もうひとつの、プロローグ

 人生は、面白い――。

 

 例えるならば、人生とは、死の海に浮かぶ無数の島を、次から次へと渡り歩いて、ゆりかごから墓場まで進んでいく、すごろくゲームみたいなものである。

 島と島をつないでいるのは、吊り橋であり、これには二種類の性質のものがある。

 ひとつは、無風状態の中、丈夫な手摺りが付いている吊り橋。

 もうひとつは、微かな風にも揺れる、手摺りもなく、幅の狭い吊り橋。

 どちらも、同じ次の島に渡れるのだとしたら、どちらを選ぶだろうか?

 皆、迷わないと思う。

 私も、迷わない。

 迷わず――手摺りのない、不安定な吊り橋を選ぶ。

 バランスを崩して海へ落ちれば、命の保障はどこにもない。

 それなのに、私はどうして危険な方を選ぶのか。

 確かに、手摺りが付いた吊り橋は安全で、命の危険はなさそうに見える。

 しかし、本当にそうだろうか?

 この吊り橋には、いま来た人たちより前にも、多くの人間が渡っている筈なのだ。それも、できるだけ恐怖心を和らげるために、みんなで行列を作って。

 私は思う。

 それだけ酷使された吊り橋には、外見からは把握することが困難な痛みや老朽化が、相当に進行しているのではないか、と。

 そこまで脆弱になった吊り橋に、これから先、再び群れを成して渡ろうとしたら、無事に渡れる保障など、もはやない。

 だから私は、危なっかしくても、根本的な強度が確からしい吊り橋を選ぶのだ。

 安全な橋の上から、都会を舐めた愚か者を物珍しそうに眺める、多くの目。

 私はバランスを取りながら前だけを見据え、一歩一歩進む。何度も風に体を揺らされながら。

 その度に、向こう側の橋の上がざわめく。

 まるで、ハリウッド映画を観ているときのようなざわめき。

 しかし、そのざわめきが、あるとき悲鳴に変わる。

 それは、支柱が重みに耐え兼ねて折れた瞬間だ。

 安全を確信していた人間たちは、怒りも恐怖も悲しみも発散しきれないまま、橋桁と共に死の海の藻屑と沈んでいくのである。

 私は、彼らを一瞥すらしない。そうなることが分かっていたから、何も不思議ではないし、それよりも自分が前へ進むことに夢中なのだ。

 橋を無事に渡り終え、存在する命が自分だけであることを認識してから、私は嘲り笑う。

 あなたたちの負けね――と。


 生死を分けたものは、一体何なのか。

 彼らは安全を選んだから死んだのではない。私は危険を選んだから生き残ったのではない。

 思うに、私は、橋よりも自分自身を信じたのだ。

 彼らは、自分自身よりも橋を信じた。

 その違いである。

 過去にも、同様の場面に幾度となく遭遇して、いつも同じ結末を見届けてきた。

 その度に、どうしてこうも自分を信じず、他人を信じる人間が多いのだろうと辟易する。

 他人に頼る人間が多いから、騙す人間も増える。

 そうやって罠にかかった数多の人間が、安全だと謳われた吊り橋から命を落としていくのだ。

 見えない海の底は、嘘と裏切りと悪意が堆積し、そこから放たれる刺激的なニオイが、また人間を誘惑する。恰も、猫がマタタビに引き寄せられるように。

 私もまた、刺激的なニオイに人生の面白さを感じる。嗅覚が察知すると、胸が踊るのだった。


 私は今、またそのニオイを嗅ぎつけていた。

 きっかけは、ここ数ヶ月前からインターネット上の巨大掲示板で騒がれ始めたウワサだった。

 様々な書き込みは、厖大な手掛かりがあるように錯覚しそうになるが、真実以上にデマや妄想が多い。

 私の経験上、不特定多数の人間が共有するウワサの出所を突き止めることは不可能に近い。真贋の取捨選択は絶望的に思われた。

 努力によって得られるとすれば、それは大枠を掴むことくらいか――そう思い始めると、私は全精神を注ぎ込み、集中力を働かせた。

 二十歳までは筋金入りのアウトドア派で、ネットの世界など全く興味がなかったのに、六年が過ぎた今は、すっかりネット住人の仲間入りを果たしてしまった。年下だけれど、その愛する人の影響力の大きさを感じずにはいられない変化だった。

 日中はアルバイトで忙しい日々を送りながら、寸暇を惜しんで情報を集めた。

 そして、一週間ほどで情報は飽和状態に達した。

 大層なものが出来上がるかと思いきや、まとめてみれば呆気ないほどにシンプルな大枠が浮かび上がってきたのだった。

 その中身とは――。

 某巨大企業が、裏社会でありがちなギャンブルサイトを運営しており、法外な金額と、悪い利益が動いているらしい。

 実際に一晩で数億もの大金を稼いだ者が掲示板に長々と自慢話を放流しているが、違法な体験談を自己申告できること自体、信憑性に欠ける。

 さて、某巨大企業は一体、どんなギャンブルを運営しているのか?

 この点に限っては、不思議なことに、どこの情報を読んでも百パーセント合致しているのだった。


 それは、ババぬきだという。


 あの、トランプのババぬきである。

 最初にその単語が出たとき、私は笑った。二度目に出てきたときも、笑った。その後も何度か出会って、十回目のとき、私は鼻で笑った。

 私は、興醒めしていく感覚に襲われた。

 種目名だけで信憑性を低下させてしまうのは早計だが、ルールがあのままのババぬきだとすると、果たしてこれがギャンブルとして面白いのだろうか、という疑問が浮かぶ。

 長い上に、きっと、つまらない。

 本当に重いギャンブルとは、もっと簡潔でスピード感のあるものだと、私は思った。

 この時点で、信じる気持ちよりも、誰かの作ったフィクションだと決め付ける心の方が勝ってしまっていた。

 これは、ありえない話。いわゆる都市伝説だ。

 画面を覗き込みながら呟く。

「残念」

 私はフフフ、と声に出して笑った。

 それで、終わりの筈だった。

 三分に一回のペースでババヌキのウワサを思い出しながらネットサーフィンをしていると、検索では辿り着けそうにないディープな階層へと踏み込んでいた。

 アンダーグラウンドは、ある意味正直な人間が集まっている場所だ。掲示板も然りで、危険だろうが違法だろうが、嘘偽りのない要求が書き込まれているのだ。

 そんな中に、例のウワサにまつわる書き込みを見付けた。

 ツリー状のレスポンスの三十件目に記載された、ひとつのURLを迷わずクリックする。

 セキュリティ保証の南京錠マークが表示されたページに飛ぶと、フラッシュで製作された動画が読み込まれた。

 縦に四枚、横に十三枚、合計五十二枚の、タータンチェック柄のトランプが隙間なく並んでいる。それらがランダムに回転を始め、表が見えたときに偶然、同じ数字のカードがあれば、溶けるように消えていく。その演出が、カードがなくなるまで続いた。

 そして、カードの向こう側から最後に現れたのは、悪意に満ちた笑みを浮かべるジョーカーだった。鷲鼻で、とんがり帽子と黒衣を纏ったスタンダードな魔女。

 手には杖が持たれていて、彼女は徐にそれをクルクルと回してから振り上げた。

 虹色の粉が真っ黒な背景に舞い散ると、それが徐々に形を作り上げ、英語の文節となって現れた。


〝PLAY OLD MAID!〟


 オールド・メイド――日本語で、ババぬき。

 私が、その文字に見入っている間に、《ENTRY》と書かれたボタンも表示されていた。

「じょう……」

 無意識のうちに、声が洩れる。

 もう、鼻で笑えなかった。

 笑わない鼻は、あのニオイを嗅ぎ付けていた。

 身を乗り出すようにして、また画面を覗き込む。

「冗談じゃ、なかったんだ」

 私は、鼻が笑わなかった分、口で笑った。

 疑った償い――そんなつもりではなかったけれど、私は黙って《ENTRY》をクリックした。

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