(1)

 繁華街と言っても、地方のそれはたかが知れている。


 中途半端な明るさのネオンも、くたびれた人通りも、本物のワルにはなり切れない。田舎の良心が邪魔をしているのだろうか。

 高校生活も半ばを過ぎ、大学受験の話が出てくると、同級生たちは口を揃えて、この町からの脱出を宣言した。テレビでしか見たことのないビル群、憧れのキャンパスライフ、そして待ちに待った、都会での一人暮らしを夢見て、受験勉強に精を出す。

 僕は、その話題に入っていくことが出来なかった。

 大学には行くつもりだったけれど、それは、憧れや学歴の為ではなく、社会に出る時を先延ばしにすることが目的だった。

 そして予定通り、僕はこの地に残った。後悔はしていない。

 これくらいの雰囲気ですら、僕には強すぎる。それなのに、札付きのワルがゴロゴロいる場所など、どうして飛び込んで行けようか。

 いつものように屁理屈を捏ねながら、行く当てもなく夜道を彷徨する。趣味が悪い柄シャツを着た客引きに声を掛けられても、目を逸らして断る。

 数メートル先には、掻い潜っても絡み付いてきそうな厄介な集団がいたので、進行方向を変えた。どの場所も知っている範囲だから、迷うことはなかった。


 そろそろ帰ろう――そう考えながら、首を回して夜空を転がしていたときだった。

 二十メートルほど離れた場所に、一人の男がいた。

 何の変哲もないサラリーマン風の男。

 しかし、男は頻りに、辺りを窺ったり、あちこちポケットを探ったり、その場で右往左往したり……と、表情こそ判然としなかったが、一挙手一投足が明らかに不審だった。

 男は首を傾げてから、誘うネオンと惑う人通りを避けるように、薄暗い路地へと入っていった。

 僕のアンテナが、鋭敏に反応した。

 ああいう人間こそ、いちばん近寄ってはいけない人種だと。

 それは彼の為であり、僕の為でもある。闇夜に溶け込んでいく路地には、僕がこれまで歩いてきたような平坦な道は、絶対にない。

 しかし、意思に反して僕は、男がいた地点に近付こうとしていた。

 戻れと諭しても、誰かに乗っ取られたかのように、路地の入り口へと向かってしまう。

 そこから、少し先を行く黒いシルエットを確認した。

 路地は、二人がどうにか並んで歩ける程度の幅で、あまりにも狭いし、特に今の季節は熱気と湿気が犇めき合って不快きわまりない。所々に建物の中から漏れてくる鈍い光は差しているが、やはり基本的には暗い。

 隠れ家的な居酒屋など、なさそうだ。ゴミ箱があるのだろう、残飯の臭いがした。野良猫にすれば、ここは立派な居酒屋通りなのかも知れない。

 サラリーマンは、そんな隘路を、勝手の知った道と言わんばかりに突き進む。

 見付かったら逃げる、見失ったら諦める、という条件を飲むならば付き合うと、自分の意思に反した意思に持ちかけ、僕は妥協した。


 どこまで行くのだろう。

 二十メートルほどの距離を保って、僕は闇の中に揺らめく男の影絵を追った。

 男が左に曲がったのを契機に、少し速度を上げようと足元を確かめたとき、微かな月明かりに照らされた、それを見付けた。

 眉を顰めてから、しゃがみこむ。

 清潔ではない地面に、違和感を覚えずにはいられないほど新しい紙切れが落ちていた。

 紙幣くらいの大きさで、菫色と萌葱色のチェック柄で埋め尽くされた表面には、箔押しされた金色の明朝体の文字。

「引換券……参加票」

 それ以外、名前や番号など、個人を特定するような記載もない。

 裏返してみると、こちらは一転して、白地に黒文字で地味だった。

 しかし僕は、全身を包む暑気も忘れるほどの興味深い文句を、そこに見付けた。

「プレイ、オールド、メイド……賞金七億円への招待状」

 それと共に、日時と集合場所が記されている。

 ゾワリと、鳥肌が皮膚の内側に立つような感覚がした。

 それと言うのも、僕は今、その指定場所と、指定時間の、限りなく近い位置にいるのだった。

 悪戯にしては、よく出来ている。

 改めて表を向けようと手首を捻った、そのときだった。

「くそっ!」

 路地の少し奥、さっき男が左に曲がった辺りで、バタバタとこちらへ駆けて来る音がした。僕は慌てて路地を引き返し、繁華街の疎らな人ごみに紛れた。最近ではジャージ姿でも違和感はなく、目立つことはない。

 挙動不審と判断されるギリギリの動作で、同じ場所を往復しながら、暫く様子を窺った。

 発射されるが如く、路地から飛び出してきた男は、勢い余って道路際の歩道まで出てきた。僅かな明かりに晒された男は、ブルーグレーのスーツに白いシャツ、クールビズなのかネクタイはしていない。そこまでは、夜の町に似つかわしくない爽やかな印象だったが、ハンチングを目深に被って表情を隠している、ただそれだけが、すべてを帳消しにしてしまうくらい怪しかった。

 さっき、不審な素振りで路地へ消えていった、あのサラリーマンに間違いなかった。

 このチケットにGPS機能が搭載されていたらどうしようかと、そんなくだらないことを考えながら、恥じを捨てて地面に這い蹲る滑稽な男を見ていた。

 と同時に――。

 これはもしかすると、という期待が僕を震えさせる。

 七億円の落し物。

「くそっ!」

 それの、本来の持ち主が再び怒声を上げた。

「誰か知らないか! オレのチケット! 大事なモノ……オレの人生が懸かってるんだ! どうしても参加しなきゃいけないんだ! 返してくれ! 金が欲しいなら買い取ってやってもいい! 言い値で買い取ってやる! だから頼む! 頼む……」

 先を急がない人間の一部が、酔いが醒めるほどに驚いて、叫ぶサラリーマンに注目する。男は、少し落ち着きを取り戻したのか、その好奇の眼差しから逃れるように、また路地の奥へと駆け戻って行った。

 僕はチケットを改めながら思った。男は、ここに記載されている集合場所へ行ったのではないだろうか。紛失したことを告げ、しかし自分は権利者だということを猛烈に訴える積もりなのかも知れない。

 そして、その訴えが弾かれたとき、権利者はまさに、この僕へと移る。

 もう、今更あの男にこれは返せない。

 さあ、どうする?

 僕の意思に反した意思が、ニヤニヤしながら訊ねてきた。

 分かってるクセに。どこまでも性格が悪い。


 集合時間の午前二時まで、あと四十分ある。五分もあれば到着できる場所にいるから、もう少し待つことにした。

 十分が経過したとき、あの男が路地から肩を落として現れた。帽子が歪んでいる。背中に巨大な悪霊を背負い込んだかのような沈みようで、足取りも深い泥濘を歩いているみたいに重い。

 さすがに少し気の毒なことをしたかと、僕は苦笑した。

 七億円を失った男は五分足らずで、平坦な人生に続く夜道へと消えていった。

 僕はチケットを片手に握り締め、男の代わりに平坦ではない路地へと戻った。


 さっき、男が踵を返してきてUターンせざるを得なかった地点まで戻って来ると、僕はもう一度チケットを見て、それからT字路を左折した。相変わらず怪しげな闇が続いている。自然に還らない類のゴミが散乱している。それら一つ一つに、なぜか悪意を感じた。人間たちの欲望と邪心なのだと、僕は思った。ゴミに罪はない。

 五十メートルほど歩く。チケットの地図が示す集合場所が正しければ、僕は、そこにいる筈だった。辺りを見渡すが、両側に雑居ビルの外壁が立っているだけだった。

 迷い込んできた風が通り抜け、熱気に包まれた身体を少しだけ冷ましてくれる。一度、眼鏡を取って目を擦ってから、ぼやけた網膜でケータイの時計を見た。あと九分。

 集合場所がない。

 やはり、このチケットは嘘なのだろうか。

 それとも、七億円の権利者として、試されているのだろうか。

 そんな疑問や疑念や疑惑に光を当て、一掃してくれたのは、眼鏡を掛け直してから何気なく闇夜に向けたケータイのバックライトだった。

 闇を塗られた壁の一角に、異質な黒色があった。

 照らすと、拭き残した返り血のような錆びが目立つ鉄板だった。そして、僕の胸の辺りに、艶を失ったドアノブが飛び出ていた。

 僕は、恐々とノブを掴んで回してみる。錆び鉄が噛んでいるのか、少しざらついた抵抗はあったが、簡単に開いた。

 一層濃い闇が広がっている屋内から、冷やされた空気が流れ出てくる。暑気は退散し、僕の体を覆っていた汗の薄膜は剥がれ落ちていった。

 少し手前の足元に目を落とすと、両側に赤い光が浮かび、下りの階段を照らしている。夜間飛行を終えた旅客機を、滑走路へ導くランプのようだったが、ここはロマンチックな夜の空港ではない。路地裏なのだ。そんな所にあると考えると、やはり不気味だった。

 スニーカーの靴音を聞きながら慎重に下りていく。段差がなくなると、広い空間に降り立った。赤いライトは、斜め下方向から直進へ進路を変えて、引き続き僕を誘導する。隅々まで行き届くほどの光量はない。

 ただ、終点にある二つだけが比較的強い光線を発していて、突き当たりの壁にドアがあることを教えてくれた。

 ちょうど目の高さに、招待状と同じチェック柄のステッカーが貼られている。


 《PLAY OLD MAID》


 チケットにあったキーワードだ。

 中学校で習う単語ばかりだと思うだけで、正しい意味は分からない。プレイという単語の意味から推測しても、ゲームかスポーツか、と漠然とした想像しか浮かばない。それでも僕は、目的地のドアを開けようとしていた。


『チケットをお持ちですか』

 突然、一寸先の闇から抑揚のない声が聞こえてきて、僕は小さなLEDライトで照らされた。肉声ではなく、テープか何かに録音された声のようだった。

 油断していた僕は、肩を跳ね上げて凍りついた。どうやら、光の届かない隅で待機していたらしい。

 二回目を訊かれる前に、僕は慌ててポケットからチケットを取り出し、LEDライトを持つ影の手に渡した。緊張して、右の男ばかりに注意を払っていたが、いつの間にか、僕の左側にも大きな男が立っていた。

 チェックは長かった。

 やはり、盗品は無効ということか。

 大男二人に両腕を持たれ、ここで敢え無く退場……。

『確認しました。どうぞ』

「えっ?」

 僕は思わず声を上げてしまった。訝ったのか、黒い影の首から上が斜めに傾く。

「いえ……なにも」

 僕は平静を装って、小さく頭を振った。

 二人の気配は、再び空間の両端へとフェードアウトしていった。

 一度、深呼吸をして、肺いっぱいに冷気を送り込む。そして僕は、改めて決心を固め、ドアを開けた。


 果たしてそこは――唖然としてしまうほど普通の空間だった。

 白の長机に二脚のパイプ椅子のセットが四組あり、それらと対峙して、鮮明な木目がワザとらしいが、無性に懐かしい教卓が置かれている。学習塾か、中小企業の研修室のようだった。

 そして、僕に向けられた、六つの眼。

 二人の男と、一人の女が、既に座っていた。

 六つの眼が、歓迎していない眼光を僕に飛ばしつけたのは一瞬だけで、すぐに逸らされた。それでも僕は、しばらく三人を順に見続けた。

 三人とも、僕とは違って、外出を前提とした私服を着ている。

 四十代と思しき男は、不摂生で肥大化した体にワンポイントのブルーのTシャツを着ており、下はケミカルウォッシュのジーンズだった。小判のような輪郭で、頭髪は既に寂しくなっているが、一応は整えられている。垂れた眦は優しそうな印象だが、優しさを罠に人を欺くペテン師のようにも見えた。

 僕と同い年くらいと思われるもう一人の男は、スラリとした細身に白いスーツを着こなしている。昼間は寝て、夜中に働いていそうな風貌だ。不潔感が出るギリギリ手前まで伸ばした髪をしっかりと撫で上げている。

 紅一点の女は、黒のワンピースにクリーム色のシフォンボレロを羽織り、パーティにでも出かけるような格好だったが、装飾品は何も付けていなかった。それ以上では派手で、それ以下なら地味になるであろうロングヘアがとても似合っていた。

 そこに現れた、ジャージにトレーナー姿の僕は、完全に浮いていた。

 女が、もう一度僕に視線を送ってくる。そんな所に立っていても仕方ないわよ、と見縊るような呆れ顔をしていた。

 取り敢えず、近くのパイプ椅子に腰を下ろした。それからも頻りに、中年男とホスト風の男が、僕に何か訴えたげな視線を送ってきていることには気付いていたが、僕は僕で、飛び込んでしまったこの状況の情報を得る手立てはないものかと思案していて、構っている暇はなかった。

 あらゆる疑問が、頭の中で行列を作る。


 まず、七億円のこと。

 それは、ここに集まった四人それぞれに与えられるのか?

 だとすると、総額で二十八億円となるが。

 違う――それは、とんでもない勘違いだ。

 ポケットからチケットを出し、文面を改めて見て、唇を軽く噛んだ。

 僕は、都合のいいように、肝心な単語を抜いて考えてしまっていた。

 ただの七億円ではない。賞金七億円なのだ。

 意味するところは当然、何らかの「賞」を取らなければ七億円にはありつけないということ。となると、ここにいる三人が賞金を巡って争う相手たちだ。それならば、先ほど僕が入ってきたときの鋭い眼差しも納得できる。

 賞は何で争われるのか。それも恐らく、このチケットにある、オールド・メイドなるものだ。僕にはその単語の和訳が分からなかった。特殊な感じもするが、意外と一般的なもののような気もする。この辺りの情報は、僕以外の三人は既に知っているのだろう。申し込むにあたって、ある程度は与えられている筈だ。与えられていなくとも、各人で調べる猶予もある。つまり、僕は出だしからハンデを背負っている状態だ。人のものを奪って参加したのだから、ハンデが云々と主張できる立場ではないのだけれど、やはり不服だ。


 次の疑問は、奨学金でもないのに、一般人に対して、そんな大金を提供する主催者とはどんな人物、あるいは組織なのだろうか。

 正体が、資産家や企業ともなれば、それなりに知名度のある存在に違いない。こんな路地裏を集合場所にして、コソコソと活動しているところを考えると、広告宣伝活動の一環でもなさそうだ。

 様々な疑問に押されて、焦燥感が、胸の奥からズブズブと浮かび上がってくる。

 もっと考える時間が欲しかったが、無常にも時刻が午前二時になった。


 僕がさっき入ってきたドアから二人、さらに、そのドアの対面にあたる左側にも同様の黒い扉があり、そこからは一人が、部屋に入ってきた。

 三人は、同じ衣装に身を包んでいた。

 ニット帽を目深に被り、鼻から下はバンダナで覆い隠している。上は厚手の明細柄ジャンパーで、下はごわごわの黒いナイロンパンツ。およそ夏のスタイルとは到底思えない。体格も、選考基準があるとしか思えないほど似通った背格好だった。顔を覆っているバンダナが、それぞれ黒、赤、緑だったので、それで区別するしかなさそうだ。不気味さよりも、凶暴な威圧感が勝っていた。多くの人間に尋ねてみたら、七割くらいは銀行強盗と表現するだろう。

 そんな暴力的な印象を決定付けているものが、彼らの腰元に下がっていた。

 重量感のある、黒革のホルスター。

 僕は、その中に眠っているものを想像しようとして、すぐにやめた。


 まだ、何も起きていない。

 しかし、これはもう普通ではない。

 少しずつ、日常から離れようとしている。


 バンダナ人間たちは素早く分散して持ち場につく。左側の扉から一人で現れた黒バンダナが、携えてきた迷彩のボストンバッグを教卓の脇に置くと、中から小さな音楽プレーヤーを取り出した。縦長の白いボディで、上半分が液晶画面、下半分に銀色のホイールがある、かなり旧式のものだ。

 赤と緑のバンダナの二人は、左右のドアの前でそれぞれ番兵の如く立ち塞がって、脱走阻止を図っている様子だった。

 七人になった部屋は、若干空気が薄くなったのか、息苦しさを感じる。

 自分の心音の速さが尋常ではないことを知る。

 いつしか頭上では、ジジジ、カン、ジジジ、カンという小さな音が不規則に聞こえてきた。

 教卓の前に立った黒バンダナが右手に持ったプレーヤーを突き出す。

 注目が集まると、ディスプレイが緑色に光り、音符のマークが映し出された。


『……諸君……』

 やがて、チケットを確認された時と同じ声が聞こえてきた。

 音声は、小さな間を置いてから続けた。

『今回、集まってくれた四名に、まずは感謝しよう。そして、その感謝の印として……先に予告した通り、君たちには七億円を獲得する権利を与えよう』

 そこでまた声は途切れ、黒バンダナがホイールを指で回す。

『ただし、権利を得たからには、諸君にも、義務というものが発生する。これは、世の中の常識だ』

 義務。

 僕は、ずれてきた眼鏡を持ち上げ、息を飲んだ。離れた席では、スーツの男が舌打ちを繰り返していた。

『高額賞金が懸かっているゲームという性質上、我々の身分を明かすことは好ましくないと考え、このような手段を用いている。そこにいる三人は、我々に代わってゲームに参加し、進行してくれる者たち。我々は、コンダクターと呼んでいる。彼らの素性は、諸君たちに秘密であるどころか、コンダクター同士も、最小限の情報以外、互いのことは何一つ知らない』

 徹底している。これこそ、ゲームが冗談ではない、ひいては賞金七億円も嘘ではない証拠だ。

 ――と、そんな何気ない言葉の中に、何気ない単語。

 ゲーム。

 そのゲームの名こそ、「オールド・メイド」なのだ。

 僕の中で、プレイとゲームが強く結びついた。

 しかし、機械音声は、核心ではない予備知識を、なおも語る。

『これからゲーム終了までの一切を仕切ってくれる、コンダクター三人は、極秘にこの任務を命ぜられた、死刑囚という身分の者たちだ。とは言え、案ずることはない。彼らは非常に模範的な者たちである。ルールを無視して参加者である諸君に危害を加えるような行為は一切取らない、と我々が保証する。どうか安心して、ゲームに集中して欲しい』

 いくら口で安心、安全を強調されても、この場所では所詮、シャボン玉のようなもので、すぐに弾け飛んでしまう。僕の、その感覚に間違いはなさそうで、他の三人も怪訝な表情を崩さなかった。誰も信用していない。当然である。信じろと強いてくる方に無理があるのだから。

 それなのに、どうして誰も席を立たないのだろう。

 僕も、何故こんな馬鹿げた空間を去ろうとしないのだろう。

 理由は明白だ。

 全身を、欲望という錘が圧倒的な重量によって押さえつけているのだ。

 そして……。

『彼らに関して、もうひとつ伝えておかなければならない。それは、今もそうであるように、彼らの声は、この音楽プレーヤー以外にない。つまり、彼らは自らの口で話すことは一切なく、自由な会話は許されていない。これは、主催者側である我々の意思に反する独断専行を防止する為の策である。円滑に進行させる為と、ご了承いただきたい』

 そんな人間までをも起用する力があるという、既知の恐怖。

 そんな身分の人間を起用しなければならない理由があるという、未知の恐怖。

 僕は、無意識のうちに腰に下がるホルスターを凝視していた。

 あのホルスターに収まっているものが、理由の答えであるような気がする。

 主催者を名乗る音楽プレーヤーの声は、参加者が不安になることも想定済みであるかのように、淡々と先を進める。

『さて……コンダクターについては、これくらいにしておいて、肝心のゲーム内容に移る』

 僕は、汗だらけの手を組み直して、身を乗り出す。

『これは至って簡単である。諸君には一日をかけて、ババぬきを行ってもらう』

 ババぬき……オールド・メイドとは、あのトランプのババぬきのことだったのか?

 たったそれだけで七億円が入ってくるとは、やはり俄かには信じがたい。

 僕が不信感を抱いていると、黒バンダナはプレーヤーを置き、足下のバッグを探りだした。他の三人は冷静を保っているが、僕は更に身を乗り出す。

『ババぬきをして、一試合に一人ずつ負けていく。そして、最後まで勝ち残った者が賞金七億円を得る、というゲームだ。詳しい説明は、現地にて行うこととする』

 教卓の上のプレーヤーが続けている間に、黒バンダナは、取り出してきた紙切れを参加者たちに掲示する。

 それは、小切手だった。

 額面には、「¥700,000,000-」と印字されている。振出人の部分は、男が手で絶妙に隠していた。

 どよめきが沸き立っても良さそうな場面だったが、僕を含め、全員が冷静な態度を保っていた。


『では――いま一度、諸君の意思を確認する』

 声がそこで途切れると、黒バンダナは再びしゃがみ込み、小切手を仕舞うと、今度はバッグから巾着袋を四つ取り出し、僕たちに配って回った。

 教壇に戻った黒バンダナは、音楽プレーヤーの画面に視線を落とし、操作を再開した。再び右手が突き出される。

『参加を希望する者は、その袋に所持品を全て入れ、ドアの前にいるコンダクターからボディチェックを受けること。参加を希望しない者は……残念だが、速やかに直ちに去ること。準備時間は、五分だ』

 かなり無感情な声が役割を終えると、黒バンダナはプレーヤーを持った手を下げた。

 ――これだけで、決めるのか?

 僕は、机に置かれた巾着袋を見つめながら逡巡した。

 所持品は携帯電話だけ。これを放り込むだけで、また七億円に一歩近付く。

 だが、その一歩から先の距離がまるで掴めない。

 参加者側としてみれば、まったくもって納得するに至らない説明しかなされていないのである。

 ババぬきと聞けば安心する響きだが、想像以上に危ないゲームの可能性が高い。

 僕の目が、布袋から再びコンダクターの腰元に移る。威嚇用の飾りではないとすれば、生命を奪うことも難しくない武器だ。

 本当は、何をやらされるのだ……?


「ま、待ってくれ! わけが分からない!」

 スーツ姿の若者が、椅子を倒しそうな勢いで立ち上がる。それから参加候補者の顔を見渡してから、誰にともなく訴える。

「おかしいだろう! こんな状況! 納得できるか?」

 納得出来ない――僕も大いに賛同したかったが、首肯することすらままならなかった。

 ワンピースの女は、繰り返し小刻みに頷きながら、左手の指を一本ずつ触れている。薬指にはシルバーの指輪が輝いていた。

 眺めている僕の視線を感じたのか、怜悧そうな細い目がこちらを向く。すらりと高い鼻、口は真一文字に結んで、無表情だった。

「確かに、何がどうなっているのか、ワシもさっぱり理解できん」

 僕の代わりに同意したのは、Tシャツの中年男だった。髪がまだ残っている側頭部を掻いてから、頭を抱え込む。その腕の隙間から、こもった声で、「そうだ、行かなくてもいいんだ……行かなくても。と言うか、行けな――」と聞こえてきた。

 僕も、帰ろうという決断に傾きかけたとき、後ろで椅子を引く音がした。

 振り向く間もなく、僕の横をコツコツと足音を立てて、黒いワンピースの女が教卓へと歩いていく。その足取りに、寸分の躊躇もなかった。

 女は、左のドアへと向かった。両手で包み込むように持った黒い袋は膨らんでいた。

 黒バンダナが、プレーヤーを再生する。

『参加希望者は左側のドアへ。お帰りは、右側のドアだ。願わくは、全員が左の――希望の扉へ進むことを願っている!』

 それを聞いて女は、希望の扉ね――と、聞こえよがしに嘲笑してから、左のドアを守る赤バンダナに袋を渡しながら彼女は訊ねた。

「このまま、参加者が私だけだったら、どうなるのかしら?」

 赤バンダナは応じず、代わりに黒バンダナの手許のプレーヤーが答えた。

『人数の不足分は、コンダクターがゲームに加わる』

「そう。ありがとう」

 女は、黒バンダナのボディチェックも嫌がることなく通過すると、開かれたドアの前で、情けない男三人に振り返った。口元に笑みを浮かべ、視線は僕たちではなく中空を漂っている。そのまま目を合わせることなく、彼女は僕らに呆れた声をかけた。

「とっとと来なさい。女の子が、こんなに頑張ってるのに」

 そして、華麗に踵を返すと、扉の向こうに消えた。

 しばし唖然とする男三人。

 あの決断力は、勝算があっての即断なのか。あるいは、もともと恐怖心という神経が通っていないのか。

 そんな他人の行動を悠長に見送っている時間は、もうなかった。

 僕は――そう、行かなくてもいいのだ。

 強制的に参加させられるホラーサスペンス映画とは違い、断ってもいいのであれば、行くべきではない。人生を面白くする方法なんて、他にいくらだってある。

 だから――。


 ――だから駄目なんだ。いつまでたっても。


 耳の裏側に、疎らに焼ける感覚が走り、僕は苦痛に顔を歪めた。挑発的な台詞を押し付けてきたのは、体の中心を乗っ取ることに成功した、欲望だった。

 ――凡人以下の、つまらない人生に戻って何になる?

 低音の耳鳴りがして、軽くめまいがした。

 欲望の説得は尤もだった。

 それに、チケットを落として権利を失った男にも申し訳が立たない。

『残り時間は二分! さあ、何を迷っている!』

 音楽プレーヤーの声が一際大きく叫ぶ。迷う人間を鼓舞するには充分な檄だった。

 僕は、ポケットの中の携帯電話を袋に落とすと、左の――希望のドアへと向かった。

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