(2)

 アイマスクを装着する際、黒服に「眼鏡は預かる」と言われた。

 だから、いま僕は、アイマスクがなくても居場所の識別は絶望的であった。しかし、外せば失格なので従うしかない。

 闇の中、粗悪な合成繊維の慣れない肌触りに耐えながら、これから連れて行かれる場所を描いてみようとした。

 しかし、すぐに邪魔が入った。

「ねえ、みなさん――」

 僕の右側から女の声が聞こえてきた。この場に女性は一人しかいない。ワンピースのあの子だ。

 返事は永遠に期待できないと判断したのか、女はすぐに語を継いだ。

「バスの旅も長くなりそうですから、お話でもしませんか?」

 参加者同士の車中での私語は自由である――音楽プレーヤーは確か、そう伝えていた。

 問題のない行為ではあるが、

「話? 何を話すか知らないけど、随分と余裕だな」

 僕の心中を代弁してくれたのは、スーツ姿の若者の声だった。もともと血の気が多いのか、それとも来たことを後悔しているのか、棘のある語気だった。

「皆さんのことを、教えていただけないかしら」

「自己紹介?」

 右斜め後方からしたこの声は、中年のTシャツ男である。目隠しされていても、参加者全員が、年齢、性別がバラバラなので聞き分けやすい。主催者側は、敢えてそういう風に選定したのだろうか。

「ええ、そんなところ。けれど、それぞれ事情があると思うから、紹介する範囲は皆さんにお任せして、質問は一切しない、という条件でいかがかしら?」

 漂うような女の声が消えると、スーツの男は鼻で笑ってから、「今さら……」と吐き捨てた。彼は僕の真後ろにいるようだ。

「今さら――そんなことを聞いても、ババぬきには関係ないって言いたいの? 小さな情報から相手の性格が見えることって、意外と多かったりするのよ」

 女は喧嘩腰にならず、あくまで遊び友達を誘うような優しい口ぶりで窘める。

 どこかで、プシュ、という炭酸が抜ける音がした。

「ごもっとも。ワシは構わんよ」

 乗ったのは、中年の男だった。それを聞いてか、聞こえよがしに溜息を吐くスーツの男。

 僕は、自己紹介という提案に戸惑っていた。

 拾ったと言うより、盗んだと表現する方が正しいチケットで参加していることが、自分の口から露呈する恐れがあるのでは、という不安が頭を擡げたのだ。 

 他の参加者が、ここまでどのような手続きを踏んで参加に漕ぎ着けたのかは知らない。しかし、同じ応募記事を見て、同じ申し込み方法で、同じ当選連絡を受けている可能性は極めて高いだろう。

 つまり、そこのどこかに話が行き着いたとき、僕はその輪に入って行けないのである。

 頭の芯が痺れ出す。毛細血管が詰まったのか、温かい血液が滞って目の周りを火照らせた。

 どうやって切り抜けようか……。

 乾ききったの脳味噌から、ない知恵を絞っている最中に、女が訊ねてくる。

「あなたはいかが? えっと……集合場所へ最後に入ってきたお兄さん。さっきから静かだけど、大丈夫?」

 僕のことだ。

 バスに乗ってから一度も会話に入っていないのは僕だけだった。賛否の意思すら拒んで黙り込んでいたから、体調を気にされたのかも知れない。

「あ、その――」

 僕は、とりあえず自分の調子に対して、

「――ええ、大丈夫です」

 と、出来る限り気力を込めて返事をした。

 女は、それを自己紹介することについての回答と受け取ったらしく、

「そう。お兄さんもオッケーね」

 と満足げに言った。

 僕は慌てて訂正するために、「あ、いえ」と女にかけたその声は、

「じゃあ、一番年長者の、ワシからいくか!」

 中年男の音量にかき消されてしまった。

 さっそく勝手に自己紹介を始めようとする所を無理やり遮ることも出来るのだけれど、そこまでして自己紹介を拒む上手な理由を並べる自信もなかった。

「名前は、匿名希望……とした方が、後々みんなも気楽かな。年齢は四十二歳」

「厄年」

 ボソッと呟いたのは、スーツの男。これも故意に相手に聞こえる音量だった。明らかに挑発している。ただ、質問事項は一切禁止、というルールには抵触しないので、咎めることは出来なかった。

 中年の男はしかし、ははは、と軽く笑うと、

「厄年なんか、あまり信じん方でな。けどまあ、このゲームで本当に厄年っていうものがあるのかないのか、はっきりするかな」

 そのあと中年男は、妻と娘がいること、娘がこの世で一番好きで、その次がアルコールで、最後が妻であること、趣味は絵を描くこと、そして最後に、七億円が手に入ったら、広大な霊園を購入してピラミッド型の墓石と、その周りにスフィンクスを置きたい、以上、と締めくくった。

 お墓ジョークに、またスーツの男が噛み付いてくると思っていたが、そこはスルーされた。尤も、流すというリアクションが一番辛い仕打ちとも取れるが。

 女が再び指揮をとる。

「じゃあ、次は誰がいきますか?」

 僕も、スーツの男も、立候補しなかった。

 スーツの男は、最後まで紹介する気などないという態度を黙して示しているように思えた。

 僕も、踏ん切りが付けられなかった。いずれは白日の下に晒されるのであれば、早いに越したことはないのだが……。

「じゃあ、スーツのあなた、お願い出来るかしら?」

「はぁ?」

 女からの唐突な指名に、スーツの男の声はひっくり返った。

「どうしてオレなんだよ! オマエが先にいけばいいだろう!」

 口喧嘩をしている小学生のように歯を食いしばったままケチをつける。

「私は人並みに話すの。あなたはどうせ、一言二言で終わるでしょう? だからよ。早く済ませて」

 女は、早口で、しかし冷静な口調でそう理由を付けた。

 スーツの男はしばらく黙り込んだが、救いのない静寂に気まずくなったらしく、渋々と話し始めた。

 年齢は二十代。水商売をやっている。

 女の予言どおり、本当に二言だけだった。

 それに対して、不服は申し立てない約束なので、誰も何も言わなかった。

 残るは、いよいよ僕だけだ。

 一度だけグンと咳き、喉を鳴らして指名を待っていると、

「じゃあ、次は私が。いいかしら?」

 女は、僕の予想を裏切って、自分の自己紹介を始めたのだった。

 特に理由はないのだろうけれど、取り敢えず執行猶予がおりた気分で、僕はまたしばらく楽になった。

「それとも、先にする?」

 またしても僕が答えを返さなかったものだから、女は気を利かせてそう訊いてきた。

 僕は、誰にも見えないのに、首を振りながら、

「先にどうぞ」

 と、女に順番を譲った。

「そう。じゃあ私ね。私は、レイ。本名かハンドルネームかは、皆様の判断にお任せするわ。年齢は、そうね……二十代の半ば、だと思う。趣味は、二十歳まではアウトドア派で、スポーツ全般が好きだったけれど、最近はすっかりパソコンの前に座っていることが多くなったかな。彼……彼の――」

 スラスラと喋っていた女はいきなり、単語が舌に絡みついて出なくなった。

 何事かと訝っていると、トグ、トグ、トグ、と重い足音が近付いてきた。

 女はそれをいち早く察したのだ。

 足音は僕の横を通り過ぎ、後方へと進む。そして立ち止まると、「どうしましたか?」と控えめな声が聞こえた。

 誰かが、手を挙げたのだ。このタイミングでするというのは明らかな妨害行為である。

 コンダクターを呼びつけた男は、悪びれる様子もなく訊ねた。

「タバコはないのか?」

 案の定、それはスーツの男だった。

「車内は禁煙です」

 簡単に一蹴された男は、くどくどと絡むのかと思いきや、「あっそ」と簡単に引き下がったのだった。

 タバコなど最初から吸う気がなく、嫌がらせが目的であることが、これではっきりした。

 女は気を取り直して、紹介を再開する。

「彼の影響でね、そうなっちゃったわけ。もしも今回、七億円ゲット出来たら、うん……ビルの屋上からバラ撒いてあげるわ」

 中年の男のスタンスを踏襲したのか、最後はジョークで終わらせることになっている。僕はそんなシャレたことは出来ない。緊張が、ぶり返してくる。

「えー、じゃあワシはこんな所に参加せんと、姉ちゃんのゼニ撒きに参加すれば良かったのか!」

 中年男の陽気な血が騒ぐのだろう。女の冗談に乗らずにはいられないようだった。僕は、虚実半々の笑い声でリアクションした。

 ところが、ジョークが嫌いなのか、蔑むような口ぶりではあったが、あのスーツの男が真っ当な意見で会話に入ってきた。

「あんた馬鹿か。これに参加したから、この女が金を撒きたがっていることを知ったのだろうが。参加してなけりゃあ、ニュースで見て、他人事で終わりだ」

 すると、今度は中年の男が、喉をガラガラと響かせて笑った。

「なるほど! そりゃそうだ!」

 口論に持ち込もうとすれば簡単にできる場面だけれど、そこは中年男の大人の対応なのか、あるいは楽天的な性格がそうさせるのか、火種をどこへも飛び火しないように、手元で上手に吹き消すことを知っていた。

「私の紹介はこれくらいで。じゃあ最後、お兄さん」

 お兄さん、などと呼ばれたことがないので、少しこそばゆい気持ちになるが、多い目に酸素を供給してから、頭の中でプロフィールを選んで並べていった。

「えっと、僕は――ヒデカズです。英語の英と、数学の数で、英数。少し前まで医薬品メーカーで働いていましたが、今は無職……あれです、巷で言う」

「ニート」

 厄年、と同じトーンでスーツの男がセリフを奪った。

「そうです。ニート。ここに参加したのは初めてで、その……七億円とか、ババ抜きとか……まさか、こんなことになるなんて思わなかったので」

 僕は、そこで息継ぎをする。その間隙を突いて、またスーツの男が喋りだす。

「こんなことになるなんて、か。それはたぶん、他の奴らも同じことを思っていることだろうよ」

 僕は、相手に見えていないことを承知で頷いた。そして、本音を吐露する。

「ですから、少し後悔しています。――以上です」

「どうもありがとう」

 女が、優しい声色で言った。

 終わった……僕は肩から一気に力が抜けて、胃と横っ腹が痛くなった。

 しばらく我慢していると徐々に治まってきたが、代わりに喉が渇いてきた。

 僕は手を挙げて、ミネラルウォーターかお茶を所望した。届いたのはミネラルウォーターだった。


 その後、参加者たちは黙り込んだ。

 中年の男だけは時折、自分に呟いていたが、スーツの男から怒られる程に酷くはなかった。そうかと思えば次の時には鼾をかき始めた。

 これには女もクスッと笑って、「図太い人ね」と、軽く毒を吐いたのだった。


 タイヤの摩擦音は、ずっと変わらなかった。

 バスは依然として高速道路を走行しているようだ。

 手を挙げれば用件を聞きに来てくれる、そのときを利用して、たとえば現状の質問をしたら、受け付けてくれるのだろうか、と僕はふと思った。

 試してみようか考えていると、まるでそれを読み取ったかのように、ドグ、ドグ、ドグと硬い靴音がこちらに向かってきた。そして僕の横で止まる。僕は呼んでいないから、通路の向こう側にいる女が呼んだのだ。

「どうしましたか」

 お決まりのセリフで聞く男に、

「あと、どれくらいかかります?」

 彼女はオーダーではなく、回答を求めた。

 僕は左腕に集めていた力を解放した。皆、気にすることは同じなのである。

 御用聞きの男は、僅かな間を空けてから、彼女にだけでなく、全員の耳に入るくらいの声で告げた。

「あと、四時間強はかかると思われます。到着次第、すぐにゲーム開始ですので、今のうちに休息を取っておいてください」

 女は、短く礼を述べた。

 中年の男は、先ほどから引き続き休息を取っている様子だった。

 後ろにいるスーツの男も、こちらは眠っているのか起きているのか判然としないけれど、取り敢えず文句を垂れることはなかった。

 僕は体を斜めにし、窓に頭を委ねた。厚手のカーテンが引かれていて、ガラスの冷たさは感じなかった。

 やがて、意識が現実から離れていく。

 光を遮断され、暗い世界にいる僕は、更に暗い世界へと引っ張られていった。


 見えない。

 けれど、いる。

 シュルシュルと、乾いた音が聞こえてくる。

 地面を這う、おぞましい奴。

 いや、地面にはいない。

 暗い空を見上げる。

 奴は、僕たち四人の頭上を、円を描くように這っていた。

 奴と目があう。

 硬質な瞼に、縦長の瞳孔。無慈悲な眼が、眩しいくらいに光っていた。

 蛇は、僕が怯んでいる隙に、槍のように鋭く尖って突進してきた。そして、器用に鼻先でピタリと止まると、二又に割れた舌をベタベタと打ち合わせた。


――つまらない人生だな。


 無声の絶叫を上げた僕は、それが発した衝撃波で目を覚ました。

 人工的な闇の現実に戻ってくる。蛇の姿も、声も、消えていた。

 バスが走っている道が相当な悪路のようで、車体が小刻みに飛び跳ねていた。

 砂利を巻き込み、木の枝を圧し折っていく乱暴な音が、二分ほど続いた。

 そこを抜けると、間もなくバスは停止した。

「……着いたか?」

 眠そうな声の中年男が、ぐにゃぐにゃとぼやく。

 バスの前方で、ドアがスライドする音がした。

 ややあって、車内に誰かが乗り込んでくる気配がした。トス、トス、トスという足音が近付いてくる。


『諸君――』

 音楽プレーヤーの声がして、僕は姿勢を正した。

 周囲からも、居住まいを正す摩擦音がした。

 全員が、静かに耳を欹てる。

『非常に長い移動であったことをお詫びする。しかし、その疲れすら忘れてしてしまうほどの刺激と、報酬が、諸君を待っていることを約束しよう』

 僕の後ろで、スーツの男が鼻で笑う。

 どんな悪態を吐こうが、礼儀正しく臨もうが、ルールさえ守れば平等に刺激と報酬を受ける権利があるのだから、不平等だ。

『それではこれより、今回の会場となる建物へと案内する。まずは全員で一列になること。そして、先頭の者は両手を前に出して待て。後ろに続く者は、それぞれ前の者の肩に手をかけること。準備して待て』

 音楽プレーヤーの指示が下りると、すぐに主導権を取ったのは、あの女だった。

「待って。一度に出ると危ないから、私が先に通路に出るわ。えっと……ヒデカズさん?」

 指名を受けた僕は、女がいるであろう方角に首を向けて、「はい」と言った。

「ヒデカズさん、出てきて。そして私の肩に」

 僕は、速やかに席を立った。体が軋む。

 ぎこちない動きで通路に出ると、手探りで女の上半身を探した。偶然にも最初から肩甲骨の辺りに触れたので、そのまま肩に移動させた。

「オッケー。それじゃあ、おじさん、次」

「よっしゃ」

 中年男が僕の肩を掴んだ。手が異様に熱を帯びていて湿っぽかったが我慢した。

 最後にスーツの男が、おじさんと連結したことを不快そうに報告して、準備が整うと、間もなく、黒服の声が僕たちに告げた。

「それでは、これより会場へご案内いたします。くれぐれも、足元にご注意を」

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