もうひとつの、(6)

 私は、目を眇めて彼を見つめた。


 まるで、毛嫌いしている爬虫類を目の前にしたかのような憎憎しい表情。

 私を、恨んでるの?

 鍵のことを教えなかったから?

 それとも、手を組むことを拒否したから?

 それとも……私の演技に騙されて、最初にホールに出てきた方を殺そうと決めていた、と言ったこと?

 確かに、彼にしてみれば、自分がジャックよりも先に出てきていたら、容赦なく私に命を奪われていた、と受け取っていても不思議ではない。

 でも、違う。

 それは誤解だ。

 私は、挑発的な無表情を努めながらも、心の中ではそう繰り返した。

 勿論、彼には届かない。

 彼は、私の姿が悪魔に見える催眠術を、何者かにかけられてしまったようだった。

 私は、エースを殺すつもりなどなかった。

 それどころか、あの作戦は、彼を守る為のものだったのだから。

 あくまで狙いは、ジャックだけ。

 ――だって、あなたにジャックを殺すことなんて無理でしょう?

 私がやらなければ、きっとエースは死んでいた。

 だから、そんな不信の眼差しを向けられる道理などない筈なのに……。

 伝えられない気持ちが多すぎる。

 彼を助けることで、彼から信頼を失うという皮肉。

 この第三セットでは何も仕掛けなかったとしても、彼は、私は罠を張っていると確信するだろう。

 このままだと、不幸な展開にしかならない。

 私の脳が、偏頭痛で訴えかけてきた。

 冷静になれない自分がいる。

 それを冷静に観察している自分もいる。

 それを笑っている自分がいて、片や悲しんでいる自分もいる。

 彼の態度が、私をバラバラにしていく。


 第三セットのプレイタイムの準備が着々と進められている。

 私は、この精神的な危機の中で始まる、ラストゲームを、どう進めるべきかを考える。

 この状況で、残された手段は殆どない。

 心臓にも、時間制限の圧が押し寄せる。

 もう、少し考える時間が欲しい……。


 しかし、ゲームは無情にも始まってしまった。

『二名となったので、四枚のカードで行う』

 コンダクターがカードを配り終えても、私は裏向きのカードを凝視するだけで、捲れなかった。

『さあ、始点はどちらかな?』

 音楽プレーヤーが急かすように訊ねてきた。

 私は、霞んだ目でカードを確認する。

 絵柄にピントが合わない。

 ――怖い。

 けれど、口に出してはいけない。

 言えば、その時点で負け。

 これ以上、負の力を引き寄せてはいけない。

 私は、カードに顔を近づけた。

 網膜に映ったのは、クローバーの3と、2だった。

 つまり彼が、始点でジョーカーの立場を得たのだ。

 私が引くときは、二枚から一枚。彼は、三枚から一枚――そんな、当然のことを確認してしまうくらい、思考能力は低下していた。


『それでは、エースよりスタート』

 開始の号令がかかったとき、私の頭の中に無職透明な純水が流れ込んできた。

 澄み切った液体で満たされていく。

 音が消えて、色が薄れて、匂いも落ちて、すべてがリセットされる。

 それでも強い女でいたい、という意志だけは、全身の至る所に染み込んで、残っていたのだった。

 ――ジョーカーなんて、もう関係ない。


 エースは、険しい顔つきでシャッフルを始めた。

 これまでとは違う心意気で臨む決意が現れている。しかし、それは見事に空回りしていた。

 シャッフルが止まると同時に、眼球が、右側のカードに泳いだ。私は見逃さなかった。

 ――そんなに頑張らなくても大丈夫よ。

 心で語りかけてから、私は、彼の目が止まった方のカードを選んだ。

「私の番ね」

 私は、手に入れたジョーカーを真ん中にして、左右を交換しただけで、彼の前に差し出した。

「どうぞ」

 エースの、こわばった顔からは、「それだけ?」という声が聞こえてきそうだった。

 ――そう、それだけよ。

 私が優しく微笑み返すと、彼は、伸ばしかけていた手を引いた。その手で鼻を隠し、鳴らす。罠の匂いを探している、必死で私に追いつこうとしていた。

 そして彼は、真ん中のジョーカーを避けた。

 彼は、二枚の数字カードがシャッフルした。ただでさえ鈍い思考が、極度の重圧で、想像以上に鈍化している――私は、とても直視していられなかった。


 二度目の交換が始まる。

 すっかり身軽になった私は、少し前に乗り出して、左側のカードに手を伸ばした。

 彼は、微かに唇を引き締める仕草を見せた。

 彼にとって、どんな作戦が進行しているのだろう。

 見せかけなのか、それとも……?

 私は、一回目と同様、明らかにジョーカーの位置が分かるシャッフルをして、彼の前に広げた。

「え……」

 血の気が失せ、顔面の筋肉を硬直させる彼は、いよいよ私の「分かりやすい選択」が、分からなくなってきたようだった。

 罠はないと信じるか、罠があると疑うか。

 貧乏ゆすりを始めていた彼は、観戦している黒バンダナを一瞥してから、数字カードの真ん中を取った。

 ――それでいい。種も仕掛けもないのよ。


 三周目――このゲーム最後の交換。

 ジョーカーは、私の手の中にある。

 これを、どうしようとも思っていないし、どうなるのかも考えていいない。

 策略は、何もない。

 強いて言うならば……。

 私の作戦は――「彼に委ねる」である。

 尤も、彼自身が抱えている問題を、あと数分のうちに解決できるかどうかが、当座の障壁ではあるが。

 カードを律儀に混ぜるエースに、私は言った。

「ラストチャンスね」

 自分でも、少し違和感のあるセリフだと思った。

 けれど、それが一番しっくりくるのも確かだった。

 私にとっては、彼にジョーカーを取らせるラストチャンス。

 そして彼にとっては、私をジョーカーにするラストチャンス。

 ようやく、私の前に、小さな扇形が広がった。

 私は目を閉じ、どちらを選ぶか迷うふりをする。

 コンダクター達は、どのような心境で観戦しているのだろうか。

 彼らは、私たちが部屋に入るまで、どちらがジョーカーを持っているか分からない。

 実は、とんだ茶番なのだと暴露したら、どんな反応が返ってくるのだろうか。

 そんなことを想像しながら、たっぷりと間を置いた後、私は右側を選んだ。

 手札に加えてから、ゆっくりと深呼吸をする。今まで息を止めていたのかと思うほどに、酸素が新鮮で美味しかった。

 それから、目で追うこともじれったい速度で、三枚のカードを一枚ずつ繰っていく。そうしながら、彼の顔色を窺った。

 ――普通でいいのよ。

 絶対に私を信じなさい、とは強制できない。

 ただ、普通にしていれば、間違いは起きない。

 だから、未熟な作戦とか、稚拙な罠とか、意外などんでん返しとか、そんなことは考えないで欲しい。

 ただ――。

 ――生きたい。

 その強い欲望だけを持って、カードを引いて。

 彼は、私の手元に広がった三枚を見て、喉が上下させた。

 視線は、真っ直ぐに、ジョーカーを見ていた。

 そう。それを避けて、どちらかを引けばいい。

 限界まで達した鼓動が、弱々しく持ち上げたままの右手に伝わっていた。

 私は、ポーカーフェイスで、その時を待った。


 見守っている中――それは唐突だった。

 彼は静かに、涙を浮かべたのである。

 そして、呟いた。

「……分かったよ」

 エースの声は、溜息が混ざって掠れていたが、確か澄んでいた。涙が、彼から憑き物を洗い落としたのかもしれない。

 分かった?

 それはよかった。

 私にも、後悔はない。

 一度も後悔することなく、終われる。

 そんな幸せが、すぐそこまで来ていた。

 しかし――。

 

 私は、叫びそうになった。

 歯を噛み締めて、声を堰き止める。

 代わりに、カードをつまんだ彼の指を睨み付けた。

 ――本当に、バカな男!

 理解に苦しむ……ジョーカーを選ぶなんて。

 彼は、私の視線を誘導するかのように、揃えたカードを胸の辺りに押し付けた。

 分かっているのだろうか?

 そこにジョーカーが移動したことを。

 その二枚が墓碑となって、ここから生きて出られなくなることを。

 それとも……その手で、私を殺すつもり?


『そこまで』

 そこまで、私は恨まれていた、ということか。

 混乱する私に、彼は目を合わせた。

 そこにはまだ、涙が滲んでいた。今度は重力に抗えず、頬を伝って落ちた。

 ――それは、何の涙?

 そして彼は、今度は苦しそうに声を押し出した。

「君の考えていることは……分かった」

 無理に作られた笑顔が憎たらしい。

 分かっていない。全然分かっていない。

 エースが出した答えは、間違っている。

 考える時間を与える為に協力した私が、まるで馬鹿みたいだ。

 身体の奥底で過熱していく怒りが、私の瞳を充血させていく。

 後悔しない私を、後悔させたかったの?

 分からない。全然分からない。

 沈滞したプレイルームの空気が動く。

『第三セットのジョーカータイムまで、あと二十分』

 残酷な通告が、追い討ちをかけた。

 二十分あっても、もう何も手は打てない。


 ババぬきは終わったのに、彼は部屋に戻ろうとしなかった。

 私は力任せにカードを握り締め、足で椅子を蹴り倒した。緑バンダナが警戒して、身体の向きを変えて私に焦点を合わせる。

「カードの確認が出来ればいいのよね?」

 私の、震えた問いに対して答えたのは、やはり、黒バンダナの手にある音楽プレーヤーだった。

『問題ない』

「そう。ありがとう」

 私は、カードをポケットに仕舞ってから、自室に駆け込んだ。そして、小窓から彼を窺いながら、心の中で十秒、数える。

 いち、に、さん……。

 コンダクターが、三人とも、ずっとこちらに顔を向けている。正確には、私の部屋のサインパネルが強く光るかどうかを確認しているのだ。

 部屋にカードを置いたまま、私はホールに戻った。自分でも、強く光っていないクイーンのパネルを確認しながらコンダクターを見る。

「これで分かった?」

『問題ない』

 どこかで間違いが起こっていて、という淡い期待を抱いてみたが、そんな安っぽい願いが受け入れられるほど、現実は甘くない。

 私は、その足でエースに近寄った。

 彼は逃げる気配もなく、黙って、私との距離が縮まっていく時間をやり過ごした。

 言葉を交わしても、伝わらない気持ちがある。

 けれど、沈黙が伝える想いもある。

 エースは、苦渋の色を浮かべて私を凝視していた。

 私は、不気味な微笑みで応答する。

 ――何を感じ取った?

 私は、立ち上がろうともしないエースの腕を掴むと、有無を言わさない強引さで身体を引っ張った。彼は、椅子と共に床に倒れた。

 私は、腰抜けの腰を蹴った。哀願も、抵抗もない。二枚のカードだけは握り込んで離そうとしない。コンダクター達は、私を咎めようとはしなかった。

 私は、怒りに任せて、彼を引きずって連行し、彼の部屋のドアを開け、中に入った。

 危険な吊り橋を渡ってきた私が、正しい覚悟の決め方を、教えてやる。

 最後のジョーカータイムが、始まる前に。

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