにいればいいのか困るほどです。ボー先生の妄想力があれば、夢の中の町で過ごすことはたやすいと思われます」

「ぼくにはそんな能力はないですよ」

「あなたには、通常で言う意味の能力はありません。妄想力があったって、誰も褒めてくれませんよ。でもこの異次元ではそれはたいした能力なんです。その中でも特に夢の中の町では、その能力は十分に発揮されます」

「わたしには能力があるのかしら?」とアネモネが不安そうにたずねた。

「たとえ能力がなくても、夢の中の町に行くことはいい訓練になりますよ。妄想を自由自在にコントロール出来てこそ、人は初めて豊かな生活を送ることが出来るんです」とホルム博士は真面目に言った。



「夢の中の町の町長がいないとすれば、そこの妄想は以前にも増して強烈でしょう。一つこれだけは言っておきますが、そうなれば常識などは一切通用しません。それに対して怒ってはなりません。楽しむのです。皆さん、分かりましたか?」

 みんなはうんうんと頷いた。

「メキシコ人も怒ってはなりませんよ」と今度はメキシコ人に照準を合わせた。

「わたしは怒らないよ」とメキシコ人は簡単に答えた。

「メキシコ人は急に様子が変わりましたね。皆さん、どう思います?」とホルム博士は一同を見回した。

「何だかとても穏やかになったわ」とアネモネが論評した。

「人柄の良さが」

「増しました」と双子も付け加えた。

「そうでしょう? 人間というのは、見た感じが第一です。メキシコ人はその感じがとてもよくなりました。ご自身ではどう思いますか?」

「何だか気持ちいいんだ」とメキシコ人は簡単だが穏やかに言った。

「わたしは嬉しいです。メキシコ人のことは始終気にかけていたんです。何しろわたしのいとこですからね。実のいとこを冷遇しているように言われるのは、わたしとしても実に心苦しい。メキシコ人、今日からわたしの右腕になってもらえませんか?」

「本当ですか?」とメキシコ人はとても素直に喜んだ。

「わたしの目に狂いはありません。メキシコ人は既に大きな壁を乗り越えました。メキシコ人に名前を授けます。作者の怠慢でつけられたメキシコ人なんて名前から脱却です。――リッパ大臣というのはどうですか?」

「立派ですか?」

「そうです、リッパです」

「わたしはそんなに立派ではないがなあ」

「今月今夜のこの月の下、わたくし異次元国家元首ホルム博士は、あなたにリッパ大臣という名前を授けます」とホルム博士は胸に手を当てて宣言した。

 一同から拍手が起こり、メキシコ人はこれ以降リッパ大臣と呼ばれることになった。

「それでは、妄想の練習をしましょう」とさらに意気の上がったホルム博士が呼びかけた。

「夢の中の町で過ごすための練習です。わたしたちは一致団結しています。もう大丈夫です。あとは軽い練習をして、本番に備えるのみです」

 何をするんだろうかと、みんな興味津々だ。

 いつしかZ氏は現実での生活など忘れて、この異次元の世界の一員になり切っていた。今まで生きてきてこんなに楽しかったことはない。



「ボー先生、何かお題はありますか?」

「ぼくは桂歌麿じゃないんだから、そう簡単にお題なんか言えないです」

「なに、何でもいいんです。あなたの好きなものを一つ言って下されば、それでいいのです。普通名詞を一つ。何かないですか?」

「ぼくの好きなものは本です」

「それでは最初のお題は本です。リッパ大臣、まずはあなたから」

「いや、そんなにすぐには浮かばない。――ええーっと、本――本――本には翼があるんです。飛んで行くんです、神様のもとへ。正しい知恵は宇宙と一体化しているから、限りなく上空に行く。そのために翼があるんです」と言ってメキシコ人改めリッパ大臣は言葉を終えた。

 ホルム博士はパチパチパチと拍手をした。それに続いてアネモネ、双子、Z氏と拍手をした。Z氏は次の順番は誰だろうかとビクビクしていた。妄想の練習というのがまだ全然分かっていないからだ。

「はい、次はリーとローさん」とホルム博士が指名したので、Z氏はホッと胸を撫で下ろした。

「わたしたちは昨日」

「本を食べました」

「おいしかったですか?」とホルム博士。

「おいしくない本の方が」

「味わいがあります」

「いい言葉ですねえ。はい、アネモネさん、どうぞ」

「わたしは本が服を着て歩いているのを、見たことがありますよ」

「ほおー、どんな服ですか?」

「裸の王様の着ている立派な服です。でもそれは凡人には見えませんので、『又吉直樹 火花 第二巻』と書かれた表紙が丸見えでした」

「第一巻はどこで何をしていたのですか?」

「家でスキーの板を磨いていました」

「それは意外な答えですねえ。そう思いませんか、ボー先生」

「そう思います」

「随分ぼんやりされていますね。夢の中の町での奮闘が成功するかどうかは、あなたにかかっているのですから、頑張って下さいね」

「頑張ってと言われても、ぼくは妄想の練習などしたことはありませんし……」

「してるじゃないですか、毎日」

「小説を書くことですか?」

「そうです」

「小説は妄想ではありませんよ」

「そうです、その意気です。妄想の原点は反発です。常識に対する」



「しかし異次元に来ると、どうもいきなりしゃべらされてばっかりで……」とZ氏はぼやいた。

「人生には推敲はありません」とホルム博士がZ氏の肩を叩いた。

「全てが即興です。だから即興で何かを言う癖をつけないといけません。普段からのたゆみない努力と観察力が、即興を鍛えます。さあ、どうぞ、ボー先生」

「ぼくは今日不思議な体験ばかりしましたが」とZ氏は始めた。

「この体験は既に本に書かれてあるものです。本は人間が書くんだけど、いい本はまるで人間以上の者が書いたような驚きがあります。執筆中の作家の部屋の中には大勢の神様がひしめき合って、次から次に言いたい放題をがなっています。作家はそれらの神様の声をきいて、単に書き写しているだけなのです。作家の才能とは、神様の声をヒアリングする能力のことです」

 しばらくの沈黙ののちホルム博士は、パチパチパチと拍手をした。

「ブラボーです。まさにそこです。わたしがあなたを異次元に招いたのも、あなたのそういう能力を見込んでのことです。だんだんお分かりになってきているようで嬉しいです。さて皆さん、そろそろ眠りに入りましょう。わたしは今日もおそらく夢の中の町に行くでしょう。しっかり偵察してきますからね」

 ホルム博士は真面目なことを言っているのだが、どこかしら陽気だ。

 一人に一部屋あてがわれて、それぞれが部屋に下がった。双子だけは二人で一部屋だ。

 ビジネスホテルのような部屋に入ると、そこには大勢の人がひしめき合っていた。

「やあ、やあ、来なさったか。わしたちはあなたを待っておったんじゃ」とソクラテスのように髭を生やした老人が、Z氏を出迎えた。Z氏は今日散々不思議な体験をしたので、容易には驚かない。手を軽く振って挨拶をした。

「わたしたちのことを覚えておいでになります?」と一人の髪の長い女性が、Z氏に顔を近づけてたずねた。

「いえ、覚えてはいません」とZ氏は顔を遠くに離して薄情に言い捨てた。彼は眠かったのだ。早くベッドにもぐりこみたい。

「ぼくたちはあんたが執筆する時、いつでもそばにいるんだよ」と男の子がZ氏の足に取りすがった。

「今さっき、あなたがわたしたちのことを物語ったので、とても嬉しかったわ」と髪の長い女性が頬をZ氏の頬にすり寄せた。とても冷たい。

「そうですか。あなたがたですか、いつもぼくのそばにいてくれる人たちは。こうしてはっきりお姿を見られて、とても嬉しいです。ところでぼくは今とても眠いのです。眠りに入ってもいいでしょうか?」

「いいですわ。それでは話の続きはあなたの夢の中でしましょう」

 電灯が静かに消えた。



 夢を見た。さっきの霊たちが盛んに何か言っている中で、Z氏は小説を書いていた。大きな音でボブ・ディランが鳴っているので、彼らの言っている言葉が聞き取れない。仕方がないのでボブ・ディランを消すと、今度は家の前で道路工事が始まった。窓を開けて「工事は静かに」と注意すると「きみは税金を払っているのか」と現場監督に切り返された。

 霊たちが税金音頭を踊り始める。仕方がないのでZ氏は国民年金ダンスを踊った。

 ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーンと何度も玄関のベルが鳴った。Z氏が慌ててドアを開けると「宅急便です、時限爆弾をどうぞ」と茶髪の兄ちゃんが丸い玉を渡した。「いえいえ、こんなものいりません」と兄ちゃんに返すが、兄ちゃんは「受け取っていただかないと、配達怠慢罪で逮捕されるのです」と言ってさめざめと泣き始めた。

 霊たちは時限爆弾でドッヂボールをしていた。危ないような気がしていたが、いつしか忘れてしまい、机の上に肘を突いてボヤーと考え事をしていた。

 ドカン! と大きな音がしてZ氏は空に飛んで行った。机も一緒に飛んでいて、彼は机の上に肘を突いたままだ。

 この机のコントいただき! と喜んでいると、神様の声が天上からきこえて、「お前は別に税金を払わなくてもいい」とのたまう。

 今日は市役所に行こうと考えている。

 しかしそれにしてもいい天気だ、とうっとりしていると背中をトントン叩かれて目が覚めた。

「今日はいい天気だね」とZ氏がアネモネに言うと、「何を言っているの。今日は雨よ」と答えた。

 衝撃の事実……でもないか。

 Z氏はベッドから起き上がって目をこすった。

「雨でも行くのよ、夢の中の町には」とアネモネは張り切っている。

「ぼくは行かないとは言っていない」

「それでは早く顔を洗って支度して」とアネモネが急かした。

 部屋を見回すと、昨夜大勢いた霊たちは見えない。どこに行ったんだろうかと考えていると、耳のそばで「ここにいるよ」と髭の老人らしい声がきこえた。「わしたちはあんたとともに夢の中の町に行く」と心強い決意を述べてくれた。



「お目覚めはいかがですか」とホルム博士は朝から明るい。

「はい。いい目覚めです。でも面白い夢を見ました」と言ってZ氏は昨夜見た夢を物語った。

「そうですか。それはいい。あなたには今魂たちがついているのですね。夢の中の町に行くのに魂たちの味方があるとは心強い。あなたは魂たちが怖いですか?」

「怖くはありません。みんないい人ばかりです」

「それはよかった」

 いかの天ぷらとごはんとみそ汁を食べると、一行は昨日と同じく生きた潜水艦に乗り、斧で切り開いた雑木林の道を通り、駅に着いた。異次元汽車の運転手が、棒つきキャンディーをくわえながら待っていた。

 異次元汽車はポーと汽笛の音をたてて発車した。

「さあ、しばらくしたら妙な気分になりますよ」とホルム博士は予告した。

「どんな気分になるんだ?」とリッパ大臣が落ち着いてたずねた。リッパ大臣という名前になってから、リッパ大臣は随分落ち着いた。

「色々な幻覚が見えるようになります。そしてその幻覚は幻覚であって、実は事実なのです。というのも夢の中の町は幻覚の町ですから、幻覚が主体となっているのです。主体となっている幻覚は、幻覚という名前のものではあるが、事実なのです。お分かりになりますか?」

「分かりません」とアネモネが正直に告白した。

「そんなことも分からんのか」とリッパ大臣がアネモネに向かって言った。

「あら、分からないことを分からないと言って何が悪いの? あなただってちゃんと分かってはいないわ」

「分かっていると思うが」

「分かっていない顔をしているわ」

「顔でそんなことが分かるのか」

「人間は顔で大方のことが分かるわ。そういうことが分からない方がもっと問題よ」

 リッパ大臣は散々にやり込められた。しかし前のように意地を張って食ってかかることもない。市役所に婚姻届を貰いに行くなどということも、決して言わない。ただ頭をポリポリ掻いて笑っていた。

「実はボー先生は昨夜既に予行演習をなさったらしいです」とホルム博士はみんなに向かった。

「へ~、どんな予行演習?」とアネモネがZ氏にすり寄った。

「どうかもう一度お話願いますか?」とホルム博士が依頼した。Z氏は昨日の夜部屋に帰ってから夢の中のことまで全て物語った。

「面白い」

「ですね」と双子が初めて話に入って来た。

「それは」

「役に立ちます」

「そうだろう? 役に立つだろう? さすが『水色の奇跡』の作者だと思ったよ。今ボー先生の肩には大勢の魂の味方がいるしね」

 みんな一斉に「へ~」と言った。



 異次元汽車がだんだんとスピードを落として止まった。ボンボンとマイクが入る音がして「え~、ただ今石炭が全部、熊に食べられてしまいました」と運転手の車内放送がきこえた。

「熊だと? 熊? 熊がいるのか?」とリッパ大臣が席を立ち上がった。

「大丈夫です。この辺に来るといつも熊が石炭を食べるんです」と運転手が車内放送で返事をした。

「石炭がなくなったら、どうやって走るんだ?」

「なに、空気が運んでくれます。夢の中の町では空気が中央へ中央へと流れているので、何も動力がなくても前に進むのです」

「妙なところだな」とリッパ大臣はまた席に腰掛けた。

「わたし、なんだかワクワクしてきたわ」とアネモネが両手を胸の前に組んだ。

「楽しむことは」

「いいことです」と双子がにこやかに言った。

「それにしても熊はこちらに来ないかな」とリッパ大臣は心配している。

「ここの熊は石炭が好きなので、人間には興味はありません」と運転手。

「よかった。石炭を持っていなくて」

「あなたは、棒つきキャンディーをいつも持っているんでしょう?」とアネモネ。

「いつもは持っておらんがな。棒つきキャンディーの必要な時に、棒つきキャンディーというのは、そこにある、それが人生だ」

「何それ?」

 異次元汽車がまたゆっくりと走り始めた。今度は汽笛の音はしない。まるで新幹線みたいに滑るように動いて行った。

 ホー、ホーと何かが叫ぶ音がした。見ると窓の外に、白い一反木綿のようなものがいくつも飛んでいた。

 ホルム博士は窓を開けて「おーい」と呼んだ。一反木綿の一つがホルム博士の目の前に来て止まり、「何だ?」とかん高い声でたずねた。どこにも目も口もない。白い布は洗い立てみたいでとてもきれいだ。

「町長はどうしてますか?」

「町長は今休暇中です」

「どこに休暇に行かれてるんですか?」

「おそらく牢屋の中でしょう」

「それは快適な牢屋ですか?」

「おそらく快適な牢屋ではないでしょう」



「夢の中の町は今物騒なのかな?」

「いえ、前とは変わりません」

「町長がいないと秩序が保てんじゃないか」

「町長がいなくても総統がいます」

「総統とは誰だ?」

「夢吉です」

「夢吉とはあの不良の夢吉か?」

「不良ではありません。今では総統です」

「わたしは異次元の国家元首だぞ。わたしに何の連絡もなく総統になるとは許されない」

「夢吉総統もあなたのことを許されないと言っておられます」

「何故だ?」

「夢吉総統を不良と断言して、異次元から追放したからです」

「不良を不良と断言して何が悪い」

「悪くはありません。世の中には悪くないことをして恨まれることがあります」

「夢吉に会ったらわたしはどうしたらいいのだ?」

「あなたは不良ではありませんと言えばいいと思います」

「それくらいでは許さんだろう」

「そうですね。でも最初はそう切り出さないといけません」

「分かった。いろいろ参考になった。ところでこんな寒いのに布一枚で飛ぶのは体に悪いぞ」

「わたしたちは体が布だから別に構わないのです」

 窓を閉めてホルム博士は腕を組んだ。珍しく深刻に考えている。

「わたしたちは」

「夢吉が嫌いです」と双子が沈黙を破った。

「夢吉というのは、いつも異次元で人の夢を否定して回った人ね。噂にはきいたことがある」とアネモネも神妙だ。

「夢を否定するとは、まるで地球上の人間がするような悪行だ。どうです、そうお思いになりませんか?」とホルム博士はZ氏にたずねた。

「具体的にはどういうことをするのですか?」

「人が夢を語っているとあからさまに笑うんです。その人はひどくがっかりして、自殺する人までいたのです」

「異次元での自殺など」

「前代未聞です」



 マイクがまたボンボンという音をたてて入り、運転手がこう言った。

「夢の中の町に入って汽車は流されております。危険はないから安心して下さいと嘘は言えませんので、十分お気をつけ下さい」

 車内に突然ファンキーな曲が流れ始め、閉まったガラス窓を通して外から小さな人間のようなものが何人も何人も入って来て、手を振り足をあげて踊りだした。

「これはこれは、いきなり騒がしいなあ」とホルム博士は明るい声を出したが、警戒の目はゆるめない。

 踊る小さな人間たちが一つに合わさっていって、次第に踊る大きな人間に変わって行った。ホルム博士一行はその変化をじっと見守っていた。

 その人間は、金や銀のステージ衣装のようなものを着た、一人のロック歌手だった。顔には緑や赤で様々な隈取りがしてあって、本当の顔は分からない。

「こんにちは、ホルム博士」とその人間はその場にいながら、手だけがこちらにビューンと伸びた。

「わたしは長さ一メートル以上の手とは握手しないことにしている」とホルム博士は厳かにはねつけた。

「そうですか。それは悪いことをしました」とロック歌手は手を元に引っ込めて、つかつかと歩いて来た。

「お前は夢吉だな?」

「そうです」夢吉はホルム博士の前に立ちはだかったまま傲然と答えた。

「随分出世したんだなあ」

「全てあなたのおかげです」

「嫌みか?」

「嫌みだなんてとんでもない。おれはあなたに色々教わったからこそ、これだけの者になれたと思っています」

「そうか。それでだな、お前はいつまでわたしの夢を妨害するつもりかな?」

「あなたは夢の中で知恵を得ているらしいから、その方法を教えてもらいたいんです」

「そんな方法はないよ。わたしはただ夢の中で寝ているだけだから」

「夢の中で寝ているんですか。さすがホルム博士だ。面白いことを言いなさる」

「お前はわたしをからかっているのか」

「いえいえ、ホルム博士をからかえる者など、この異次元には一人もおりませんよ」

「お前のねらいは何だ?」

「わたしは異次元を、地球上の人間の世界のようなパラダイスにしたいんです」

「変わった冗談を言う奴だなあ。地球上の人間の世界がパラダイスだなんて、お前は本気で言っているのか?」

「厳密な意味ではパラダイスではないけれど、現実を重んじるという点でパラダイスでしょう」

「現実を重んじたらパラダイスなのか?」

「世の中本当に大事なのは現実ですからねえ。いつまでもこんな曖昧な世界に住みたくない」



「別に住んでほしいとは頼んではおらんぞ」

「相変わらずきついお言葉で。冗談好きの人の方が本当はきついことをおっしゃるから、おれは嫌いだ。現実を見つめていたらきついことは言えないでしょう」

「お前こそきついじゃないか。お前のおかげで何人の人が自殺したか知っているか?」

「異次元での自殺など」

「前代未聞です」と双子は夢吉を睨んだ。

「あなた方もいつもクールで、現実を重んじているでしょう」

「現実は」

「重んじています」

「それならおれの味方だ」

「いいえ」

「違います」

「何故違うんだ?」

「あなたは」

「分かっていません」

「ふん、お前たちの方こそいつか分からせてやるよ、現実の厳しさをな」

 双子はもう何も言わなかった。双子を睨んでいた夢吉の方が肩透かしの気味になったが、立て直してホルム博士に向かった。

「夢の中をおれに支配されてしまえば、あなたはもう何の力もない。ただの冗談好きの馬鹿おやじだ」

「お前は、わたしたちがやっていることをただの冗談だと言うんだな?」

「ただの冗談じゃないか」

「地球上の人間の歴史は、高々何千年くらいしかない。それなのに、既に醜い争いの中にいる。異次元の歴史は三十億年を超えているが、争いは全くなかった。これはわれわれが自由な考えに満ちているからだと考える。わたしはぜひ地球の人間たちにも自由な考えを教えたくて、今回この人を呼んだのだ」とホルム博士はZ氏の方を振り返った。

「こいつは誰だ?」と夢吉の言葉遣いが急に悪くなった。

「地球の方だ」

「おお、あなたは地球の人なんですか」と夢吉は不気味にニコニコした。

「地球の人には是非一度お会いしたかったのです」

「この方は地球の方でもお前が期待するような、普通の地球の方ではない」

「どういうことだ?」

「この方は小説家だ」

「それが?」

 つくづく人を馬鹿にした男だ、この夢吉という奴は。



「小説家とは夢を司る人のことだ。お前のような、ちっぽけな現実主義者には理解出来ないだろうが」

「夢を司るのは今ではこのおれだぞ。何しろおれは今、夢の中の町の総統だからな」

「お前はそうとう頭が悪いな」とホルム博士は言って不意にZ氏を見た。Z氏は、この真面目な場面でいきなり出た駄洒落に、どう反応していいのか困惑した。リッパ大臣も何も言わない。いつも元気なアネモネですら、言葉につまっている様子だ。

 夢吉は、口元がニヤリとほころぶのを必死で耐えているらしい。息を止めて顔を真っ赤にしている。案外彼はこういうネタが好きなようだ。

「まあ、何しろ」と言って夢吉は咳払いをしている。「もうあんたの負けだから……まあ、そういうことで……では、また会おう」と言って夢吉は窓からいきなり飛び出した。遠くでハハハハと笑い声がきこえた。

 六人は異次元汽車の中で唖然としていた。やがて双子がこう口火を切った。

「ホルム博士の駄洒落が」

「みんなを救いました」

「ああ、わたしのことか?」とホルム博士は、夢から目覚めたみたいに頭を振って答えた。

「うん、さすがだろう。わたしの駄洒落は、その辺の大砲よりも威力がある」と復活したホルム博士は元気だ。

「異次元での武器は」

「お笑いです」と双子はさらにホルム博士に加勢した。

「いいことを言うねえ」とホルム博士はさっきの厳しい顔は一切忘れて、ご満悦だ。



「夢の中の町はこれより混沌に入ります」と運転手の車内放送がきこえた。窓の外の空のあちらこちらに、渦巻きの模様が見られた。それは美しくも不安なものだった。

「混沌に落ちたからといって危険なこともないのですが、はぐれると帰る道が分からなくなるから、皆さん、是非わたしからはぐれないで下さい」と言ってホルム博士は、めいめいの体に縄を巻き付けていた。その全ての縄の先を自分の腰に巻き付けて「さあ、異次元汽車を出ましょう」と号令をかけた。

 そこはプラットホームもないただの草原だった。渦巻きがあちらこちらに舞い踊っていた。ついには、渦巻きがまるで生きている者のように歌い始めた。それは『ゲゲゲの鬼太郎』のテーマのようでもあったが、もっと明るいテンポの曲だった。

「おい、きみたち、さっそく混沌を演出しているな。なかなかやるじゃないか。今日は随分雰囲気が出ているよ」とホルム博士は渦巻きたちに向かって言った。

 ビューという暖かい風がうなる音とともに「ありがとうございます~」と合唱する声が届いた。

「さて、わたしたちも渦巻きになるか」とホルム博士は、一行に問いかけた。双子以外の三人はキョトンとしている。特にリッパ大臣は、一度驚きに大きくした目を、なかなか元に戻せずに困っているようだ。

「渦巻きになるとはどういうことだ?」とリッパ大臣の声は随分心配そうだ。

「実際に渦巻きになることは、わたしたちの身体の構造上難しいでしょう」とホルム博士は説明を始めた。「でも精神的に渦巻きになることは誰でも可能なのです。それは決して堂々巡りということではなく、逆に永遠への入り口に通じるのです。話が哲学的になってしまいましたが、難解のそしりを恐れずにさらに続けますと、渦巻きの中央は単なる点に縮こまることではなく、永遠なるミクロに到着することなのです。大きな世界が永遠に続くというのは誰でもが知っているのですが、小さな世界も永遠に続くのです。ある小さな世界の中にさらに小さな世界があり、その小さな世界はわたしたちの宇宙と同じくらい広大なものであり、その中にはまたさらに小さな世界があります。それが無数に続くのです。どうです? たいていお分かりになりましたか?」とホルム博士は両手を広げてみんなにたずねた。

「たいてい分かった」と誰も答える者はいなかった。ホルム博士はZ氏を振り返って「あなたも全然分かりませんか?」と真面目な顔をした。

「生意気なようですが、ぼくにはホルム博士のおっしゃることが少し分かるような気がします」とZ氏は答えた。

「さすが異次元のベストセラー作家だ。あなたなら分かって下さると思っていました。リッパ大臣、あなたが分からないからといって誰もあなたを責めませんよ。これからどんどんここで学習していけばいいのですから」



「なに、わたしはもう僻んだりせんよ。ホルム博士の言う通りにしていれば、物事はうまくいくと信じておりますよ」とリッパ大臣はにこやかに答えた。

「そんなに柔順になり過ぎても困るのです。わたしだって時には感情に任せて間違ったことを言うこともありますから。そういう風に思って下さらないと、間違った時にひどく非難されたりしますから」

「他の人が間違った時に過剰に怒るのは、依存心が強い証拠だとある本で読んだことがあるわ」とアネモネが付け加えた。

「自分は不完全でも当たり前だと許しているくせに、他の人は完璧でなければ許せないのよ。そういう甘えた人とともに時間を過ごすのは、苦痛だわ」

「そういうことをなくすために、われわれは日夜楽しい世界を作ろうと奮闘しているのです。みんなが楽しければ、人が別の人を過剰に責めることはなくなりますからねえ」

 草原に冷たい風が吹き寄せて来て、にわかに寒くなった。

「さあ、そろそろ布団を呼びましょう」とホルム博士がみんなを振り返った。

「布団を呼ぶの?」とアネモネがきいた。

「ここでは何でも呼べます。何ならチェーホフ全集の第二巻を呼びましょうか?」

「どうしてそんなものを呼ぶの? 寒いのに」

「そうですね。こういう場合には布団を呼ぶのが常識です」

「変な常識」とアネモネはぞんざいに絡んだ。ホルム博士にこんな言葉づかいをして許されるのは、アネモネ一人だろう。ハキハキとしてこだわりがなく、きいていて愉快なしゃべり方なのだ。

 ホルム博士は「おーい、布団」と文字どおり呼んでいる。「はーい、博士」という声が上空からきこえ、こちらに向かって布団の大群が飛んで来た。

 Z氏は怖くて身を屈めた。ホルム博士がZ氏の肩を叩き、「布団など怖いことはありません。当たっても柔らかいものですから。それにここらの布団はとても運動神経がいいですから、決してぶつかって来ることはありません」と妙なことを説明した。

「はい」と返事をしながらZ氏が空を見ると、布団の大群は六人のいるところのちょっと手前で止まり、宙に浮いていた。

「久しぶりだね、布団の旦那」とホルム博士は落語のような話し方をした。

「久しぶりだね、博士」と先頭の布団が言葉を返した。

「もっと頻繁に来てもらわなくっちゃ困りますぜ。この頃、とみに暮らしにくくなりましてね」

「夢吉のことか?」

「シー! あの男、どこできいてるか分からねえから剣呑ですぜ」



「お前は夢吉のことが怖いのか?」

「そりゃ怖いですぜ。前にちょっと口をすべらせて夢吉の悪口を言ったら、夢吉の前に呼ばれて、布団叩き棒で千回も叩かれました」

「お前は布団だから、布団叩き棒で叩かれるのは慣れているだろう」

「そりゃ慣れてますがね、何しろ千回ですぜ。痛いのなんのって、ありゃしない」

「それは大変だったねえ。ところでガハハ・クラブは今でもやっているのかい?」

「やってますよ、当たり前でしょう。ガハハ・クラブがなくなったら、夢の中の町の売り物がなくなりますから」

「夢吉総統は許しているのか?」

「夢吉総統だなんて、博士の旦那、旦那までがそんな呼び方をしないで下さい。大きな声では言えませんが」と言って布団は、博士の耳まで布団の端を持って行って、コソコソと何かを言った。

「うん、分かった。わたしに夢吉総統をやっつけてくれと言うのだな」

「おやおや博士は意地悪ですねえ。大きな声で言えないからコソコソ言ったのに、そんな大きな声で復唱なさるなんて。でもそれは博士の自信を表しているから、われわれは心強いですぜ」

「自信などない」

 布団の大将はドスンと地面に落ちた。

「それはないですぜ」と布団の大将は、タオルで土で汚れたところをふき取りながらまた宙に浮いた。

「冗談なのか、本気なのか分からないから困ります」

「わたしの場合、冗談ではない本気はあり得ず、本気ではない冗談はあり得ない」

「何かの格言ですか?」

「ハハハ、今のが冗談のようで本気、本気のようで冗談の言葉さ。よくよく考えなさい。笑いとはすなわち頭の混乱である」

 布団の大将は黙ったまま何も言わない。ホルム博士は布団の肩を叩き(どこが肩なのか分からないが)、「さあ、ガハハ・クラブに行こう」と言った。

「はい、かしこまりました」と布団の大将は布団の大将だけあって、立ち直りが早い。

 ホルム博士はみんなの腰から縄を解き、まず一人で布団の大将の上に乗った。他の五人は布団の手下たちの上に乗った。布団たちは空を飛んで行った。



 長い二本の紐が天から伸びていた。それがブランブランと大きく揺れて、先がブランコになっている。ブランコが揺れて、そこに乗っていたバルタン星人が宙を飛んだ。見間違いではない、確かにバルタン星人だ。

「さあ、着きました。ガハハ・クラブです」とホルム博士は、布団の大将の上でみんなに呼びかけた。

「ご存分に楽しんで下さい」と布団の大将は少し小声で言った。

「それから、夢吉のことはよろしくお願いいたしやす」

「ハハハ、よろしくと言われてもな。わたしはわたしのペースで事を処する。それが結局いい結果につながるのだ」

「まあ、全て博士の旦那に任せやしょう。おれたちはおれたちで、自分のことを考えて一生懸命生きて行きます。おれたちのような下っ端は、国がどうの指導者がどうのは関係ないんです。関係あるのはおれの女房とおれと、せいぜいおれと女房の親兄弟くらいのもんで、それ以外はたいして関係ないんで」

「そうさ、その意気だ。汝の愛すべき人を愛せ、だ。全ての人が本当にそれが出来れば、自然に世界は平和になる。布団の大将、あなたは素晴らしい哲学をわたしに教えて下さった」

「へっへ、ご冗談を」

「そうさ、冗談さ」

 布団の大将は手下たちを引き連れて、手を振りながら去って行った。(どこが手か分からないが)

「ボー先生、空中ブランコに乗りましょう」とホルム博士はいきなり言った。

「ぼくは空中ブランコになど乗れません」とZ氏は警戒して否定的見解を述べた。

「大丈夫です。これは落ちない空中ブランコなのです。夢の中の町では引力は地面にないのです」

「それではどこにあるの?」とアネモネはここぞとばかりに切り込んだ。

「あなたがたの心の中にあるのです」と言ってホルム博士はポンと胸を叩いた。一同キョトンとして何も言わない。双子だけはキョトンとしていない。静かな声でこう言った。

「落ちたくないと思えば」

「落ちないのです」

「この中に落ちたい人はいますか?」とホルム博士がたずねた。

「落ちたいわけはないわ」とアネモネ。

「落ちたい人がいないということは、誰も落ちることはないということです。お分かりですか?」

「それではわたしも、空中ブランコに乗ってもいいわけだね?」とリッパ大臣がたずねた。

「もちろんです。是非乗って下さい」



「おい、きみ、そこのきみ、きみだ、きみだ、そうきみ」と崖の上のホルム博士は、空中ブランコに腰掛けているバルタン星人に呼びかけた。

「ウォッホッホ」と両方のはさみを振り上げながら、バルタン星人が返事をした。

「きみは異次元語がしゃべれないのかね?」

「ウォッホッホ」

「ウォッホッホばっかりでは会話にならん。誰か話の分かる者はいないのかね?」

「ウォッホッホ」

「これじゃあ駄目だ。おーい、そこの人、そうそう、そこの人、ちょっと空中ブランコに乗りたいんですが」

「ああ、これはこれはホルム博士」と言いながら、一羽の巨大な鳥が姿を現わした。白い腹をして緑色の羽を持った、ひよこのような鳥だった。

「ここは空中ブランコのコーナーだね?」

「そうですよ」

「この方が、死ぬまでに一度空中ブランコに乗りたいと切望しておられるんだが」とホルム博士はZ氏の肩をつかんだ。Z氏は肩からホルム博士の手を離そうとするが、博士の手の力は予想以上に強い。

「それはそれはありがとうございます。この空中ブランコはここにしかない特殊なもので、どなたでも一度は乗りたいとおっしゃるんですよ」と巨大なひよこは黒目をキョロキョロさせた。表情が読み取れないから、喜んでいるのか媚びへつらっているのか分からない。

「きみは空中ブランコの管理人かね?」

「いいえ、違います」

「管理人は誰かね?」

「空中ブランコに管理人はいません。強いて言えば夢吉総統が管理人と言えるでしょうが、それはあくまでも形式上のことで、実質的には管理人ではありません。夢の中の町を支配するのは風ですからな」

「きみはなかなかの哲学者だね」

「そうでしょう」と言って巨大なひよこは胸をそらせた。

「そんなに威張ると危ないぞ。きみがたとえ鳥であるにしたところで、落ちる時は落ちるのだから」

「博士も相当な哲学者ですね」と言って巨大なひよこはハハハと笑った。声は笑っているが、目は相変わらずキョロキョロしていて、どんな表情なのか分からない。

「空中ブランコに乗りますよ」とホルム博士が申し出ると、巨大なひよこは「どうぞ、どうぞ」と言って体をわきによけた。

「さあ、空中ブランコまで飛びますよ」とホルム博士はとんでもないことを言った。崖から空中ブランコまで五十メートルほどの距離がある。飛ぶなんて無理な相談だ。



 ところが飛べた。ホルム博士が「せ~の~」と言ってZ氏の背中を押すと、Z氏は崖から落ちずに空中を飛んで行った。「泳ぎなさい、泳ぎなさい」とホルム博士が言うので平泳ぎをすると、空中で前に進むことが出来た。

 空中ブランコに腰掛けながら、バルタン星人がこちらを見ていた。降りるなり落ちるなりしてもらわないと、空中ブランコに乗れないじゃないかと焦った。

 空中ブランコのまわりを泳いで回りながら、Z氏はバルタン星人に話しかけた。

「すみませんが、空中ブランコに乗せていただけないでしょうか?」

「ウォッホッホ」

「いいんでしょうか、悪いんでしょうか?」

「ウォッホッホ」

「のいて下さらないとすれば、悪いんですね。ぼくはどうすればいいんでしょうか?」

「ウォッホッホ」

 平泳ぎを続けるのがしんどくなった。

 もう駄目だ、落ちると思った。同時に落ちたら随分痛いだろうから、落ちたくないと思った。一度落下し始めた体がまた浮かび始めた。バルタン星人は空中ブランコに座りながらたばこを吸っている。小癪なバルタン星人だ。

 Z氏はどういう態勢をしても体が宙に浮いていることを確認すると、空中ブランコの真横に腰を掛けた。

「あなたは、空中ブランコにおいてはぼくの先輩かも知れませんが、そんな所に陣取ってたばこを吸っているとはひどい。人を馬鹿にするにもほどがある」

「ウォッホッホ」

 バルタン星人はポケット灰皿を取り出して、たばこをもみ消した。そして空中ブランコからゆっくりと降りた。体に様々なものをつけているバルタン星人は、体を動かすのが難儀そうだ。

 やっと空中ブランコから降りたバルタン星人は、空中ブランコのそばに立ってZ氏を見つめていた。その目からは涙がこぼれている。

「ありがとう」とZ氏は少し恐縮の気味だ。

 空中ブランコに腰掛けたZ氏は、バルタン星人に手を振った。バルタン星人もはさみを振り返しながら、空中をゆっくり歩いて去った。

 言葉が通じないというのは悲しいものだ。



 空中ブランコに腰掛けたのはいいが、どうしていいのか分からない。下をみると遥かに深い谷底だ。恐ろしいというどころではない。Z氏は危うく気絶しそうになった。いくら落ちないと言われていても、飛んだりはねたりするどころではない。

「どうしたんですか?」と間近で声がした。見ると、ホルム博士がそばに立っていた。双子もアネモネもリッパ大臣もそこにいた。まるで地面にいるように普通に立っていた。

「あなたは怖くないんですか?」とZ氏は下の谷底を指さした。

「怖いですねえ、やっぱり。でもここでは、落ちたくない者は落ちないという自然の決まりがあるのです。空気の中にいると落ちるというのは、非常に狭い常識だと思わざるを得ません」

「じゃあ、こんな所に空中ブランコがあったって、何の意味もないじゃありませんか」

「普通の地面にいたって、人は竹馬に乗ったりスケート・ボードに乗ったりするでしょう? 要するに退屈なんですよ、ずっと歩いているのが」

 Z氏は空中ブランコから降りて歩き始めるが、突然足を竦ませて立ち止まった。

「こんな怖い所では歩けません。早く普通の地面で歩かせて下さい」

「これしきのことで怒っていては、人の心を打つ小説は書けませんよ。小説を書くとは、自分とは違った様々な価値基準を認めることです。それでないとスケールの大きいものは書けません」

「これは小説講座なんですか?」とZ氏の声は、恐怖のために金切り声になりかけていた。

「全ての道は小説に続く――です。とはいえ、本当に怖いですか?」

「嘘で怖い怖いなんて言いません」

「それでは分かりました」と言ってホルム博士はズボンのポケットから何かを出して、それに息を吹きかけた。それはどんどん大きくなっていって、掘っ立て小屋ほどの家になった。

「これは携帯用の空飛ぶ家です。どうかここに入って下さい」と言ってホルム博士はZ氏の肩を抱いて、空飛ぶ家の中に連れて行った。他の四人も入った。六人も入ったら満員だ。

「ここに寝て下さい」と堅いマットレスのベッドの上にZ氏を寝かせた。

「目をつむって、ゆっくり呼吸して下さい。それを少なくとも二十四回は続けて下さい」

 Z氏は、何故二十四回なんだと反発するには、あまりに恐怖にとらわれていた。Z氏が呼吸している間、その家の中には静かな沈黙の時が流れた。



「さて、皆さん、ここでお話があります。どうか座って――とはいえ、ここは狭いですから、皆さんが座る場所はないですね。ではそのままお立ちになってきいて下さい」とホルム博士はZ氏をほったらかしにして口上を述べ始めた。

「わたしが何故ガハハ・クラブに来たか、分かりますか?」

 誰も返事をしない。

「絶対落ちない空気の上を歩いたり、空中ブランコに乗って暇つぶしをするためだとお思いですか?」

「そんなこと思うわけないわ」とアネモネが負けん気を出して答えた。

「それでは何故だとお思いになりますか?」

「固定観念を覆すためにでしょう? 特に地球に住むボー先生のために」

「それもあります。さすがアネモネさんですね。今回のことが終わったら、わたしの秘書をやりませんか?」

「あの太った人がいるでしょう?」

「ああ、アンダンテ・カンタービレですか。あれは秘書というより太鼓持ちです。無論わたしのような仕事をする者には太鼓持ちは必要です。偉そぶるためにではありません。緊張緩和のためにです。どうです、秘書は?」

「やってもいいわよ」

「わたしは何をすればいいのかね?」とリッパ大臣が割り込んだ。非常に真面目な顔をしている。彼も必死なのだ。

「リッパ大臣は大臣です。異次元の首脳の中の一人です」

「うん、うん」と頷きながら、リッパ大臣は非常に嬉しそうだ。

「ところでさっきの話だが、リーとローさん、あなた方は非用金仙人のことをきいたことがありますか?」

「あります」

「神様の中の」

「異次元派出所の」

「巡査ですね」

「そうです。巡査ですが、れっきとした神様です。わたしは非用金仙人に会いに来たのです」

「非用金仙人は滅多に会って」

「くれませんよ」

「さっき一反木綿がこんなメモを渡してくれた」と言ってホルム博士は、布の切れ端を両手の指でつまんで広げた。そこにはこう書いてあった。


  ガハハ・クラブで待つ  非用金


「実はわたしも初めてお会いするのだが、楽しみです」



 携帯用空飛ぶ家は空中を飛び始めた。飛んでいることは窓を見れば分かる。次々に雲が行き過ぎて行く。

「さあ、着きました」とホルム博士はいつまでも元気だ。

 六人が外に出るとそこはゴツゴツした岩場だ。ホルム博士は洞窟の入り口に立って「非用金仙人さんはいらっしゃいますか」とたずねた。

「お~い、ここじゃ~」と頭の上から声がきこえた。見上げると、空から髭を生やした白い衣のお爺さんが降りて来た。

 右手に洗面器を抱えている。

「ちょっと風呂に入っておったんじゃ」と皺だらけになった顔から、にこやかな目が覗いていた。

「お呼びだそうで」とホルム博士は頭を下げて畏まった。

「呼んだ、呼んだ。わしはあなたに助けてもらいたいんじゃ」

「非用金仙人をお助け出来るほどの力は、わたしにはないですが」

「ある、ある。わしはあなたの政治の力には、常日頃感服をしておる」

「どうも恐縮です」

「ところで夢吉のことじゃが、あいつが夢の中の町の総統になってから、わしはどうもここに住みにくくなったんじゃ。もし夢吉を何とか出来ないと、わしはここから去らなくてはならん。長年住み慣れた所じゃて、去りたくはないんじゃが」

「非用金仙人なら夢吉の百人や二百人くらい、簡単にやっつけられるでしょう」

「そうでもないんじゃ。どうも夢吉には、わしのような浮世離れした者を恐れさせる何かがある。三日ほど前夢吉に雷を落とそうと術をかけたら、雷はわしの上に落ちて来た。病院に行って何とか治ったが、今度雷を浴びたら死にますよと医者に脅かされた。だから助けて欲しいんじゃ」

「何をすればいいんですか?」

「囮になってもらいたいんじゃ。そしてわしはあなたの背後に透明になって立っておる。それで夢吉を呼び出すんじゃ」

「それで夢吉に勝てるんでしょうか?」

「夢吉はあなたにはかなわないと思っておるから、あなたを倒すきっかけがあるときいたら、喜んで飛んで来るじゃろう。あなたはそこに立っておるだけでよい。今度はしっかりとやっつける」

「夢吉をやっつけられたら、わたしとしても望外の幸せです」とホルム博士は手紙文のような挨拶をした。

 非用金仙人は一反木綿を呼び出して、彼の背中に筆でさらさらと手紙を書いた。


  夢吉へ

  さらなる異次元制覇のために

  ホルム博士を倒すのは今だ

  至急ガハハ・クラブの洞窟に来られたし

                   非用金仙人



 一反木綿が飛び去ってものの五分もしないうちに、空からドドドーッという音が響き、夢吉が大軍を引き連れて現われた。夢吉は西洋の甲冑を着て、空中に立っている。ずんぐりむっくりした体には、それは似合わないようだ。

 六人は洞窟の前に立って夢吉と相対した。非用金仙人の姿はない。おそらくホルム博士の背後に透明になって立っているのだろうが、姿が見えないとまるで逃げてしまったみたいだ。

「もうこれであんたも終わりだな。非用金仙人に見捨てられたということは、事実上の失脚だ」と言って夢吉は嬉しそうに笑った。

「おれはこの異次元に、秩序ある世界を作ろうと考えている。秩序ある世界の方が民衆は喜ぶもんだ」

「地球の人間が作ったような世界か?」とホルム博士は真面目な顔をして、夢吉を睨んだ。

「そうさ」

「地球の世界に秩序があると、本気で思っているのか?」

「少なくともここのように冗談で世界は動かない。いきなり空気の中からコーヒーが出て来ることもない。ちゃんと科学が支配しているからな」

「お前は、夢吉という名前のわりに夢がないなあ」

「もしこの異次元が、ちゃんとした科学の現実に支配されるパラダイスになったら、おれは名前を現吉にする」

「元気な血のようだな」

「こら、ふざけるな。そろそろあんたを捕縛する時が来た。それ、覚悟」と言って夢吉は手を振り上げた。オーッという喚声が上がって、大軍が空からこちらに押し寄せた。

 するとホルム博士の手も大きく振り上がり、天も地も轟けとばかりに大きな声で、「感謝感激雨あられ~」と叫んだ。

 不意に空から大粒のものが、大量に降り注いだ。それが夢吉ら軍隊の中に集中的に当たった。Z氏が近くにこぼれ落ちたものを拾い上げると、それはおかきのあられだった。

 夢吉ら大軍の姿が、目の前から忽然といなくなった。

Z氏らはキョロキョロとあたりを見回した。すると今まで姿を隠していた非用金仙人がいきなり現われて、「ここだよ」と言って手のひらを差し出した。仙人の手のひらの上で、おかきのあられのように小さくなった夢吉が、驚きと怒りで目を大きくして立っている。堅くなっていて、動かない。

 ホルム博士は岩の上で気絶している。

「よかった、よかった、これで夢吉問題は片付いた。夢吉は科学がどうのこうのと言ったが、自分も地球上の大富豪のようなセレブになって、威張りたかっただけなんじゃ。わしはどうもそういう種類の者は苦手でな」と言って非用金仙人は、夢吉のミニチュアをZ氏に手渡した。



 ホルム博士は非用金仙人の気合で目を覚まして、立ち上がった。非用金仙人はホルム博士の体を借りて、夢吉に術をかけたらしい。それでホルム博士は著しく衰弱したのだ。

「夢吉のような現実主義の者は押しが強いでなあ。その上そういう者に限って、世の中のことを一番に考えているという錯覚を持っておる。本当に世の中のことを真面目に考えていれば、決して押しが強くはなり得ないはずじゃ。様々な矛盾を目の前にして、立ち尽くすものじゃ。夢吉のようなタイプは世の中のことを考えていると公言しながら、実は自分の利益しか考えてはおらん。こういう奴はわしは苦手じゃ。ところでこの夢吉人形をあなたはどう使うかな?」

 こうたずねられてもZ氏は困る。

「戒めにしろなどという陳腐な言葉を言うつもりはない。地球上の現実と異次元の現実は違うのだから。あなたは小説家じゃろう? 知っとる、知っとる。あなたが異次元に来た時から、あなたを見て来た。あなたは以前から異次元では随分有名人じゃったんだから。あなたは地球上で本当に成功したいかね?」

「地球上での成功は、意味のないものなのでしょうか?」

「決してそうではない。地球上での成功の原則は、この異次元の原則と一致しておるのじゃ。あなたはそれが分かる人じゃ。どうじゃ、分かるかね?」

「誠実にお返事をさせていただいたなら、分からないと答えます」

「ということは、大抵は分かるということじゃな。大抵分かるだけでもすごいことなんじゃ。わしはあなたの目の中の光を信じる。だからこの夢吉人形を渡すんじゃ。きっと役に立つことじゃろう。ところでわしは行かなくてはならん。神様に夢吉の滅亡を知らせないとな。実は神様も、夢吉のことではやきもきしていたんじゃ。世の中で元気な欲張りほど厄介なものはない。欲張りなら元気をなくしてくれればいいのじゃが、欲張りというのはたいした矛盾を自分の中に感じないものじゃから、たいがい元気になる。とかく人の世は住みにくいものじゃな。ハハハハ、それでは、さらば」

 非用金仙人は空高く飛んで行った。ホルム博士は空に向かって頭を下げた。双子もリッパ大臣もアネモネもそれに倣った。

 Z氏は非常な感謝に包まれて、同じように頭を下げた。



「さてこれでわたしの用事は片付いた」とホルム博士が不意に低い声で言った。Z氏は何かの予感を感じて、ホルム博士を見た。「次はあなたの用事を片付けなければならん」と言ってZ氏に向かって頷いていた。

「ぼくの用事ですか?」

「そうだよ、あなたの用事。あなたの用事を片付けるために、あなたをここに呼んだのですから」

「どんな用事ですか?」

「世に出て人々を導くとはどういうことか、大宇宙の声をきくとはどういうことか、それを知っていただかないと、あなたに帰っていただくわけには行かないのです」

「そんな大事なことを教えていただけるのですか?」

「あなたのような感性の持ち主には、是非この異次元が知恵の宝庫であることを感じていただきたいのです。そしてそれを地球上のあなたの世界に、広めていただきたい。より良い未来のために」

「はあ」

「ハハハハ、そんなに堅くなられたら困ります。軽く行きましょう、軽く。これからも冗談みたいなことが起こりますよ。大学の講義のようなことはないですから、あなたもハハハハと笑いましょう。どうです、みなさんもハハハハと笑いませんか」と他の人たちに対しても笑いを求めた。笑いというものはわざわざ求められても、うまく笑えないものだ。

「なに、作り笑いでもいいのです。作り笑いが間違ったものだと言う人間は、決して誠実な人間とは言いません。ただ自分が横着に振る舞いたいだけなんです。行きますよ、せ~の~、ハハハハ……」

 みんなホルム博士の陽気な勢いに押されて、小声でハハハハと言った。

「そんなに簡単には笑えませんね。当たり前です」とホルム博士は一人で合点している。

「ところでここはガハハ・クラブという名前ですが、どうしてここがガハハ・クラブという名前なのか知っていますか?」

「えっ? ぼくですか?」ホルム博士にじっと見つめられて、Z氏はうろたえてしまった。

「あなたは主役なのですよ。分かってますか?」

「いやあ、ぼくは別に主役になりたくてなったわけではなく、成り行き上そうなっただけで……」

「そういう自覚のない主役に対しては、世間も困惑するばかりです。誰もが主役になりたがるものなのに」

「どうもすみません」

「謝るのですか。それはなおさらすごい」

「いやあ、別に……」

「あなたはやはり大物です。リーとローさんもそうお思いになるでしょう?」

「わたしたちは最初から」

「そう確信しておりました」



 どうも話が変な成り行きになって来た。Z氏はいつしかこの旅が面白いと思えるようになってきて、みんなの中に潜り込んで、楽しみをこっそり搾取するつもりでいたのだ。ところがこうなると、自分が何かしなければならないのではないかという不安に襲われる。

「ガハハ・クラブの中核に行きましょう」とホルム博士はZ氏にしか話しかけない。

「夢吉のいなくなったガハハ・クラブは」

「きっと以前よりも楽しげでしょう」と双子は冷静に予測した。

「ねえ、ねえ、ボー先生は一体何をするの?」とアネモネは主にホルム博士に話しかけるが、そんな子供のような話しかけ方では天下の指導者のホルム博士は応じない。

「宇宙の法則の面白さを」

「知っていただくのです」と双子が代わりに答えた。

 ホルム博士は地面から浮き上がって、歩き始めた。双子が続き、アネモネがそのあとを行き、すっかり無口になったリッパ大臣がZ氏を振り返った。

「ホルム博士を信じなさい」とリッパ大臣が持ち前の大きな声で、Z氏を力づけた。

「あなたは『水色の奇跡』の筆者なのだから」

「ぼくを異次元に連れて来た最初から、こうなることは分かっていたんですか?」とZ氏はリッパ大臣にたずねた。

「何も分かってはおらんよ。世の中何も分かってはおらんでも、何かは起こるもんじゃ。とにかく必要なのは前進することだ」

 リッパ大臣は非常に堂々としている。以前の、メキシコ人だった頃とは、全く別人のようだ。格好はやはりメキシコ人みたいだが、中身はすっかり大臣になっている。

 名前というものは大事だ、人をこれほどまでに変えてしまうのかとZ氏は感心した。

 リッパ大臣の変化を見てZ氏は少し考え込んだ。彼にはこの世界ではボー先生という呼び名がある。ところがそれは、一介の平民であるアネモネがつけた名前だ。リッパ大臣のように、ホルム博士につけてもらった名前がどうしても必要だ。

 とはいえ自分を非常に敬愛するアネモネの前で、彼女のつけた名前を否定するようなことは言えない。どうしよう、どうしよう、と考えていると遠くから「ボー先生」とホルム博士の呼び声がした。Z氏は慌てて歩き始めた。空中を。あんなに無理だと思っていた空中での歩行が、何の苦もなく出来た。それは彼が何かを克服したというのではなく、単に考え事に夢中になっていたために生じた結果なのだが。



 ホルム博士は一行を、高い高い雲の上に導いた。雲の上には白い壁の巨大な宮殿が聳え立っていた。

「ここには国王陛下がいらっしゃる」と言ってホルム博士は巨大な宮殿を指さした。

「わたしは異次元の指導者で、ここは夢の中の町の町長が取り仕切っている町だが、何故かこの宮殿には国王陛下がいらっしゃる。まあ、そんなに堅苦しく考えなくてもいいでしょう。わたしもうまく説明出来ませんから。お分かりですか?」とホルム博士はZ氏にたずねた。

 相手がうまく説明出来ないことが、こちらに分かるはずがない。でもZ氏は決して不快ではなかった。言葉の説明は分からなくても、ホルム博士の気持ちは分かったような気がしたからだ。

 ホルム博士はZ氏に小さくウィンクをして、手を振った。そして「さあ、行きましょう」と号令をかけた。

 三メートルはある巨大な扉の前に立っていると、突然「ホルム博士に敬礼!」という大きな声がきこえて、扉がギーと開いた。大理石の床の大きなホールが目の前に広がった。左右に三百人ほどの衛兵が並んで立って、一列の長い道を形作っている。

「この人たちは三百人いるように見えるが、実は一人なのです。一人の人をコピーして貼り付けして、三百人並ばせてあるのです。異次元ではこんな芸当は、お茶の子さいさいです」

 見ると、左右の人々はみんな同じ顔をしているようだ。人間をコピーして貼り付けるなんて、こんなことが出来るのなら、自分ももう一人コピーして貼り付けて、コピー先を毎日会社に通わせたいものだ。

 ただ三百人ともなると、どれが本当の自分なのか自分でも分からなくなるだろう。

 かなり長い距離を歩いた頃になって、やっとまた扉にたどり着いた。

「さあ、ここで覚悟して下さい。この中に入ることは常識との決別です。それがどういう意味か分かりますか?」とホルム博士は相変わらずZ氏にたずねた。

「えっ?」とZ氏はうろたえた。長い間、同じ人の顔の列の中を歩いて来たので、すっかり頭がぼんやりしていたのだ。

「意味などありません。意味などないということが意味なのだという見方もありますが、それはまだあなたには難しいので、単に意味などないと覚えていて下さい」

「はい」と答えざるを得ない。

「面白いわ」とアネモネはどんな時でも前向きだ。

「ゆっくり」

「息を吐いて下さい」と双子はZ氏を落ち着かせた。

「わたしだって緊張しておるが、なに、恐ろしいと思わねば何事も恐ろしくはないものだ」とリッパ大臣はZ氏の肩を叩いた。



 扉が左右に開いた。すると中からこんな歌声がきこえてきた。きれいな女性の声だ。


  赤い天井にはイモムシの羽

  布団をかぶる時計には

  電気の水の洗礼がある


 きらびやかに飾り立てられた部屋にいた女性たちは、一行が入ると背後に引き下がった。かわりに前に出て来たのは、メガネをかけた中年の男だ。

 背広にネクタイ姿で、まるでサラリーマンだ。

「この方が国王陛下」とホルム博士が紹介した。

 国王陛下と紹介されたサラリーマン風の男は、不意に「おーーー」と長く長く叫び始めた。一行はその叫び声が終わるまで、手をこまねいて待っているよりほか仕方がない。

 三分ほど「おー」が続き、サラリーマンの国王陛下は膝に手をついて、ハアハアハアと喘いでいた。

「音楽はどこに行きました?」とホルム博士は、何事も全くこだわらないという感じで国王陛下にたずねた。

「音楽とは何か? 音楽とは宇宙の反響である。宇宙の反響には法則がある」と言いながら国王陛下はだんだんと頭をもたげてきた。唇を歪めて、笑っているような怒っているような、妙な顔をしている。

「そんなことは分かっていますが、とにかくわたしたちは座りたい」とホルム博士。

「わたしも立っておる」と国王陛下。

「あなたは立ちたいから立っているのです。それだけの大音響を口から出そうと思ったら、立っているよりほか仕方ないでしょう」

「わたしは今、風呂からあがって焼きそばを食べていた」

「そういえばわたしたちもおなかがすきました」

「遠慮しなさい」

「それよりもわたしたちは座りたい」

「あなたは意地っ張りですね」

「あなたにはかないません」

「これは何ですか?」とリッパ大臣は不意に、テーブルの上にある丸く黒い玉を取り上げた。

「それは」

「爆弾です」と双子は小声で教えた。

 アネモネはキャッと叫んで、Z氏の陰に隠れた。

「電気を消してキャンプファイヤーをしましょうか」と国王陛下が提案した。「それともこたつに入ってトランプをしましょうか。もっとも今は夏ですが」

「冬だったはずだが」とリッパ大臣は爆弾をテーブルの上に返しながら呟いた。



「わたしは今非常に考えておる。この世に、本当のことを知っている者が、何人おるかを。本当のことを知っておる者というのは、本当のことを知っておるような顔をしているようだが、これには異存なかろう。わたしは今こういう格好をしておるが、これは地球上での人間の制服だそうだ。ところでわたしは論語読みの論語知らずという言葉に悩まされた。わたしは果たして本当のことを知っておるのだろうか?」

「疑問が起こるとすれば、答えは否定です」とホルム博士は国王陛下をピシャリとやりこめた。

「おい、この方たちに椅子を差し上げなさい」と国王陛下が命令するが、誰も出て来ない。国王陛下は自分の言ったことも忘れて、ブツブツ独り言をつぶやいていた。

「この方はボー先生とおっしゃるんですが、国王陛下はご存じですか?」とホルム博士はあらん限りの大声で、国王陛下の注意を引き付けようとした。

 国王陛下は一瞬立ち止まってZ氏を見るが、さっと手を振ってみんな忘れたとばかりにまた独り言に没頭した。

「椅子がないのなら、地べたに座りましょう。何しろここの床は黄金で出来ているんです」と言ってホルム博士は、ベタリと尻餅をついて座った。他のみんなも真似をして座った。

「いつもこうなんです」とホルム博士は国王陛下を指さした。

「でも決して悪い人ではありません。単なる社会不適応者ですから。ガハハ・クラブの国王陛下の職には最適の男です」

「やあ、やあ、きみたち、まだここにいたのかい」と国王陛下が不意に一行の姿を再認識して、こちらに寄って来た。

「あなたは、ご自分がわがままだとお思いになりますか?」ホルム博士は、この変わり者の国王陛下を全く恐れる様子がない。

「わがままとはどういうことか、考察したことがあるか?」

「自分以外にものを考える人間がいないと断定する者でしょう」

「そうです、わたしはわがままです」と国王陛下はあっさりと認めて、腕を大きく天井に向けて挙げた。

「リーとローさんは彼を知ってますね?」とホルム博士は国王陛下のダンスを無視して双子に話しかけた。

「知っております」

「ユニークな方ですね」

 ハハハハとホルム博士は笑った。「そうです、彼は宇宙一ユニークな方です」



「それでは、それでは」と国王陛下が手を広げて、何かをみんなに指し示した。彼の指先の指す所を見ると、それは壁だった。

 不意に電気が消えて真っ暗になった。アネモネがヒャッという悲鳴をあげた。パッと明るい光が閃いて、さっきの壁に何か映画のようなものが映った。

「わたしは年来撮影というものを仕事としてきた。撮影とはものを写すためだけにあるのではない。魂を写すのだ。魂とは、玉のようなものがコロコロと転がっているのではない。宇宙には魂しか存在しないのだ。それ以外のものは全て幻だ。考えても分からん。考える者には分からん。衝動だけで生きるのは獣以下だ。獣は本能によって自然の秩序を守っているが、人間の衝動は野獣以下だ。秩序の声をきけ、自然の歌をきけ。ほら見なさい、この星空を」

 壁に映ったものを見ると、星空だった。星空を写すカメラがずーっと下に降りて、黄色い衣を着た老人が立っている。老人の顔がアップになった。老人は口の中で何かムシャムシャ食べている。

「この老人は誰かというと、誰だか分からん。わたしが星空を撮影していたらそばに寄って来た。それが何か意味があるかどうかとのおたずねに、わたしはにわかに答えられん。ただわたしは、この老人の映像をカットしようとは思わなかった。それだけだ。これでもあなたはわたしのことをわがままだと言い張るのか?」

「敢えて言い張ることはしないですよ。わたしだってわがままなんですから」とホルム博士が言った。

「そうか、それで分かった、大事なことが」

「何が分かったのですか?」

「人は人とともに暮らさなければならないが、人と暮らすのは難しいということが」

「ご明察です。でも人と暮らさなければ、人は本当の幸せを得ることは出来ませんよ」

「深い、深い、実に深い。洪水の日に川の中に足を踏み入れるより深い」

「国王陛下は何でも分かっておいでになるから、実に頼もしいです」

「わたしの分かっておることは、三角形の面積は底辺かける高さ割る二百三十二ということで、それもおそらく間違っておる」

「そんなことは分からんでも結構です。もっと明るく勇気をもって生きましょう。そうすれば全ての道は開けるのです」

「ところで」と言いながら国王陛下はカチッと映写機の電源を切った。部屋がまた真っ暗になった。今度はアネモネはヒャッとは言わなかった。



「ところで、誰か爆弾を触ったな。爆弾が爆発したぞ」と言いながら国王陛下は電気をカシャリとつけた。国王陛下の指さす先には、さっきリッパ大臣が爆弾を触ったテーブルがあった。その上の爆弾が――ない。かわりに黒い粉がうずたかく積まれてある。

「逃げも隠れもせん。爆弾を触ったのはこのわたしだ」とリッパ大臣は堂々と手を挙げた。

「わたしは爆弾を触った者を責めるために言ったのではない。わたしは単にこの爆弾を見てほしかったのだ」と言って国王陛下は、実に素早く黒い粉の積まれたテーブルに駆け寄った。

「この爆弾は、何を隠そう、普通の爆弾ではない。何を隠そう、変わった爆弾だ。何も隠さん、これは自らのみを爆破させる爆弾だ。いわば平和の使者だ。こんな珍奇な物品で平和を手に入れることは困難だが、平和のためのオブジェともいうべき物品。芸術作品だ。芸術は役には立たんが、役にも立つ。不思議な物品ばかりが揃っておる」

「国王陛下、随分混乱してきたようですが」とホルム博士が冷静に口をはさんだ。

「うむ、お主、なかなかやるな」と国王陛下はホルム博士を睨みつけた。ホルム博士は頭を掻いて笑っている。

「ところでこの話題にはもう飽きた。何かいい話はないか?」と国王陛下は素早く玉座まで走り、そこに腰掛けて息を切らしていた。

「ここにいる小説家、ボー先生とお話をしませんか?」とホルム博士は提案した。これは迷惑だとばかりに、Z氏はホルム博士と国王陛下を交互に不安げに見つめた。

「それではこの背広を脱ごう」と言って、国王陛下は着ている背広をビリビリ手で破き始めた。

 破り捨てられた背広のあとに現われた衣服は、黄金色の着物だった。

「小説家と話をするとなると、やはり着物を着ていなくてはならん。何の脈絡もないと笑わば笑え。人は脈絡のみにて生きるにあらずだ。飛ばなくてはならん。思考のマッハ飛行を無限に操る術を心得る者こそ、真の達人と言える。ところであなたはあなたのことをどう表現するのかな?」

「ボー先生、国王陛下がおたずねですよ」とホルム博士がZ氏の腕を突っついた。

「いやあ、急にそう言われても……」とZ氏が言葉に詰まるのも当たり前だ。

「ボー先生は夢吉人形を持っていらっしゃる方です」とホルム博士が変な紹介をした。

「それでは、夢吉を退治したのはあなたかな?」

「とんでもない、違います」とZ氏は手を振って否定した。

「そうだろうな。とてもそんなことの出来る面構えはしておらん」



「国王陛下は大変な誤解をなされておいでになります」とホルム博士は不意にスクッと立ち上がり、国王陛下の前に進み出た。

「ボー先生は実は大人物なのです。それを証拠立てる方法は、この方の著書『水色の奇跡』を読んでもよくは分かりませんが、それよりもこの方自身をご覧になって下さい。何かのっぴきならない光を感じませんか? それについてはここにいるリッパ大臣が証言します。リッパ大臣、どうぞ」

 リッパ大臣は不意に名指しされても、別に慌てる様子もなく立ち上がり、ホルム博士の隣に並んだ。拳骨を口の前に持って来て、一つ大きな咳払いをした。その音は部屋中に威厳をもって響き渡った。

「わたしがただ今ご紹介に預かりましたリッパ大臣です。つい二時間ほど前まではメキシコ人と呼ばれておりましたが、ホルム博士の特別な取り計らいによりリッパ大臣を襲名する運びとなりました。さておたずねの件ですが、わたしはかねてから、ボー先生の存在感を高く評価しておりました。しかし、わたしは一介のメキシコ人に過ぎず、わたしの意見が国に通るほどの力は持ち合わせておりません。そこでわたしは、異次元汽車の運転手に棒つきキャンディー一年分を賄賂として贈り、ボー先生の家に異次元汽車を横付けしたわけです。わたしは今回のボー先生の招待に、自らの人生のおおかたを賭けました。そして今やわたしの考えは正しかったと、評価されたのであります。ボー先生は、これからの宇宙を良くする最先鋒にいらっしゃる方です。決して積極性に優れた方ではありません。むしろ鈍重な方です。だがこれからの世の中、積極性は精神病につながります。積極性、積極性といっても、それはしょせんわがままとわがままのぶつかり合いです。それは真の幸せからは最も遠いでしょう」

 リッパ大臣はまた威厳のある咳払いをすると、ゆっくりホルム博士の隣から身を引いた。誰も邪魔しない。あのやかましい国王陛下も黙っている。

「さて、国王陛下、ただ今のがリッパ大臣の話ですが、それについて何かお話はあるでしょうか?」とホルム博士がたずねた。

「わたしには別にたいした御仁には見えんがな」と国王陛下はZ氏をきつく睨んだ。Z氏は恐れおののいて、早くこの場から逃れたい一心だ。

「人にはしるしなど、ついてはおらんでしょう。あなただって、見たところたいした者とも思えませんよ。非常に変わってはいるけれど、変わっていることがたいした者だという証拠でもございますまい。変わった様子がないということの方が逆に、大人物のしるしですらあると言えます」



 国王陛下は不満げに「フン」と一息鼻息を出すと、「他に何か証言はあるか?」とのたまった。

「それでは次にアネモネさんのお話を伺いましょう」とホルム博士がアネモネを振り返った。

 アネモネは「はい」と言って、スクッと立って、ホルム博士の隣に並んだ。この人たちはすごいとZ氏は感心した。いきなり呼ばれても全く臆さずに話をする。ぼくには出来ない芸当だ。

「わたしはボー先生を非常に尊敬しています」とアネモネは始めた。実に力強い明るい声だ。

「わたしは以前からボー先生を知っておりました。というよりわたしとボー先生は恋人どうしだったのでございます。だから図書館でボー先生をお見受けした時、わたしは飛び上がるほど喜んだものです。でもここにいるボー先生は、ボー先生ではあるけれどボー先生ではない部分を持ったZ氏でもあるのです。わたしはそれにもめげずに、ボー先生に好意を表明し続けました。Z氏であるボー先生も素晴らしいんですもの。とても控えめなんですもの。強い主張はなさらないで、その場にいてどういう態度が一番適しているか考える様子なのです。これは誰にでも出来るようで、実は誰にも出来ないことなんです。Z氏であるボー先生がいつも心の中で描いているのは、調和じゃないかと思います。争いに勝つことばかりを考えるのは、実は負けの人生なのです。いくつか争いをしてきて、いくつも勝ってもどこかで負けなければならないのですから、要するに負けの人生です。わたしはZ氏であるボー先生にも、心からの尊敬と愛を抱いております」

 アネモネはペコリと頭を下げて、Z氏のそばに戻った。非常に力強い目で前を見ていた。覚悟という言葉は彼女のためにあるのではないかと確信するほどの力強さだ。

「フーン、なるほど、なるほど」と言いながら国王陛下は玉座から降りると、こちらに静かに歩み寄った。そしてZ氏の顔をじっと見つめている。

「あなた、ご本人のあなたは、自分のことをどうお思いになるのかな?」

「ぼくはそんなに褒められるほどのたいした者ではありません」

「しかしあなたは夢吉人形を持っておられる。ちょっと見せてもらえんかな」

「どうぞ」と言ってZ氏は国王陛下に夢吉人形を手渡した。

 国王陛下は、夢吉人形を横から見たり上から見たりとしげしげと眺めていた。

「確かに非用金仙人があなたに渡したのですね?」

「はい、そうです」

「そういえば、あなたはだんだん、たいした人に見えてくる。わたしが間違っていたような気もする。わたしの心があなたのお陰で少しずつ鎮まるような気がする。底知れぬ力だ。うーん」と国王陛下はうなだれながら唸った。



「どうでしょうか、国王陛下。この方はやはりたいした人でしょう?」

「うん、わたしの中にあるイライラが消えてきた」

「それはよろしゅうございました。ところでフリー・ルームに行きたいのですが、国王陛下もお出でになりますか?」

「行ってもいい。この方は地球の方なのか?」

「そうです」

「この方をこの宮殿に雇い入れることは出来ないかな」

「それは出来ません。この方はこれから地球で大活躍をなされるのです。この方はこれから、地球をはじめ宇宙の指導者になられるのです。国王陛下一人のために身分を拘束するなど、もってのほかです」

「そうか」と言いながら国王陛下はシュンとうなだれた。

「しかし大丈夫です。これからこの方がお出しになる本を欠かさずこちらにお送りします。本があればきっと国王陛下には大いに役に立つことでしょう」

「頑張ってくれたまえ」と国王陛下はZ氏の前に手を差し伸べた。Z氏は慌てて起き上がり、国王陛下ときつい握手をした。

「うん、実に頼りない雰囲気だが、心が温まる人だ。何も言わんでよろしい。わたしがそうと言えば何でもそうなるのだ。いや、こういう傲慢な考え方はいかんなあ。だが人は少しくらい自信を持たないとなあ。根拠なんかあってもなくてもいい、何か自信を持たないと生きてはいけないものだ。あなたは自信というものを持っておられるかな?」

「ぼくにはそんなものはありません。売れない小説家ですし」

「そうだろう、そうだろう、あなたには今自信がない。そこでわたしがあなたに自信をつけて差し上げよう。あなたに自信というものが備わったなら、あなたは並外れて偉大な人物になる。あなたはそうは思わんかも知れないが、それは間違いのない事実だ。あなたは全てを備え持っておられる。あなたは自信さえ持てれば完璧だ。どうです、こういう風に言うと、少しは自信を持てましたか? 世の中には自信を持ってもらったら困るような人間が多すぎる。控えめな人ほど自信を持つべきなのだ。控えめな人はまわりを見回すことが出来るから、控えめになる。控えめというのはかなり優れた能力なんだ。今こうしてしゃべりながら、わたし自身も学んだ。よかった、よかった」

 国王陛下の長い話が終わった。分かったような分からないような話だった。自信などはつかない。ただ、自分はこれまでの生活では経験したことがないほど大事にされていることだけは事実だった。



 国王陛下に連れられて、みんながフリー・ルームに入った。「これからフリー・ルームに行こう」と国王陛下が言って着いた所だから、ここはフリー・ルームなのだろう。床も壁も白いマットのようなもので覆われた奇妙な部屋だった。

 人はあちらこちらにいるが、みんな寝転がったり宙に浮いて走っていたり、一人で壁に向かって卓球をしていたりと、マチマチなことをしていた。

「さてここはフリー・ルームといいまして、名前の通り全くフリーな部屋です。フリーな部屋というのは、何をしていてもいい部屋なのです」と国王陛下はいつの間にかガイド役になっている。

「ところであなたは何をなされますか?」と国王陛下はZ氏にたずねた。

「ぼくは何をすればいいでしょう?」とZ氏はホルム博士にたずねた。

「彼はここで何をすればいいのかね?」とホルム博士は双子にたずねた。

「彼はここで」

「演劇をします」

「演劇ですか?」とホルム博士。

「演劇?」とZ氏もびっくりした。

「なるほど演劇」と納得したように見えたのは、国王陛下ただ一人だった。

「ぼくは演劇なんか、やったことはありませんよ」とZ氏は不満そうな顔をして双子を見やった。

「いいえ、あなたは毎日」

「演劇をやっていらっしゃいます」と双子は負けていない。

「ぼくは毎日ただ生きているだけです」

「生きることが」

「演劇なんです」

「生きることは現実だ」とZ氏は反論した。

「演劇もある意味では」

「現実です」

 どうも埒が開かない。他の人たちを見ると、みんな穏やかな目で彼を見ている。双子の言葉に異を唱える気など全くなく、早く彼の演劇を見たそうだった。

「分かりました」とZ氏は空気に背中を押されるようにして、決意をした。「演劇をしましょう。することはしますが、台本はどこにあるんですか? それに皆さんも一緒にしてくれるのでしょう?」

「台本はあなたの頭の中にあります」

「そしてお一人でするのです」



 彼は今まで、世の中から見捨てられた存在だと自覚していた。だからこそ三十にもなって、家にこもって小説を書くことに没頭していたのだと、言えなくもない。そして元々が現実逃避が目的だから、そんな目的で書いた小説が売れるはずはない。

 腹が立ったら怒ればいい。とにかく現実を中心に考えるべきだ。悪い人間になることを恐れてはいけない。悪人にはなってはいけないが、時と場合によってやむを得ずなる悪い人間には、人は生きている限り全くなることを避けることは出来ないのだ。

 恥がどうした。自分はやりたいようにやるだけで、それを笑う者は頭がどうかしていると考えればいい。決して見栄や体裁を中心に考えてはいけない。見栄や体裁を中心に考える者が失敗すると、それはもはや笑い事では済まない事態になっているのだ。

 Z氏は部屋の中央に出た。頭の上で、口ひげを生やした男が宙に浮いていた。Z氏は上を見上げ、口ひげの男と目を合わした。男はニコリとほほ笑みかけ、握った拳から親指をぐっと立てて見せた。「それでいい!」というサインだ。

 Z氏も男に向けて親指を出した。そして低い声から順番に「あー」と声を出して行った。

 いつの間にかホルム博士たちは、パイプ椅子に並んで腰掛けていた。国王陛下は部屋の隅で逆立ちをしていた。実に変わった人だ。だが自由なのだ、ここは、とZ氏は思い直した。自分も国王陛下を見習って変わり者になろうと、心に決めた。

「あー、あー、と一通り発声練習がすんだところで、私の物語を始めましょう。ところが私の物語には、台本らしい台本が用意されておりません。作家先生が怠け者なので、こうしてぶっつけ本番でやっている次第でして、当然のことながら完成度については劣りますが、心はこもっておりますよ。何しろ私は必死ですから。こんな必死になったことは、これまでの人生に一度もございませんでした。

「わたしは昭和××年に生まれました。この異次元で昭和などという年号は何の意味もないかと思いますが、私にしてみればこれは重要なことです。時代や場所が変われば、大事なことというのは変わるものなのです。だからあまりムキになって、大事だ大事だと叫んでもいけないのです。そうしてムキになることが、戦争の元になるのです。どんなに正しいと確信したことでも、ちょっと待てよ、と考える力が必要ですね」



「わたしは地球上の年齢でいうと、三十歳です。三十歳といえば中国の孔子という人が、三十にして立つ、という有名な言葉を残しています。ところが自分が三十歳になってみて、自分を含めて世の中の全ての三十歳は、一向に立っていないことに気づいたのです。要するに、立っているかのように見栄を張れと、孔子は言いたかったのかも知れません。人間、見栄を張っているうちに、いつの間にかその見栄にふさわしい人間になっていくということは、よくあることだからです。役職に人間がついていくというようなことは、よくあります。

「ところが見栄を張ることは必ずといっていいほど、失敗するのです。失敗している人は少ないじゃないかとお叱りの言葉を受けるかも知れませんが、皆さん、表に現われている事象だけにとらわれてはいけません。表は見栄でとりつくろっていますが、そういう人ほど裏では火の車です。単純に言いますと、仕事で順調な人は家庭で苦しんでいますし、家庭がうまく行っている人は仕事で伸び悩んでいます。これは単純な図式で、そうでもなかろうと反論をされれば、そうですね、と答えざるを得ません。

「さて、わたしは全く準備なしでしゃべっていますが、準備がないわりにはうまくしゃべってますでしょう? そうでもないかも知れませんがね。わたしのレベルが低いだけなのかも知れませんね。とはいえわたしはここで言います。人が判断するレベルなんかが、なんぼのもんじゃい、と。ましてや一般的なとか普通のとかいうレベルなんか、爆弾でもつけて北極にでも飛ばしてやります。わたしはわたしのレベルのことを言っているので、これはわたしにとってはとても重要なことなんです。わたしはわたしの人生を歩くだけで、一般的とか普通とか世間とか言ってわたしを説教する人の人生を、生きるのじゃありません。ふん!」

「おっ、調子に乗ってきた、調子に乗ってきた。偉い!」と国王陛下がZ氏の前でスキップしながら手を叩いた。

「ボー先生、頑張って!」とアネモネは黄色い声援を送った。

「さすが、わたしの見込んだ人だ」とリッパ大臣は口ひげをひねった。

 ホルム博士と双子は何も言わずに、じっとZ氏を見つめていた。彼にはこの三人の沈黙が痛いほどこたえる。だが負けてなるものかとファイトも湧いてきた。彼は今までこんなにファイトが湧いたことがない。自分のこの変化を感じて、なおさらファイトが湧いた。ファイトがあれば、物事何とかなるものだ。

 勝っても負けても頑張った結果ならば、それは勝ちだ。



「あの窓の外をご覧なさい。ハハハ、ここには窓はありませんね。非常に風通しが悪い。でも光の加減や空調が整っていて、とてもいい気持ちです。きっと優れた一級建築士が設計したのでしょう。異次元に地震はありますか? いやいや、外野は気にしない、気にしないです。わたしの内面こそが今ここでは重要な要素であり、それ以外は全く意味をなさないことだとわたしは断じます。なぜというに、わたしの内面こそ人類全ての内面であり、人類全ての内面はすなわちわたしの内面だからです。汚い金儲けさえしなければ、誰でも普遍性に関与出来る。これは真理です。

「思えばわたしも、先刻の国王陛下のようになってしまいましたね。しかし人間はいざという時には饒舌になるべきなのです。いざという時にしゃべりにしゃべって、洗いざらいしゃべって、普通の時には黙り込んでいたらいいのです。あとは全て冗談です。いざという時以外は全て冗談です。

「ところで空を飛んでみせましょうか? ハハハ、わたしの上にいる口ひげの男が来い、来いと手招きをしています。さっきバルタン星人と一緒にいた時には、空中に浮くなどということには、全く信を置けませんでした。今のわたしは違います。大方の固定観念はもう、わたしの頭からぶっ飛びました。空に飛ぶことくらい当たり前だと豪語出来ます。何なら今から阿蘇山にまで飛んで行ってもいいですよ。皆さんがちゃんとあとからついて来て下さるのなら。

「はあ~あ、ちょっと疲れました。ここでゴロンと横になっていいですか? 横になっても、口がある限りしゃべれますもんね。眠くなってきました。これはいけない、これはいけない、演劇の最中に眠るなどというのは、寺山修司の劇団でならあるかも知れませんが、我々常識人には許されない展開ですからね。え? 誰が常識人だって? やっぱりそこに引っ掛かりましたか。なあに、気にしない、気にしない、うやむやにしましょう。

「わたしはもうすっかり目が開きました。何も怖いことはありません。それでもやはり風船は怖いですが。恥ずかしながらわたしは風船が怖いのです。これは余談ですが。わたしはもう自信を手に入れたようです。わたしはもう現実に背を向けることはありません。生きて生きて生き抜いて、つまらん鈍感な人間を蹴散らして、この世を正しい感受性に満ちた素晴らしい世界にします。わたしには実現可能な理想があるのです。わたしはおそらく人類で初めて、理想を手にする人間なのです。

「ハハハ、大風呂敷ですか? それもいいじゃないですか。理想のためには陽気になりましょう。出来るだけ陽気になって、多くの人を陽気さに巻き込んで、いつの間にか理想を達成していくという運びです。クーデターなんかいらない。暗殺なんて物騒な。戦争? くわばら、くわばら、ぼくは飛行機が怖いよ~」

 Z氏はここまで言うと不意に黙り込んだ。見ると横になったまま眠りに入ったようだ。彼はついに一人前の不条理の人となりおおせたらしい。

 ばんざ~い、ばんざ~い。



 空飛ぶ家に乗り込む前に、一同は国王陛下と非用金仙人と握手をした。

「実に楽しかった」と国王陛下は特にZ氏の手を堅く握った。

「あなたのお陰でわたしも勇気を得ました」とまで言った。Z氏はハハハハと笑いながら、もう一方の手で頭を掻いた。

「これでもう大丈夫じゃな」と非用金仙人はニコニコしていた。

「夢吉もおらんようになったし」

「あっ、この夢吉人形ですけど」と言ってZ氏はポケットから夢吉人形を出して、非用金仙人に示した。

「お返ししましょうか?」

「何故返すのかな?」

「だって夢吉を本当にやっつけたのは仙人様ですから、所有の権利は当然、あなたにあります」

「いや、そうではなかろう。夢吉は何のかんのといっても、なかなか優れた人物じゃからな。それを持っておると、向こうの世界での運気はよくなるぞ」

「そうなんですか?」

「もう既に運気はよくなっておると思うがの」

「ボー先生はガハハ・クラブで素晴らしい演劇を披露なさいました」とホルム博士が力強く言った。

「そうじゃろう、そうじゃろう」

「格段の成長です。やはり夢吉の現実的な力が作用したのですね」

「そうじゃ、そうじゃ」

「はあ、そうなんですか」とZ氏は驚いて、そして喜んだ。

「何しろ世の中は現実が支配しておるでの。この異次元でも妙なことばかり起こっておるような印象はあるが、実は立派な現実によって支配されておる。それについては分かるの?」

「分かるような気がします」

「異次元でも現実が主なのじゃから、地球上の世界ではなおさら現実が中心ということじゃ。そういう所で夢吉人形は役に立つぞ」

「いいものをいただきました。ありがとうございます」

「ところでホルム博士、夢の中の町の町長は解放されて、もう夢の中の町の執務室に座っておるぞ」

「それはよかった。今から助けに行かないといけないかと思っていたところなんです」

「なあに、あの男はなかなか剽軽で、閉じ込められていた塔の中でも随分人気者だったらしく、一向につらくなかったと言っておるよ」

「さすがですね。今から少し挨拶に行って来ます」

「それがよろしいじゃろう」



「どうです、空飛ぶ家の乗り心地は?」とホルム博士がたずねた。

「なかなかいいです」と窓から外の景色を眺めながら、Z氏は答えた。

「怖いというのは実は正しい感覚なんです。初めてのことをして怖くないと言う者こそ、注意しなければならないのです。それは、感覚が鈍磨している証拠だからです。だからあなたが最初この空飛ぶ家を怖がったのは、正常な反応と言えます」

「そして今あなたは」

「成長しました」と双子はじっとZ氏を見つめて言った。

「あら、ボー先生は最初から立派だったわ。何もあなたたち二人に成長しましたって認めてもらう必要はないわ」とアネモネはムッとして、双子に食ってかかった。

「まあ、まあ、アネモネさん、そんなにムキにならなくても。ボー先生の立派なことはわたしも最初から認めておりましたぞ」とリッパ大臣が口ひげを撫でながら、ニコニコしていた。

「そういうリッパ大臣も」

「随分成長なさいました」と双子は今度はリッパ大臣の方に目を向けた。

「人のことを成長したとかばっかり言って、生意気だわ」とアネモネはやはりプンプンしている。

「アネモネさん、そんなに怒らないで下さい。ぼくたちはみんな仲間じゃないですか。それぞれのキャラクターの持ち味があるんで、それはぼくたちの場合、決して打ち消し合っていないと思います」とZ氏はアネモネを諭した。

「ボー先生がそう言うのならそうだわ。わたしは完全にボー先生の言うことに賛成だわ」とアネモネはすんなり賛成した。

「アネモネさん、ぼくはアネモネさんの知っているボー先生に、少しは近づけましたか?」

「え?」とアネモネは、質問の意味が分からないという顔でZ氏を見た。

「アネモネさんは、ぼくの中の何かが、この異次元に現われた、ボー先生という人格を愛していたんですね。ぼくはそのボー先生に少しは近づけましたか?」

「あなたはボー先生だわ。わたしは何一つ違うとは思っていなかったわ」

「ところがぼくはここに来た時は、全くボー先生ではなかったんです。ぼくは地球上にいるZという、情けない男としてここに来たのです」

「そんなことはありません。あなたはボー先生です。頭の先から爪の先まで全部ボー先生です」

「アネモネさん、興奮しないで下さい。ぼくはおききしたいのです。ぼくがボー先生に近づけたかどうかを」

「はい、大分近づけましたわ」とアネモネは少しハッとして目を輝かせた。

「そう言っていただいて、ありがとうございます」



「町長の執務室が見えました」とホルム博士が望遠鏡で窓の下を覗きながら言った。

「着陸します」

 ストンと音がして、空飛ぶ家が地面に降りた。ホルム博士が先に降りて、そのあとをZ氏が続いた。Z氏が眼前に見たものは一件の家だった。それほど大きくない、建て売り住宅などによくある二階建ての家だった。隣も前も後ろも家はない。大きな平原にポツリと一件家がある。

 ホルム博士は玄関のベルをピンポンと鳴らした。インターホンから「はい」という男の声がした。

「ホルム博士です。町長さんですか?」

「そうです。何かご用ですか?」

「ご用といえばご用ですが、単なるお見舞いでもあります」

「ぼくは別に病気になっていませんよ」

「塔に閉じ込められていたとおききしたので」

「ああ、そういえばそうですね。あれは実に実に、面白いほどつらい体験でした」

「面白かったのですか?」

「誰が面白いと言いました?」

「面白いほどつらい体験と今おっしゃったようですが」

「面白いという言葉はつらいにかかっています。つまりそれはつらい体験なのです」

「だからお見舞いに来たのです」

「そうですか、分かりました。今お開けします」

 インターホンの電源が切れて、間もなく、家のドアが開いた。背の小さな丸いメガネをかけた男が現われた。

「やあ、ホルムさん、久しぶり」と手を挙げた。ホルム博士はニヤニヤ笑いながらZ氏を見やった。ホルム博士にこんな無作法なしゃべり方をする者もいるんだよと言いたげだ。

「さあ、どうぞ、どうぞ、入りたまえ」と町長は家の中にみんなを招き入れた。中は典型的な日本家屋だ。みんなは畳の間にテーブルを囲んで座った。

「元気そうじゃないか」とホルム博士は非常な情愛をこめて、町長に話しかけた。

「ぼくはいつも元気さ。元気がないのはおなかがすいた時だけだね」

「きみが羨ましいよ」と言ったあとホルム博士はZ氏を振り返り、「町長はわたしの中学生の時からの同級生なんだ。だからわたしにこういうしゃべり方をする。やめてくれと言ってもやめてくれない。厄介な奴だ」と言った。

「何を言う。指導者になったからといって、威張っちゃいけない。人は行き着くところただの人さ。他の誰と何の変わりもない」

「きみの哲学にはまいるよ。まあ、そこがわたしがきみを尊敬するところでもあるんだがね」



「夢吉は誰が退治してくれたんだね?」と町長はたずねた。

「誰だと思う?」

「きみかね?」

「わたしじゃないよ。気になるのかね?」

「いやあ、別に気になんかならないさ。とにかくこうやって平和が戻ったのだから」

「そういうわけにはいかんだろう。何しろきみはここの町長なんだから」

「それを言われると痛いなあ。まいった、まいった」

「相変わらず呑気だなあ。きみのそういうところがいいんだが。相手に妙な緊張感を与えない。どんなに仕事が出来ても、人を怖がらせるようでは半人前以下だ」

「つまりぼくは仕事が出来ないと言いたいんだな」

「そう言いたいんだ」

「そうか。分かった。ところで伊勢のへんば餅でも食べるか?」

「きみは伊勢が好きだなあ」

「伊勢は何しろ神の国だからなあ。最近天照大神には会ったか?」

「そんなことを言うと、ここにいらっしゃる方が怒るぞ。天照大神というと偉大なる神様なんだから」

「ああ、そうか、失敬、失敬。この人だな、『水色の奇跡』の作者は?」

「そうさ。きみはファンだったじゃないか」

「そうさ。あの、すみません」と言って町長は、タンスから一枚の白いTシャツを出して、テーブルの上に広げた。

「ここにサインしていただけますか?」

 Z氏はTシャツを見つめたまま目を丸くしていた。二人で勝手に話を進めているのに、まさか自分に話を振られることはなかろうと、ぼんやりしていたのだ。

「町長がサインを求めているが、サインなんかしてやる必要はない。何しろ自分が危機から救われたというのに、全く感謝の念がないんだから」

「分かった。分かった。ぼくは意地を張ってただけなのさ。本当は塔になんか閉じ込められるのはつらかったよ。だから感謝してる。誰が助けてくれたんだね?」

「非用金仙人さ」

「あっ、また非用金仙人か。これじゃあいつまでも非用金仙人には頭が上がらんなあ」

「こんなことがなくても、非用金仙人には頭は上がらんよ。きみは上がると思っていたのか?」

「上がるなんて思ってないよ。滅相もない」

「本当にしょうがない奴だなあ、きみは。でもやはり何と言っても愛すべき人だよ、きみは」

「ありがとう、ありがとう。ところでここにサインペンがあるので、サインして下さい」



 Z氏がサインを始めると、変な会話は終わりを告げて、部屋は静かになった。何しろ売れていないと信じていたので、Z氏はサインの練習などしたことがなかった。

「こんなんでいいですか?」とTシャツを町長の方に押しやって申し訳なさそうにするが、町長はとても喜んでいた。

「『水色の奇跡』の作者というのは謎の人物で、おそらく誰もサインを持っている者はいないだろう。とても希少価値がある」と町長は、サインの入ったTシャツを窓のそばに持って行って、念入りに眺めていた。

 確かにそうだろう。Z氏はサインというものを今日初めてした。この世に一つしかないのだから、随分の希少価値だろう。

「まあ、町長も元気だということが分かったし、我々はそろそろ帰ろうではないか」とホルム博士は立ち上がった。

「いやあ、悪い、悪い。お茶も出さなくて」と町長はまだサインを眺めていて、こちらを振り向こうともしない。

「ちょっと電話を貸してくれないか?」とホルム博士は町長にたずねた。

「いいよ、勝手に使ってくれ」

「本当にしょうがない奴だなあ」とホルム博士はぶつぶつ言いながら、テレビの横にある電話を使った。

「もしもし、今夢の中の町の町長の自宅にいるんだが、家の前まで異次元汽車を回してくれないかな。――何? そうすぐには行かれないって? ――棒つきキャンディー十年分渡してあげるが、どうだ? ――それでは行きますって? それはよかった。今すぐ来てくれ。待ってるよ」

「ホルム博士には、棒つきキャンディー十年分の持ち合わせがあるのかね?」とリッパ大臣は心配そうにたずねた。

「棒つきキャンディーなら、きみが持っているじゃないか」

「わたしは十年分も持ってない」

「何年分なら持ってる?」

「せいぜい持ってて二年分だ」

「二年分も持っているきみもすごいなあ。まあ、いいだろう。月賦で渡そう」

 間もなく異次元汽車が町長の自宅の前に止まった。

「まあ、呑気にやってくれたまえ」とホルム博士は町長と握手をした。

「呑気さではぼくの横に出る者はいないだろう」

「横じゃなくて右だろう?」

「そう、右とも言う。右だって左だって横じゃないか」

「前ではないことは確かだからな」

「なるほど、きみはよく分かってる。愛してるよ」

「わたしは愛してないよ」



「異次元汽車の」

「発車です」と双子が大きな声で言った。

 汽車はガタンゴトンと音をたてて動き出した。

「そういえばリーとローさんは、異次元汽車の車掌でしたね」とホルム博士は思い出したとばかりに声を高めた。

「車掌なのに、わたしたちと一緒に外をぶらついていたのね」とアネモネが横目で二人を見た。

「アネモネさん」とZ氏が注意をした。

「分かってるわ。仲間でしょう。これは単に女の僻みよ。だってどう見てもわたしと同じくらいの年なのに、わたしよりも重要人物扱いなんですもの、二人とも」

「アネモネさんももう重要人物ですぞ」とリッパ大臣が横合いから声をかけた。

「気休めはきかないわ。わたしはただの学生よ」

「いえ、違います」とホルム博士はアネモネの方にぐっと体を傾けて説明した。「あなたがボー先生をここまで目覚めさせたのですよ。もしあなたがいなかったら、夢吉退治もうまくいかなかったでしょう」

「わたしは夢吉退治には関係ないわ」

「確かにあなたは何も手を下してはいませんが、あなたの存在に力を得たボー先生がいらっしゃいました。そのボー先生は、非用金仙人とわたしに力を与えてくれました。夢吉を退治出来たのは、元はといえば、あなたとボー先生のおかげなんです」

「えっ、そうなんですか」と今度はZ氏が驚いた。

「ぼくは何もしていないと思っていました。それで夢吉人形を貰うのが心苦しいと思っていたんですが」

「いえ。あなたには夢吉人形を貰う資格があるのです。そしてアネモネさん、あなたも今回の働きによって、学生から政府首脳に昇格です」

「わたしが政府首脳? 政府首脳といえば、異次元汽車の車掌よりも偉いんですか?」

「まあ、同じくらいですね」とホルム博士は言葉を濁した。

「そんなことよりも窓の外を見なさい」とリッパ大臣がみんなを促した。

「空一面の花火です」

 こんな美しい風景は見たことがない。暗い夜空に次々と花火が打ち上げられた。ひっきりなしに打ち上げていたら随分お金がかかるだろうと、地球の住人のZ氏は俗っぽいことを考えた。

 これは彼が、陽気な気分になっている証拠なのだ。暗く内省的な人間も、気分が陽気になると、お金のことを云々したりする。それはつまり、現実に立ち向かおうとする意志の現われだから、良いことなのだ。

「宇宙は光です」とZ氏は思わず大きな声で宣言した。



「いいことを言いますね。確かに宇宙には希望が満ちています」とホルム博士がにこやかに言った。

 Z氏はただ、花火で光り輝く様子を言っただけなのにと、恥ずかしくなった。

「わたしが考えるのは、ただただ宇宙の未来のみです」とホルム博士はあくまでも高尚な話を続けた。仕方なくZ氏は「そうですねえ」と相槌を打った。

「宇宙というのは命そのものです。宇宙の命にから見れば、人間一人一人の命なんかまるでケシ粒くらいもありません。一方で、人間一人一人の命は、宇宙全体の命に等しくもあるのです。こういう考え方は、小説家であるボー先生なら分かっていただけると思うのですが」

「はあ、分かりますね」とZ氏はついいい加減な返事をした。

「本当に分かっていただけますか?」とホルム博士が予想以上に喜ぶので、Z氏はびっくりした。

「やっぱりあなたとお知り合いになれて本当によかった」と言ってホルム博士は、窓の外の花火をじっと見ていた。

 このしばらくの沈黙がZ氏を救った。彼はホルム博士の言葉を、頭の中で繰り返し考えた。そういえばそうだ。宇宙というものは大きい。そして我々はその大きな宇宙の中ではまるでケシ粒みたいだ。もう一方で、我々の存在は、宇宙と同一になることがある。素晴らしい考え方ではないか。Z氏は是非とも、ホルム博士とこの件についてもっと話したかった。ぼんやりばかりしていたら駄目だ。

「ボー先生はこれから帰るの?」と不意にアネモネがZ氏に向かって言った。花火を見るホルム博士に話しかけようとしていたZ氏は、出鼻を挫かれた。

「来る時があれば帰る時もある。それが人生というものだ」とリッパ大臣が格言のようなことを言った。

「ボー先生には重要な仕事が待ち受けている。そしてあなたにも重要な仕事がある」とホルム博士がアネモネを振り返った。

「わたし? わたし、本当に首脳になれるの?」

「あなたの勝ち気な賢さを、どうか使わせていただけませんか?」とホルム博士が妙な依頼の仕方をした。

「わたしはまだ勉強の身なのに」

「もちろん勉強は続行して結構です。その上でわたしの手助けをしていただければ」

「どんな仕事をすればいいのですか?」とアネモネはすっかり神妙になって、丁寧な言葉づかいになった。

「あなたはボー先生と異次元の世界とをつなぐ絆なんです。あなたはボー先生がお好きでしょう?」

「それはもう、その点に関しては自信があります」

「あなたはボー先生を介して、地球上を穏やかな世界にする仕事をするのです。そしていつか異次元と地球上とは同じ地平に立つのです」



 非常に大きいことを言う。もっとも異次元という所は、地球上より遥かに大きな所に感じられた。そこの指導者がこれくらい大きいことを言っても、似合うだろう。

「わたしは今回の夢吉の反乱を鎮めたことによって、地球上までもいい世界にしようという野望を抱いたのです」とホルム博士は今度はZ氏を振り返った。

 さっきの宇宙のケシ粒の話などを、聞き返している暇はない。

「ぼくは何をすればいいのでしょう」とZ氏は強い意志のこもった言い方をした。この人なら大丈夫だ、この人について行けば世の人のためにも、自分のためにもなる。この人はそういう人だと、Z氏は心から感じていた。

「あなたは地球に帰ってまた書き続けるのです。それ以外には何もしなくていいのです」

「はい」と返事をしたが、不意に彼は父と母のことを思い出した。そういえばもう来年の三月いっぱいで仕送りをやめるから、小説を書くことは諦めろと両親に言われたのだ。

「どうしたんですか?」とホルム博士はZ氏の沈んだ顔を見て、心配そうにたずねた。

 Z氏はホルム博士に父と母のことを打ち明けた。

「そうですか。それは大変ですね。しかし全然困ったことではありません。あなたはそれでも小説を書けるのです。何もあなたのご両親は、あなたをずっと見張っていて、小説を書けなくするわけではないのですから。少しだけ働きなさい。ギリギリの生活が出来る程度のお金を稼ぎなさい。世の中の人の活動の中に少しだけ混じりなさい。俗に汚されたら消えてなくなるような才能なら、それは最初からないものも同じなのです。あなたの才能はそんなやわなものではありません。少しだけ働きながら書きなさい。一日中机の前に座って書いていても、いいものは書けませんよ。書く以外の行為によってこそ、書くことの秘密を発見出来るものなのです。どうですか? 分かりますか?」

 非常に分かった。世の中のつまらない現実主義者に言われたなら、決して分からなかっただろう。ホルム博士が言うから分かったのだ。

「わたしはボー先生の何を手助けすればいいの?」とアネモネの目は少し涙に濡れていた。

「アネモネさんには、一週間おきに、異次元と地球とを行ったり来たりしていただきます。地球上の生活は苦労が多いですけど、耐えられますか?」

「それは全てボー先生のためになるんでしょう?」

「そうです。あなたには、大切なボー先生を守っていただく使命があります」

「そういう使命なら、わたし、快く引き受けるわ」

「どうです、ボー先生。勇気が湧きましたか?」

「はい、それはもう、非常に勇気が湧きました」

「あなたは、異次元と地球の両方を見通す目を持つことの出来る人です。あなたの悟り方によって、宇宙の未来が決せられると言っても、過言ではありません」

 これは大変なことになったと、Z氏は少し口を開けてホルム博士を見やった。



「トンネルの中に」

「入ります」と双子が前を向いて平然と言った。

「目をつむった方がいいですよ。ここは時間と時間がねじれる場所で、目を開けていたら、吐き気がするかも知れません」とホルム博士は注意した。

 Z氏はその意味を問うことなく、素直に目を閉じた。間もなく周囲が暗くなるような感じがあり、脳みそがフワフワと空中に浮くような感覚に襲われた。

 雲に乗った少年が瞼の裏に現われた。瞼の裏に映像が映るというのは、生まれて初めてのことだ。

 森の中の食卓に大勢の風変わりな人々が座っていた。次に現われたのは図書館の中の風景だ。彼の書いた『水色の奇跡』の背表紙が、本棚の中で燦然と光を放っていた。

 次に彼は、大勢の民衆の間に混じって踊っていた。子供の頃ですら踊ることのまれだった彼が、汗をかいて精一杯踊っていた。彼は市役所の屋上で演説をした。

 そして彼は湖の中を行く潜水艦の中にいた。潜水艦でたどり着いた城の中には、目では誰も見えないが、大勢の人が存在する気配があった。

 彼の瞼に不意に夢吉の姿が焼き付いた。そのずる賢い微笑を見て、彼は再び恐れを抱いたが、次の瞬間、彼の手のひらに小さな夢吉人形が握られた。

 彼は国王陛下と握手をした。彼は再び演説をした。自分の胸が、熱い炎に取り巻かれているような心強さを覚えた。

「もう、大丈夫だ、もう、大丈夫だ」とどこかから太く重々しい声が響いた。誰の声だか分からない。分からないが非常に心地良い声だ。宇宙で最も頼りになる人に太鼓判を押されたような気分だ。たとえ一億人の人を敵に回しても、この人に認められたら未来永劫大丈夫という気になった。

 Z氏は次第に深い眠りに入った。魂が浄化されるような音がきこえた。安らかな気持ちで高みに立つ自分が、容易に想像された。

「はい、着きましたよ」と耳慣れた声がきこえた。Z氏は何の不快感を覚えることなく目を覚ました。目の前でホルム博士がアンパンを食べていた。

「さあ、どうぞ」とリッパ大臣が窓の外を指し示した。そこにはZ氏の住んでいる家の窓があった。

 窓は開いていて、その窓の向こうの部屋にはアネモネが既に立っていて、手招きをしていた。

「どうです。あなたもアンパンを食べませんか?」と言ってホルム博士は、Z氏のポケットの中に袋入りのアンパンを差し込んだ。



 リッパ大臣は汽車の窓を開けて、外に滑り出した。夜の空中に立って手招きをした。Z氏も汽車の窓から外に出た。ホルム博士が「また会いましょう」と言って手を振った。そしてまたアンパンをパクつく。リッパ大臣は家の窓のそばまでZ氏を連れて行くと、「これから先はお二人の世界です」と言って、部屋の中にいるアネモネに手を振って合図をした。アネモネは親指と人差し指で円を作って「オーケー」と言った。

 窓の中から部屋の中に入った。まるで重力の感じられない入り方だ。窓の向こうでリッパ大臣が頭を下げた。そしてこんなことを言った。

「あなたのおかげでとても楽しかったです。そして勉強になりました。わたしがリッパ大臣に昇格出来たのも、あなたのおかげです。これからも末長くお付き合いをお願いします。どうでしょうか、あなたはこんなわたしでも、見捨てずにいてくれますでしょうか?」

「見捨てるなんてとんでもない。ぼくにこんな素晴らしい可能性があると知ることが出来たのも、そもそもあなたがぼくをここから連れ出してくれたからです。ぼくはあなたの御恩を、一生忘れることは出来ないでしょう」

 リッパ大臣とZ氏は窓をはさんで堅い握手をした。手が離れると、リッパ大臣は異次元汽車の方にどんどん吸い込まれて、見えなくなった。

 窓にリッパ大臣をすっかり吸い込んだ異次元汽車は、ゆっくりと発車し始めた。Z氏は不意に懐かしさがこみあげてきて、胸の中が熱くなった。

 Z氏はアネモネと並んで、次第に遠ざかる異次元汽車に手を振っていた。

「綺麗だわね」とアネモネが隣で呟いた。

「うん、そうだね」と返事をしてZ氏は彼女の方を見た。

「あれ? きみはここにいるのかね?」

「そうよ。わたしはここにいる。何か不都合なことでもあるの?」

「いや、別にないけど」と答えはしたが、頭の中でどうしようという考えが渦巻いた。

「わたしはここに一週間滞在するの。駄目かしら?」

「いや、駄目じゃないよ」とは言ったが、彼には彼女を養っていける甲斐性はない。

「大丈夫よ」と言ってアネモネはニコリと笑った。

「異次元の者は地球上の人間に比べたら、はるかにお金儲けはうまいのよ。だからわたしだけじゃなくて、あなたも食べさせて行けるだけの稼ぎを得ることも出来るわ」

「何をして稼ぐんだい?」

「それはまたのお楽しみ」と言ってアネモネはウィンクをした。



 翌日アネモネは占い師の仕事を見つけて来た。

「だってわたしには本当に未来が見えるんですもの。異次元の者にとってはそれは常識よ」

「じゃあ、ぼくの未来も見えるのか?」

「見えるわよ」

「どんな未来?」

「わたしがあなたを見込んだくらいだから、上等な未来だと思えないかしら?」

「そうかな。それは嬉しいな」

「それよりももう小説を書き始めた?」

「今日はまだ書いてない」

「駄目じゃないの。さっそく書き始めなくっちゃ」

「それよりも両親のことが気になる。ぼくはもうすぐここを引き払って、田舎に引きこもらなければならないかも知れない」

「田舎にいたって小説は書けるわ」

「それはそうだが、自由はなくなると思う」

「それならいい解決策があるわ。あなたはわたしと結婚するの。わたしはお金を稼ぐのが上手なお嬢さんだから、都会で二人で暮らすには困らない。そう言うの。お金の心配がないって言ったら、お父さんもお母さんも無理に田舎に引っ張ったりしないわ」

「それはいい考えだが……」

「わたしと結婚するのがいやなの?」

「いやなわけないだろう」

「じゃあ、何を考えているの?」

「異次元の人と地球の人が結婚してもいいのかなと考えたんだ」

「それは偏見だわ。そんな偏見を持っていたら、あなたはいつまでも成長しないわよ」

「うん」

「でも別の意味では偏見も必要ね。偏見が身を守ってくれることもある」

 どっちなのか? 混乱する。

「要するに考え方がしっかりしているかどうかが問題で、物事を一つ一つ固定して考えるのはよくないわ」

 うん、分かるような気がする。

「どうしたの? 何かしゃべって」

「よし、結婚しよう」

「決意したのね。とにかく嬉しいわ」

「母に電話しようと思う」

「なんて?」

「結婚するって」

「お金はどうするの?」

「きみに頼ってもいいかな?」

「あなたも働かなくっちゃ」

 世の中、そう都合よく行かない。

「もちろん、働くさ」



 実家に電話をした。母が出るかと思ったら父が出た。

「ああ、おやじか。お母さんいる?」

「ああ、おやじか、とは何だ」

「いや、別におやじでもいいけど」

「おやじでもいいけど、とは何だ」

「ごめん、ごめん、悪気はないんだ。お母さんは家にいないの?」

「うん、ちょっと町内会の会合に出てる」

「相変わらず活動的だな」

「お前は近々こちらに帰って来るのか?」

「帰らないといけないのかな」

「それはお前の自由だ」

「自由なんかないじゃないか。来年の三月までで仕送りをやめるんだろう?」

「そうだ」

「帰れっていうことじゃないか」

「帰りたければ帰ればいい」

「そんなに自由なのか? お母さんはそうは言わなかったよ」

「世の母親というものはみんなそうさ。息子にいつまでもそばにいてほしいものだ」

「おやじは?」

「わしだってそばにいてほしい」

「おんなじじゃないか」

「おんなじじゃない。わしは自由だと言っておる」

「本当に自由なのか?」

「そうさ、自由さ」

「それならちょっと打ち明け話があるんだが、きいてもらえるかな?」

「何だ?」

「ぼく、結婚するんだ」

「え?」

「結婚するんだ」

「誰と?」

「こちらで知り合った女性さ」

「それは大変だな。お母さんが大騒ぎだ」

「何とかならないかな」

「何が?」

「お母さんの説得を頼みたいんだ」

「そんなこと、わしに出来るわけがない。わしはこれでもお母さんが怖いんだから」

「おやじがお母さんを怖がってるということは知ってるよ。それを押してどうにかならないかな」

「それはどうにもならないが、黙っていてはやるよ」

「黙ってたら駄目じゃないか」

「お前のお母さんを普通に説得することは不可能だ。お前もよく知ってるだろう。だから黙っていてやると言うんだ」

「ぼくは田舎に帰らなくてもいいのか?」

「いいさ」

「でも仕送りはなくなるんだろう?」

「その通り」



「自活して行けと言うんだな」

「当たり前のことだ。大体今まで仕送りしていた方が不思議だ」

「ぼくには何にも不思議じゃなかったけど」

「それだから、お前は変わってると言うんだ。普通は、そんな年になるまで親の仕送りだけで暮らしていたら、変だと思うはずだがな」

「全然変だとは思わないよ」

「やっぱり変わってる」

「でも大丈夫だよ。これからは自活するから」

「女の人に財産でもあるのか?」

「そうでもない」

「どこの人だ?」

「いじ……げんという喫茶店で働いてたんだ」

「綺麗な人か?」

「まあね」

「何とかお前たちが自活出来るようになったら、お母さんに言う。それまではあのお母さんでは無理だろう」

「そういえばそうだ」

「わしはな、お前に自分の夢をかなえてもらいたいんだ。わしの時代はろくに教育を受ける余裕もなかったから、お前のように大学まで行った者には、自分の好きな道を歩んでもらいたい」

「おやじ、そんなこと今まで言わなかったじゃないか。てっきりお母さんみたいに、普通の道を行けと言っているのかと思った」

「今だから言うんだ。今のお前は一生のうちで一番大事な時かも知れない。何故かわしにはそう思える。だからこう言うんだ」

「ありがとう」

「お母さんだが、お母さんはお前のことを本当に愛している。あんなうるさい人だけど、そのことは心に止めておけ」

「うん、分かった」

「いつかわしたちが誇りに思えるような人物になってくれ」

「うん」

「成功したかどうかの問題ではなくな」

「うん」



 アネモネは占い師として働き始めた。Z氏は、一日に三時間の契約で、学習塾に勤め始めた。以前一度学習塾に勤めたことがあるが、生徒の前に出てひどくあがってしまい、まるで授業にならなかった。しまいには女生徒たちになめられてしまって、すっかり自信を失いやめてしまった。そんな過去があるから今度も不安を持ちながら通い始めてみたが、授業をしても以前ほどあがらないことに気がついた。

 異次元での経験が力を与えたのだろう。それに今度はアネモネとの新生活のためにする仕事だ。親がかりの身が、小遣い欲しさに働くのとは訳が違う。

 週が明けて月曜日に、アネモネは異次元に帰ると言う。首脳会談に出なければならないのだそうだ。Z氏も来るかときいた。仕事にまだ慣れていないから無理だと答えると、それはそうねと言った。

 窓の外に異次元汽車が到着して、ホルム博士とリッパ大臣が手を振った。双子はきっと中にいて澄まして座っているのだろう。

 Z氏も非常に行きたくなった。次の週の火曜日は休みを取ると言うとホルム博士は「仕事が軌道に乗ってから休みなさい」と言った。

「小説は順調ですか?」ときくから「はい、順調です」と答えた。

「どんな小説を書いていますか?」

「これからはユーモア小説を書き続けようと思っているんです」

「それはいい、それはいい。きみのような人はそういうものを書いた方が、気分が前向きになっていい」

 アネモネは異次元汽車に乗って出掛けた。次の週の月曜日の夜に帰って来た。Z氏のユーモア小説は順調に仕上がって行った。

 前向きに、前向きに。そして現実を見る。そうしながらしばし内省し、また現実に戻り、書く。

 Z氏はアネモネを、最初に出会った時より以上に愛するようになった。アネモネは彼のことをここでもボー先生と呼ぶ。

 そうだ、次に応募原稿を出す時には、ペンネームをボー先生にしよう。

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