五章 ふたつにひとつ 3
芸座の者たちは流浪の民ゆえに、かさねたちは知らないような古い木道の入り口や獣たちの近づかない細道を熟知している。数十人の座員の中には、一太のような子どもや老爺もおり、芸の道具を入れた葛籠を運ぶ必要もある。彼らが安全に旅を続けるには道を知ることが第一なんだと、道中イチが教えてくれた。
ひとを負ぶさり慣れたテンの背中は快適だった。
何より、ひとりの旅ではないという安心感がかさねの心をくつろがせていた。イチを連れてひとり歩いているときは、道をまちがえるかもしれないという不安や外敵に対する恐怖で、常に緊張していたように思う。
「あぁ、見えてきたね」
山の峠からは、燐圭の野営地の明かりが見下ろせた。夕暮れどきのため、あたりは薄暗く、近寄らなければひとの顔の判別は難しい。燐圭の兵に顔を知られているかさねにとってはありがたかった。
ちろちろと薄闇に灯る松明をめじるしに、山道をくだる。
森を背にして開けた土地に、燐圭は陣幕を張っていた。ハナの話では、燐圭に賛同する兵が数百名あまり集まっているという。陣幕の前に立っていた見張りにハナがくるい芸座であることを告げ、芸座の者が持っている通行証を見せると、ほどなく中へと通された。芸座というのは、どこにも属さない代わりにどこにでも入れるという特別な境遇を持つ。
準備のために案内された陣幕で、芸座の者たちは葛籠をひらき、道具の手入れや化粧を始める。陣幕の端をめくって、外のようすを探っていたかさねに、ハナが声をかけた。
「宴は夜からよ。あたしたちが芸をしている間は、燐圭は動かない。あんたの探しびとを探すといいわ」
「わかった」
「見とがめられたら、芸座の者だと言いなさい。はぐれただけだって言えば、すぐに放してもらえるわ」
かさねに舞手の衣装を着せたのは、見張りをくぐるだけでなく、そのためだったのか、とはじめて気付く。ありがとう、とかさねはハナの手を取る。「どうってことないわよ」と微笑み、ハナはかさねの動かなくなった右手も合わせて握り返した。
「ああー、でも惜しかったわ。あんたとも寝ておけばよかったなあ、うさぎさん」
「はぁ!?」
声をそろえて聞き返したかさねとイチに「冗談よぉ」と片目を瞑り、ハナは首をすくめる。
「寝なくたって、あんたの魂のかたちも、あんたが行く先も、あたしには見える。――あんた、女を見る目があったわよ、イチ。意外だけどね」
イチの頭のあたりを指でつついて、ハナは花顔に艶やかな笑みをのせた。
舞の奉納は燐圭がいる、いちばん大きな陣幕で行われるらしい。
簡易ではあるが、四方に注連縄をつけた木を立てて、周囲には桟敷をしつらえる。化粧を済ませ、あでやかな衣装に身を包んだ芸座の面々が桟敷に向かうのに混ざって、かさねも陣幕を飛び出した。かさねの髪と目は目立つので、頭には薄い被衣をかけてある。被衣の裾をわずかに引き上げ、燐圭のいる陣幕へ目を向けたかさねに、「どうした?」とイチが尋ねた。
「……いや。あやつ、どろどろとした殺気を放っておるなと思ってな。膚を刺すようじゃ」
「わかるのか?」
「わかる。あやつの太刀とかさねは、もはや近いものであるから」
苦笑し、かさねは膚を手で擦った。
とはいえ、燐圭とまみえる時間は今はない。これまでの経験から考えても、口で言って聞く相手ではないだろう。かさねの右肩に留まると、「陣幕の突き当たりを左に進め」とイチが言った。
「普段は見張りの兵が立っている。けど、さっきじいさんに頼んで、どかしておいた」
「どかすとは……」
胡乱げな顔で左に向かったかさねは、少し離れた場所で「鸚鵡が俺の額あてを……!」と叫ぶ声を聞きつけた。見れば、芸座の老鸚鵡が額あてらしきものを咥えて、男を威嚇している。
「前からふたり兵が来るぞ。右にもぐって隠れろ」
かさねの後れ毛を引っ張って、イチが指示する。さなかに前方に長い影が射す。あと一歩のところでかさねは陣幕のうちにもぐりこみ、男たちから隠れた。金属まじりの足音が近づくにつれ、どくどくと心臓が激しく脈打つ。知らず右腕をおさえていた左手がほろん、と崩れる気配がして、かさねは声を上げそうになった。今、例の発作が起きるのはまずい――……。
(しずまれ。今はしずまっておれ)
ぎゅうと身体を抱きしめるようにうずくまっていると、額に脂汗が浮かんでくる。脳裏に鮮烈な痛みの記憶がよみがえってきた。火かき棒で身体のうちをかき回されるような激痛……。
「かさね」
澄んだ水音が落ちるような声に呼ばれ、かさねは薄く目を開けた。
「大丈夫だ。何も起きてない。落ち着け」
繰り返されると、片目に映る世界が精彩を取り戻し、痛いほど脈打っていた鼓動が落ち着いていく。
冬の夜にもかかわらず、しとど汗をかいていた。耳を澄ませると、先ほどの兵たちはすでにかさねの前を過ぎ去ったあとで、微かにしていた足音も途絶えた。身体が変調を起こした気配もない。深く息をつき、かさねは肩を握りしめていた手をほどいた。
「わるい。もう少し早く気付いておくんだった」
兵の去ったほうへ目を向けたイチに、いや、とかさねは首を振る。
ゆっくり息を吸って吐き、心を落ち着かせていると、頭上でかさりと枯れ葉の落ちる気配がした。何気なくそちらへ顔を上げ、樹上からジッとこちらを見つめている鏡のごとき両目に気付く。
「ひっ!?」
悲鳴を上げかけた口をとっさに左手でおさえたのは、機転が利いていたといえよう。代わりに思いっきり飛びすさったかさねを樹上から眺め、「おやおや」と老婆は不気味な笑い声を立てた。
「さように驚かれて。あたくしをお探しだったのでは?」
「カムラ……!」
老婆は軽い身のこなしで、地上に着地する。
松明が燃やされた陣幕のうちにカムラとかさねたち以外はいない。童女ほどの背丈の老婆は小首を傾げて、かさねと肩にのるイチとを見比べた。
「おやまあ、『神器』のもとの持ち主がおられる。消えていなかったとは」
「カムラ。そなた、イチのこと知っておったのか?」
「『剣』のことですか? そりゃあ神器を打ったのはあたくしの先祖ですから」
なんということはないことのように言い、カムラはにぃと笑った。
「あたくしはあなたにお伝えしましたよ、天帝の花嫁。あたくしの先祖が鍛えた神具は転生を繰り返す。空を翔ける鳥にも、地を這う蛇にも変わり、今は別の形に変わっているでしょうと。海神が神器を守っていたのは数十年前。太刀がひとの男に転生したっておかしくはないでしょう」
ぐっと言葉をのみこんだかさねに、「それに」とカムラは今度はイチに向けて続けた。
「あたくしはあなたにも言いました。壱烏さまはあなたにもっとも大事なものを譲り渡した、結果あなたは壱烏さまが務めるべきさだめを引き継いだ、笛が見せる力はその一端だと。――なのに、あなたがたはそれ以上を考えなかった。たどりつかなかった。すべてを知っていたくせに何故黙っていたのか、とあなたがたは言いたげですが、あたくしにすれば、ここまでお伝えしたのに何故気付こうとしない? そちらのほうが不思議ですよ」
饒舌に語る老婆の言葉は、冷酷だが、的を射ていた。
確かにそのとおりだとかさねは思う。千年前、天帝が下りたのはイチとうり二つの人間の男だった。その姿まで目にしていたのに、神器が何たるかに気付かなかったのはかさねだ。
「かさねとイチの身に起きたことは、かさねたちの問題じゃ。そなたにあれこれと恨み言を言うつもりはない。まして、そういう話をするためにわざわざ敵地に忍び込んだわけでもない。カムラ。かさねはそなたに聞きたいことがあるのだ」
「『鏡』の神器の在処ですか?」
まるで胸中を読むようなカムラの言に、かさねは頬を引きつらせる。相変わらず、ひとらしからぬ不気味な老婆だった。樹木星医と同じ森の古老であったと聞くが、ふたりの印象はまるでちがう。
左のこぶしを握りこみ、かさねは前に立つ老婆を見つめる。
「そうじゃ。何と引き換えなら、教えてくれる?」
もとよりカムラは燐圭の手の者だ。何の代償もなく、かさねに神器の在処を教えてくれるとは思えない。低い声で尋ねたかさねに、カムラは鏡面のごとき目を細めてわらった。
「お代など、いりませんよ」
「なんだと?」
「あなたはもはや大地女神の力をその身に宿され始めた御方。この大地を生きる地神や、あたくしたち眷属は皆、あなたの求めに従いますよ。天帝と対になる、尊き姫神ですからね」
「そ、それならよいが……」
意外な返事にかさねは拍子抜けする。
大地女神だとか、尊き姫神と言われても気分が悪いが、「鏡」の在処を教えてもらえるなら、それに越したことはない。無駄な争いは、かさねとて避けたいところだ。
「ええ。ですから、あたくしがあなたさまにお伝えするのは『鏡』の在処、そしてふたつの道」
カムラの目がきゅうと細まっていく。
ひとらしからぬ酷薄な眸だ。肩をこわばらせたかさねに、「そちらの小鳥は外してくださりませ」とカムラは冷淡に言った。
「あたくしが真実を明かすのは、大地女神ただおひとり」
「こいつに何をする気だ」
「何も。あたくしたち森の古老が不殺を貫いているのはあなたもご存知でしょうに」
「大地将軍のそばに侍るやつの言うことじゃないな」
悪態をついたイチに、「よい」とかさねは首を振る。
「かさねはカムラと話をする。そなたは外しておれ」
「かさね」
「大丈夫。カムラの言うとおり、身を害されることはあるまい」
肩に留まっていたイチを地に下ろしてやると、小鳥は黒い目をじっとかさねのほうに向けてきた。力強くうなずいてやると、イチはかさねの首にかかった口琴のほうに目配せして、陣幕から出ていく。何かあれば、口琴を鳴らして呼べ、という意味だろう。
残されたかさねとカムラを松明の赤い火が照らし出す。ぱちりと火の粉が弾ける音がして、かさねは顔を上げた。
「ふたつの道と言うたな」
「ええ。あたくしはこれから鏡の居場所をあなたさまにお伝えする。あなたさまは鏡を手にすることも叶いましょう。ただし、その鏡は一度しか使えない」
なぜなら、とカムラは言った。
「天帝の姿を明かしたとき、鏡は再び割れ、繕うのには長い時がかかるからです。ひとの身から解き放たれた天帝は、それでもあなたさまと『交わろう』とするでしょう。この交わりはすでにひとの領分を超えている。ひとの身で受ければ、一瞬で燃やし尽くされ、女神に転じましょう。おわかりですね、次の大地女神よ。『鏡』が割れれば、あなたは自身の力を受け渡す依り代を失う。漂流旅神の示した道は途絶える。――ゆえにこそ、あたくしがあなたに提示するのはふたつの道なのです」
じっとりと冷たい汗が背筋を伝っていく。
カムラの目は、炎で赤く染まったかさねを見つめていた。
「『鏡』が救うはただひとり。イチを救うか、ご自身を救うか。道はふたつ、選ぶはひとつ。ふたつにひとつでございますよ、天帝の花嫁――次の大地女神よ」
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