(4)

 恐怖と絶望が入り混じった懇願と、狂気と欲望が詰まった銃弾がぶつかりあった時、現実は脆くもひび割れ、崩壊した。


 割れて出来た穴の向こう側にあるのは、非現実。

 非現実は、現実世界との気圧差によって、現実の全てを吸い込もうとした。

 僕は、非現実に向かって吹き荒ぶ突風から身を守るべく、頭を抱えて床に伏した。

 受け入れなければいけない。

 現実を、現実として。

 それが、僕の意識を、この部屋とどまらせる、唯一の方法だった。


 現実に残ることは出来たが、頭の中は、台風一過の深い爪跡よろしく、残骸が無様に散らかっていた。

 取り敢えず、整理が優先だ。

 そして、起こるべきだったことと、起こってしまったことの差異を、どう分析すれば良いのか、考えなければならない。

 僕が予想していた展開は、ジャックが制限時間内に誰も殺すことが出来ず、失格となって、コンダクターに殺されるというストーリーだった。

 しかし、その未来は簡単に捻じ曲げられた。

 あろうことか、キングがホールに出てきたのである。クイーンが僕の部屋に来たことも事実だが、それは別の話として――兎に角、そうなったことで、ジャックは獲物を見事、歯牙に掛けることに成功した。

それにしても――。

 こんな逆転劇が、起こりうるだろうか?

 まるでそこには、本人の意思ではコントロール出来ない、例えば神のような抗えない力によって操られ、運命を弄ばれたとしか思えなかった。

 けれど僕は、神様の存在は信じていない。

 ただ、神懸り的な頭脳を持った人間は、稀にいる。

 この逆転劇には、間違いなく、そういった類の人間によって書き換えられたプログラムが走っている。

 僕はそう確信し、真っ先に浮かんだのが、ここにいるクイーンだった。

 クイーン自身に訊くことが手っ取り早いだろうけれども、そう簡単に教えてくれるだろうか。教えてくれたとしても、真実が語られるだろうか。

 やはり、自分の目で確かめる必要があると思った。

 僕は、母親のように頭を撫でてくれているクイーンの手を握り返し、そこからパワーをもらって、ゆっくりと立ち上がった。頷くことで、もう大丈夫、という意思表示をしてから、ドアの方を振り向いた。小窓のシャッターは閉じていた。

 ドアノブを目指して動き出す僕の手に、クイーンの手が横から伸びてきて、阻んだ。

 なぜ止めるのか、と訝る眼差しでクイーンを見つめると、彼女は俯き加減で首を振った。

「お願い、開けないで……」

「なぜ?」

 僕の質問にも反応は鈍く、クイーンは先ほどよりも首を強く振るだけだった。

 しばらく考えた僕は、訊ねるまでもないことだった、と思い至る。相変わらずの低速度の思考回路に、ため息が洩れた。

 当然だ。ドアの向こうには、死体があるのだから。

 勇気あるクイーンとて、女性は女性なのだ。

 僕は黙って手を引くと、

「シャッターはいい?」

 と代替案を提示した。クイーンの白い首は、今度は縦に揺れた。

 シャッターを開けると、窓は二枚のカードできっちりと塞がれていた。

 その一枚が、今はジョーカーに置き換えられていた。ジャックがキングを仕留め、押し付けたのだ。

 もう一枚は、プレイタイム開始時の配布で、僕の手元に入っていたカードだった。偶然でしかないけれど、それを持っていたキングが殺されたと思うと、良い気分はしなかった。

 それ以外の点は、特に何も変化はなかった。

 いや、大きな異変が起きているのだけれど、二枚のカードが視界を遮断している為、ホールを観察することは出来なかった。

 僕は、諦めてシャッターを閉じた。

「落ち着きましょう。この時間は、もう安全だから」

 クイーンは再び僕の手を取ると、ドアの前から離そうと引っ張った。

 決して大きくない歩幅なのに、彼女のスピードに追いつけない。僕の足は、苦手な竹馬に乗る小学生のように、不安定でぎこちない。何度もバランスを崩しながら、どうにかクイーンの後を付いて行った。

 クイーンは僕をベッドに座らせると、冷蔵庫からミネラルウォーターを二本持って来て、椅子に腰を落ち着かせた。

「いただくわね」

 言いながら、一本を僕に投げた。夏なのに、その冷たさが不快に感じられた。

 クイーンは、三回に分けてその冷えた水を半分近く流し込んだ。僕は、その姿眺めながら、ベッドに置いたペットボトルのキャップを指でなぞっていた。

「驚いたわ……本当にこんなことが起こるなんて」

 息を吐いたクイーンは、少しおどけた口調になった。感想は、僕も同じだったが、おどける余裕など到底ないくらいにショックを受けていた。

 僕は返事をせず、開けられなかったドアへ意識を逃がした。

 シャッターの向こう側のカードは、いつまであのまま放置されるのだろう?

 キングの死体と共に処理されるのだろうか?

 ホールでは、何が行われているのだろう?

 ジャックは今、どんな気分なのだろうか?

 そして何より、全ての源泉となっている疑問を考えないわけにはいかなかった。

 僕は、膝の上で指を組んでから呟いた。

「どうして、出たんだろう」

「え?」

 クイーンは足を組みながら、惚けた疑問符を声に出す。故意だ。この距離で聞き取れないわけがない。

 少し間を置いてから、クイーンの理知的な目を見据えながら、言い直した。

「どうして、キングは部屋から出たのだろう?」

「いいえ、キングは部屋から出て来てないわ。出てきたのはジャック。彼が、キングの部屋に入ったのよ」

「それって……キングが、ジャックを迎え入れたということか?」

「そういうことになるわね」

 クイーンは首を斜めにして微笑を浮かべた。考えすぎかも知れないが、どことなく挑戦的な表情だった。

 迎え入れた結果、裏切られて殺された。

 悔やんでも悔やみきれない最期だ。

 しかし、どういう理由でキングはジャックを安全人物であると判断したのだろうか。部屋に入れる前に、クイーンが僕にしたような方法で、手持ちカードの提示を求めれば防げることなのに。油断したにしては不自然である。

 だから……。

「そういうことになるわね」などという適当な返答が、クイーンの本心だとは思えなかった。

 ――クイーン、君が何か仕掛けたのだろう?

 あれだけ色々な情報を開示してくれたのに、このことに限っては、なぜ何も語ろうとしないのだ?

 この子は一体、何をしようとしているのだ……。


 実は精神的ダメージも浅く、ゆえに回復も早いクイーンは、身体を僕のほうに向けたまま、椅子の背凭れに腕をかけて後方を確認していた。タイマーを見ているようだった。僕も倣ってそちらに視線を向ける。制限時間は残り五時間を切ろうとしていた。

 さっきの話は、完全に終わってしまったとばかり思っていたのに、ふいにクイーンが質問してきた。

「エースさんは、どうして私を中に入れたの?」

 僕は、胸のあたりが苦く痺れるような感覚に襲われた。やり過ごそうとしたが、それどころか舌の先まで拡大してきて、喋れなくなった。

 傍らに放置していたペットボトルを手にする。水滴で濡れた胴体に、散乱していた羽毛が付着していた。構わずキャップを捻って、二口ほど喉に流し込んだ。

 なぜ、クイーンを入れたのか……?

「それは……危なかったから。ジョーカーでないって分かって、見殺しには出来なかった」

 クイーンは徐に立ち上がると、マージャン卓に近寄っていった。もしも、それが武器庫に向かっていたとしても、キングが殺された今、僕は高い警戒レベルを維持しておく必要はなくなっていた。

「助ける必要なんてないじゃない。いずれ敵になるのだから」

 自虐的な発言に、僕の心がまた揺さぶられる。

「それは……」

 返答に詰まって窒息しそうになる。そしてまた、胸の奥が微弱な電流に感電したような刺激を覚えた。

「ありがとう。感謝しているわ」

 クイーンは、また非の打ち所のない感謝を口にしてから、残りの水を飲み干した。

 マージャン卓を一周して、再び椅子に腰を下ろすと、大きく背伸びをしながら欠伸をした。まっすぐブイの字に上げた腕を、そのままデスクの上に落とすと、肘から先を内側に折り曲げて腕枕を作った。

「少し眠らないと、身体が持たないわよ」

 クイーンは、何の躊躇もなく頭を重力に委ね、デスクに伏した。最初は右向きになって僕を薄目で見つめていたが、やがて左側へ首を捻り、そのまま動かなくなった。

 クイーンの行動は、まったく正しかった。

 今は、敗者が決定している時だけに許される、無防備な時間なのである。七時間、まるまる決着が付かなければ、不眠不休で我が身を守り抜かなければならないが、今回は、四時間以上もフリータイムがある。不幸中の幸い。とても恵まれた状況なのだ。

 そう、理屈は理解できても、クイーンのように素早く切り替えられるほど、僕は器用ではなかった。

 だから、僕は暫く、クイーンを部屋に入れた理由を自問した。

 あまりに唐突な出現だったので、他意など抱く暇もなく、純粋に危ないと思っただけだ。

 敵なのだから放っておけばいいのに、とクイーンは僕の防御の甘さを指摘したけれど、先にジョーカーではない証拠まで提示したのはクイーンの方だ。発言と行動が矛盾している。僕には、そのあたりのクイーン真意が知りたかった。

 分からないのは、僕だけなのだろうか?

 あるいは……僕も、クイーンの策略に乗せられているのだろうか?

 必ず部屋に入れてくれる、という確信もっての行動だったとしたら、完全にクイーンの思惑通りに動いたことになる。

 キングも、ジャックも、僕も、クイーンが操る盤上の駒と化しているのかも知れない。

 それは結局、いま最も優勝に近い人間は、クイーンであるということと同義なのだ。

 それは、イコール、僕は殺されるということだ。

 膝の辺りが震えてきた。

 だからクイーンは、自分が書いたシナリオを書き換えさせない為に、「そういうことになるわね」などとはぐらかしたのかもしれない。

 もっとも、聞き出せたとしても、僕にはどう書き換えていいものか、策がなかった。

 そんな思いから来る諦めではなく――取り敢えずは生き長らえた、という安心感から、僕はベッドに上半身を倒し、目を閉じた。

 眠りに就くまで、時間は掛からなかった。


 たくさんの荷物を持って、僕の中から家出していた意識が、身軽になって自ら帰って来たとき、クイーンは既に起きていた。

 ベッドの上で覚醒した僕に気付いた彼女は、

「顔を洗いたいわ」

 と、苦笑いを浮かべた。

 僕は、上半身を起こして眼鏡を外し、両手で顔を撫でた。皮脂でベタベタしていて気持ちが悪い。

「本当だ」

「洗面所、先に借りるね」

 僕は眼鏡を元通りに掛け直しながら頷くと、クイーンは前髪を気にしながら僕の前を横切って行った。

 彼女はしかし、ユニットバスの前を通り過ぎて、入り口へと向かった。そして、小窓のシャッターを持ち上げて、ホールの様子を窺ってから、振り向いた。

「全部、片付けられてる」

 僕の頭の中で、キングの断末魔が蘇った。

 意識は、家出した際に全てをどこかに捨てて来たのではなく、小さく圧縮して隠し持っていたのだ。

「そうなんだ」

 僕は無関心を装った。

 液晶テレビの隣のタイマーに気を移す。時間の位はゼロになり、残り四十八分だった。

 悪夢の夜は一生明けないと覚悟していた。

 だから、太陽と再会できたことが、僕は素直に嬉しかった。

 

 そして、午前八時。

 赤いデジタルにゼロが六つ並んだ瞬間、一つの音色しか出ないトランペットが室内に鳴り響いた。

 第一セットの八時間が、終了したのだった。

 タイマーは、いつまでも「00:00:00」で止まっていた。

 戻りもしないし、進みもしない。

 だが、それは確実に、新しい始まりの合図であり、再びジョーカーになる危機と相対する時が近付いている証だった。

「エースさん」

 ベッドから立ち上がった僕に、クイーンは少し寂しげな口調で声を掛けてきた。

「また、敵同士に戻るわね」

「……そうだね」

 空洞のガラス玉のように、重いだけで素っ気ない返事は、心身の疲れから来るものなのだと、クイーンは分かってくれただろうか。

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