もうひとつの、(1)

 こうして、私はここにいる。

 

 外は茹だるような熱帯夜なのに、寒気すら覚える、この地下会議室に。

 都市伝説の如きインターネット上の噂が、本物の形、色、におい、音、感情を揺さぶる力を装備して、私の意識に出現したのだ。

 そして、ここにいる他の三人の意識にも。

 いや、コンダクターたちも含めれば六人か。

 たとえこれが幻影であったとしても、ここにいる誰か一人が「実は嘘でした」とおどけたくらいでは消え失せないだろう。

 私一人の為に仕組まれた芝居という大いなる陰謀であるとも思えなかった。第一、私など陥れる価値もない、ごく平凡な一般人なのだから。

 何より、ここへの招待券は偶然が重なって手に入ったものだけれど、この場所へ来たのは、私自身の意思なのである。

 だから、これは紛れもなく、私の中の現実である。

 それも、とびっきり刺激的な。

 そして、チケットにすり込まれていた刺激的な匂いに導かれて辿り着いたのが、薄暗い路地裏の、見えにくいドアの向こうの、暗い階段を降りた先の、更に一枚ドアを隔てた、この殺風景な部屋だった。


 裏の世界と捉えれば、確かにそれらしい雰囲気の場所だけれど、学習塾だと思えば、そんな風に見えなくもない。

 集合時間の二十分前に到着したが、既に先客がいた。ラフな格好をしたおじさんで、競馬場かパチンコ屋が似合いそうだ。

 もう一人は、スーツ姿の若い男。月曜九時のドラマに没頭する女性にはさぞモテるのかも知れないが、私は興味の対象外だった。

 待っている最中、私たちの間に会話は一切なかった。

 ずっと静寂に包まれてしまうかと思いきや、頭上から、ジジジ、カン、ジジジ、カン、という金属っぽい音がリズミカルに聞こえてきた。苛立ちを感じる人もいるだろうが、私には少しだけ退屈凌ぎになった。例えば、この音のオルゴールを作ったとしたとき、私ならば幾らの値段を付け、どうやってセールスしようか、とか。考え出せば、いつまでも遊んでいられる。


 そんなことをしている間に、集合時間の五分前となった。

 ババぬきにしては少人数すぎると思っていた矢先、最後の一人が姿を現した。

 その姿に、私は眉間に皺が寄るのも構わず驚いた。

 若そうに見える、と表現せざるを得ないのは、精神的に老けている感じがするからだろう。

 インドア派の筆頭といった風で、トレーナーとジャージという、寝ていたままの姿で家を出てきたのではないかと思われる格好。率直な意見として、これはさすがにだらしない、と私は呆れた。

 彼は、入ってくるなり、先客たちの視線を一斉に浴びると、やや戸惑った様子で、こそこそと私の近くの席に腰を下ろした。


 集合時間五秒前。

 これで参加者は四人であることと、もう一つ、私以外が全員男性であることが分かった。そのうち二人は、私に多少なりとも興味がある様子で、時々横目で盗み見るのだった。

 その表情には、「まずは一人、脱落」という考えが浮かんでいるに違いない。

 男の等式は単純で欠陥だらけだ。

 腕力が勝る、体力も勝る、ゆえに知力も運も、男の方が勝っている――その結果が、私を脱落者扱いする態度となる。

 そういう扱いを受けることを極端に嫌う女もいるが、私は気にしない。却ってそう思っていてくれた方が、こちらが有利になることもあるからだ。


 指定時間の五秒後。

 部屋に、三者三様の色バンダナで顔を隠した人間が三人現れた。

 いよいよ始まるな、と気合いを入れなおすべく、肺の底まで新鮮な酸素を取り入れる。胸部のストレッチにもなって気持ち良かった。ただ、私が落ち着きたいときに必ず行っている瞑想と比べたら、効果は歴然とした差があった。

 そうやって私は準備万端なのに、彼らは一向にカードを配り始めようとしなかった。それどころか、二人が部屋の左右にあるドアの前に陣取って動かず、残る一人だけが教壇の前に立っていた。

 しかし、それでスタンバイが整ったらしく、教壇の黒バンダナが、バッグから、やや型落ちの音楽プレーヤー出してきた。再生し、音符のマークが表示された円画面を私たちに見せつけると、主催者を名乗る奇妙な音声を私たちに聞かせた。

 威厳に満ちた低い声が、私語も質問も許さないバリアを張って、説明を始めた。

 ただ、肝心な部分の詳細、つまり、ゲームの核心については、現地で説明するとのことだった。焦らされたことで、私の参加意欲は、いっそう掻き立てられた。

 簡単には始まらない辺りが、かなり綿密に計画されたイベントであることを窺わせる。主催者の、並々ならぬ情熱と狂気を再認識させられた気がした。

 そう、きっと単なるトランプ遊びではない。

 何せ、勝者には七億円だ。

 その金額も真実であることを証明するように、死刑囚であるらしいコンダクターと呼ばれる覆面が、一枚の小切手を示した。確かに額面は七億円とチェックされているが、紙切れ一枚ではインパクトに乏しく、感嘆の声を洩らす者はいなかった。

それに、小切手を見せられただけで、疑念は誰の心からも消えないだろう。

 あんなものを一枚偽造するくらい、今の世の中、小学生でも教えれば出来る。遠目でそれらしく見えるクオリティで良いのならば尚更だ。

 だから、タイプライターの数字や小切手という体裁だけで真に受けることなく、取り敢えず疑ってかかることだ。いかなる状況でも一貫して、そういう態度を取れる者こそ、賢明な人間だと、私は思う。

 もっとも。賢明な人間は、そもそも自らの足でこんな所へは来ない、とも思う。

 そう、私たちは、ここにいる時点で、賢明な人間ではないのだ。

 皆、主催者に対しては抵抗を感じつつも、しかしあの小切手は既に自分のものだと思い込んでいるに違いない。

 ならば――先に乗った者の勝ちだ。


『――準備時間は、五分だ』

 説明が終わってから、躊躇する男たちと無機質なコンダクターとのやり取りがあった。応対しているのが全て音楽プレーヤーの音声というのも徹底している一方で、それがひどく滑稽だった。

 暫く様子を見ていたが、どれも役に立たない質問ばかり。それに対する音楽プレーヤーの回答も当然、情報と呼ぶには程遠いものだった。

 時間の無駄だと感じた私は、早々に参加を決意し、子供のように尻込みする男たちを横目に手を挙げた。

 私が歩いていく姿を、男たちは負け惜しみを込めた視線で送ってくれた。もう慣れっこだったから別に構わない。

 あなたたちは、雁首揃えて手摺の付いた吊り橋を遠足気分で渡ればいい――そう、心の中で呟いた。

「このまま、参加者が私だけだったら、どうなるのかしら?」

 コンダクターへの質問は、男たちへの嫌味でもあった。

 それと、コンダクターは本当に喋らないのか、という事実確認も兼ねて、左のドアの前にいたコンダクターに訊いてみた。

 当然、そこも徹底されていて、

『人数の不足分は、コンダクターがゲームに加わる』

 背後の教壇から、音楽プレーヤーによって対応されたのだった。

「そう。ありがとう」

 私は、振り向かずに礼を述べた。

 所持品を入れた袋は赤バンダナのコンダクターに渡り、それからすぐにボディチェックを受けた。全身を触れられることに対して、最初からそれほど抵抗を感じるとは思っていなかった。それでも、死刑囚というイメージがある以上、粗略な扱いをされるのでは、という印象が頭のどこかにあった。

 そんな考えとは裏腹に、死刑囚のチェックは優しく、セレクトショップの店員のように丁寧だった。

 身体検査をパスし、そのまま先に進もうと思ったけれど、まだ迷っている男たちに、どうしても一言、喝を入れたかった。

 私は身を翻した。ふと、天井を見上げる。最後に入ってきたダサい彼の頭上の蛍光灯が、息を切らしかけていた。

「とっとと来なさい。女の子がこんなに頑張ってるのに」

 

 希望の扉――その先は、浮遊する分子をすべて黒く着色したかのような闇が広がっている。

 熱を発している自分の存在が逆に場違いであると勘違いさせられる程の冷気が詰め込まれた空間。かなり奥行きがありそうだ。

 私は、何か目標となるようなものを探そうと試みるが、ここに来たときのような赤いライトさえ設置されていなかった。そして、人の気配もなかった。

 まさか、この時点からゲームは始まっているのだろうか?

 警戒しながら、私は体を少し左へ移動させた。すると、弱々しい光が、空間の中ほどまで一直線に延び、そこで力尽きていた。その光は私の後ろ、つまり、たった今出てきたドアの隙間から洩れているものだった。

 その細い光線を辿ってドアの前に戻ると、ちょうどいい高さに取り付けられている覗き窓を見つけた。

 ひんやりとしたドアの表面に顔を押し当てて覗き込んでみると、室内で、まだ逡巡している男たちの様子が飛び込んできた。

 私は、暫く中を観察することにした。


「本気か……あいつ……」

 まず聞こえてきたのは、私の隣にいたスーツの男だった。両肘を立てて手を組み、その上に額を乗せて俯いていたので、微かな音量だったが、この扉の重厚さは見掛け倒しで、音など簡単に通り抜けてきた。

 オフの状態にいた男が、自らスイッチをオンに切り替え、コンダクターに質問を投げかけた。

「なあ、どこで何をやらされるんだ? やっぱりただのババぬきじゃないだろう? 何が始まるんだ? もう少しそこを教えてもらわないと、参加するか、しないかってことがガラっと変るんだ。俺たちにとって、そこが重要なんだよ」

 冷静を装っているつもりでも、質問内容には無駄が多すぎるし、身振り手振りも忙しない。せっかく整えてきた髪形も台無しだ。これはまさかの似非エリートだったか、と私は苦笑いを浮かべた。

 一貫して寡黙なコンダクターは首をやや俯き加減にすると、音楽プレーヤーを操作し、例のポーズを決めて再生を押した。

『詳しい内容は、現地にて説明する』

「……話にならないな」

 スーツの男は舌打ちをしてから、落ちるように椅子へ座った。ついに、私に続く参加者が出るかと楽しみにしていただけに残念だった。

 そんな中、意外な所から声があがった。

「僕は……僕は行きます」

 参加を決心したのは、入り口近くに座っていたジャージの彼だった。

 彼は所持品を布袋に入れて、ゆっくりと席を立った。体が震えている様子もなく、足取りもしっかりしている。そんな魔球のような勇気を、どこに隠し持っていたのだろう。私は、ダサいだけだった彼を少しだけ見直した。

 彼のボディチェックは、担当が交代して赤バンダナが行った。

 私はそこまで観覧して、覗き穴から目を離した。このまま開けられて、顔面を強打しないように、扉の前から二歩さがる。そのまま忍び足で、闇の中へと身を潜ませることにした。息を殺す。なぜか胸が高鳴った。

 彼が希望のドアを開けてこちらに入ってきたのと同時に、室内から、

「ワシも行く! 取られてたまるか!」

 髪が少ない、いかにも薄幸そうな風貌の中年のおじさんが、関西弁訛りのある叫び上げた。

 私は、おじさんは最後まで躊躇うと予想していたので、かなり意外だった。

 最後まで残ったのはスーツの若者。もうそろそろ応募締め切りだ。一人だけ来ないのだろうか。

 いや、彼は必ず来る。

 あれやこれやと文句は並べるが、今の時点で七億円の小切手に背を向けられずにいるということ自体、もう答えは決まっているようなものだ。

 ジャージの彼が、闇の中で何をしていいのか分からず立ち尽くしていると、身体検査を終えた中年男が勢いよく飛び込んできた。

「お! っと」

 中年のおじさんは、半分くらいの年齢の彼にぶつかりそうになって、踵でブレーキをかけた。

「すみません」

 ジャージの彼は、謝りながらその場を飛びのいた。

 何だろう、このガサガサした感じは。怖いし、冷静でいられないのは分かるけれど、緊張感が足りない。男ならば、もっとズッシリとした足取りで臨めないものだろうか。どうにも軽すぎる。

 と、思っている矢先に、三度、扉が開いた。

「もう知らねぇ……どうにでもなれ!」

 ぶつぶつ文句を垂れながら入ってきたのは、スーツの似非エリートだった。汚れた性格からボロボロとこぼれ落ちてくる愚痴も、ドアが閉じると、途端に止んだ。タバコと同じで、止めようと思えば止められるものなのだろう。要は意思の問題である。


 ともあれ、集合者全員参加という結果となった。

 結局、これが人間の心理であり、また主催者側の「思う壺」なのである。

 私たちはチーズに釣られてネズミ捕りに挟まったのだ。それも、尻尾だけでなく、胴体からガッツリと。もう、自力では抜け出せない。

「ふむ……何もないやないか。あ、一番始めに来てた姉ちゃんはどこへ行った?」

 中年のおじさんが、武者震いしている声を絞り出した。

 私は、わざと黙って部屋の隅に三角座りを決め込んだ。ひとつの足音が近付いて来たが、発見されたならば、されたで別に構わない。

 しかし足音は、私を見つけるには至らなかった。


 一分くらいが経過しただろうか。

 集合部屋に残っていた三人のコンダクターが次々に現れて、機敏な動きで闇の中を抜けていった。彼らは、この殆んど何も見えない中での作業も、すっかり訓練されて熟知しているようだ。

 今度こそ、本当に始まる。

 私の神経が警戒し始めた。

 力を抜いて構えていると、こそばゆい振動と共に、低く唸るような音が室内を震わせた。すると、五十メートルほど先に、この空間の闇とは明らかに濃度の違う薄闇が、下から少しずつ侵食してきたのだった。

「シャッターか?」

 分かりきったことを口走ったのは、スーツの男だった。

「そやな」

 やっと分かったのか、間を置いて反応したのは、中年のおじさん。

 まだ分かっていないのか、ジャージの彼は口を噤んだままだった。


 果たして、薄闇の正体は夜の帳だった。

 路地裏から一転、そこは廃墟となった邸宅の裏庭らしき場所で、この土地に長く住んでいる私も見たことのない風景である。遠くには、庶民と富裕層を隔てようという悪意に満ちた高い塀が左右に伸びている。その少し手前には枯れ枝をみすぼらしく広げた木々たちが力なく立っていた。そのどれもが、今の私たちには関係のない書割だった。夜空に浮かぶ満月すら作り物に思えてくる。

 それよりも注目すべきは、シャッターを出て左に停車している、マイクロバスの後ろ姿だった。テールランプが赤く点いている。

 ここでも私は、呆然としている男たちの横を素早く走り抜けてバスへと向かった。

 不意を突かれたことに、「あっ」と背後で叫んだのは恐らく中年のおじさんである。それが呼び水になったのか、男たちは一斉に私を追って来た。

 シャッターがあった地点を出て左に曲がると、バスと建物の間に人影があった。黒服にサングラスをかけた、コンダクターとは雰囲気の異なる二人の男。漫画に出てくる、違法カジノの従業員みたいだ、というのが私の第一印象だ。

 面長で背の高い黒服が厳かに一礼すると、

「それでは、これより会場へとお送りいたします」

 と、低音ながら聞き取りやすい発音で説明を始める。

「会場までの道のりは、運営上、秘密となっております。これより皆様には、アイマスクを着用して乗車していただきます」

 そこまで喋ると、開かれていたスライドドアからコンダクターが降りてきて、もう一人の黒服にアイマスクを四人分手渡した。用事はそれだけで、コンダクターは車内へと戻って行った。

 バスの窓は全面にミラーシールが貼られており、外からは鏡面のように景色を反射していて車内は全く見えない。

 私は、黒服にアイマスクを装着されているとき、相手が見えなくなったのを機会に、思ったことを口にした。

「あなたたちは喋っていいのね」

 黒服は、黙々と作業をするだけだった。

 私への装着が終わっても、まだ三人分が残っているので、暫くそのまま突っ立っているしかなかった。細かな汗が目の周辺に滲んでくる。綺麗に化粧を決めてきた女にとっては辛い時間かも知れないが、私は比較的ナチュラルメイクなので、気にはならなかった。

「どうぞ、足元にお気を付けください」

 全員への目隠しが終わったのか、面長の黒服の声が聞こえた。

 すると、ゆっくりと私の手を取ってくれる人がいた。そして、無理のない力で誘導してくれる。

 視界は閉ざされていたが、人工的な素材のステップを踏む感覚、狭い空間に詰め込まれた音を察する耳、再びクーラーで冷やされた汗の肌触り、シートのにおい……全身で、環境が変化したことを知ることが出来た。

 誘導が止まったところで、私は体を百八十度回されてから、横歩きで三歩、左に移動した。そのまま座れと命じられたので、腰を下ろす。そこには、ごくありふれたバスのシートの感触があった。これでの長旅は辛いかも知れないと思った。


 時間が私のリズムと狂いなく合っていたならば、一人目は五分後に、二人目は七分後、そして最後の一人は、十一分後に乗り込んできて、皆、私の周辺に座らされたようだった。

 暫くすると、今度は一度に複数の足音が車内に荒々しく入ってきた。足音だけではない。キチャキチャと金属音、ザバザバと合成繊維の擦れる音も重なっている。

 それらの雑音が徐々に気にならなくなってきた頃、私よりも前方の座席に落ち着く気配を感じ取った。

 そこからは、色んな音が少しずつ消えていって、僅かな静寂が訪れたタイミングで、例のあの音声が車内に響いた。

『今から会場へと移動する。これより、アイマスクを外すと失格となるので注意願いたい。少々長い旅となるが、飲料、食料が欲しい場合、あるいは用を足したい場合は静かに手を挙げ、その旨を伝えること。参加者同士の車中での私語は自由である。ただし、のちにライバルとなる相手だという自覚は、忘れないように』

 感情に乏しい説明が終わると、エンジンが音を上げて、マイクロバスはゆっくりと発進した。


 タイヤが砂利を弾き飛ばす音が暫く続いて、やがて一般道路に出たのか、振動も和らいで落ち着いた。

 その後のバスは、思わず笑ってしまいそうになるくらい、ゆっくりと走った。

 実はどこにも向かっておらず、この界隈を周回している間に、あの集合場所が会場のセットに模様替えされている可能性も考えた。

 しかしそれは、時折全身を前方に引っ張られる力や、遠心力、そして右左折している事実が身体に伝わってきたことによって否定された。

 そんな具合で――精確には計れないが、感覚では十五分くらいだろうか。みんなが各々の沈黙と戯れていたのは。


 マイクロバスの速度が格段に増した。高速道路に乗ったのだろう。車の旅は思いのほか長そうだ。

 私はまた、シートの硬さで筋肉や関節が泣き言をこぼさないか心配した。

 退屈凌ぎの目的半分、あとの半分は、今後の参考にということで、私は試しに手を挙げてみた。

 トグ、トグ、と底の厚そうな靴音がすぐにこちらに向かってきて、私の座席の横で止まる。そして、

「どうしましたか」

 と、鼻にかかった声が面倒くさそうに応対してくる。

「飲み物を、いただけるかしら?」

「いろいろありますが」

 やる気のなさそうな口調にもかかわらず、ちゃんと選択肢がある、サービスの良い応対だった。

「炭酸飲料、できればコーラを」

「分かりました」

 無駄のないやり取りに、私は感謝の意味をこめて微笑んだ。尤も、御用聞きの男が見ているのかどうかは確認できないが。

「あ。ワシにもコーラ……あ、アルコールはあるんかいな?」

 そこへ、やけに『あ』の多いセリフで割り込んできたのが、関西訛りの中年のおじさんだった。先ほどとは違い、かなり余裕のある口調になっていた。バスに乗ってからの沈黙の中で、腹を括りきったのだろう。

「アルコールはありません」

 それもそうだと私は思った。たとえゲームがババぬきであろうと、酩酊状態で戦われてはトラブルのもとになる。

「じゃあ、コーラ」

 中年のおじさんの注文を最後まで聞かないうちに、御用聞きはトグトグと靴を鳴らして車両前方へ歩いて行ってしまった。

 車内は程よくクーラーが効いていたので快適だったが、それでも冷たいコーラはありがたかった。手渡されたペットボトルには、胴体とキャップをつなぐ平らなゴム紐のようなものが付いていた。目が使えない分、キャップを落とさない為の配慮である。私は、このイベントが適当なものではないことを改めて感じた。

 そうなると、気合の入れ方も変わってくる。

 いかに場の空気を味方に出来るか――つまり、主導権というものも重要になってくる。

 ここにいる参加者全員が同じことを考えているだろう。中年のおじさんが、私に便乗してコーラを注文したことからも分かるように、みんな不毛な沈黙は本意でないのだ。どこかで打破する機会を窺っているのだ。

 いま、私以外にリーチがかかっているのは、あの関西訛りの男だけ。

 ならば、もう先手を打たなければ。

「ねえ、みなさん――」

 私は、コーラに口を付けるより先に、主導権という立場に唾を付けるべく、口を開いた。

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