もうひとつの、(8)
死に神は、最後まで私を選ばなかった。
そして彼も、私を選ばなかった。
意識のある自分を恨み、ベッドの中で安らかに眠る彼を恨んだ。
どんなに叫んでも、叩いても、キスをしても……。
彼はもう、還ってこない。
だから私は、ただ静かに、彼を恨んだ。
彼への愛が枯れてしまわないように、涙を流したけれど、最後は致命的なまでに乾き、干からびた。
今こそ悲しむべきときなのに。
もっと涙が必要なのに。
こんな日の為に、泣きたい時があっても、ずっと強い女で居続けたのに……。
座り込んで、彼の唇に指をあてる。
まだ温かい。
せめて、このぬくもりだけでも保存する方法はないだろうか。
――レイ……愛してる。
この口が、最後に発した声が、耳の中に蘇る。
本当かしら。
本当は、私への嫌悪を、表現した結果が、これなのではないだろうか。
ジョウがこめかみを狙って撃ったのも、私との思い出を吹き飛ばしたかったらではないか。
だとしたら、天国で彼の姿を見付けても、きっと、別れを告げられるに違いない。
近付こうとすれば、永遠に遠ざかる。
「じゃあ……生きていれば、ずっとそばにいてくれる?」
眠りに就いたジョウは、答えてくれなかった。
当然だ。
答えられなくなる前に、彼はもう答えてくれているのだから。
立ち上がると極度のめまいに襲われた。思わずデスクに手を突いてしまう。涙と共に血液まで流れ出てしまったのだろうか。
情けない。
彼の前で、こんな醜態は見せたくなかったのに。
どうにかマージャン卓まで辿り着く。
明かりもなく、毒々しい紫色に染まった室内で、私は地面に落としたコンタクトレンズを探すように、落書きされた牌を集めた。同じ図柄を数字の順番に並べれば、それは簡単に完成した。
確かに、ジョウからの頼みごとは、最高に刺激的な試練だった。
今、ここで死ぬよりも、ずっと辛い未来が待っている。
――生きて、このゲームに、もう一度、挑め。
彼は私に、そう言い遺したのだ。
この遺言に書かれた使命を果たしたとき、彼との再会が許されて、本当に、心も身体も一つになれるに違いない。
ベッドに戻り、私は彼の傍に寄り添った。
布団を持ち上げると、二枚のトランプが床に舞った。数字カードと、ジョーカー。
それらを私の二枚と合わせて、ポケットに突っ込んだ。どちらが優勝であるかを曖昧にさせたい、せめてもの抵抗だった。
これくらいは許してくれるだろう。
顔を隠すように、ジョウの硬直しつつある腕の中に潜り込んでから、
「……ごめんね」
私は、謝った。
私の涙腺が再び水気を取り戻し、視界が歪んだ。
涙が、彼のシャツに染み込んでいった。
湿って、冷たくなって、飛び起きて、着替える……そんなことは起こらなかったけれど、私は、ゲームが終わるまで、彼の腕の中にいた。
こうして――。
私は、オールド・メイドに優勝した。
彼の部屋を出て、コンダクターに申告すると、すぐさま彼の死を確認する為に、黒バンダナが入れ替わりに部屋へ入っていった。
その作業が終われば、あとは早かった。
音楽プレーヤーからは、これといった祝辞もなく、ジョーカーのパネルが飾られた鉄扉が開かれる。
扉の向こうで、二人のコンダクターも合流した。
黒バンダナは私にホールを出るよう促した。
三人に囲まれて、奥に伸びる薄暗い廊下を真っ直ぐ行く。
突き当たりで立ち止まると、雁字搦めに施錠された扉の前に一人がしゃがみ込んで、音楽プレーヤーから聞こえてくる数字に耳を傾けた。ダイヤルを回しているみたいだった。
五つ目が開錠されると、重い鎖の音が重なって、一気にほどかれていった。
最後に鍵が開けられると、冷たい廊下に、生命感溢れる生暖かい空気が流れ込んできた。
たった一日なのに、まるで何年も監禁されていたかのような気分だった。
初めて見る樹海の景色を、もう少し観賞していたかったが、近くに停車していたジープから、二人の黒服が降りて来た。
もう一人――高貴な風貌の老人を引き連れて。
小柄な身を和装で包み込んでいる。白色の割合が広い頭髪を綺麗に撫で上げ、顔には深い皺が刻まれ、重力に逆らえなくなった肉が付いている。
数々の危険な荒波を乗り越えてきた人間が纏う、自信と、狡猾さを備えた風貌だった。
あいつは……。
おおよその想像はつく。
主催者側の、比較的高位にいる人間だ。
故意に睨み続けていたが、老人は脇目も振らずに建物の入り口へと歩いていった。優勝者には興味なし、といった様子だった。
そのあとすぐ、私は、来た時と同じように目隠しをされた。こうなると待ち受けているのは勿論、あの車での長旅だった。
もっとも、今回は一人旅だけれど。
時間の感覚も徐々に麻痺しかけてきた頃、ようやく揺れは収まり、私は車から降ろされた。
手を引かれて歩く。
ドアが軋む音を聞き、足音が反響する空間を少しずつ歩かされる。
そして、またドアの音。
そこでついに、私を導く手が離れた。
辺りには、人の気配も、物音もしなくなった。
三十秒ほど様子を見てから、私はアイマスクを取った。
天井から、ジジジ、カン、ジジジ、カン、という金属っぽい音がリズミカルに聞こえてくる。一本だけ電灯が切れかけていたのを思い出す。
ここは、あの集合場所だ。
足元に、私が所持品を入れた巾着袋が無造作に置かれていた。
携帯電話、指輪、タバコ、ライター、化粧品……それら私物の、一番奥に、見覚えのない封筒が入っていた。封緘用の両面テープは貼られていない。
中を覗き込むと、一枚の小切手が入っていた。
七億円の額面が打たれ、印鑑も押されている。確かに、現金同等物として有効なものだった。
その、途轍もない金額を凝視する。
歓喜のざわめきや、逡巡の焦りは沸き起こってこない。ただ――。
――こんなものの為に。
私は、必要以上に強く、小切手を握りつぶした。
七億円と引き換えに、七億円では買えないものを失った。
失って、私はまた、日常に戻された。
いや、ここは、日常のふりをした非日常だ。
もう、あの平凡な日々は、永遠に訪れない。
日常に戻る扉は、ジョウが逝った、あの部屋にしかない。
その扉は、彼の命という鍵によって、堅く閉ざされてしまったのだ。
ただし、開ける方法が、一つだけある。
合鍵――それは、私の命。
私と彼は、一緒なのだから。
私が日常へ帰ることの出来る、唯一の方法。
ならば、何も迷うことはない。
私はもう一度、あの部屋に戻る。
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