勝者の、エピローグ

 会場を出ると、途端に体が軽くなった。


 まるで、建物内では二倍の重力が働いていたのではないかと思えるくらいに。

 すぐ近くにジープが停まっている。

 キングとジャック、そして黒バンダナの女死刑囚は、僕を置いてそちらに小走りで向かった。

 彼らと入れ替わるようにして、二人の黒服が車から降りてくる。


 そして、もう一人。

 厳めしい、和装の老人が、堂々と降り立った。

 僕の脳裏に「主催者」という言葉が浮かんだけれど、声にすることも出来なかった。

 老人は、その場にある、どれにも興味を示すことなく、真っ直ぐ建物の入り口へと歩いていく。

 僕は、その姿を目で追いながら、黒服の一人に所持品のチェックを受けた。

 問題なくパスすると、来たときと同様、目隠しを義務付けられた。

 あの不快なバスの旅が始まるのかと思うと、それだけで車酔いしそうだった。


 闇は、アイマスクの中で絶妙な伸縮を繰り返した。

 平坦な道を走っていると膨張し、悪路で体が揺さぶられると収縮する。

 まるで、今までの現実を忘れさせる催眠術をかけられているかのようだった。

 本当に――現実だったのだろうか。

 疑い始めた僕は、ポケットの中のカードに触れた。

 無意識のうちに入れていた、これこそ、ゲームが現実であった証拠。

 ならば、キングとジャックは大丈夫だろうか。

 あのジープで、見知らぬ土地を後にし、無事に日常へ帰れるのだろうか?

 思えば……彼らのことは、本名すら知らない。

 知っているのは、ゲームのリピーターで、主催者への復讐に燃え、レイに賛同した者たち、ということくらいだ。

 そして、そう……レイは。

 クイーンは、どうなったのだろう?

 最後に轟いた銃声。

 あれが、クイーンの最期なのか?

 いや、あの発砲音はきっと、復讐計画の第二ステップ開始の合図なのだと、僕は信じたい。

「勝ってくれ……クイーン」

 僕は、唇を動かさずに呟いた。



 いつしか眠ってしまっていた。

 しかし、そこに蛇は現れなかった。

 僕に付いて回るよりも、あの建物の中の方が快適で、い続けることにしたのかも知れない。

 エンジンが止まり、スライドドアが開いた。

「到着しました」

 黒服だろうか。それだけを告げると、僕の手を引いて、車の外へと誘導してくれた。

 視界を奪われたまま、蒸し暑い環境の中を歩いた。蝉の声が聞こえる。

 やがて、空気の質が変わって、屋外から室内に入ったことが感じられた。

 ドアが開く音がして、さらに数歩、進んだ所で、黒服の手が離れた。

 僕は、直立不動で、しばらく辺りの気配を窺おうとしたが、すぐに、背後でドアが閉まって、室内には静寂だけが残った。

 僕は、目隠しを取った。

 そこは、見覚えのある、会議室のような部屋。

 、ジジジ、カン、ジジジ、カンという不規則な音は、今は聞こえてこなかったけれど、ここは確かに、あの夜の集合場所だった。

 巾着袋が床に捨てられていた。拾い上げて中身を出すと、預けていた僕の所持品が入っていた。何も減っていなかったし、何かが増えてもいなかった。

 ……何が起こっていたのだろうか。

 頭がぼんやりとして、寝不足のような感覚だった。


 帰ろう。

 ここに、もう用事はない。

 希望の扉と称された方のドアは、施錠されていた。

 対面の、もう一つのドアを開けると、相変わらず冷たい闇が広がっていた。

 足元の赤いライトを頼りに、階段を上がった。

 狭い路地に出ると、生ゴミの臭いをブレンドした夏の湿気が、僕の帰還を歓迎してくれた。

 僕の頭の中の靄が、少しだけ解消された。


 大通りに出る方角を確かめて、歩き出そうとしたとき、僕はいきなり右肩を掴まれて、よろけた。

 呼び込みか、それともタチの悪い連中か。

 僕は顔を顰めて振り向いた。

 薄暗かったが、距離が近いので、相手の身なりは判別出来る。

 ダークグレーのスーツに身を包み、ハンチングを目深に被った、何の変哲もないサラリーマン風の……。

「あ……」

 男は、ハンチングの影で顔を隠していたが、男からは、僕の驚いた表情はまる見えだろう。

 チケットを奪われた男――本来エースになるべきだった男が、目の前にいた。


 この男もリピーターである。

 オールド・メイドの所要時間も知っているし、生還したものが開放される場所の法則も分かっている。だいたいの時間を決めて、ここで待機していれば、僕を捕えることなど難しくない。

 この男には、僕を捕える目的がある。そのことは、僕自身も、痛いくらい身に覚えがあった。

 痛みに耐えることが精一杯で、逃げることも向かっていくことも出来ず、ただ立ち尽くすしかなかった。

 本物のエースは、怯えている僕を無表情で捉え続けていたが、やがて、口元に笑みを浮かべると、

「生還、おめでとう」

 優しい口調で、片手を差し出してきた。

 それに応じようと、右手の握力が少し弱まる。しかし、結局、男の手を握り返すことはなかった。

「ゲーム、終わったんだな」

 諦めた男は腕を下げ、横を向いて足元に視線を落とした。

 そんなことよりも、言うことあるのではないか。

 チケットを返さなかったことを責めてこない、生殺しのような感じが不気味だった。

 僕は、そのことに触れずにはいられなくなった。

 実は、それが男の狙いで、こちらが自発的に言うのを待っていたのかも知れない。

「すみませんでした!」

 僕は、万引きを見付かった学生のように頭を下げてから、声を張った。

 顔を上げずにそのままでいると、男は靴底を鳴らして体の向きを変えた。しかし、殴られも、蹴られもしなければ、去っていくこともなかった。

 男の溜息が、下げた僕の視線の先に落ちた後、穏やかな口調が聞こえてきた。

「いや、チケットを落としたのは、俺のミスだ。本当は、この手であのクソゲームを壊してやりたかったけど……まあ、結果的に壊せたのならば、それでいい」

「……本当に、すみませんでした」

 男の、大人の対応に、僕は更に深く頭を下げるしかなかった。

「俺で良かったな。あの、血の気の多い若造だったらボッコボコだったろうな」

 男は楽しそうに笑った。ジャックのことだろう。

 僕も、ようやく心に余裕が出来た。

 しかし、僕に復讐する為に現れたではないとすると、この男の目的は一体、何なのだろうか?

 それに、いま男が口にしたセリフが引っかかった。

「あの……ゲームは壊れた、って……誰から聞いたのですか?」

 ゲームがルール通りに進んで、凄惨な殺人が繰り返されて、生存者だけが大金を手に日常へと生還した――のではないことを、この男は知っているのだ。

 答えは決まっていた。

 ただ、どうしても男の口から聞きたかった。

 僕が姿勢を戻すと、男は僕に背中を向けていた。

「ああ……無事に戻ってきた奴らから聞いたよ」

 無事に戻ってきた奴ら――。

 僕は、肩を落とした。

 決して、ジャックとキングだけが生還したことに文句を付けるつもりはないけれど……やはり、残念でならなかった。

 僕の気持ちを知ってか知らずか、男は淡々と続けた。

「誰も死なない、誰も殺さない――それが最高の壊し方だと、誰よりもレイ自身が強く思っていた。でも彼女だけは、どうしても抑え切れなかったんだろうな。彼が死んだ部屋で、彼の命を奪った拳銃を持ってしまったら……それがたとえ、が出てしまうことになるとしても」

 相槌も打たずに、僕は黙って聞いていた。


 聞きながら思った。


 人は、欲望に殺される。


 しかし、


 どっちにしても、死ぬのだ。

 だから、死は敗北などではない。

 死は、究極の無欲になるだけのことだ。

 ならば、無欲になる前の、最後の欲望――。


 彼と、同じ場所で死にたい。


 ――その奇跡を叶えられた彼女は、最高に幸せ者ではないか。


 僕は、そんな内容のことを、うまく言おうとしたけれど、結局まとまらず、

「レイさん、素敵な人でした」

 という、安っぽい美辞にしか仕上げられなかった。

 男がこちらに向き直り、ハンチングを指で押し上げる。そして、何かを企むような目つきで僕を見た。

「そうかぁ。たった一晩で、レイのことをそんな風に思ったか」

「ち、違いますよ!」

 僕は、誤解されたことに気付き、慌てて両掌を前に出してブンブンと動かした。

 男は、そうかそうか、と呟きながら、スーツの内ポケットに手を入れた。

 出てきたのは、一枚のトランプだった。

 男は、それを半分に畳んで、僕の手に押し付けた。

「招待状だ。気が向いたら、連絡してやってくれ」

「招待状?」

 この男の目的は、これを渡すことなのか?

 怪訝な顔をしていたらしく、男は僕の両肩を二度叩いた。

「大丈夫。今度は、ちゃんとしたババぬきだから」

 僕はしばらく、呆然とそのカードを眺めていた。

 顔を近づけると、カードの隙間から、手書きの数字が見えた。

 こんな僕が、彼らのような人たちと繋がっていていいのだろうか、という申し訳ない気持ちが込み上げてくる。

 恐縮しながら、ゆっくりとカードを広げた。

 折り目から下には、電話番号が記されていた。

 そして、折り目から上の部分には、メッセージが添えられていた。


 ――いつかあなたと、もう一度、ババぬきを。


 僕は、意味を訊ねたくて顔を上げた。


 だが、男はもう、路地の闇へと消えた後だった。

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