(3)
僕の、つまらない人生に、何かが起こった。
しかし、まだ何も起きていない。
だから、俄かには信じがたい。
けれど……。
硬く、毛質の悪いタフテッドカーペットの床に、膝から崩れ落ちる。
僕は、戦慄く両手にカードを一枚ずつ握り締めて、未知なる何かが侵入してくる恐れに怯えていた。
寒くもないのに、胸の辺りが激しく震える。自分で自分を抱きかかえても止まらない。心と意識の中心から血の気がなくなっているのだ。
凭れ掛かっている鉄のドアの冷たさを、背中で感じていたのに、今では僕の体温と平衡になって、同化しているみたいだった。
頭の中で、主催者の声が何度も再生される。
――制限時間を無駄にしないように、すぐカードを確認すること。二度言ったぞ。
確認しなければ。
時間は、残酷なまでに先を急ごうとする。
淡々と告げられたルール説明とリハーサルが終わると、僕たちはすぐ、第一セットのプレイタイプに突入したのだった。
『では早速、今回の記念すべき第一セットを開始する!』
本番――。
キングが始点で開始された、第一セット。
催眠術にかけられたように、みんな素直にゲームを始めた。あのジャックも、大人しくルールに従った。
僕は放心状態になっていて、思考だけが機械的に情報を処理していた。
スタート時点、僕の手元にジョーカーはなかった。
ただ、ここから三回の交換を行うのだから、まったく無意味なカードではある。
無意味、という応答を返すと、僕の頭の中のプログラムは分岐にさしかかり、自分のカードの観察から他人のカードの観察へと切り替える。
誰かの手元に、必ずジョーカーがいるのだ。
僕は、始点の確認を終えた三人の顔を、無表情で盗み見ていた。
ジャックは、ゲーム開始前からずっと不機嫌そうな表情を作ったままでいる。
クイーンは逆に、懐かしい記憶を辿っているかのような、余裕のある微笑を浮かべていた。
そして、始点になったキングの視線からは、強い自信が漲っていて、勝利にも似た輝きを感じた。何か、決定的な秘策でも閃いたのだろうか。
秘策と胸を張れるほどのものではないけれど、先程のリハーサルで、始点の者が得られる優位性について僕も気付いたことがあった。
それは、相手にカードを選ばせるときである。
始点以外の人間は、二枚ある状態で一枚引き、三枚となる。そして、次の人に取ってもらって二枚に戻る。
ところが、始点の人間に限っては、次に引くまで、手元は一枚となる。
これは、始点の人間はジョーカーを引きにくく、相手にはジョーカーを引かせやすい、つまり、ジョーカーが手元に残りにくいことを意味しているのだ。
具体的な数字で考えれば、相手にジョーカーを引かせる確率が、通常は三三パーセントの所を、始点の人間は五十パーセントに跳ね上がる。
そうなると、最もジョーカーを引きやすく、逃がし難いのは、始点の左の者ということだ。
もっとも、これが分かったところで、活用法は浮かんでこない。能力も時間も少なすぎることに、悔しさを覚えるばかりだった。
僕の思考は、この程度が限界だ。
けれど、みんな同じようなものだ、とも思う。
きっと、誰も何も出来ない。
ここは、完全な運試しだ。
誰も自力では成す術がない。
その証拠が、カード交換の速さに現れていた。
シャッフルして、一枚引き、引かれて、無作為にカードが移動していく。
ぐるぐると、丸いテーブルの上を。
違和感を禁じえないほど、速やかに。
いくらなんでも、簡単に決めすぎではないか。
そう感じても、流れを崩さないよう、僕もさっさとカードを選び、カードを引かせてしまう。
ジョーカーはどこだ?
どこかで止まっているのか、それとも、ぐるぐると……。
移動していくカード――黒色のバイシクルが残像となって、円を描き出す。
それが、徐々に鮮明な輪郭となっていく。
ぐるぐると、大口を開け、毒牙を剥いた蛇に。
無慈悲な眼が、まるで死に神が値踏みをするかのように参加者を睨みつけながら巡回する。そして、
〈おもしろくなっただろう? 人生〉
僕の前を通るたび、蛇は口角を裂いて笑った。
蛇は回り、回り、僕の頭を揺らした。
意識が朦朧として、船酔いにも似た気分の悪さが容赦なく襲い掛かってくる。
『そこまで』
限界に達する直前で僕を救ってくれたのは、皮肉にも主催者だった。
三周のカード交換が終わり、蛇の姿は消えた。
我に返った僕は、手元に伏せられたカードを透視するように見つめていた。
他の参加者からは、普通にプレイをこなしているようにしか見えなかったらしい。
僕も、他の参加者がどんな表情で、何を考えているのか、観察する余裕もなく、ただ呆然と座っているのがやっとだった。
そんな中、最初に席を立ったのはクイーンだった。
殆ど音を立てずに椅子からゆっくりと離れ、テーブルの上のカードに右手を置いた。彼女はそれを腰の辺りに押し当てた。
「お先に」
クイーンは、男三人と、コンダクター三人に向かって笑みを浮かべ、赤い王女が仄かに灯るパネルのドアの向こうに消えて行った。
微かな施錠の音を最後に、再び静けさが戻った。
クイーンは、主催者の忠告を聞いて避難したのだ。
それだけのことに、彼女は強いと感心してしまう。
『ジョーカータイム開始、十分前』
急かすようなアナウンスが流れてきた。
僕は、その声に背中を押してもらうようにして、どうにか自分に与えられた部屋――エースのライトパネルが掲げられたドアの前に辿り着いた。
――あと十分。
そう、あと十分を残して、僕は這這の体でここに逃げ込んだのだった。
もしも、キングとジャックに先を越されていたら、僕はホールにずっと座り込んでいたかも知れない。
しかし、まだ助かったわけではない。
ここに、ジョーカーがないことを確認するまでは。
心から揺るがす本震は収まりつつあった。
怯えて座り込んでいた時間を考えると、ジョーカータイムまで、もう五分もないだろう。
緊張が身体を温める。
僕は、ドアから背中を引き剥がし、這うようにして暗い室内を奥へと進んだ。
真正面に片袖のデスクがあって、モームチェアに座れば、ほぼ目の高さに唯一の窓がある。
僕は、そこから差し込む僅かな月明かりを求めた。
窓はクレセント錠で簡単に開閉できる一般的なものだったが、開けたその先には鉄格子が嵌められていた。またぞろ、震えがぶりかえしてくる。
僕は椅子を転がし除け、デスクに肘を突いてから目を閉じる。
祈りながら、目を薄く開け、一枚目を確認する。
格子に挟まれた半月が、僕の手元を照らした。
クローバーのマークが見て取れただけで、僕はそのカードをデスクに叩き付けた。
あと一枚。
これがジョーカーでなければセーフだ。
再び目を瞑った、そのときだった。
室内に、電車の警笛のような音が響いた。
細い金属の束が両耳に突き刺さる。
その一本一本が、張り巡らされた神経を刺激した。
首が、肩が、眼球が、軽い痙攣が起こす。
その弾みで、もう一枚のカードがデスクに落ちた。強制的に抉じ開けられた僕の目が、そいつを捉える。
「あ……」
麻痺から開放された僕は、呆けた声を洩らした。
警笛は鳴り止んだ。
果たして、そこにあったカードは、クローバーの2と、6だった。
「あ……」
もう一度、気の抜けた安堵をこぼした。
椅子の背凭れに顔面をぶつける危機を辛うじて避け、また床に座り込んだ。
そして、震えながら泣いた。
泣いている場合ではないことは分かっている。
それでも、涙は止まらなかった。
流して、溜まっていた不純物を排出し、精神的にリセットしておかなければ、こんなことがあと二十何時間も続くとなると、到底耐えられるわけがない。
だから今は、気が済むまで泣くことにした。
そうして、少しずつ軌道修正されていった。
大きな深呼吸を繰り返し、酷使した目元の筋肉を指でほぐしながら立ち上がる。
後頭部に血流を感じる。長らく曲げていたからか、伸縮させた膝に鈍痛が走った。
それでも椅子の背凭れを補助にして、背筋を正す。もう一度、深呼吸。
デスクの上の、月明かりに浮かぶカードが目に飛び込んできても、もう心が乱れることはなかった。
しかし、説明されたルール通りであれば――。
僕は、いつ殺されてもおかしくない状況にいる、ということだ。
僕だけではない。
あと二人も同じ窮地に立たされている。
そして、もう一人は、誰かを殺さなければならないというピンチの只中にいる。
殺人者になるか、死体になるか――。
正気とは思えない究極の二択を突き付けられた哀れな挑戦者は、一体誰なのか?
逃げる側にとって、矛を隠し持った敵から防御できる盾は、「情報」しかない。
「ゲーム……」
吐息と共に、脳が一つの単語を吐き出させた。
防具を見つけることも、ゲームの一環なのか。
影も形も色も臭いもない脅威。
何もかも疑いたくなる、疑わざるを得ない心理。
偏にそれらは、このゲーム全体を包み込む、狂気。
誰が、いつ、どこから、どうやって襲ってくるのか読めない恐怖。
そこまで思い至ったとき、僕は、部屋のドアが無性に気になった。ホールから一心不乱に逃げ込んできたとき、施錠した記憶がなかった。
心臓の太い血管が一つ大きく脈動して、僕は慌てて確認に向かった。
鍵は、しっかりと掛かっていた。
「何が希望の扉だ……」
踵を返しながら、僕はそう吐き捨てた。
希望……それは金のことだ。
最後まで生き残った者には、七億円。
ただ、やはり死という代償は大きい。
チケットを落とした帽子の男を思い出す。
彼は命拾いをしたのではないか。それとも、覚悟の上だったのだろうか。こんな許される筈のない、常軌を逸したゲームを。
また気分が悪くなってくる。
少し正常に戻ったように感じていたのは、単に周期が、安定の頂点にいただけなのか。今また坂道を、不安定の谷へと下っている。
僕は、この経験したことのない疲労感が、後悔という感情なのだと思った。
部屋の中央まで戻り、右側に置かれている純白のベッドに腰を落とした。
疼き出す後悔に耐えながら、僕は暗い室内に目を向けた。
ベッドの横にはナイトテーブル、その上にプリンのような笠のランプがある。その隣では白い小型冷蔵庫が、微かなモーター音を出していた。そこから少し離れた所に、さっきいたデスクとモームチェアがある。
そこまでは、至って普通の、ビジネスホテルのようだった。
が、例外はすぐに見付かった。
ベッドの向こう正面――部屋の入り口から見て左側に奥まったエリア。そこに、不自然なものがあった。
中型液晶テレビは問題ない。問題は、その右側に設置された、赤い7セグメントのデジタル時計だ。今は「6:49:44」と表示されており、「44」の部分が刻一刻と減っている。
ジョーカータイムの制限時間……見慣れないものだが、すぐに理解できた。
更に、液晶テレビの手前の空間にも、場違いなものがどっしりと構えていた。
卓に厚みのある、四角いテーブル。
暗がりの中、テーブルの側面で光っている、四つのデジタル数字に目が行く。それはカウントダウンしておらず、それぞれ六桁の数字を表示し続けていた。
卓上では、一部のブロックが整然と壁を作り、ある一部は崩れて散乱していた。
全自動マージャン卓――一体、何の為に?
たった今半荘が終わったような生々しさがある卓上を更に観察する。リーチを掛けたのか、千点棒が一本出ていた。僕はそれを摘みあげると、デジタル表示の近くにある、点数棒の収納ケースを開けて落とした。デジタルの一つが「33200」から「34200」に変化した。それ以上のことはなかった。
ゲームの参加者が、この部屋に集まってマージャンに興じることは、まずあり得ないだろう。
考えられることは、この部屋を、本来の用途で使用したら、ここでマージャンを打つ機会があるということだ。その程度のものだろうと判断したら、あまり気にならなくなった。
それに、この部屋には、マージャン卓よりも遥かに重要な何かがあると、勘が働いたのだ。
例えばそれは、矛に対抗する盾だったり、あるいは矛だったり……。
僕はベッドから腰を上げて、入り口へ向かう。
ドアと向かい合って、右手にあるスイッチを押すと、室内に光が入った。
スイッチの近くの壁が部分的に抉れていて、その中に金属のバーが渡され、ハンガーが吊られていた。
その簡易的なクローゼットの、廊下を挟んで対面の壁にドアがあった。開けると、そこはユニットバスだった。真正面にトイレと洗面台が並ぶ。左奥にビニールカーテンで仕切られたバスタブがあった。内側からドアノブのボタンを押すとロックされるタイプのドアである。
もしも、ジョーカーに襲撃されたら、ここに逃げ込めば助かるだろうか、などと安っぽいことを真剣に検討したが、まずもってこの部屋のドアを突破された時点で大勢は決しているだろう。無駄な抵抗だ。
ベッドに戻り、再び左側の不思議な空間を見た。
まずはやはり、制限時間のタイマーが強い存在感を主張している。カウントダウンは「6:35:10」まで進んでいた。
視線を、その下へと移動させる。
そこには、ドアと同じような鉄製素材の、黒い重厚な四段チェストがあった。
お辞儀の体制になって、一番上の引き出しに手をかけたとき、最下段の取っ手付近から突き出ている、細い棒に注意が逸れた。しゃがみこんで抜き取る。それは小さな鍵だった。ところが、鍵穴に差し直して、右左に回してみても、錠を開閉する手応えがなかった。鍵穴から抜いて、再び差しても同じだった。
壊れているのだろうか。
すると、引き出し自体も開かないのではないか。
改めて最上段の引き出しに戻って、引っ張ってみると、それはいとも簡単に開いた。
逆に、僕の口は堅く閉ざされる。
塞がれて、悲鳴も出ない。
苛立ちと焦りが、鳥肌を誘った。
中に、ピストルが一丁、平然と置かれていた。
傍には、銃弾を入れたプラスチックケースもある。
銃身に触れて、少しだけ持ち上げてみる。玩具の重量ではなかった。
他の引き出しも開けてみる。
二段目には合成繊維のロープとシンプルなデザインのファイティングナイフが入っていた。
三段目には日曜大工でよく使う普通のハンマー。
鍵穴がある最後の四段目には、他の段よりも一回り大きい収納スペースであるにもかかわらず、小瓶が一つだけポツンと置かれているだけだった。試し飲みが出来ないので真贋は判別できないが、武器というからには恐らく……毒劇物の類だろう。
僕は、「武器庫」を閉じてから、暫く固まった。
最高のパートナーはどれだ。
どの武器が、僕を守ってくれるだろう。
考えた末、僕は二段目を開けた。
準備は整っている、と言わんばかりに、鋭い刃が光をギラギラと反射させた。
台所にある包丁とは比較にならない頼もしさを感じ、一瞬だけ優勢な立場になった気分を味わった。
しかし、他の部屋にも同じものがあるのだと思うと、我に返り、危機的状況を再認識した。
おもむろに腰を上げると僕は、ナイフを片手にベッドへと戻った。
ヘッドボードの傍で仁王立ちになり、布団の中で膨らんでいる枕を見下ろす。
息を吸い込みながらナイフを持ち上げ、一旦停止。
そして、顔の高さから力まず振り下ろした。
枕は簡単に裂けた。抜く。血飛沫の代わりに細かな羽が舞った。別の箇所を刺す。羽が噴き出す。もう一度、繰り返す。持ち方を変えて、もう一度……。
こうして、人間を切り裂くときが来るのだろうか。
あるいは、切り裂かれるのは僕の方なのか。
そう危惧しているかと思えば、しかし、どこかで油断している僕もいた。
何故なら、このゲームは、ジョーカーを持たない限り、自室に籠っているだけで最大の防御が取れている気がするからだ。
他人の部屋へ侵入する手段は、ホールに面したドアからしかない。しかもそこにはシャッター付の小窓がある。だから、誰かが訪ねて来ても、ドアを開ける前に確認が可能だ。
警戒を怠らなければ、命を奪われることはない。
その為には、絶対にジョーカーを引かないことだ。
引かなければ、籠城を決め込むだけでいい。
それだけで、ジョーカーは自滅するのである。
つまり……このゲーム、実質的に雌雄を決するのは、ジョーカータイムではなく、プレイタイムなのではないか?
単純に、ジョーカーを持った者が、死ぬのだ。
タイマーを見ると、「6:25:45」を過ぎた所だった。
時間はある。冷静になれ。意外と光は細くない――そう自分を鼓舞させた。
「ジョーカーを引かない方法……」
呟きながら、僕は切り裂かれた枕から興味を失うと、ナイフをデスクの上に置いた。代わりに、二枚のカードを手にして、椅子に落ち着いた。
次のプレイタイムになったら、このカードはコンダクターに回収される。そして第二セットは、新しいカードでババぬきが行われる。
だから、このカードに何かを仕込んでも無意味だ。
新しいカードへ手を加えるには、プレイタイムが始まって、配られて、始点を確認した後の一瞬しかない。
しかし、それはジョーカーが最初から自分の手元にあればこその作戦である。自分の手元にジョーカーがなかった場合、数字カードに細工をしたところで、何の手掛かりにもならないだろう。
僕は項垂れて、視線の先にあったデスクの引き出しを開けた。ビジネスホテルでは、よく聖書とか便箋が収められていることの多い場所だが、そこには、まるで小学生の勉強机よろしく、鉛筆、鋏、糊など、文具が各種揃っていた。
これらでカードに細工をしろということか?
僕は首を振る。
違う。ぜんぜん違う。
別の方法がある筈だ。
頭を抱え込んで、僕は髪を掻き乱した。
いくつものアイデアが浮かんでは、自信が持てずに却下されていく。
そして、このゲームがいかに巧妙に作られているかを痛感せざるを得なかった。
それに、カード回収の理由を、不正防止の為、と釘を刺されては、例えば目印を付けることに成功したとしても、後で回収されたときに発覚したら、間違いなく失格になるだろう。
どこまでが不正の範疇なのかは曖昧だが、敢えてそうすることで、グレーゾーンの小さな不正にも制約を掛けたのだ。
ただ……殺人が許されるゲームともなれば、主催者が設定したルールさえ守っていれば、あとは何でもありのような気がする。
恐らく次、第二セットのプレイタイムには、誰かが何かを仕掛けてくるに違いない。
想定できる罠を洗い出し、対処法を考えなければ。
その上で、その上を行く作戦を立てることだ。
そう思うと、暇などないことに気付く。
僕は再び、深い思案に耽ろうとした。
ノックの音がしたのは、その直前だった。
心臓に強い衝撃が走り、胸から肩を突き上げられた。延髄の辺りが痺れる。
振り向きたくないと訴える首をどうにか捻って、叩かれたドアの方を窺う。そして、そのまま固まった。
また鉄のドアを小突く音。激しくはない、控えめなノックだ。
僕は、思い出したかのようにに震え始めた。
――ジョーカー!
カードをデスクの引き出しに押し込むと、ナイフに飛び付いた。刃先が綿埃にまみれている。
足音を立てないように、そっと入り口へ近づく。
またノックの音。
大丈夫。絶対に大丈夫。
ドアを開けない限り、絶対に殺されない――そう口の中で呟きながら、早まる心音を落ち着かせた。
目の高さに設えられた小窓のシャッターを開ける。
待ち構えていたかのように、目と目が合った。
恐怖に怯えきった彼女は、僕から視線を逸らすことなく、オロオロと小窓に近付いた。
「クイーンです……開けてもらえませんか?」
鉄のドア越しで、声はくぐもっていたけれど、確かにそう聞こえた。
真っ先に希望の扉へ歩いていった勇者が、今、明らかに精神的に追い詰められている。
しかし、そんな分かりやすいギャップに心が揺れて、簡単にドアを開ける奴はいない。僕も同じだ。
「駄目だ。早く部屋に戻って!」
僕は、首を振りながら、細めた声で叫んだ。
いま部屋から出るのは、完全な自殺行為だ。
クイーンの背後の左側に、仄かに光るジョーカーのパネルが見える。その扉の前に、見張り役の緑バンダナのコンダクターが確認できた。
拒絶されても、クイーンは立ち去ろうとせず、一瞬だけ手元に視線を落としてから、
「これ――」
突然、クイーンとの面会が遮断された。
訝りながら顔を少し引く。小窓を塞いだのは、クローバーの3と、4だった。
五秒ほど経つと、今度は3のカードが裏返されて置かれる。黒いバイシクルに、例のサインが入っていた。
それも五秒ほど保持されてから、カードは取り除かれた。クイーンの哀願する目が、再び僕を捕らえた。
頭の回転が鈍い僕でも、意図は理解できた。
クイーンは、「私はジョーカーではない」と訴えているのだ。
確かに、カードは偽造ではなさそうだ。
しかし――だからと言って、僕は受け入れるのか?
「開けて、エースさん」
声を出すな、と叫びたかったが、唇が、寝言を呟く赤ん坊のように動くだけで、声に出なかった。
小さな窓の向こう側で、クイーンは落ち着きなく左右を気にしている。円形のホールでは、逃げても忽ち追い込まれる。
お願いだから帰ってくれ、部屋に戻れ、そう願ったが、彼女は更に一歩近付いて、懇願した。
「お願いです。一緒にいてくれませんか?」
そのセリフで、女性の誘惑に負けたわけではない。
僕は、根負けしたのだ。
相手はライバルなのに。
放置してジョーカーの餌食になれば第一セットを終わせることだって出来るのに。
僕は、見捨てられなかった。
「……とりあえず、手を挙げて」
サムターンに指を宛がってから、そんな苦し紛れの要求を出す。クイーンは、やや表情を緩めてから、要求どおりに両手を頭の上で組んだ。
五秒ほど待ってみる。クイーンは、人質のポーズを少しも崩さず待っていた。
いよいよ約束を破るわけにはいかなくなり、僕は覚悟を決めてロックを外した。
「こっちへ……」
ドアが開いてからもクイーンは動かなかったので、僕はナイフで手招きする仕草を取って促した。
クイーンは、いよいよ砂漠でオアシスを発見したかのように、ぐったりとした安堵の表情を浮かべた。
静かにドアを閉め、厳重にロックを確かめる。
僕はクイーンの正面に立ち、手にナイフを握りしめたまま彼女を上から下まで確認した。そして、
「悪く思わないでくれ」
と断りを入れてから、触れられる範囲で検査をした。黒のワンピースはスリムなタイプだったので、たとえ小さなものでも持ち込んでいれば、膨らみや硬さで分かりそうだ。白のボレロに至っては隠し場所にすらならない。
何も持っていないと判断し、僕は頷いた。
「そう……ありがとう」
吐息をついて礼を言うクイーン。僕は、彼女の背後に付いて、肩を軽く押して室内へ進んだ。
「けど、どうして?」
その途中、僕は姿勢のいい背中に訊ねた。
クイーンは足を止め、ボレロの位置を調整しながら答えた。
「一人だと、あちこちから殺気を感じて……もうダメだ、って、死にそうになって……」
「それにしたって、どうして僕の所へ? 僕がジョーカーを持っているかも知れないのに」
そう、クイーンは僕のカードを確認していないのである。僕がジョーカーである可能性があるにも拘らず、クイーンは疑うことなく部屋に入ってきた。
「エースさんは、絶対にジョーカーを持っていない」
デスクの前まで来ると、クイーンはかなり落ち着いたのか、勇者でいる時の口調に戻った。
なぜ……と訊ねようとした直前、僕は、マージャン卓の向こう側で武器庫が口を開けたままであることに気付いた。
クイーンの部屋にも、きっと同じものがある。確実に中身も知っている。この利口そうな女が調べないわけがない。
手をゆっくりと下げ始めたクイーンに、
「まだ動くな!」
僕は、堪らず声を荒げた。
クイーンは、白く細い首まで下げた華奢な腕を止め、はい、と素直に従った。
僕は、荒々しく椅子を手にして、クイーンの横をすり抜ける。そして、マージャン卓と壁の間に置いて座った。それを見たクイーンは、優しく微笑んだ。武器庫を警戒したのがばれたのだろう。それでもいい。殺されるよりは遥かにましだ。
僕は改めて問い質す。
「それで……その、どうして僕がジョーカーを持っていないって分かるんだ?」
クイーンは僕を真正面に捉えると、真顔に戻って、目線を右斜め上に逸らした。
「プレイタイムのとき、唯一カードを確認できるチャンスが、始点を決めるときだけ。そのとき、エースさんとジャックさんは表情は動かなかった。唯一変化を見せたのが、キングさんだった。微かに頬を緩めて、こう、ニコッと」
クイーンは、引き締めていた筋肉を緩めて、笑っていない笑顔を作って見せた。
キングの変化には、僕も気付いていた。でも。
「でも、あれは始点になれたからだろう? 始点になったら、ジョーカーを引いても、引かせる確率の方が高くなるから有利になったと思って……」
クイーンは、質問の途中で首を振った。
「もちろん。始点が優位であること、はエースさんの言うとおり。でもね、キングには、もっといいことが起こったのよ」
「もっといいこと?」
気になった部分をなぞってから、膝に置いた拳に力を込めて身を乗り出す。
クイーンは、頭上に置いた両手ごと前に倒して頷く。
「キングさんはきっと、エースとジョーカーという、幸運のペアが手に入ったから笑ったの」
エースとジョーカー。
勿論、カードのマークのことなのだが、僕は背筋に悪寒が走った。
「始点になれるエースが手に入る以上に、このゲームの勝敗を決めるカードが、ジョーカーなのよ」
「違う。だって、ジョーカーを持ってしまったら、ジョーカータイムで大変な役割を」
「最終的に持っていたら、でしょ?」
僕は、的外れな反論をしていることに気付いた。ジョーカーを恐れるあまり、始点で持っていてもアウトだと思い込んだのである。
「確率論でしかないけれど……始点の人がジョーカーを持っていた場合、三周のうちに相手がジョーカーを引く確率は、八分の七。それから、隣に移動したジョーカーが再び自分の所に戻ってくる確率は、一周につき二十七分の一。だから、三周やっても九分の一。つまり、最初にジョーカーを持っていた方が、ジョーカーにならない確率が高いのよ。このことを知っていて、キングさんは笑ったのだと、私は思うけど」
唖然とした。
確率のことは、僕はさっき気付いたけれど、クイーンやキングは、プレイタイム中に、人間観察に加え、そんな計算まで同時に回していたと言うのか?
愚鈍な僕には、俄かには信じられなかった。
そこに、僕とクイーンの間に横たわる、飛び越えられないクレバスが見えた。
この溝は、突貫工事では絶対に埋まらない。僕には、クイーンが伸ばしてくれた腕の、指先に触れることすら叶わないだろう。
それで卑屈になった奴らは大抵、卑劣な行為に力を借りるのだ。
女性の両手を奪って、武器庫の前でナイフを翳している僕は、例に漏れず卑劣で卑屈な存在だった。
恥ずかしくて、今だけは目を合わせたくなかったが、クイーンは構わず視線を僕の方に戻した。
「ただ、確率はたとえ低くても、絶対に起こらないというわけではないから、ジョーカーが戻ってくる可能性は充分にある。始点の人間は、そこも物理的にカバー出来るから強いのよ」
「物理的……」
未知の領域で迷子になりかけている僕に、クイーンは惜しみなく道を指し示してくれる。
「目で追うのよ。ジョーカーを。始点でジョーカーを持つということは、そのプレイタイムにおいて、唯一ジョーカーの流れを把握出来る存在になったということ。当然、注意深く観察しなければいけないけれど、この上ない特権を与えられたと言っても大袈裟ではないでしょう?」
始点になった方が有利だ、などと分かったような口を聞いた過去を消去したくなった。しかし、引きずっても仕方がない。寧ろ今は、クイーンの考えをもっと引き出しておかなければならない。
「じゃあ、今の理屈でいけば……ジョーカーを持っているのは、ジャックということか?」
クイーンは、窓の外の鉄格子を見遣った。
彼女ならば、そうやって念を送り続けたら、鉄格子も曲げられるかもしれない。
僕が、本気でそんなことを思いながら見守っていると、クイーンは微かに喉を動かしてから答えた。
「私は、キングさんの始めの二枚をずっと追跡してみた。そしたら、一周目と三周目で、どちらもエースさんに渡った。更に二周目と三周目で、ジャックさんに渡った。私は、三枚のうち、キングさんから回ってきたカードを避けて取れば、ジョーカーを引く心配はない。その結果が、今のこの状況よ」
淡々と説明するクイーンだったが、その中で語られた事実――僕の手元に一瞬でもジョーカーがいたという話は、クイーンの一説とは言え、衝撃的だった。
「僕もジョーカーになりかけていたのか……」
頭から血液が薄らいでいく感覚に襲われながら、僕は必死で意識を保ち続けた。
そして、クイーンに対して、もはや殺気を纏って対峙する必要はないと思い始めると、ナイフの切っ先は自然に下がっていった。
クイーンは、ビスクドールのような瞳を水平移動させて僕を捉えると、月明かりに白む頬を持ち上げた。
「いいわよ。ナイフ向けたままで」
今度は、僕が首を振った。
「僕は、クイーンみたいな推理は出来ないけれど、その……君の話を聞いたり、表情を見たりして、ジョーカーではないって、ようやく確信した」
「そう。ありがとう」
人間の大多数は、ありがとう、という単語を正しく言えていないと、僕は思う。どんなに練習しても、空虚に聞こえたり、嘘臭かったり。
しかし、クイーンのそれは完璧だった。
言葉と心情が、量的にも質的にも完全に一致していると感じた。
僕よりも若いのに、達観した雰囲気を纏っているクイーン。
一体、これまでどんな道を歩んできたのだろう。
「でも、信用しきっては駄目よ」
クイーンは、はしゃぐ子供を軽く諌めるような語気で、僕の思いを断ち切った。
僕は、不安をごまかす為に深呼吸をしてから、首を傾げる。
クイーンは、僕との間を三歩分くらい広げてから、片膝を軽く曲げ、腕を組んだ。
「私が普通のカードを二枚持っていたからといって、ジョーカーではない、とは限らない。ルールから考えれば、仮に私がジョーカーを持っていたとしたら……ここへ来る前に誰かを殺していれば、私はそこへジョーカーを置いて、殺した人の通常カードと交換することになるから、結果、通常カード二枚持っていることになる。どう? 有り得ない話ではないでしょう?」
僕は――ナイフを持つ手に、また力が入ってきた。
殺意ではない。
仮に今の話が真実であったとしても、僕が殺されることはない。クイーンは既に指令を完遂していることになるのだから。
そうではなくて……。
この子と一騎打ちになったとき、自分には到底、勝ち目などない、そんな絶望的な気持ちが、腕に力を込めさせたのだった。
もっとも、彼女にとっても、僕など敵ではないのだろう。
「でも信じて。さっきのプレイタイムで、私はジョーカーは持たなかった」
クイーンは、罪のない嘘を明かすような、やや明るい声で言った。
それは信じている。僕は、忙しなく泳ぎ続ける目を隠すように、眉毛の辺りに手を翳してから、
「座っていいよ」
と、もう片手に握ったナイフでベッドを指した。
完璧な「ありがとう」を口にしてから、クイーンはゆっくりとベッドに座った。ワンピースの裾を直すとき、枕から掘り出された羽毛が布団の上を舞った。
その間も、僕は考え続ける。
ジョーカーを持っているのは、キングかジャックのどちらか一人。
そして死ぬ運命を辿るのも、キングかジャックのどちらか一人。
つまり、このまま何もせず、じっと待つだけで、僕とクイーンは次のプレイタイムの席を確保したのも同然なのだ。
待とう。このまま、午前八時まで。
僕は、そう決めた。
マージャン卓は、もしかしたら長い待ち時間を覚悟せよ、という暗示なのではないか。たとえそれが正解だったとしても、参加者としては楽観的すぎる。それではいけない。
タイマーを見ると「5:55:53」を表示していた。この安息は、あと六時間もないのである。
「エースさんは、なぜこのゲームに?」
唐突に、クイーンが訊ねてきた。これから先、時間を持て余すのは、彼女も同じなのだ。
僕は、事の発端を頭の中に蘇らせる。
それは、バスの中の自己紹介では口にしなかった事実であったが、随分と事情が変わった今、もう隠しておくこともないだろうと思い、白状した。
「拾ったんだ。チケットを」
チケットを落とした男からすれば、奪われたと主張するだろうが。
クイーンは驚く様子もなく、ふーん、と喉の奥を鳴らしながら、少し顎を持ち上げた。
「つまり、申し込んだ人とは違うということか」
申し込む、いう単語が新鮮だった。このゲームは、そんな公の場で募集しているのか。
「クイーンは、こんなゲームだと分かってて、申し込んだのか?」
今度は僕が質問すると、クイーンは項垂れて首を横に動かした。
「だろうね。まさかこんな世界へのチケットだったなんて……あの男に返してやれば良かった」
僕は、ナイフの刃に自虐的な自分の顔を映した。
「後悔してる?」
「当たり前だよ。命を賭けなきゃいけないなんて、狂っている」
「でも、勝てば七億よ?」
彼女の口ぶりは、すっかり勇敢な女戦士のものになっていた。僕は、クイーンの誘惑に酩酊してしまうことを恐れ、顔を合わせられなかった。
「そんなもの……クイーンは怖くないのか?」
僕は足元に視線を落とす。クイーンの上半身の影が揺れていた。
「さっきも怯えていたでしょう? あれは演技じゃないからね。あのままエースさんに入れてもらえていなかったら、一人でいたら、きっと気が狂っていたわ」
「じゃあ、なぜ参加した? 集合場所で帰ることだって出来たのに」
「七億の為よ」
クイーンは即答だった。
死は恐るべきものだとインプットされている筈の心に、大金がバグを起こさせる。
彼女の態度の矛盾も、このバグなのか。
僕には理解できない。
「ビルの屋上からばら撒く為に?」
僕が真面目に質問を重ねると、クイーンは噴き出した。
「信じてたの? やめてよ。冗談に決まってるじゃない」
僕の顔が、温かい血液で赤らんでいくのを感じた。
話を逸らそうと、しばらく黙り込んで話題を探していると、
「エースさん。人間の死因の第一位って、何だと思う?」
今度はクイーンの方から突飛なクイズが出された。
僕は視線を下げたまま首を傾ける。一般的な答えでいいのだろうか。
「……ガン、だったかな」
そう言ってから、ゆっくりと顔を持ち上げた。
クイーンは、その回答を否定した。
「えっと、じゃあ、心臓疾患かな?」
「死因の第一位はね……欲望よ」
「欲望?」
意外な解答に、僕は怪訝な顔をした。
「私はそう思う。ガンも、脳卒中も、心疾患も、中には遺伝的に発症する人もいるでしょうけど、大体は不摂生や喫煙、飲酒が度を越えるからじゃない? それって結局、欲望でしょ。交通事故も、どこかに行きたい、早く家に帰りたい、仕事のために急がなければいけない……そう考えると、殆どの原因は欲望だと思うの」
「七億が欲しい、というのも……」
「人間は、欲望に殺されるのよ。だったら、とびっきり大きな欲望に殺されたほうがいいと思わない?」
人は皆、欲望に殺される――。
確かに、僕も欲望に唆されて、この窮地に陥った。
欲望に、殺されかけているのだ。
逃げられないのならば、戦う。
とびっきり大きな欲望と。
「そうかもしれないね」
僕は、いま一度ナイフに映りこんだ自分の顔を見て、そう呟いた。
年下の女性に、心に喝を入れられた気分だった。
僕にとって、この窮地を超える為にはクイーンの力が必要だ。
そうして、二人で生還したいと思った。
恋愛感情ではない。
この世には、クイーンのような才知に富んだ人間が必要なのだ。
まだまだこれから、大きな欲望を手中に収められる力を持っている。
こんな所で、無駄死にしてはいけない存在なのだ。
僕は、マージャン卓にナイフを置いた。
それから、デスクの引き出しに隠してあった、二枚のカードを取り出した。
自分がジョーカーでないことを改めるように数字を一瞥した後、そっとポケットに入れた。
そして、思い切ってクイーンに提案した。
「クイーン――僕と手を組まないか?」
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