もうひとつの、(7)

 私には、絶対にあってはならない未来。


 そうならないように、即興でも綿密に作戦を立てて進めてきた。

 そして、全ては計画通りに進んでいた。

 それなのに……。


 何がいけなかったの?

 どうして分かってくれないの?

 私はただ――彼に、生き残って欲しいだけなのに。

 もちろん、二人で生きて帰ることが、最高の未来なのだけれど、どうやらそれは、叶いそうにない。

 勝者は、絶対に一人。

 そうあれば、私は迷わず、彼を帰す。

 彼を失うくらいならば、死んだ方がマシ。

 それが私の、彼に対する気持ちであり、それが私の、私に対するけじめだから。

 それなのに……。


 焚き火の薪が燻るような音が、頭の中から聞こえてくる。

 爆発させてはいけない。落ち着かなければ。

 強い瞬きを繰り返し、呼吸を整える。

 そしてやっと、卓上で四角く整列したマージャン牌を視認できるようになった。

 私は、おもむろに振り返り、怒りを含ませた口調で訊ねた。

「どういうつもり?」

 視線を合わそうとしない彼は、そっぽを向いたまま黙っていた。その態度が、私の不満の炎に油を注ぐ。

「ジョーカーを選ぶことがどういう意味なのか、分かってるでしょ! それともまだ理解していないの?」

 いっそ、口から火が吹き出て、この現実を焼き尽くしてくれないだろうかと思いながら、声を荒らげる。

 彼は、灼熱から逃れるように顔を背けると、逆に訊いてきた。

「じゃあ君は……ジョーカーになって、この先どうするつもりだったんだ?」


 私がジョーカーになったら?

 決まっている。何もしない。

 決まっていたけれど、そうは答えず、

「二人で生き残る方法を考えるわ」

 私は、ナンセンスな強がりで切り抜けようとした。

 彼は、フッと笑って、首を横に振る。

「君は頭がいい。けど、それはさすがに無理だよ」

「随分と決め付けるのね」

「出来なかったら、どうするんだ?」

 そのときは……私が失格になるまでだ。

 それでいいのに、どうして分かってくれないの?

 私は、彼を失いたくないだけ。

 それがたとえ、私のいなくなった世界でも。

 彼には、何の罪もない。

 彼は、私の欲望の犠牲者なのだから。


 彼が興味を示していたなんて、想定外だった。

 あの夜――。

 ネットサーフィンをする私の後ろにいた彼も、画面を覗き込みながら、「残念」と呟いた。私も、フフフと笑った。

 都市伝説で、終わる筈だった。しかし――。

 私は、このゲームへのエントリーページを発見してしまったのだった。

 彼には、秘密にしなければと思いつつ、刺激的な匂いに興奮した私は、どうしても気持ちが抑えきれず、無意識のうちに、「……」と、を零してしまったのだった。

 聞きつけて、傍にやって来た彼も、驚いた様子で、また画面を覗き込みながら、「本当だったんだ……」と言った。

 そして迂闊にも、私は、彼が見ている所で、エントリーしてしまったのである。

 それが、悲劇の発端になるとも思わないで……。


 彼が集合場所に現れたとき、私は目を疑った。

 きっと、彼にしてみれば、軽いサプライズのつもりでやったことなのだ。

 私も、少しだけ嬉しい気持ちはあった。ただ、あまり外出をする習慣がない彼の格好は、普段以上に酷かった。さすがにだらしない、と私は呆れたのだった。

 とは言え、私は、彼はきっと参加しないという根拠のない確信があったのだ。

 それが……こんな未来に繋がってしまうなんて。


 彼を責める権利などないことは分かっている。

 でも、感情が混線してしまって、理不尽な怒り方をしてしまう自分を抑えられなかった。

「あなたさえ来なければ、こんなことにはならなかったのに!」

 私は、彼の肩に拳を振り下ろした。

 何度そうしたって、何も解決しないのに。

 でも、彼を痛めつけたかった。

 それが、私の胸の痛みだと受け止めて欲しかった。

 私の鉄槌を、彼は掌で優しく捕まえて包み込んだ。

「……ごめん」

 その短い謝罪は、異様に重たかった。

 拳では砕けない、鉄の塊のような謝罪。

 私はその場で膝を突き、彼の胸板に顔を寄せた。

「謝らないでよ……」

 私は、涙を堪えながら呟く。

 矛盾している。支離滅裂だ。

 彼が謝ることは、何もない。

 むしろ、謝らなければならないのは私なのに。

 こんな身勝手な私を、彼はまだ、愛しているだろうか?


 愛しているなら、殺して欲しい。

 愛していないなら、遠慮なく殺して欲しい。


 彼は、ずっと優しい人。

 大人ぶって、強がっている私が、実は一番子供だということを理解してくれている、唯一の人。

 その優しさで、私の最後の願いを聞いて。

 上目遣いで、私は彼を見上げた。

「お願い……私を殺して」

 

 死なないのは、一人だけ。

 七億円という賞金が出ると知ったときから、普通のゲームではないと思ってはいた。思ってはいたものの、私は、あまりにもゲーム内容を軽んじていた。

 もっと事前に情報を得ていたならば、もしかしたら引いていたかも知れない。

 欲望に、殺されるのだ。

 そうやって、欲望に殺されてきた者たちの屍の山の上に築き上げられているのが、現代だ。

 だから私も、どうせ欲望に殺されるのならば、とびっきり大きな欲望に殺されてやる――それを信条に生きてきた。

 他人の人生を狂わせて、終わらせて、欲望に殺される危機から自らを救ってきたのは、戦略だったと確信している。

 だから、ここまでの道を歩いてきたのは九分九厘、私の意思であり、完全なる自己責任である。

 主催者も説いていた。

『……権利を得たからには、諸君にも、義務というものが発生する。これは、世の中の常識だ――』

 欲望が権利ならば、責任は義務なのだ。

 私は、責任――義務を果たさなければならない。

 ただし、彼に謝ることが私の義務ではない。

 彼に生きてもらいたいという私の最後の欲望を叶えるために、七億円という欲望に殺されることだ。

 いいと思う。

 とびっきり大きな欲望だ。

 これに殺されるならば、文句はない。


 涙を零しても、目の前が霞むだけ。

 それなのに、気丈にいようと思えば思うほど、胸が押さえつけられて、苦しかった。

 私の、底の深さも、所詮こんなものかと痛感した。

 彼の顔が、私の目の前にある。

 輝きを失った瞳を覗き込むと、余計に辛くなる。

 それでも私は、笑って見せようとした。

 彼の口元が、もぞもぞと動いて、掠れた声がした。

「レイ……君を殺すなんて、僕には出来ない」


 レイ。

 久々に聞く、自分の本名。

 このゲームでは実名で呼ぶことは禁止されている。

 正式に失格になるとは聞いていないけれど、皆、まじめに守ってきた。

 彼は今、その禁止事項を強行したのだ。

 ずるいと思った。

 彼は私を、声に出して「クイーン」とは、決して呼ばなかった。

 同じように、私も彼を、決して声に出して「エース」とは呼ばなかった。

 心の中で唱えるときも、出来る限り「彼」と呼ぶようにした。ただ、あまりにも慣れていないと、つい口から出てしまう恐れがあったので、心の中では多少、「エース」と呼ぶようにしていた。

 それでも、一度だけ危なかったときがあった。

 第一セットで、キングが彼の部屋に助けを求めたときだ。

 彼がドアノブに手を伸ばしかけたとき、私は慌てるあまりに、「ジョ……」思わず彼の名を呼びそうになった。そのときは辛くも、「ジョーカー」と言い換えて逃れられたが。


「ジョウ」

 私も、彼の名を呟いた。

 これで、おあいこだ。

 失格ならば、二人とも失格。

そのことを判定したわけではないのだろうけれど、タイミングよくそこで号砲が鳴り響き、ジョーカータイムが始まった。

 タイマーが、私たちを引き離しにかかる。

 手が届かなくなる前に、何としてでもジョウを守らなければならない。

 愛しているから。

 彼がいない世界なんて、考えられない。

 私だけが取り残されるなんて、想像もしたくない。

 だから、戦ってきた。

 だから、守ってきた。

 だから、殺してきた。

 ジョウは、そんな子供のように騒ぎ回る私の感情を、髪を撫でなることで落ち着かせようとした。

 そして、優しく語りかけてきた。

「レイが、このゲームに興味を持ったときから、覚悟はしてた。あの夜――本物のサイトを見つけても、僕を呼ぼうとして、途中でやめたよね。危険を感じたから、一人で来ようと思ったんだろう? 僕が止めても、レイはやめないだろうと感じた。じゃあどうするべきか……追いかけるしかない、って思った――」

 私は、黙って聞いていた。

「――でも、追いかけても、守れなかった。守るどころか、君に迷惑を掛けただけで……情けないよな」

 彼は、自嘲気味に笑った。

 そんなことない……私は彼の胸に額をすり付けた。

「ここまで、レイに生き残らせてもらったから、せめて最後だけは、レイを守りたい。僕にはその方法が、こうする以外に思いつかなかった」

 私は、息を詰まらせ、満ち満ちた涙の堰を切った。

 倦怠でもない、恐怖でもない、今まで感じたことのない、未知の感覚があった。

 これが――後悔というものか。

「誰かに殺されると考えたら怖かった。でも……レイに殺されるのならば、全然怖くない。大丈夫だから」

 彼に迷いはなさそうだった。

 大切な人の気持ちもかえりみず、私は、吊り橋を渡りきることだけを考えていたのだ。

 私には、彼を愛する資格などないのかもしれない。


 二人で渡っていた吊り橋の、太い縄が切れ始めた。

 彼は、崩落する前に、私を橋から下ろそうとしているようだった。

 彼が、橋と共に奈落へ消えていく、その瞬間を見届けろと。

 それが、私を守る唯一の方法?

 彼の手を離したくない。離すくらいならば――。

「じゃあせめて……一緒に死なせて」

 私はジョウの、優しさゆえに怯えた眼を見据える。

 そう、それも選択肢の一つだ。

 二人で死んで、ゲーム終了。

 優勝者は、なし。

 彼は、真剣に私を睨みつけると、首を振った。

「それはダメだ、絶対に」

 私は、彼にキスをした。

 もっと熱く、もっと深く、もっと長く、こうしていたかった。

 けれど、ジョーカータイムという現実が、刻一刻と二人の運命を壊しにかかる。

「私も……覚悟は出来てるから」


 彼は私を抱きしめて、上半身をベッドに倒した。

 私は、ジョウの胸の上に寄り重なった。

 彼の心音が聞こえる。

「いち、に、さん……」

 彼が、私の耳元で数え始めた。

 私の体内時計と重なって、心地良く同調する。

 落ち着かせてくれているのだと思った。

 どこから数えようか、とタイミングを計る。

「……ごじゅうきゅう、ろくじゅう」

 私は目を開けて、彼の身体をよじ登っていく。

ジョウは、私の頬を両掌で包み込んだ。

「同じだね」

 私は頷いた。懐かしい記憶が蘇ってくる。

 私はジョウで、ジョウは私。

 ジョウは、また一から一定間隔で数字を読み上げていく。

 ……ごじゅうきゅう、ろくじゅう。

 彼と私の時計がずれることはなかった。

 ジョウは、宥めるように言った。

「僕たちは、ずっと一緒なんだよ」

 私も、改めてそう感じていた。

 だからこのまま、いつまでも一緒にいて欲しい。

 だから――。

「だから、一緒に死ななくても、僕たちは一緒なんだよ」

 違う。

 そんなのは屁理屈だ。

 同調していることを確かめ合えてこそ、一緒になっているかが分かるのだから。

 そうするには、二人は同じ世界にいなければ。

 どちらかが彼岸に逝っては、意味がない。

 それに――。

「それに――レイには、頼みたいことがあるんだ」


「頼みたいこと……?」

 鸚鵡返しに訊ねると、彼は優しく頷いた。

「レイに打ってつけの、刺激的な頼みごとだ」

 そんなものはない。

 今より刺激的なことが起こるなんて考えられない。

 でも、ジョウの眼差しは嘘を吐いていなかった。

「何をすればいいの?」

「君らしくないなぁ。すぐに訊くなんて。見つけてごらん」

 ジョウは、意地悪な苦笑いを浮かべていた。

 私は、ベッドから起き上がると、大人に宝物を隠された子供のように拗ねて見せた。

「すぐに見つけてやるから」

 お互いに、気分が紛れるかもしれないと思った。

 私は、深呼吸をしてから、少しだけ思考を働かせてみる。

 彼は、「見つけてごらん」と言った。つまり、どこかに隠したあるということか?

 ベッドの下、武器庫の奥底、液晶テレビの裏、ユニットバスの中……。

 手当たり次第に探ってもいいけれど、そのやり方は賢くない。

 私は記憶を呼び起こし、室内を見渡した。

 すると、過去と現在で、かなり異なっている箇所が、すぐに見つかった。

 マージャン卓の上が――。

 第一セットのとき、そこは、ちょうど賭場が解散したかのように、牌が散乱していた。それが今は、四角く整列しているのだった。

 全自動マージャン卓は、牌が二セット準備されている。一方で対局を行っている間、もう一セットは卓の下で次局の準備を整えて待機している。対局が終了したら、卓上の牌は、開いた穴に落とし、新しいセットがせり上がってきて、新しい対局を始められる仕組みになっている。

 彼が暇を持て余して、積み直した可能性もあるけれど、自動でセットを入れ替えられた可能性が高い。

 中央に、サイコロが封印されているドームが据え付けられており、その近くに赤いボタンがある。押すと、ドーム周囲の床が開いた。私は、積まれた牌たちを落としていった。再びボタンを押すと、中から新しい牌の壁が持ち上がってきた。

 私は、そこから適当に二つ掴み、表を見た。異常はない。別の所の牌を再び取る。やはり異常はない。

 それを幾度となく繰り返していると、やがて、

「……あった」

 私は、口の中だけにその声を反響させた。

 サイコロの、5の目のような絵柄――ウーピンに、マジックで書かれたカタカナ一文字。

 なるほど――と私は微笑んだ。

「1から9まで探して、並べればいいのね」

 なるべく明るい口調を意識して、ウーピンを三本の指で保持したまま振り向いた。

 そこで、私の笑顔は凍りついた。


 ジョウが、F字型の黒い塊を握っていた。

 それは、武器庫に用意されていた、拳銃だった。

 ジョウの喉が動く。無心になろうとしているのか、殆ど棒読みで、私を褒めた。

「さすがだね」

 銃口は天井を向いている。引き金に掛けた指が、微かに震えていた。

「やめて……」

 私の声も震えていた。動けなかった。動けば、動くだろうと思ったから。

 しかし、ジョウは、私が動かなくても、動いた。

 自分の側頭部へと拳銃を導きながら頬を緩めた。

「レイ……優勝おめでとう」

「嫌よ。こんな優勝、欲しくない」

 首を振ろうとしても、動かなかった。自分の意思ではどうにも出来ないくらい、固まっていた。

「見届けられないから、いま言っておくよ。ゆう」

「ふざけないで!」

 聞きたくない。だから遮った。

 ジョウは、私がそれ以上、怒鳴ったり泣いたりしないことを確かめてから言った。

「レイ、君にはまだゲームが残っている。きっと、死ぬことよりも辛い、もっと大きな勝負が」

 ジョウの瞳は、輝いていた。

「いい……勝負なんて、もういい。私も付いて行く」

 その前に、この世で生きている彼に追いつきたい。

 どうにか、軋む一歩を踏み出す。

 間に合って、お願いします――。

 彼は、銃口をこめかみに宛がったまま首を振った。

「この部屋に、武器はもうないよ」

 私は、ハッとした。

 それがきっかけになったのか、運動神経が呪縛から解き放たれる。

 マージャン卓を回りこんで、武器庫を開けてみた。

 上から下まで、どの引き出しも空だった。

 ここまで準備していたのか。

 悔しい。どうして私を置いていこうとするの?

 私が武器庫から離れようとしたとき、

「レイ……愛してる」

 そんな、置手紙を耳にしたあと――。

 私は、銃声を聞いた。


 見る勇気がなかった。

 そして、救えるとも思えなかった。

 どっちも救えない。

 ジョウも、私も。

 私に出来ることは、怒りに打ちひしがれて、咽び泣くことだけだった。

 振り返ると、ベッドの上には人の形をした布団のふくらみだけがあった。

「ジョウ……?」

 私は、ふらつきながらベッドに近付いていった。

 布団から、拳銃を握り締めた手だけが出ていた。

 捲ると、血と肉が飛び散った枕の上で、想像以上に安からな寝顔をしているジョウがいた。

 私は、彼の手から拳銃を引き剥がした。

 隣に寝て、寄り添ってから、喉の奥まで咥える。

 そして、一瞬の躊躇いもなく、引き金を引いた。

 撃鉄の、空振る音が虚しく響いた。

 何度も繰り返したけれど、歯に不快な衝撃を残していくだけだった。

 金切り声に絞り出し、私は力任せに拳銃を武器庫付近に投げ捨てた。

 ベッドから転げ落ち、デスクの前の窓を開けた。鉄格子にしがみ付く。

 薄暮の下、手の届かない所に、ジョウが捨てた凶器たちが転がっていた。

 呪われた悲鳴と共に、下劣な罵声を撒き散らした。

 鉄格子に頭を打ち付ける。

 痛みという、生きている証が額に広がる。

 死ねない絶望感と、永遠の孤独に、私は生身を切り裂かれる思いだった。

 書割のような満月が浮かんだ、紫色の空に向かって、私はいつまでも泣き叫び続けた。

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