一章 逃げ道 3
前に天帝の花嫁を探して訪れた六海で、イチと話をしたことがある。
目的のためには武器を振るうことも辞さないイチに対して、かさねは言った。それでも、自分の前ではできるだけ刀を抜かないでいてほしいと。イチが何かを斬ったり斬られたりするのを見るのは、かさねが嫌なのだ、と――。
ぎっ、と暗闇の中、閃いた刀と刀がぶつかる。
打突音が弾け、双方が離れるや、短い呻き声とともにぬかるみから水飛沫が上がった。降りしきる雨と暗闇のせいで、何が起こったのかかさねにははっきりとはわからない。水飛沫が上がったほうへ目を凝らすのも恐ろしく、イチの首にぎゅっとしがみつく。
もし足元で、今しがた刀を打ち合わせた相手が絶命していたら。
こわい、と思う。そう思ってしまう。
何が怖いのか、単に死体を目にするのが恐ろしいのか、それとも平然と刀を振るい続けるイチが怖いのか、あるいは命の取り合いをしているというこの異常な状況自体が恐ろしいのか。確かなところはかさね自身判然としなかったけれど、歯を食いしばってないと、勝手に身体が震え出してしまいそうだった。
(一、二、三、)
(四。……五)
イチと斬り合って倒れたものの数を、十を過ぎたあたりでかさねは数えることをやめた。あの鳥笛は近くの一族を呼ぶためのものだったらしい。次々あらわれる鳥たちをイチは言葉のとおり片っ端から斬り捨てていった。
押し付けた首筋から、雨水と汗と血が混じったにおいがする。口内に酸っぱいものがこみ上げてきて、かさねは何度も息を吸い込んだ。血の臭気が、かさねはだめだ。受け付けない。燐圭将軍の太刀をはじめて見たときも、それだけで立ちくらみがしたくらい。
「つらいなら、眠ってろ」
えづいて泣き出し始めたかさねに、イチは刃こぼれを起こした刀を別のものに替えながら言った。ぬかるみに落ちた松明が一瞬、ぎざぎざに壊れた刃を映し出す。
「こわい」
ぐすっと鼻を啜ってかさねは呟く。もう何羽目かわからない鳥の一族を追い払ったところで、あたりには不穏な沈黙が流れている。ほたほたと涙と鼻水を垂れ流しているかさねを抱え直して、怖くない、とイチは言った。
「怖くない。……大丈夫」
そんな気休めのようなことをイチが言うことはめったにない。にわかにかさねは不安になった。イチがやさしい言葉を吐くときは、「わるいとき」だ。天都登山のさなかに毒矢に倒れたとき。トウが転じた魔に襲われたとき。余裕がないから、生来のやさしさが出る。
「い、イチは……」
今はおぼろげな輪郭がつかめるだけの相手に、おそるおそるかさねは訊いた。
「肩以外、どこも怪我しておらんよな……?」
縋るように呟くと、「ああ」と間をおかずに返事がかえった。
「大丈夫」
心臓がけたたましく音を立て始める。背中に悪寒が這いのぼり、かさねは蒼白な面で俯いた。悪いことが起こっているのだと理解する。だけど、確かめることができない。今確かめたら、かさねは本当に正気でいられなくなってしまう。
濡れた木々をかき分けながら森の獣道をくだると、再び鳥笛が鳴った。
イチが刀の鯉口を切る。
――やめてくれ。
涙が滲みそうになってかさねはきつく眉根を寄せた。
もう、出てこないでくれ。
これ以上、イチを傷つけないでくれ。
……これ以上。イチに傷つけさせないでくれ。
やさしい男なのに。
(もう)
(いい。もう)
(かさねが天都へ戻るから)
叫び出しそうになるのをこらえるので必死だった。
かさねにとって悪夢のような時間は夜じゅう、えんえんと続いた。降りかかったなまあたたかな血がイチのものなのか、鳥たちのものなのか、かさねにはもはやわからない。そば近くにある男の荒い息遣いや汗のにおい、体温といったもの。それだけが暴れ出しそうになる感情をどうにかこの場所に繋ぎとめていた。そして、終わりは唐突に訪れた。
「っ」
イチが膝をついたはずみに、かさねの身体はぬかるんだ地面に投げ出される。背を思いっきり打ち付けて呻き、それからかさねは跳ねるように身を起こそうとした。
「い、イチ? イチ?」
かさねに覆いかぶさるようにして倒れた男の息は荒い。いつの間にか夜が明けていたようだ。ひときわ大きなセワの根元に倒れ込んだふたりに、薄曇りの空から淡い朝日が射している。そろそろとイチの背中に手で触れて、かさねは泣き出したくなった。ぼろぼろだった。無数の刀傷のせいで、イチの身体は血だらけでぼろぼろだった。かさねにはひっかき傷のひとつだってないのに。
「あ、ああ……ああ……」
しんでしまう。
イチが、しんでしまう。
それはかつてない混乱と恐慌をかさねにもたらした。
「だれか、」
泥だらけの身体をなんとか起こし、助けを求めてあたりに視線をさまよわせる。
助けなど。だけど、いったい、どこに?
途方に暮れて、かさねはその場に座り込んだ。雨上がりの森は、しっとりとした霧に包まれている。大声を出してひとを呼びたかったが、かさねの咽喉は弱々しく震えただけだった。
天帝の花嫁だと、たいそうなもののように言われても、こんなものだ。
かさねはイチひとり助けることができない。莵道をひらけることだって、今は何の役にも立たなかった。
「いや……、いやじゃ」
血にたかる蠅を追い払って、かさねは己の袖を引き裂いた。血止めをしようにも、あっという間に布が血を吸って使いものにならなくなってしまう。あとからあとから溢れてくる血液は、イチの命がこぼれ落ちていくようで恐ろしい。ひっく、と咽喉を鳴らして、だれか、とかさねは呟いた。
だれか。だれか。だれでもよい。イチを、たすけてくれ。
落ち葉を踏みしだく微かな音がしたのは、そのときだった。かさねは心臓を跳ね上げて、イチを庇うように落ちていた刀を抱き締める。現れたのは、しかし白装束をまとった鳥たちではなく、ぼさぼさの髪をした見知らぬ小男だった。樹を削り出してつくった杖を持ち、頭や肩には七色の蝶が何羽も留まっている。男は邪気のないどんぐり目を瞬かせ、ほとりと首を傾げた。
「おやおや。久方ぶりの来客かと思って来てみれば」
「……そなた、……そなたは」
また別の追手がかけられたのでは。
すくみ上がったかさねに人懐っこく笑いかけ、男は首を振った。
「そうおびえんでもよい、お嬢さん。ここはすでにあたしらの領域。いかなるものも寄せ付けんよ」
「そなたは……?」
「あたしは医者だ。知を司る森の古老……『
イチのほうへ軽やかな一瞥を送り、男はそっと肩をすくめた。
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