もうひとつの、(2)

 バスから開放される――私は少し救われた気持ちになった。


 が、戦いはこれからなのである。

 私の手を引く人間に誘導されても、慎重になる。普段の半分くらいの歩幅で、摺り足で進んでいく。

 後続の人間は三人。

 全員が、これから敵なのである。

 だから、ここでも私は先頭を取りたかった。

 仮に、いま私が意地悪をして、彼の手を、私の肩から離れるように仕向けたら、たちどころに道標を失ってしまう。

 その後ろも、たちまち共倒れ。

 この状況での先頭は、そういう優位に立っているということだ。


 冷たい空気の割合が極端に減り、代わりにモワモワと湿気を含んだ暖かい空気が台頭してくる。

「ゆっくりで結構ですよ」

 数メートル先から、黒服の声がした。

 私が久しぶりに地に両足を置いた頃、ステップを降りる途中らしい中年のおじさんが、

「ええかー、押すなよー」

 と、冗談っぽい口調で注意を促した。

「結構です。それではそのまま止まらずに行きます」

 前方から、また黒服が指示を出す。

 背後でスライドドアが勢いよく閉められる音がした。

 

 私たち以外、周りに人の気配はない。

 ザリザリと、土埃があがっていそうな音がする足元……人工的なものの気配は、何も感じられない。

 体感温度は、バスに乗る前よりもかなり低く感じられた。視界を奪われていても分かる。平易な表現を使うならば、「人里離れた山奥」だ。


 私の手を引く先導が止まった。私たち一行も足を止める。夜空を舞う鳥ではなく、鎖のようなものの硬い鳴き声が上がり、草叢の陰から覗く小動物ではなく、鉄の扉が威嚇するように吠えた。

 行進が再開してすぐ、足元の感触が硬く変化した。

 たくさんの足音が四方八方に響き渡る。あの地下の集合場所とは異なる冷たさに包まれた。

 私は、建物の規模を想定する手掛かりとして、歩数をカウントすることにした。

 歩幅はだいたい四十センチとして計測する。

 道筋が直線で、次に誘導が止まったとき、私の頭の中のカウンターは七十七歩まで上がっていた。

 進行方向から、また地獄の扉を開放するような音がする。今回の方が狭い空間に反響したので、おぞましく感じられた。

 行進が再開し、私の計測も七十八から増やしていったが、そこから先はあまり伸びず、

「お疲れ様でした」

 という黒服の声が聞こえ、結果、八十八歩だった。適温に調整された部屋に入ってからの八歩を引けば、屋外の扉から、ここの扉までは八十歩。およそ三十二メートルの通路だ。

 この長さは、何を物語っているのだろう。


「それでは、両手をゆっくりと下ろして、その場から動かず、お待ちください」

 命令どおり、私は前の男の肩から手を離した。

 と同時に、小走りで移動する人の気配を感じた。

 微かな音と空気の動きから、ここが割と広い部屋であると推測した。

 集合場所で、コンダクター達がバタバタと定位置に着く様子を思い出した。今もあれが行われているのかも知れない。

 私たちが入ってきたであろう鉄扉が再び閉ざされる振動によって、すべての気配が掻き消された。

 無機質な金属音からは、参加者たちを逃すまいとする主催者側の強い悪意を感じずにはいられなかった。

 静寂が戻ったのも束の間、今度はあの懐かしい声が私たちに指示を出し始めた。


『諸君には、長らく窮屈な思いをさせたことを改めてお詫びする。しかし、それもここまで。目隠しを外し、今回の戦いの場をご覧いただこう』

 

 私は、武者震いする指でアイマスクを外した。

 眩しさに備えて閉じていた瞼を、ゆっくりと起こしても、光は一切入ってこなかった。

 闇の先には、闇があるだけだった。

「は? どういうことだ?」

 声を荒げたのはスーツの男。居場所は何となく掴めるものの、その姿は確認できない。

「ほんまや、これじゃあ、ご覧いただけやんで」

 中年のおじさんからも、真面目な口調のクレームが出る。

 すると間もなく、頭上で微かに明かりが灯った。お互いの姿が、微かに見える程度の光量に、今度は誰も何も言わない。

 そんな中、少し離れた所で、小さな四角いブルーのライトが光っている。音楽プレーヤーだった。

『目が慣れるよう、段階的に光の強さを上げている。気にしないように』

「それを先に言いや」

 中年のおじさんが言った。それか、私たちの目隠しを取るタイミングが早すぎたかだ。

 男三人が、UFOを探すかの如く天井ばかりを注目している頃、私は、周囲の壁の変化に気付き、観察していた。

 亡霊のように覇気のないライトが、闇との境界線を滲ませながら灯り始めている。

 それぞれが異なった色を発している、ステンドグラスのライトパネル。

 ぐるりと見渡すと、等間隔で五箇所に設えられていた。


 ひとつは、剣を持った貫禄のある王様で、緑色のガラスが多用されている。

 次は、大きなスペードのマーク。こちらは茶色のガラスで作られていた。

 三つ目は、眠たそうな目と、鼻の下の巻き髭が頼りなさそうで、見方によっては狡猾そうな若者。鮮やかなブルーのガラスだった。

 四つ目は紅一点。一輪の花を持った年配の王女。紅一点だけあって、赤いガラスが使われている。

 そして最後は――黒衣を纏い、尖った帽子を被った、痩せぎすな鷲鼻の魔女。毒々しい紫色のガラスで作られていた。


 用途が、室内照明なのだとすれば、確実に内側の光を殺してしまっているライトパネルだった。

 まだ音楽プレーヤーが語りだす様子もなかったので、私は、ゆっくりと室内を観察することが出来た。

 いま私たちがいるホールは、綺麗な正五角形になっていた。床は殺風景な黒タイルで埋め尽くされている。天井は、この部屋よりも三回りほど小さな五角形で、全体が白い半透明のシーリングライトになっていた。さっきは巨大な円形ライトが一つあるように見えたけれども、実際は大きめのドーナツ型蛍光灯が五つ、これもきっちり五角形になるように配置されているのだった。

 ホールの中央には、古めかしさを醸し出している、ダークブラウンの木製円形テーブルと、同色のウッドチェアが四脚、それを囲むように置かれていた。卓上には何も載っていない。

 そして、やはり最も特徴的だったのが、ホールを包囲する五面の壁だった。

 一辺に一つずつ、例の王様、スペード、若者、王女のライトパネルが灯っていて、その真下には黒いドアがあった。ドアには、目の高さに、監獄の監視窓のような小さな枠が設えられていた。

 唯一、形の異なるドアは、重厚な鉄の両開き扉で、そこにいるのが、紫色の魔女だった。

 鉄扉の前には、三人のコンダクターが並んでいた。黒服の姿はない。闇と同化しやすい服装とは言え、さすがにここまで明るさを取り戻した室内にいて見つからない筈はなかった。

 男三人も、トランプに登場するキャラクターに囲まれた異様なホールの雰囲気に多少なりとも気圧されている様子だった。

 ジャージ姿の彼は、頬や目を手でさすりながら、壁のマークを一つずつ見て回っている。

 中年の男は、疲れているのか、中央のテーブルに近付いて椅子に座りたそうにしていた。

 そして、スーツの男が眉根を顰めて三人のコンダクターを睨んでいたかと思うと、いきなり、

「おい」

 と一声あげ、コンダクターに詰め寄ろうとした。

 不穏な雰囲気を察した中年のおじさんが、すぐさま後を追おうと椅子から離れる。

 しかし、彼を制止させたのは、赤バンダナのコンダクターの手に握られていた、ライフル銃だった。

「本物かよ……」

 スーツの男は、そう呟いて、後退りした。

 それから、首を左右に動かして、残る二人のコンダクターにも視線を均等に向ける。緑バンダナも同様のライフルを携えており、黒バンダナは手ぶらだったが、腰に提げているホルスターの数が増えていた。

 スーツの男は、魔除けを突き付けられて抗えない悪魔のように慄然としていた。

 黒バンダナが徐に片手を前へ差し出し、音楽プレーヤーを私たちに強調する。


『そろそろ落ち着いたかな? では全員、中央のテーブルへ。好きな椅子に座っていただきたい』

 私は、素早く動いて自分の席を確保した。

 男たちは、各々の顔色を窺って、どこに座ろうかと談合していた。

「どこも一緒よ。早く座って」

 私が一人ずつに目配せしながら笑う。

 プライドに一番深い傷を負ったらしいスーツの男が、舌打ちをしてから私の右に座った。バブンというみっともない音が、虚勢を張ろうとしている姿によく合っていた。

 続いて中年のおじさんが左、最後にジャージの彼が私の正面に、ゆったりと納まった。


 いつしか、天井のライトも明るくなっていた。

 コンダクターが動き出したのも、それが合図だったのかも知れない。彼らはやはり寸分も口を開かない。喋るのは、音楽プレーヤーの中の人物だけだった。

『それではいよいよ、賞金七億円を賭けたゲーム、〝オールド・メイド〟を開始する訳だが……まず、このゲームでは、各人に特別なニックネームを名乗っていただく。これは、本名であれ偽名であれ、一個人の名前を呼ぶことで、躊躇や罪悪感を持たないようにする為の配慮である。よって今後は、ニックネーム以外の名前の使用は禁止とする』

 躊躇? 罪悪感?

 私の体の中に、嵐の前の生暖かい風が吹いた。

『諸君が装着していたアイマスクの内側に、小さなアルファベットが刺繍されている。目尻にあたる部分だ。確認して欲しい』

 皆、一斉に自分のアイマスクをテーブルの上に出し、ゴムが出ている辺りに注目した。

 私のアイマスクには〔Q〕とあった。

「ほんまや、ワシは〔K〕って書いてる」

 中年のおじさんが、目を細めながら呟いた。

「兄ちゃんは?」

 おじさんは、右にいるジャージの彼の手元を覗き込みながら訊ねた。

「僕は……〔A〕です」

 彼は小声で答えた。

 コンダクターは、スーツの男のリアクションを待たずに音楽プレーヤーを再生した。

『エース、ジャック、クイーン、キング。今後は、我々も諸君のことをニックネームで呼ばせていただくので、そのつもりでいて欲しい』

 これではっきりした。

 残るスーツの男が〔J〕である。

 そして、このホールを囲む四つの壁にある四枚のドアは、それぞれ該当するマークの人間に与えられた部屋なのだ。

 しかし、そんなことはどうでも良かった。

 それよりも重要な事実がもう一つある。

 それは、このアイマスクがランダムで配られたものではないという可能性が高い、ということだ。

 エース、ジャック、キングは基本的に男性であれば誰に当たろうと良さそうなものだけれど、クイーンが私の元に来たという事実は、たとえ四分の一の確率だとしても、出来すぎている。

 つまり、最初から四人のニックネームは決められていて、アイマスクもそれに合わせて配られたと考えられる。

 それに、これは偏見かもしれないが、そのどれもが、与えられた人間のキャラクターに合致しているような気もした。

 音楽プレーヤーも、命名に関しては特に深入りすることなく、新たなテーマを話し始めた。

『では、ここからが肝心要。諸君に戦ってもらう競技、〝オールド・メイド〟についての説明に移ろう』

 声の主は淡々と進めるが、参加者達にとっては運命を決する重大な説明だ。

 細い緊張の糸が小刻みに震え始める。少しでも触れたら、骨まで切れてしまいそうなくらいに鋭く。

 恐怖心ではない。

 これは、私の中のレーダーが、本物の刺激に出会えたことを発しているのだ。

 三人の男たちも、固唾を飲んで説明を待っていた。

『ゲームは、プレイタイムと呼ばれる一時間と、ジョーカータイムと呼ばれる七時間の、合計八時間を一セットとし、それを三セット、つまり、二十四時間かけて行われる』

 一セット八時間。

 やはり、ただのトランプゲームではなかった。

 ジョーカータイムという響きも、ダサいけれど妙に不気味である。

 音楽プレーヤーは、やや間を空けてから続ける。

『次に、プレイタイムの説明に入る。プレイタイムは、オールド・メイド――つまり、ババぬきをプレイしてもらう時間だ』

 と、そこで緑バンダナがやや横向きになってしゃがみ込むと、傍らに置いていた黒いバッグから、シガレットケース大の黒い箱を取り出した。

『このゲームでのババぬきは、通常のそれとは似て非なるものであるが、ルールは至ってシンプル。使用するカードは、数字のカードと、一枚のジョーカー。諸君には、カードを二枚ずつ配る。最初から一人二枚だ。そして、数字はすべてバラバラ。つまり、最後まで絶対に揃うことはない』

 緑バンダナが、ケースからカードを出して、少しだけ扇形に広げて私たちに見せた。

 天使が自転車に乗っている、バイシクルという有名なカード。カラーは黒だった。決して珍しくはなく、誰でも入手可能なものである。

 ただ、ここに用意されているカードの表面には、

 PLAY OLD MAID!

 と筆記体の赤文字がプリントされていた。これは、オリジナルの加工だ。偽造防止が目的だろうか。

『一度、リハーサルをしてみよう。カードが配られたら、手に取ってほしい』

 緑バンダナがカードを数回シャッフルしてから、エース、キング、私、ジャックの順番で、二枚ずつ裏向きにテーブルへ置いていった。

 私は、それを周りに見えないように手で覆いながら取り上げた。クローバーの3と、6だった。

『ゲーム開始にあたって、誰からカードを取り始めるか、その始点を決めなければならない。始点はクローバーの1を持っている者としている。今回は誰かな?』

 私は、ジャージの彼――エースの顔を窺ったが、彼は首を傾げていた。

「俺だ」

 手を挙げたのは、私の右にいたスーツの男――ジャックだった。

『よろしい。始点を確認したら、ゲーム開始だ。カードを取ったら、それ以降はテーブルに伏せてはならない。プレイは時計回りに進める。始点の者は、左側の者にカードを引いてもらう形だ。引かれる側は必ずシャッフルすること。そして引く側は、絶対にカードを捲ってはいけない。これらが基本ルールだ』

 ジャックは面倒くさそうに二枚のカードをクルクルとかき混ぜてから私に差し出した。

 私は適当に選ぶふりをしながら、このカード交換の意図を探った。

 キングが、私の手元から選んでいる最中に、音楽プレーヤーは次のステップへ進める。

『三人が引き終わって、始点の者が右のライバルのカードを引けば、そこで一周だ。プレイタイムは、これを三周行っていただく。そして最後は、カードをテーブルに伏せる。やってみてくれるかな』

 私たちは真剣な面持ちで、決して枚数の減らないババ抜きを続けた。

 キングは、三枚のカードを一度全部揃えてから、両方の掌で覆い隠してジリジリと分散させていく、という独特なシャッフルを演じた。

 エースは、自分から見て右のカードを捲らずに引き寄せ、手元の二枚に加えた。そしてすぐ三枚を入念に混ぜ、ジャックに選ばせた。

 それが三周、淡々と行われた。


 最後にジャックがエースの三枚の真ん中を引き取って、二人同時にカードをテーブルに伏せると、主催者の声が再開した。

『さて……お分かりの通り、諸君はカードを配布され、始点を決める為に確認して以降、表を一切見ることがない。つまり、三周のカード交換を終えた今、誰がどんなカードを持っているかは、誰にも分からない』

 私は、二枚のカードを左右に一枚ずつ持った。それをじっと見つめて、右の眼球だけを内側に寄せると、立体視の要領で二枚のカードの映像を重ねることが出来る。この手法で、表側のデザインを隅々まで調べた。少しでも異なる箇所があると、そこが光って見えるのだけれど、カードはどこも光らなかった。

 そうやって人知れず手掛かりを探している間も、主催者の説明は続いた。

『だが、参加者諸君の中に、一人だけジョーカーを持っている者が確実にいるということだ。本番は、これでプレイタイムは終了となり、各人、速やかに部屋に戻ってもらい、ジョーカーを持っているかどうかを各自で確かめてもらう。ただし、これはリハーサルなので、この場でカードをオープンしよう。さあ、今回、ジョーカーを所有しているのは誰かな?』

 私はカード全体を捲らずに、上半分を折り曲げて左隅だけを見るようにした。二枚ともクローバーのマークがあり、1と6が書かれていた。

 そのとき、踏まれたカエルのような声がして、全員がその出所を一斉に見遣った。

 キングが。口をへの字に曲げて二重顎を強調しながら挙手した。

『結構。リハーサルなので、安心するように』

 キングは手の力を抜いて、カードをテーブルに落とした。

 私は伏せたままにした。ジャックとエースは手に持っている。そんな中を、緑バンダナが事務的な動きでカードの回収を始めた。

 その作業とほぼ同時に、また音楽プレーヤーが喋りだす。ただし今回は、今までとは違って、低く、重い語り口で。少し気を休めていた参加者たちの姿勢が改まる。

『だが――大切なことだけは肝に銘じて欲しい。このプレイタイムの目的は、最終的なジョーカーの持ち主を決定することである。だから、プレイ中にジョーカーの所在が分かってしまうことがないように、また、不正防止も兼ねて、カードは毎セットごと回収し、新品と交換させてもらう。例外として、優勝者は特別に最後の手札を記念にお持ち帰りいただくことを許しているので、ぜひ頑張って欲しい』

 不可解だと、私は思った。

 ルールの詳細が明らかになればなるほど、普通のババぬきとは一線を画すカードゲームである。

 そもそもこれをゲームと呼んでいいのかどうかすら怪しい。

 いや――違う。

 プレイタイムは、この大会のメインではない。

〝オールド・メイド〟は、まだ始まっていない。

 メインのゲームは、別にある。

 私の心中を察するように、音楽プレーヤーは次の説明に移った。

『そして次が、いよいよジョーカータイム……このゲームのメインイベント。ジョーカーを持った者が主役となる時間だ』

 私は胸元に手を当てて、覚られないようにゆっくりと深呼吸をした。澄んでいた空気に、いつしか邪な煙たさが混じりだしていて、噎せそうになる。刺激を探査していたレーダーも、通常の反応から警告に切り替わった。

 赤バンダナの手が、ライフルに触れていた。

 主催者は、優越感に浸った声色に変化する。

『ジョーカータイムは、プレイタイム終了後、すぐに突入する。だから、前にも伝えた通り、部屋に戻ったら、何より先に、カードの確認をお勧めする。ジョーカーを持たなかった者は、取り敢えずは安全を確保出来たと一段落すればいい。しかし、ジョーカーを手にしてしまった者は、ここからが本番だ。七時間は、長いようで短い。貴重な制限時間を、一分たりとも無駄にしないよう、すぐカードを確認すること。二度言ったぞ。忘れるな』

 彼らは――もう、公言しているも同然だ。

 やはり七億円もの大金となれば、代償は、あれしかない。

 勿論、最後まで聞いてみないと分からないけれど。

 でも、もう覚悟は出来ていた。

『さて……主役になったジョーカーには、制限時間七時間でミッションが与えられる。それは――』


 主の声が切れた。

 わざとだ。

 わざと、私たちの恐怖心を煽っているのだ。

 もういい。

 分かったから、早く私たちを突き落とせばいい。

 主は、満を持して発表した。


『それは――制限時間内に、他の誰かを殺すこと。そして手持ちのジョーカーを、殺した相手のカードと交換することだ』


 集中していたときの沈黙が、一瞬にして絶句の沈黙へと変わる。

 私は、冷静にその境界線を見極め、ゴム跳びのように軽く跨いだ。

 しかし、見事に躓いた男三人は、全身を強か打って息が詰まり、酸素不足で何も考えられず、景色も霞んでいるようだった。

 ころす

 そのたった三文字が、重厚な鉄球と化す。

 そして、振り子の原理で襲い掛かってきて、日常という脆い外壁を呆気なく破壊したのだ。

 その場に尻餅を付いたまま、三人の男は瓦礫の向こう側に現れる、絶望的に暗い断崖に掛かった吊り橋をポカンと眺めるだけで精一杯だった。

 退路はない。渡るしかないのだ。

 私は渡る。

 渡るつもりで来たのだから。

 迷うだけ、時間の無駄。

 その時間を、未来の為に使わなければ。

 しかし、渡るしかない、ということを最初から受け入れることがどれだけ難しい決断か、私も過去の経験から重々理解している。

 だから、左の方でいきなりジャックが荒々しく立ち上がっても、さほど驚くことはなかった。

「殺すだと?」

 彼は、怒りの鉛玉を噛み潰そうとするように歯を擦り合わせた。感情を飲み込もうとしていたが、溢れ出す勢いに勝てず、口の中が一杯になった。窒息して、みるみる顔が紅潮していく。

『いかなる方法でも良い。誰かを殺し、自分が持つジョーカーを、相手の数字カードと取り替える――』

 続いている説明を無視し、とうとう抑えることを断念したジャックは、

「馬鹿馬鹿しい。俺は帰る」

 と吐き捨てながら、半ば理性を保てていない足取りで黒い鉄扉に向かった。

 そこへ、赤バンダナが素早く一歩前に出て、何の躊躇もなくライフルを向けた。こちらは至って冷静だ。

 ジャックの足が止まる。

 そして少しだけ首を持ち上げて、赤バンダナを睨み付けた。

「ま、待て待て!」

 口の中が乾燥しているのか、中年のおじさんが掠れた声で割って入った。

 果敢な攻めに向かおうとしているが、その福々しい肉付きの顔も動揺を隠しきれていなかった。

「殺すって穏やかやないなぁ……相手に負けを認めさせて、降伏させる、って方がゲームっぽいけど。なあ?」

 黒バンダナは、一度手元にプレーヤーを戻し、改めて腕を伸ばす。

『いかなる方法でも良い。誰かを殺し、自分が持つジョーカーを、相手の数字カードと取り替える』

 中年のおじさんは、早くも説得を諦めてしまった。

「もういいもういい! やめだ。やめ!」

 ジャックが右手を上げ、掌をヒラヒラと振りながら右脇をすり抜けようとしたが、赤バンダナが素早く遮った。

「おい、いい加減にしろよ? ここからだ――」

 挙げていた右手で赤バンダナの肩を押した直後、構えられていたライフルが天井に向けられた。

 銃口が、躊躇なく、鼓膜を劈く破裂音を上げた。

 ホールの照度が落ちる。シーリングライトの一部を貫き、蛍光灯が破壊されたのだった。

 それは、断じて殺意ではない。

 ルールを守らない者への制裁、処分といった感覚だ。

 だから、彼らは簡単にやるだろう。

 なおも歯向かうならば、あの銃口は、間違いなくジャックに向かって火を噴く。

 ジャックは、一瞬だけ怯んだが、引き下がらろうとしない。

「やめてジャック」

 私は、抑揚を付けずに呼びかけた。

 ジャックは振り返ることなく、興奮状態で捲し立てる。

「うるさい! やりたきゃやればいいだろう! 最初からおかしいと思ったんだ。ロクに説明もなしで! 向こうがフェアな誠意を示さないなら、こっちが途中で辞めようと何をしようと勝手だ! どけ!」

 赤バンダナは、やはり躊躇いなく、ジャックの肩の辺りに銃口を突き付けた。

 緑バンダナが、テーブルを回ってジャックの背後に立つ。片手がホルスターに掛かっていた。

 黒バンダナは、いつの間にか鉄扉の前へと移動していた。

 エースの姿が視界に入る。彼は背筋を伸ばしたまま目を大きく剥いて硬直していた。魂は一時的に避難させても、生身が逃げ出す心配はなさそうだった。

 そう、逃げようなんて考えないことだ。

 絶対に、ここからは逃げられない。

 私は冷静に、噛んで含ませるように説得した。

「聞いてジャック。コンダクターたちは本気よ。このゲーム、あなたみたいな人は必ずいる。主催者側は、それを阻止しなければいけない。でも、どうしても阻止しきれないと判断した場合は……最終手段に出る。そのために彼ら――死刑囚という立場の人間が、この業務を任されているのよ。だから駄目。無駄死よ」

 聞く耳を持ってくれることを祈った。

 このままではゲームにも参加できず、ジャックは最悪の形でこの部屋から出ることになる。

 ライバルが減る?

 そんな問題ではない。

 射殺確定の後退など、愚行も甚だしい。

 同じ殺されるのならば、生き残る可能性が残されている前進を選ぶべきだ。

 ジャックは、標的にされた肩を震わせながら、拳を握り締め、「くそ!」と叫んだ。

 踵を返し、今度は拳銃を構えた緑バンダナに、「どけ、チビ!」と吐き付けながら押し退け、自分の席に戻った。


 コンダクターの三人は、事態の収束を確認してから、再びもとの位置に並び直した。

 一呼吸置いてから、説明が再開される。

『ジョーカーは、プレイルームに常駐しているコンダクターに報告し、対象者の死亡と、カードの交換が確認された時点で、ミッション成功となる』

 さっきのリハーサルが本番だったとしたら、あの中年のおじさん――キングが、私、ジャック、エースの誰かを殺さなければならないのだ。

「待ってくれ……もし出来んかったら、ジョーカーはどうなるんや?」

 そのキングが、身を乗り出して恐る恐る訊ねた。

 その答えは、キング自身も察している筈だ。

 なのに、どうして問うたのだろう。

 万が一の希望に賭けたいのだろうか。

 音楽プレーヤーはしかし、失敗したときの処遇を丁寧に教えてくれた。

『もしも、ジョーカーが制限時間内に誰も殺すことが出来なかった場合……そのときはミッション失敗となり、ジョーカー自身が、コンダクターによって殺害される』

 えらいことになった……と覇気のない声を落とすと、キングは上半身を揺らし始めた。

『失格者が出たときは、各人の部屋にあるテレビから報告する。目の前での処刑は、さすがに気分の良いものではないだろう』

 ジャックは、恐怖を少しでも和らげようと、感情を怒りに変換して、足で床を蹴っていた。

 エースは、救いを求める眼差しで、私を見ていた。

 誰かを頼りにするならば、私が一番まし、ということなのだろう。

 確かに、それは正しい選択だ。

 けれど、忘れないで欲しい。

 もう、私たちはライバルなのだから。

 私は目を細めて、そんなメッセージをエースに送った。

 緑バンダナがカードをシャッフルし、二枚ずつ配って回る。

 黒バンダナの手元で主催者が、この瞬間を待ちわびたかのように開会を宣言した。

『では早速、今回の記念すべき第一セットを開始する!』

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