OLD MAID〜今夜は、みんなでババヌキを〜
しんすけ〜
プロローグ
――面白い人生って、何だ?
どんな事件が起きようと、それは一つの人生。
そして、何も起こらない人生もまた、一つの人生。
《三十歳》と記された標識が立った地点から、今まで歩いてきた道を振り返ってみても、そこには、登山客やマラソンランナーはおろか、普通の人間でも飽き飽きするであろう、平坦で、石ころ一つ落ちていない道が一直線に延びているだけだった。
《四十歳》の標識はまだ遠く、ここからは見えない。けれど、そこまでの道がどうなっているのかだけは容易に想像できた。そして、それはまず間違っていない。
燦々とした光を浴びることもないし、暗澹たる日陰に隠れることもない。
心臓を破るような急勾配の坂もなければ、足をとられて、吸い込まれそうな勢いで転げ落ちていく奈落もない。
白い画用紙に定規で引いたような直線の道が、あるだけだ。
一歩先にあるものと同じ色、同じ形、同じ幅の道が、死という通行止めの標識が立つ所まで続いているのだろう。
人生は、永遠にUターン禁止だ。
だから、人間は必ず「あの頃に戻りたい」と後悔を口にする。それを肴に酒を飲んだりして、今という時間を過ごす。
僕には、「過去に戻りたい」という気持ちが分からなかった。
なぜなら、僕の道は、Uターンしたところで、どの地点も同じ景色だからだ。
人は、こういうのを「つまらない人生」と呼ぶのだろう。
そう、つまらない男なのだ。僕は。
そして何もないまま、平凡以下で、僕は死んでいく。
ダメだ。そんなことではいけない、このままでは駄目だ、駄目なんだ……。
時々、何の前触れもなくスイッチが入る。
オンになった瞬間、自分の意思では抑止出来ないほどの焦りと、苛立ちと、恐怖が、痛みのない責め苦で蹂躙する。
そいつに僕は、緩慢な寝返りで抗うしかなかった。
いつの間に狂ってしまったのだろう。
何処で見失ったのだろう。
何を間違えたのだろう。
いや、どれもおかしくないのだ。
おかしくない道を徹底して歩いてきたのだから。
だから――おかしくなったのだ。
欲がないから物足りないという不自由も感じない。過食も拒食もしないから至って健康体。人とは極力接しないから人間関係で悩みを抱えていることもない。
総じて、自分を不幸だとも思わない。
それでいい筈なのに。
みんな、こういう人生を求めているのではないのか。
こういう、つまらない人生を。
……そんなことを延々と頭の中で反芻する、不安定な夜が続いていた。
最近、その周期がとみに短くなっている。
すると、奴が目を覚ますのだ。
シュルシュルと衣擦れのような音をたてながら、二股に分かれた細い舌を小馬鹿にするようにチロチロと出す、漆黒の蛇。
そして、冷たい目をした奴は、いつも同じ文句を垂れる。
〈つまらない人生だな……〉
割れた舌が器用に唇の代役を果たして僕を挑発する。耳の下まで切れ込んだ口が、嘲り笑っているみたいだった。
蛇の感想に、僕は苛立ちを覚える。
放っておいてくれ。僕はこれでいいのだ。僕が決めた人生なのだから。
自分の人生を擁護すべく、僕は決まって、肯定の刀を振りかぶり、餌を頬張っている背後から斬ろうとするのだ。現れる度に、今夜こそ、今夜こそは、と殺意を燃やして。
しかし毎回、蛇に隙はなく、逆に隙だらけになっている僕の懐めがけて、矢の如く飛んできては逆襲に遭うのだった。
手から刀が抜け落ち、地面に接した瞬間、薄いガラスのように脆く砕け散った。
それでも一矢報いたく、素手で蛇の胴体に掴みかかるが、表面は爬虫類特有のぬめり気で覆われていて、力を加えることが出来ない。
モタモタしているうちに、蛇は僕の胴体に巻き付いて、じわりじわりと力を込めていった。
蛇は、僕の耳元まで首を伸ばす。そして囁く。
〈つまらない人生だな……〉
そこで僕は激しく寝返りを打って――目を開けた。
汗で背中が冷たい。ねっとりと不愉快な熱気は、夏という季節の所為なのか、それとも……。
知らないうちに眠っていたようだ。夢にしてはやけに生々しい感触。蛇に纏わり付かれて、締め付けられた圧迫感が上半身に残っている。最後の一撃を受けた際の痛みもひいていない。
今までなかった、外側のダメージ。
非科学的だけれど、夢の中から脱走して現実世界に逃げ出したのではないか、とつい考えてしまう。
僕は、蛍光灯の紐を二回引っ張って、光を求めた。
低い天井と薄汚れた壁、破った記憶もないのに破れかかっている押入れの襖、埃だらけのテレビと書棚、少しの揺れでバガバガと喚くガラス戸、その向こう側の錆びたキッチン……それらが、まったく救いにもならない明るさの中、一斉に浮かび上がる。
蛇は、何処にもいなかった。
枕元に積み重ねた本の上のメガネをつまみ上げた。布団から抜け出す。
しばらく、じっと膝を抱えて警戒していた。
本を読もう、テレビを見よう、音楽を……。
パニックに陥っている自我が、様々なものを求めてくる。
その中で唯一賛同したのが、喉の渇きだった。
僕は洗濯物が犇めき合っている籠の上で寝転がっていたペットボトルを取り、水を体内へ一気に流し込んだ。それからも尚、僕の中の僕は、色々と要求を突きつけてくるが、そのどれよりも強く訴えかけてきたものがあった。
――ここにいてはいけない。
平坦な道は今、大きく揺れて地割れを起こそうとしている。
やがて亀裂が大きく口を開けて、僕を飲み込んでしまうだろう。回転した、《三十歳》の標識の裏から、通行止めのサインが現れるかも知れない。
だから――とにかく避難しなければ。
僕は、寝る時のジャージ姿のまま、携帯電話だけを掴み、突き飛ばされるように自宅を出た。
そして行く当てもなく、その身を熱帯夜の町へ避難させたのだった。
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