六章 姫の決断 2
鳥の鋭い鳴き声が聞こえた気がして、かさねはおとがいを上げた。
火色をした夜明けの空を鳥影がすっと横切っていく。鷹のようだった。あたりをゆっくり旋回した鷹は、一声鳴くと、山の向こうに消えていった。
かさねの視線に気付いたイチが「どうした?」と尋ねる。
「いや、小鳥に無事に文は届いたかと思ってな」
「無事届いたとして、孔雀姫がおまえを謀って、兵たちを用意したうえで天都に招き入れる可能性もあるけどな」
「そなたは、姫のこととなると口が悪くなるのう」
「あの姫は、真面目なんだ」
夜のあいだ焚いていた火を消し、雨露をしのいでいた洞穴から抜け出る。
「真面目?」と聞き返したかさねの肩に留まって、イチがうなずいた。
「あの姫は、常に天都の理屈やただしさで、物事をはかっている。俺が昔、天都をめざしたときも、登山を阻もうとしただろ。あの姫は、性根はやさしいのかもしれないが、おまえとちがって、自分がすべきことやしなければならないことを先に考える。だから、信用はできない。天都のただしさとすり合わせて、そうでないと思ったら、たぶん手を貸さない」
「さりげなくかさねが好き放題しているような言い方をしてくれるが……」
ふむ、と数度話しただけの姫の姿を思い浮かべ、「そうかのう?」とかさねは首を捻った。
「孔雀姫はもっと意志の強い御仁だと思うぞ。だって、天都を追放された壱烏をずっと想っていたのであろ。理屈や正しさだけで、そういうことはできまい」
左手だけを使って草鞋を結び直し、かさねははずみをつけて立ち上がる。
昨晩のうちに燐圭の陣幕から出たイチとかさねは、こもの三山のふもとにある洞穴で一夜を明かした。燐圭の軍に先んじて、神器「鏡」がある天都をめざすつもりだ。
ただ、天都にはふつうの道を使っては入れない。
莵道をひらくか、あるいは神々の使う神道か、天の一族が持つ天道をひらいてもらうか。前ふたつは論外であるから、かさねとしては孔雀姫を頼るほかない。
天の一族である姫に対して、酷な申し出をしているのはわかる。
だが、それをのみこんででも、今は最短で天都にたどりつきたかった。
孔雀姫はきちんと己の意志を持っている姫だ。吟味したすえ、かさねたちに力を貸せないと思われたのならしかたない。あるかはわからないが、そのときは別の手を考えよう。
「でもあの姫は、最後はかさねたちに力を貸してくれる気がする」
「……おまえのその自信はどこからくるんだろうな」
イチは呆れた風に息をついた。
こもの三山と呼ばれる連峰に囲まれた細道を、イチをふところに入れて歩く。なだらかに続く道にかさねたちのほかに人はなく、きのうの夜遅くに雨も上がっていたため、これまでよりずっと歩きやすかった。
ハナたちに大きなにぎり飯を持たせてもらったことを思い出す。
どのあたりで休みを入れようかと考えていたかさねは、「おい」とイチが発した声で瞬きをした。かさねのふところから頭だけを出した雛鳥は、何かを探るように遠方を眇め見ている。
「なんじゃ、まさかまた山犬か?」
「いや、何か……あたりがおかしい」
「おかしい?」
「いきものの気配がしない。なぜだ」
もどかしげにイチがかさねの肩に這い上がる。さなか、前方でヒュッと風切音が打ち鳴り、かさねのすぐ横を閃光のように矢が走り抜けた。
襲撃者だと気付いたときはもう遅い。暗い木々のあいまから、武装した兵が次々現れて、かさねたちの行く手を阻む。どれも大地将軍麾下であることを示す朱の額当てをして、手には女子どもに向けるには物騒な槍や太刀を持っている。左右の樹上には、矢をつがえている兵も見えた。
「……いったいなんじゃ、これは」
進み出た兵のひとりに目を向け、かさねは息をついた。
「その容姿、天帝の花嫁とお見受けします」
「莵道かさねと呼べい。そなたらは燐圭の兵だな。何故、かさねの行く手をはばむ」
尊大に胸を張ってみせるが、背筋には冷たい汗が流れている。
前方だけでなく、左右も後方も、兵に回り込まれている。ここから無傷で逃れるのは、かさねには無理だ。仮に万全な状態のイチがいたとしても、難しいだろう。
じりじりとかさねに近づいた兵が低い声で言った。
「大地将軍の命です。我々とともにお越しいただきましょう」
「嫌じゃと言うたら?」
「将軍は腕や脚の一本や二本は断ち落としてもよいから、連れて来いと仰せでした」
「……ふん。相変わらずの男よの」
頬をゆがめて、かさねはイチに視線をやる。
ここは一度従ったほうがいいとイチの目も言っていた。
わかった、と顎を引き、かさねは肩にかけていた行李を下ろす。
「よいか、かさねはこれで莵道の末姫であるぞ。手荒な真似は……」
とくとくと言って聞かせているうちに、後ろに回り込んだ兵に腕をつかみとられた。容赦のない力に呻いたものの、手加減をしてくれる気配はない。数十の兵に周りを固められながら、半ば引きずられるようにして道をくだる。
燐圭は少し離れた平地に小規模の陣幕を張っていた。近づくにつれ、大地女神の発するまがまがしい気が立ちのぼり、かさねは顔をしかめる。
「燐圭さま。花嫁御寮をお連れしました」
先導する兵が陣幕のうちにうかがいを立て、かさねを中に通した。
朝にもかかわらず、松明が焚かれた陣幕には、床几が一脚置かれている。そこに真紅の甲冑を身に着け、太刀を携えた大地将軍が腰掛けていた。男そのものが昏い瘴気に覆われている気がして、かさねは目を眇める。
かさねに目を合わせた燐圭が咽喉を鳴らした。
「天帝の花嫁もまた天都をめざしているらしいと聞いてな。少し兵を回した。あっさり見つかったあたり、捕えやすい獲物だったな」
瘴気が凝って集まったものが、燐圭の握る太刀のようだった。
ひとの断末魔のような、獣の呻き声のような、いびつな声で、太刀が哭いている。大地女神の怨嗟が太刀そのものを包み、瘴気の塊と化してしまったかのようだ。もとの素材だった鉄は溶け、炎よりも重たく熱い瘴気に転じてしまっているにちがいない。
血の生臭さと腐臭が混じったにおいに、かさねはえづいた。ひどいにおいだ。
「……カムラだな。俺たちのことをおまえに伝えたのは」
かさねの肩に足をかけて、イチがつぶやいた。
「あいにくと、あやつは何も語っておらんよ。おまえたちのことも、わたしのことも。――陣幕にまぎれこんだそなたらをそのままにしておいたのはわたしだ。そなたらがどうする気なのか、知りたくてな」
イチの声が燐圭には聞こえているらしい。
おそらく大地女神の太刀がおよぼした力だろう。かさねはくるい芸座の面々に想いを馳せた。かさねたちを手引きしたせいで罰を受けていないとよいが……。
「ちなみに、芸座の者たちなら、きのう手厚く礼金を渡したうえで、見送ったぞ。すばらしい舞を奉納してくれた褒美に。――さて、話を続けようか、子うさぎさん。そなたらは天都にある『鏡』を探している。わたしは天都にいる天帝を探している。互いに目的地は一致していると思うが?」
「それで旅をともにするほどの仲でもないわ」
「そのとおりだ。わたしもそなたと並んで歩くつもりは毛頭ない」
燐圭が目配せを送ると、四方から槍の切っ先を向けられる。武器を持たないかさねには対抗のしようがなかった。イチが燐圭に冷ややかな眼差しを向ける。
「武器を下ろせ。この娘は何の抵抗もできない。あんたも知っているだろ」
「あぁ。ただし、それはわたしの求めに素直に応じたときの話だ」
「求め?」
「かさねどの。あなたには天帝をおびき寄せる餌になっていただく。わたしはこれからそなたをこの太刀で切り刻む。そなたが本当に花嫁なら、絶命する前に必ず天帝が現れ、そなたを救うはずだ」
瘴気のたちのぼる太刀を地につけ、燐圭は言い放った。
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