(5)
『そこまで』
黒バンダナの手元で、主催者がプレイタイム終了を告げる。
終わらせないと、終わらないババぬき。
永遠に、グルグルと回り続ける。
あの蛇が、獲物を物色する幻想に、また捕まった。
精神に侵食してくる、あの声が聞こえてきた。
〈おもしろくなっただろう? 人生〉
ふざけるな。
おもしろがっているのは、お前だけだ。
そうやって姿を消して、自分の安全だけはしっかりと確保している卑怯者。
なぜ、こんなことをする?
とんでもないお節介だ。今すぐにでも訂正して欲しい。
やり直しだ。
もう一度、第二セットの最初から。
しかし……。
『まもなく第二セットのジョーカータイムに入る。午前九時以前の攻撃は認められない。各人部屋に戻り、カードを確認すること』
そう、これが現実だ。
最初の配布で、僕の元に転がり込んできた、ジョーカー。
それが二周目で、ジャックの手に渡る。
ここで僕は流れを掴んだと、心の中でガッツポーズを取った。
あのクイーンが、ジャックからジョーカーを引くことなど有り得ないと、確信があったからだ。
ところが、三周目。
鉄壁が、脆くも崩れたのだった。
クイーンが、ジョーカーを引いたのである。
一瞬、何が起こったのか、分からなかった。
「クイーン」
思わず名前を口走るが、奥歯が、老朽化したボルトとナットみたいにガタガタとぶつかりだして、言葉を噛み砕いてしまった。血の気が下がっていく。蒼白になった顔に、額から滲んだ汗が垂れていく。
クイーンにも、異変が起きていた。
彼女らしくない、見るも無残な困惑の表情。
あれは、決して演技などではない。
正真正銘、クイーンは、何かミスを犯したのだ。
さっきまで一緒にいた、あの子が、殺すか、殺される……この異常事態に及んで、俄かには信じられない、などと悠長に疑っている余裕などなかった。
今回はジャックが、一番に自室へと帰って行った。
『ジョーカータイム開始、五分前』
主催者が、故意に煽るような声色を響き渡らせる。怒りを禁じえないくらい、悦に入っていた。
この窮地、クイーンはどう切り抜ける?
切り抜けて欲しい。そして勝って欲しい。
君は絶対に負けてはいけない人間だ。生き残って、ここから出なければならない。
だから――ジャックを殺せ。
『一分前!』
人殺しを楽しむ声は、いよいよ興奮を帯びていた。
僕は、狂気の熱波から逃げるように、まだ居座り続けるクイーンを一瞥してから、自室へと駆け込んだ。
鍵を掛けた次の瞬間、間の抜けた号砲とともに、第二セットの『ジョーカータイム』が始まった。
制限時間は、午前九時から午後四時までの七時間。
僕は、今度こそ一人で、篭城作戦で切り抜けることを決心した。
ナイフをマージャン卓の上に投げ捨てる。牌が、隕石落下の衝撃で破砕した大地の欠片みたいに飛び散った。
それから僕は、デスクの上に置かれたままの、空のペットボトルに目を奪われた。
「クイーン……」
また、無意識のうちに口から出る、その名前。
いや、きっと大丈夫だ。
今頃、激流の如く血液を脳に送り込んで、思考の水車を高速回転させていることだろう。
それより、自分自身の心配をすることが先決だ。
ペットボトルの近くに二枚のカードを置いて、念のために確認する。
描かれていたのは、クローバーの2と6だった。
動き出したタイマーが示す残り時間「6:56:22」を、僕は今回も逃げ切るだけでいいのだ。一度は出来たことだ。二度目も出来る。そんな小学生のような励ましを自分に贈った。
重い足取りで武器庫に向かう。
最上段を開けると、拳銃が待機していた。ジャックがキングを負かしたときに凶器となったのが、こいつだ。確かに、飛び道具は有利かも知れない。
僕は、グリップの部分を握り締めた。命を守る重さと、命を奪う重さが幾重にも重なって、気持ちを沈めていこうとした。
勿論、使わないに越したことはないけれど、非常事態に備えて、身近に置いておこうと思った。
一通り、他の引き出しも開けてチェックしたが、ナイフとピストルに勝るものはないと判断した。鍵穴には、回らない鍵が刺さったままだった。
ベッドに戻る。
ヘッドボードに埋め込まれたデジタル時計は、午前九時四十五分を知らせていた。
潰れた枕の下にピストルを隠し、スプリングの効いたベッドに身を投げた。
第一セットで、篭城作戦が安全であると証明されたためか、これまでの疲れが一気に押し寄せてくる。
胃袋も、いつまで空にしておく気だ、と情けない音で訴えてくる。思えば、ここへ来てから何も食べていない。クイーンと一緒に水を口にしただけだ。
身体を半回転させて、冷蔵庫に手を伸ばしてみる。未開封のペットボトルに缶ジュース、それに瓶ビールまで用意されていた。食品類は缶詰が多い。見た限り、死に到るような雰囲気はなかった。主催者側が参加者に毒を盛るなど、興醒めの反則もいいところだ。
冷たい缶ジュースとコンビーフを選び、ベッドで寝転がったまま食事をした。久々の糖分と塩分に、体中が泣いて喜ぶ。欲望が一つ、叶ったのだ。
タイマーのデジタルが「5:59:30」になったとき、僕はドアの方に向かった。小窓の向こうが気になったのだ。
そっとシャッターを開ける。
ホールの光景を見て、僕は驚いた。
三角形のテーブルに、クイーンがまだいたのである。彼女は両手を膝に置き、目を閉じている。ジョーカーのパネルの下の両開き扉の傍らには、コンダクターが一人、監視業務に就いていた。第二セットは赤バンダナが担当だった。
兎に角、これで真実は揺るぎないものとなった。
命を狙われる側が、あんな所で悠々としていられるわけがない。
僕は、彼女がこちらに気付かないうちにシャッターを下ろした。
敵に同情するのはおかしいのだけれど……やはり残酷なルールだ。
この状況で、あんな非力な女性に人を殺せというのは、不利の上に不利の上塗り。それは一般的に、無理という。
男の僕でも自信がない。
僕はユニットバスに入り、トイレに座りながら考え続ける。
ジャックは、圧倒的な難局でキングを殺した。
ジャックは何故らキングの部屋に入ることができたのか?
なぜ、キングはジャックを迎え入れたのか?
そしてクイーンは、彼らにどんなプログラムを入力していたのか?
用を足した後、僕は風呂に入ろうか迷った。ホテル並みに備品は揃っている。不都合はない。
身体を洗い、バスタブに湯を張り、体を癒してもらった。ただ、風呂上りもまた同じ服を着なければならないのが少し残念だった。
風呂から出て、僕はもう一度シャッターを開けてホールを覗いてみた。
クイーンの姿はなかった。赤バンダナだけが、ぽつりと任務を続けていた。
僕はデスクに戻って、かんかん照りの太陽に湿った髪を晒す。
タイマーは順調に進んでいて、ジョーカータイムは二時間が経過しようとしていた。
ミネラルウォーターの残りを一気に飲み干し、冷えた溜息を落とす。感覚が麻痺してきたのか、この窮地の中、かなり落ち着き払っている自分がいることに気付いた。
殺されなければ、日常と何ら変わりのない時間。
殺さなければならない立場でなければ、暇な時間。
ただ、キングの死を目の当たりにしたのだから、ルールは事実だ。
分かっている筈なのに、緊張感が全身から漏れ出ていく感じが止まらない。
そう、まるでテレビの向こう側での出来事みたいに、他人事なのだ。
緊張の箍が緩み、全身の疲労感が麻酔のように安楽へと導こうとする。
その間隙を狙って、睡魔が侵入してきた。
僕はベッドに転がって、眼鏡を外す。
境目が判然としないくらいに滲んでいて、ぼやけていて、知らないうちに眠りに落ちる。
死ぬ瞬間も、こんな感じだろうか?
実感がないうちに、死ぬのだろうか。
そんな考えを最後に、僕は眠りに就いた。
――断続的なブザー音。
合わせてもいない目覚まし時計に、僕は眠りから覚めた。レム睡眠だったのか、重くてだるい感じはなかったけれど、不愉快ではあった。
僕は舌打ちして、体を持ち上げる。
こんな時間に何かイベントがあるとは聞いていない。ベッドの背にある時計を見ると、午後三時になったところだった。
ブザーは鳴り止まない。鼓膜から入って、脳に恐怖を薄く塗り重ねていく。
この部屋にスピーカーらしきものも見当たらない。
唯一のスピーカーといえば――液晶テレビのそれか。
眼鏡を掛けて、矯正視力を取り戻す。
すると、ブザー音に同調して、液晶画面が赤、黒、赤、黒と明滅していた。
さらにもう一つ、異変があった。
それは、テレビの隣のカウントダウンタイマーだった。
「は?」
僕は、素っ頓狂な声を上げて、眉根を顰めた。
表示が「00:00:00」になって、こちらもブザー音に合わせて点滅している。
第二セットが終わった、ということなのか?
しかし、第一セットの終了は、こんな警告音ではなかった。
一体、何が起きたのだろうか。
サイドテーブルに置かれていたリモコンを液晶テレビに向けるが、どれを押していいものか分からない。手当たり次第にチャンネルボタンを押してみるが、応答はない。
最後に、《入力切替》と書かれたボタンを押してみると、ブザーは鳴り止んだ。
その直後、液晶の画面が明るくなった。
映し出された映像は、一昔前のホームビデオみたいに粗かったが、観るには充分な画質だ。
寧ろ、ノイズが入り込んで、不鮮明になってきたのは、僕の意識の方だった。
テレビの向こう側の光景に、思わず顔を歪める。
「これは……?」
呟いてから、フラフラとマージャン卓の前まで近付いて行く。
打ちっぱなしのコンクリートだろうか、艶のない鼠色の空間に、三人のコンダクター達が並んで立っていた。緑バンダナが右、そして黒バンダナが中央に、そしてライフル銃を持った赤バンダナが左に。
それだけなら、まだ良かった。
最悪な予感をさせたのは、彼らの足元にいる、クイーンだった。
正座した状態で、腿の辺りを麻縄でしつこく縛られ、両手は後ろに回っている。目と口には黒いタオルが巻かれていた。しかし、あの艶やかな長い黒髪と、ワンピースにボレロは、間違いなくクイーンだ。
僕は、力なく卓上に両手を突いた。マージャン牌がいくつか弾かれて、乾いた音を立てる。
三十秒くらい、静止映像かと思うほど微動だにしない画面だったが、徐に動きを見せたのは、黒バンダナだった。
その手には、音楽プレーヤーがあった。
『現在、午後四時……第二セットのジョーカータイム終了の時間となった』
思わぬ宣告に、僕は首を振り上げた。慌てて、ヘッドボードの時計を改める。緑色のデジタルは、まだ三時を三分だけ過ぎた所だった。五十三分も早い。
これほど用意周到な主催者側が、時計の設定ミスなど犯すとは思えない。壊れてしまったのだろうか?
『第二セットのジョーカーは、クイーンだった』
テレビの向こうの黒バンダナは、先を続けた。僕も、それに従うしかなかった。時は止まらない。
『しかしクイーンは、この七時間で、他の参加者を殺し、ジョーカーを押し付けることが出来なかった』
ジョーカータイムに失敗した?
クイーンが?
違う。
違う、違う、違う。
馬鹿なことを言うな。
時間はまだ一時間も残っている。
これは明らかに、ルールを無視した横暴だ。
『したがって、オールド・メイドのルールにより、今回の失格者は、クイーンとなる』
その宣告を聞いて、項垂れていた彼女は、微かに首を横に動かした。
だから、違う。そんなことは有り得ない。
僕なんかより、はるかに頭の切れる、あのクイーンが、こんなヘマを演じるわけがない。
しかし、時は進む。
止めなければいけないのに、止められない。
『この場合、失格者への裁きは我々が行うこととなっている。エースとジャックの二人は、この映像を通して確認するように』
「やめろ」
届かない抗議を試みる。
無意味だ、こんなことは……。
僕は、やり場のない怒りを力に変換して、強く目を閉じる。歯を食いしばる。拳を握る。足の指を地面に食い込ませる。
腹の底の深い沼から、粘性の高い大きな泡が次々と上がってくる。
僕は、その込み上げてくるものを必死で堪えた。
ガジャ、という不吉な凶器の鳴き声。
僕が目を開けるのを待っていたかのように、黒バンダナがクイーンの体を蹴り倒した。
クイーンは無抵抗だった。
「やめろ! ジョーカータイムはまだ終わっていないだろう!」
ライフルを持った緑バンダナが、黒バンダナを見上げ、頷く仕草で合図をもらうと、倒れこんだクイーンの頭部にライフルをあてがった。
クイーンは無抵抗だった。
僕は、自分でも訳の分からない悲鳴を上げながら液晶テレビに駆け寄った。そして画面を叩きつけた。
映像が、滲んでは戻り、滲んでは戻る。
やがて、滲んだまま戻らなくなった。
それは、溢れ出す涙で視界が霞んだ為だった。
向こう側の映像は止まらない。
最後に赤バンダナが、黒バンダナと向かい合って真っ直ぐにアイコンタクトを送り合うと、腰からナイフを抜いた。クイーンに跨り、顎を鷲摑みにした。
最後まで無抵抗なクイーン。
ナイフが、容赦なくクイーンの首筋に持っていかれた瞬間――。
僕はリモコンに飛びついて、テレビを消した。
ベッドに倒れこんで、傷だらけの枕に顔を埋めた。
いまだ羽根の漏れ出てくる、その裂け目に、僕は非現実への入り口を求めたのかも知れない。
けれど、現実にとどまった僕に対して、門戸はもう開かれていなかった。
受け入れられないものも、受け入れたくないものも、受け入れなければならない地獄。
今まさに、その試練が訪れたのだ。
野生動物にも似た呻き声が、自分の意思とは別の何かによって搾り出される。
腹の底から、限界まで。
いや、限界を超えても。
吐き気がした。
咳き込んで、苦しみを体内から追い出そうするが、喉の辺りで痞えて、噎せてしまう。いっそ、気を失ってしまった方が楽なのに、現実は、それすらもさせてくれなかった。
それどころか、必要以上に意識を冴えさせて、残酷なまでにクイーンとの短い間の記憶を思い出させるのだった。
「クイーン……」
クイーンが負けることなど、絶対にないと信じていたから、反動は数倍にも膨れ上がって、僕にぶつかってきた。
衝撃で散った火花が、クイーンの残像に色を与える。
彼女の言葉が蘇ってきた。
――人間は欲望に殺されるのよ。だったら、とびっきり大きな欲望に殺されたほうが良いと思わない?
とびっきり大きな欲望が、彼女に牙を剥いた。
回避できない死の淵に立たされて……それでも七億が欲しかったか?
七億円が欲しい――。
それが本当に、とびっきり大きな欲望なのか?
そんなものは所詮、小さな欲望の一つでしかないのではないか?
生きたい――。
それが一番、大きな欲望ではないのか?
そして、欲望は人を殺さない。
生きたい、という欲望は、人を殺さない。
生きたい、という欲望を失ったとき、人は死ぬのだ。
――クイーン、本当にこれで良かったのか?
僕は、次のことなど考える余裕もなく、しばらく泣いていた。
三十分ほど、そうしていただろうか。
遅れた時計を恨めしそうに睨むが、それは何の解決ももたらさない。
そろそろ心を整理して、最後の『プレイタイム』に臨む覚悟を決めなければ。
けれど、まだ体の芯が熱を持って、柔らかくなっている。今なら、ほんの小さな打撃でも、僕は折れてしまうだろう。
僕は、心に補強するつもりで、あいつの顔を思い出した。
一騎打ちの相手――ジャック。
碌に会話も交わしていないから、どんな人間なのかは未知数だ。
ただ、彼の実績であるキング殺しは、大変な偉業である。
何せ、クイーンが失敗した今、『ジョーカータイム』を完遂した、唯一の人間なのだから。
だから、仮に僕がジョーカーを引かなくても、殺される可能性は充分にある。
どんな方法で?
僕には篭城作戦しかない。卑怯だが確実な防衛策。
これを破られることなど、あり得るだろうか。
それは、やってみないと分からない。
勝利か、死か。
次で最後。ラスト八時間。
素早く顔を洗って、僕は部屋を出た。
黒い扉の前には、三人のコンダクターが、携帯電話の電波状況を示すアンテナのように並んでいる。
僕は、少し違和感を覚えた。
でもそれは、中央のテーブルが三角形から四角刑に変化していた為だろう。
そこに、ジャックの姿はまだなかった。
僕は、コンダクターたちを順に睨み付け、最後にジャックの部屋のドアで視線を止めた。
出て来い。早く。
クイーンの分まで、勝ってやる。
今でもう、十分は遅刻している。
「ちょっと……聞きたいんだけど」
僕が低い声で訊ねると、黒バンダナは視線を合わせてきた。
「相手が試合放棄した場合は、どうなる?」
黒バンダナは、からくり人形のような緩慢な動きで赤バンダナを見上げてから、手元の音楽プレーヤーを操作した。
『不戦勝だ』
「……そう」
ぞくりとした。
『しかし、心配には及ばない』
「でも、もう時間が……」
希望的観測を膨らませつつあった僕の耳が、突然、小さな音を捉えたのは、そのときだった。
何処かで、ドアが開く。
僕は条件反射で、ジャックの部屋に首を向けた。
しかし、そこの扉は閉じたままだった。
足音が聞こえてくる。
僕が想定している方角とは別の所からだった。
ゆっくりと、音の近付いてくる方向に振り返る。
僕は、目を剥いて椅子から飛び上がった。
す、す、と姿勢よく、自信に満ち溢れた歩みで、対戦相手は、中央のテーブルを目指していた。
もはや、僕の理解を超えていた。
しかし、これが現実だ。
「クイーン……」
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