もうひとつの、(4)

 タイマーはゼロで止まっても、現実は進み続ける。


 あるときは冷酷なまでに遅く、あるときは非情なまでに速く。

 様々な場面で、そんな風に進行速度の差を感じるのは、その人の欲望が錯覚を起こさせているからだ。

 時間は、誰にでも同じ長さが提供されている。

 ケチられることも、オマケされることもない。

 信じられなければ、秒針の刻みに合わせて声を出してみると、それが実感できる。

 私は、付き合いだして間もない頃、実際にやってみたことがあった。

 相性を確かめるテストのように、二人で数えた。

 いち、に、さん、し……ろくじゅう。

 そして、「同じだね」と確認し合って、微笑みを交わした。

 そのあと、今度はお互いの体内時計で計測して、六十秒だと思った時点で唇を離そうとルールを決めて、キスをした。

 いち、に、さん、し……ろくじゅう。

 そして、「やっぱり同じだね」と確かめ合ってから、キスの続きをした。

 付き合い始めて、一ヵ月が過ぎた頃、楽しくて、楽しくて、眠れなかった夜のことだ。


 思い出に浸る時間がもっと欲しかったけれど、そろそろホールに戻らなければならない。

「……そうだね」

 と、彼は思い詰めた口調でデスクからカードを取り出した。

 私はエースを視界から外し、鉄格子の窓から差し込む朝日に目を細めた。ワンピースのポケットから摘み出した二枚のカードで、陽光を遮る。そうしながら、もうすぐ回収される二枚に、心から感謝を捧げた。

 今しがた、賭場が解散したかのように散乱しているマージャン卓の前で、エースは足を止めていた。牌を一つ持ち上げて、物思いに耽っている。

「打ちたいの? 時間なら、さっきまで死ぬほどあったのに」

「いや……違う。何でもない」

 微笑んでから、彼は足を進めた。

 ところが、今度はドアの直前で立ち止まった。怯えて躊躇う停滞だと、すぐに察しが付いた。彼は小窓のシャッターを開けてホールを覗く。

「大丈夫よ」

 私が背中に両手を添えると、エースは思い切ってドアを開けた。

 キングの死体はなかった。

 しかし、そこには落としきれていない血痕が、黒い床でも生々しく擦れて残っている。

 やはりキングは、この場所でジャックの凶弾によって絶命したのだ。

 せめてもの弔意か、エースはその痕を踏まないように跨いだ。


 ホールには、既に持ち場に就いている三人のコンダクターと、足を組んで椅子に座っているジャックがいた。彼は私たちとは違って身嗜みがこざっぱりとしている。髪が少ししっとりしているところを見ると、どうやら風呂に入ったようだ。

 それで清めたつもりでも、着替えを持っていない私たちは、同じ服装を着るしかない。たとえ、他人の血で汚れてしまったワイシャツとズボンであっても。

 ジャックは、私たちが同じ部屋から登場したことに少なからず驚いたようだが、すぐに何かを勘繰って、嫌らしい目つきをした。

「動物って、命の危機に瀕したら子孫を残したくなる本能が働くって聞いたことがあったけど、本当だったんだな」

 そして、勝ち誇ったように下品な笑声を上げた。

 エースも私も、事実無根のデマに付き合っていられるほど暇ではなかったので、無視して空いている席に座った。

 テーブルが、昨日の木製の円卓から、三角形のテーブルに変わっていた。

「そうか……三人になったからね」

 私は、独りごちた。

 巨大な黒扉の前に立っていたコンダクター達が歩み寄ってきた。コンダクター達は、やはり顔をバンダナで覆い、一人の手にはライフルが握られている。

 今更、そんなもので脅さなくても、私は逃げない。エースも腹を括っている。あのジャックでさえ、一人を仕留めたことで自信を持った様子だった。

 そんなことは、どうでも良い。

 それより、私は私の、新たな準備を始めなければ。


『そろそろ、準備はいいかな?』

 黒バンダナが持った音楽プレーヤーから、朝に相応しくない主催者の声が、場を引き締めた。

『では、これより第二セットのプレイタイムを開始する――が、その前に、第一セットのジョーカータイムの結果を発表する。脱落者は、キングに決定した。彼の遺体は、ゲームの妨げとならないように、キングの部屋へ運んだ』

 平然とした口調で説明する主催者。

 タイミングは、ここしかない。

 私は、次のトラックが再生される前に手を挙げた。

 黒バンダナが、僅かに首を左に捻って私を見る。

 発言を許可されたと判断した私は、

「お願いがあるんだけど」

 コンダクターは、死んだ目で私を捉え続ける。

 続けて良いと解釈した私は、遠慮なく頼んでみた。

「運ばれたキングの遺体を見せて欲しい」

「は?」

 素っ頓狂な疑問符を出したのは、そのキングを殺した。ジャックだった。

「悪趣味な女が! ヤッた後に、よくそんなもの拝む気になれるな!」

 悪趣味?

 人殺しに悪趣味呼ばわりされる筋合いはない。

 それ以前に、七億円という大金に誘き寄せられて殺人ゲームに挑んでいる私たちは全員、同類の悪趣味人間だ。何を今さら。

 黒バンダナは、思わぬ依頼に両脇の仲間と顔を見合わせてから、返答のトラックを探し出した。

『認める。制限時間は五分だ』

「ありがとう」

 私は、返事もほどほどに、素早く身を翻してキングの部屋のドアへ向かった。鍵は開いていた。

 大方の予想通り、室内の構造、レイアウトは、私たちの部屋と全く同じものだった。

 キングの遺体は、ベッドの上に、掛け布団をスッポリと頭まで被せられて安置されていた。

 捲ってみないとキングであるかどうかは分からないけれど、実はそんなことは後回しで良かった。

 遺体を見たい、というのは、キングの部屋に入る為の表向きの口実に過ぎない。

 本当の目的は、部屋の左側である。

 例のマージャン卓がある。卓上には牌と点数棒が散らばっている。その向こうには、制限時間を示すタイマー。今はもう、「7:00:00」に戻って、次のジョーカータイムの開始を待ち侘びていた。

 そのタイマーが載った、鉄の武器庫。

 私はそこに移動し、手早く上段から順に内容を確認していく。殆どの武器が未使用のまま残されていた。キングは、ここから何も持ち出せず、応戦することもままならない状態で部屋から飛び出したのだろう。

 そんなことを考えながら、最下段を見たとき、私は手に力を入れたまま固まった。

 私が見込んだ、あの武器が、なくなっていたのである。

「まんざら、単細胞のバカでもなさそうね……」

 私は、右頬を指でなぞりながら呟いた。

 こればかりは仕方がない。それに、こうなることは想定内でもあった。

 と言うのも、さっきのジョーカータイムに、その兆候があったからだ。

 キングの部屋に侵入することに成功したジャックは、室内でキングを殺害することも可能だった。にも拘わらず、負傷させただけで、ホールに脱出を許したのである。これは、ジャックがノロマでも、躊躇したわけでもない。

 キングの部屋にある武器を調達する為に、敢えてキングを逃がしたのである。

 この武器を使おうとしているジャックは、場合によっては第二セットをかなり有利に運ぶことが出来る。

 相手がこういう風に動いてきた。

 ということは、私が進むべき方向は、先回りして、待ち伏せ出来る道だ。

 それがまた、危険な吊り橋であることは、火を見るよりも明らかだった。

 けれど、渡らなければ勝ち目はない。

 寝首を掻いてやる。

 私の命を賭けてでも。


 ベッドの前まで戻ると、私は足元から布団を少しだけ捲った。

 スニーカーを履いたままの足が見えた。これだけでは本当に死んでいるのかどうか判然としない。

 膝が見える辺りまで上げてみる。するとジーンズに赤黒いシミが、痛々しい模様を作っていた。

 上半身は、もっと酷いことになっているのだろう。

 私は、元通りにキングの下半身を隠してから、敗者に合掌した。


 キングの部屋から出ると、ジャックがこちらを向いて、怪訝な表情を作った。銃弾で破壊された天井の照明が消えているので、不気味な薄暗さを纏っている。

 エースはテーブルに視線を落としたまま、もうすぐ始まる第二セットに備え、集中している様子だった。

「お待たせしました。皆さん、本当に見なくてもいいの? こんな風に殺されるわけにはいかない、って、気合いが漲るわよ?」

 私は、握り拳を作りながら、不躾なセリフを男たちに投げた。誰も反応してくれなかった。

 椅子に戻ると、黒バンダナが、待ちわびていたかのように音楽プレーヤーを手前に突き出した。

『第一セットで使用したカードを回収する。テーブルの上に出してもらいたい』

 この指令に動いたのは緑バンダナだった。緑バンダナは、黒バンダナを斜めに見上げて視線を交わし、一度だけ頷いてから、足早にカードを集めて回った。

 その間に、黒バンダナが進行する。

『第二セットは三名なので、カードは六枚となる』

 第一セットとは違って、今回は赤バンダナが傍らに置いていた黒いバッグからカードケースを出した。中からバイシクルを六枚数えて抜いた。そして器用な手つきでシャッフルする。

 ついに始まる――。

 緊張感が全身を支配する。

 不思議と嫌な感じはなく、寧ろ心地良かった。

 私たち三人の背後を巡回しながら、各人の前に置かれていく二枚のカード。この六枚のどこかに、必ずジョーカーがいる。

 伏せられたカードに手を伸ばす。岩山の扉を開ける呪文のように、オープン、と心で唱えた。

 現れたのは、クローバーの2と5だった。ジョーカーでも始点でもない、ハズレの組み合わせだった。

 私は平気だった。

 私は平気なのだけれど……。

『始点はクローバーの1を持っている者となる。今回は誰だ?』

 手を挙げたのは、私の右側にいるジャックだった。つまり、私がジャックのカードを取って、第二セットは始まるのだ。

『では、オールド・メイド第二セットを開始する。クイーンよりスタート』

 私は、グルグルと混ぜられ、水平に差し出された二枚から、躊躇なく一枚引き寄せた。

 ジャックの表情を観察する。奥歯を噛み締めているのか、右の頬だけが盛り上がっている。眼球は硬直し、黒目はテーブルの一点を見ていた。

 次は、エースが私の三枚のカードから引く。彼の、弱々しく揺れる手が伸びてくる。

 私は、その仕草が、ジョーカーを回避しようとする迷いから来るものではないことを既に覚っていた。

 手札が三枚になって、エースは、哀れなくらい、ぎこちない動作でシャッフルする。

 ジャックがカードを選んでいる間、私はエースの顔色を窺った。

 初めて万引きをしようとしている高校生のような挙動不審な瞳は、それでもポーカーフェイスを装っているつもりなのだろう。

 けれど、私には聞こえる。

 ジョーカーを引いてくれ――と。

 九分九厘、ジョーカーは今、エースが持つ三枚の中にある。

 彼は、しっかりと私の呪文に洗脳されているのだ。

 第一セットで分析した、このババ抜きのロジックと、それを自分にとって有利に運ぶ使い方を、私は惜しげもなく明かした。彼はそれを実践しようとしているのだ。

 システムと呼ぶには稚拙だけれど、兎に角、エースが注目するカードを追えばジョーカーの居場所が分かる仕組みが出来上がっていることは、私にとっても有益だった。

 ジャックが選んだカードを、エースは無視した。あれではない。まだ残っている。

 私は、ポーカーフェイスで祈るしかなかった。

 これだけはどうしようもない。

 エースの運の強さを信じるしかないのだ。

 三十三パーセントの確率を。


 二周目。

 エースが私のカードを一枚取って、シャッフルになっていないシャッフルを終えた後、そこにある三枚を見て、私は思わず眉を顰めそうになった。

 私から移動したカードは右。それ以外のどちらかがジョーカーなのだけれど、そのうちの一枚の片隅に、蚊の足程度の小さな傷が付いていたのである。

 公平を期する為に、最初からあれくらいの傷が付いていたとしたら、コンダクターが気付いただろう。

 だから……あれは、ゲームの途中で付けられたものとしか考えられない。

 ジャックも、一巡目とは明らかにペースを落とし。三枚をじっくりと見た。そして、眉根を顰めた。エースは自分の考えていることを読まれないように目を閉じていた。

 バカなことを……。

 ジョーカーを追いやすくするためにやるのならば、もっと上手にしなければ、あれでは相手にも教えているようなものだ。

 私がジョーカーを持っている可能性も考えると、私から移動してきた右のカードは、ジャックにとっては引きにくい。だからその時点で二者択一になる。しかし、この目印のお陰で、考えるまでもなくなった。

 予想通り、ジャックは傷のないカードを引いた。

 次の一周も、あれを避けるだけでいい。

 エースは、絵に描いたような墓穴を掘った――私は、絶望的な気分になった。

 ところが、その後のエースの視線の先を見ていると、騙されたのは私の方だったのだと、認めざるを得なかった。

 彼は、自分の手元よりも、ジャックの手元を一瞥する回数の方が格段に増えたのである。

 そう、さっきジャックが引いた、傷のないカードを追っているのだ。

 私は興奮した。

 彼の、ギリギリの綱渡り芸に思わず快哉を上げたくなった。

 エースは、稚拙な目印作戦で墓穴を掘る愚か者――を、演じたのだ。

 もしも彼が、もともと切れ者であると一目置かれる存在であったならば、たとえ安っぽい傷でも、ジャックは疑ってかかっただろう。ところが、凡人と評した人間が仕掛けてきた罠は、所詮は平凡の域として、熟考しようとは思わない。

 それを、逆手に取った。

 彼も捨て身で、彼の戦いを始めたのだ。

 エースの目がジャックの手元から離れないまま、最後のカード交換が始まった。

 私も当然、ジャックの手元にあるカードのどちらがジョーカーであるか、追跡できている。

 第二セットのジョーカータイムの運命が、ここで決まる。

 私は、勝ちに来た。

 その為には、相手が誰であろうと、最後の二人まで残らなければならない。

 そして最後は、今までの人生みたいに、劇的で、刺激的な勝利を手に入れるのだ。

 二枚のカードが並ぶ。

 余裕を見せるジャックの鼻っ柱を圧し折ってやりたかった。

 こんな奴だけには負けたくない。

 生かすも殺すも、この選択次第。

 ――あなたが作った流れ、無駄にはしないわ。

 彼の顔を一瞥した後、私は、カードを引いた。

 手摺のない吊り橋が、勝利の小島に繋がっていると信じて。

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