六章 姫の決断
六章 姫の決断 1
壱烏にまつわる記憶は思い返すと、ささいなものばかりだ。
出会ったばかりのまだ幼い顔つきの少年が、あねうえ、と舌たらずに呼んで追いかけてきたこと。ふたりでうす紅に色づいた大地を見に馬で駆けたこと。そこではじめて大地のうつくしさに見惚れたこと。己の前でくつろぎながら書を読む姿。茶を淹れてやったときにこぼれた、屈託のない笑みといったもの。
――あねうえ。
頬を上気させながら、孔雀姫の裾を引いた幼い壱烏。
――ともだちができたんです。はじめての。ぼくのはじめてのともだち。
とても大事な宝を明かすように、壱烏が囁く。
――イチっていうんです。いちばんめ、のイチ。
よい名でしょう、あねうえ。
壱烏が見つけた「宝もの」は、孔雀姫にとってはただの依り代に過ぎなかった。
だって、それは生きものではない。ひとでもない。
そのようには聞いていない。
ひとと同じかたちをしただけの、心なき、ただの依り代。
天の一族に降りかかる災厄を――病や老い、穢れといったものを肩代わりする。そのためだけに生まれ、役目を終えたら使い捨てられる。目にすること自体が忌みとされたし、まして言葉を交わすなどもってのほかだ。
眉根を寄せる孔雀姫には気付かず、壱烏は樹上のイチと何かを話している。イチは小さな雛鳥を手にのせて、巣に戻していた。落ちてしまった雛を拾ったのだろう。戻し終えた雛がか弱く鳴き始めると、親鳥が戻ってくる前に樹から小さな獣のように滑りおりる。
一度、目が合った。ひとのかたちをした依り代は、こちらの魂の深度をはかるような目の眇め方をして、やがてふいと視線を解く。そして二度と孔雀姫と目を合わせることはしなかった。
――ねえ、あねうえ。やさしい子でしょう?
孔雀姫はそうは思わない。
――イチはやさしい。とても心のやさしい子なんです。
あなたのほうがずっとやさしい。
ずっとずっと。いとしい方だった。
依り代などのために罪を犯して、死ぬ方ではなかったのに。
――あねうえにも、そのうちわかりますよ。
……わかりたくもない。
「風が出てきたな」
寝殿の外廊下に立った孔雀姫は、青い炎を灯した釣り燈篭のそばから澄んだ星空を仰ぐ。天帝が呼んだ暗雲は天都の高き嶺の下方を覆っていたが、このまほろばの宮には常に澄み渡った空が広がっている。
大地では、女神の怒りが山から炎となって噴き出し、田畑を灰に変え、ひとや獣を次々火の海に沈めているという。女神の怒りを宿した太刀を掲げ、大地将軍はこの天都をめざしている。天の一族の長は、大地将軍に天罰を与えるよう、天帝に奏上した。樹木老神に傷つけられた片腕を癒していた天帝は、これに是とうなずいたらしい。
「姫」
静かな呼び声に、孔雀姫は伏せがちだった目を上げる。
白銀の髪で左右にみずらを結った少年、小鳥だった。浅葱の水干に身を包んだ少年は軽やかに孔雀姫の足元に跪いて、これを、と筒に入った文を差し出す。
「文? 誰からじゃ」
「かさねさまです。斥候の鳥の一羽が咥えて戻ってきました」
意外な名前を聞いて、孔雀姫は瞑目する。
天帝の手から逃れたかさねはそのまま行方をくらませていた。どうやら樹木老神が手を差し伸べたようだという。天帝が樹木老神の神域を荒らしたあとも音沙汰がなかったため、もはやこのまま戻ってこないのでは、と孔雀姫は思い始めていたのだが。
筒から出した紙片をひらき、中に書かれていた文章を一読する。
かたわらにひざまずいた小鳥が「ほかの者には見せておりません」と囁く。孔雀姫はまじまじと小鳥を見返してしまった。己の務めに忠実である小鳥から出た言葉とは思えない。
「何が書かれていたのですか?」
「『イチ』を助けたい、天都にある『鏡』の神器を盗むゆえ、手引きをしてくれないかと」
「……相変わらず、とんでもないことを言いだす御方ですね」
ほんにな、と孔雀姫は紙片を燈火で燃やして苦笑する。
天の一族の長・天烏は、天帝とかさねの婚姻を望んでいる。この大地の異変も婚姻がつつがなく済めば、しずまると考えている。ゆえにこそ、かさねを探す鳥の斥候を放ち、大地将軍を排そうとしているのだ。
「もし、わたしが手引きしてやると騙して、そなたの爺らを待ち伏せさせていたら、どうするつもりなのだろうな、あの姫は」
「孔雀姫さま……」
小鳥は少しかなしそうに目を伏せる。
むしろそうせよと進言すると思っていた侍従のおもわぬ反応に、孔雀姫のほうが驚いてしまった。緑嶺までの短い道のりで、この半化生の心すらもあの姫はつかんでしまったのだろうか。
「いや、そうはさせまい」
孔雀姫は微笑み、「侍従よ」と鳥化生の少年に呼びかけた。跪いた少年の額に、祝福の恩寵を与える。何か大事な言霊を使うときの、天の一族のならわしだ。
「わたしは『鏡』の在処を知っている。それを今からそなたに伝える。そなたは『鏡』を咥えて、かさねどののもとへ行ってやれ。あの姫の道の助けとなるように」
「姫さま。けれど、そうなれば、あなたのお立場が……」
――あんたは誰の側に立つ?
かつてイチは囚われた独房の中から、孔雀姫に問いかけた。
かさねが「何」であろうと、この先「何」が起ころうと、自分だけは彼女の側に立つと。懊悩する孔雀姫の前で、すがすがしいほどあっさり言ってのけた。
あのとき、確かに孔雀姫は、この卑しい依り代だったものを、ひとだとは思っていなかったものを。
(うらやましい)
と思ったのだった。
イチは何も持たない。家も、家族も、血も、役目も、じぶんは何者であるかという楔となるものを何ひとつ持たない。それはなんとさびしく、心もとなく、されど自由であるのだろう。イチは、じぶんが佳いと思ったもののために生きている。何におもねることもないし、縛られることもない。死んだ壱烏の口琴を持って天都にのぼってきた頃から、あの者の心には少しの曇りもない。
それがひどくうらやましかった。
そして、思い出しもした。
かつて、何故自分が壱烏に惹かれたのか。孔雀姫がなんとも思わなかったうす紅の霞を指して、うつくしい、とのたまう従弟に何故心つかまれたのか。
壱烏もまた自由だったからだ。
己の心が惹かれるものをうつくしいと言い、佳いと思うことを為した。孔雀姫はそういう従弟のことが、たまらなく好きだったのだ。
「かまわぬ」
口にしたとたん、それまで孔雀姫を縛っていたさまざまなものが軽くなった気がした。碧眼を瞬かせた小鳥の手を取って告げる。
「もう、かまわぬ。どいつもこいつも、神すらも、みな欲深じゃ。わたしひとりくらい好きにしたってよかろう。行け、小鳥。そなたも自由に飛んでしまえ」
促すと、少年の片腕が白い翼に転じる。
一羽の鳥に姿を変えた少年を送り出そうとして、孔雀姫は目を眇めた。燈火が映し出した不穏な鳥影に気付いたのだ。
「小鳥!」
とっさに庇うように腕を広げると、放たれた矢が右腕を射抜いた。
さすがに天の一族にあてるつもりはなかったようだ。ひるんだらしい相手の隙をついて、孔雀姫は燈火を吹き消した。動くほうの手で、小鳥を放つ。
鳥たちは夜目が効く。数羽の鳥が小鳥を追って、飛び立っていくのが見えた。
なんとか逃げきれよ、と傷ついた右腕を押さえつつ胸中で祈る。
「孔雀姫さま」
欄干にもたれかかった孔雀姫に、暗闇から現れたひときわ大きな白い鳥がこうべを垂れる。
ひとに転じた鳥は、小鳥の祖父にあたる一族の長だった。
杖をつく小柄な老爺を睨み、「夜の挨拶にしてはずいぶん手荒ではないか」と孔雀姫は口端を上げる。
「御身を傷つけたこと、申し開きのしようもありません。が、それもこれも天烏さまの命ゆえ……」
「長の?」
「『鏡』を天都の外に持ち出すことはゆるされませんぞ」
孔雀姫の胸中を見抜いたようなことを鳥の一族の長は言った。
眉根を寄せた孔雀姫に、「あれもじきに捕まるでしょう」と小鳥が飛び立っていったほうの空を見上げて長はつぶやく。
「手当の鳥采女たちを呼びましょう。お部屋にお戻りください、孔雀姫さま」
「聞かぬといったら?」
「無策に抗うのは、賢いあなたらしくもない」
白い眉を下げて、長は咽喉を鳴らした。
「天と地に身をゆだねられませ」
大地では今も女神が怨嗟の声を上げている。
低い風音のようなそれが時折、天都にも届く。風向きか、ひときわ明瞭に聞こえた声に首を振り、長は眉に隠れた両目を孔雀姫に向けた。
「まもなく天帝が、あのこざかしい人間どもには罰を与えるはずです」
まことだろうか、と孔雀姫は思う。
大地将軍・燐圭は素直に罰を受けるような男ではあるまい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます