一章 緑嶺へ 2
「たいした人出よのう」
相変わらずの地都のにぎわいに、かさねはほうと息を吐き出した。七の月のこの頃は、星祭りを間近に控えていることもあり、旅人や芸座の者も増えて、往来はますます活気づいている。セワで染めた青布が翻る店先にはいくつも露店が並んで、道行くひとへ威勢のよい声を張っていた。
「おお、あれは桃まんじゅうではないか! うまそうだのう」
ほこほこと湯気を立てる蒸籠に並べられているのは、薄皮であんこを包んだまんじゅうだ。目を輝かせて、蒸籠に駆け寄ったかさねは「そなたもそう思わんか」と後ろについてきているはずの少年を振り返った。
「っと、おや、小鳥? ことりー?」
「ここです、かさねさま……」
ひとごみに半ば埋もれかけた小鳥少年を見つけて、かさねはその細腕をつかみ寄せた。いつもは涼しげな美貌は蒼白に転じ、髪の張り付いた額に冷や汗が浮かんでいる。
「へ、平気かそなた」
「問題ありません……」
「うむ、まったく平気ではないな」
ひとつ桃まんじゅうを買うと、かさねは小鳥少年を連れて、ひとごみから離れた。小道に入ると、ひとの流れが途絶える。壁の前でへたりこんでしまった小鳥少年に呆れて、「ほれ」とかさねは竹の水筒を差し出した。自分も隣に座って、まだ温かい桃まんじゅうを半分に割る。楚々と懐紙を口にあてた小鳥少年は、ようやくひと心地ついた様子で息を吐いた。
「落ち着いたか? やはり天都と地上の空気はちがうのかのう」
「いえ。天の一族とちがって、わたしは地上への耐性もあるはずなのですが……」
どうにも物慣れぬということなのだろう。しょんぼりと肩を落とした小鳥少年の姿に、かさねは声を立てて笑いだす。
「……何故笑うのです」
「いやなに、いつもは取り澄ましたそなたであるから、新鮮でな。まんじゅうは食うか。うまいぞ」
ひとつ年下の小鳥少年はかさねにははじめてできた弟ぶんのようなもので、いろいろと世話を焼きたくなってしまう。半分に割ったまんじゅうを渡すと、小鳥少年は眉根を寄せたまま、おそるおそる端っこに口をつけた。
「あ……おいしい。です」
「だろう?」
律儀に息を吹きかけて、小鳥は両手に持ったまんじゅうをちまちまと食す。それがいかにも餌をついばむ小鳥らしくて頬が緩まる。
木道の最果て・緑嶺をめざして旅を始めて数日。天都からこもの三山を抜けて、一行は地都・ツバキイチに差しかかった。地都を抜けるとしばらく山道が続くため、イチは旅に必要な固餅や干し肉、草鞋などの品を揃えに回っている。今日は地都の入口付近で宿を取ったため、そこで落ち合う予定だ。
「しかし、六海から天都へ向かったときのように、天道を使ってひょいっと緑嶺には行かんのだな」
「わたしたちが訪ねるのは、木道の守護神たる樹木老神ですから。木道を通り、最果てまで参るのが礼儀というものなのです。礼儀を怠れば、まみえることすら叶わないかもしれない」
「そなた、樹木老神には会うたことはあるのか?」
返された水筒で咽喉を潤しながら、かさねは気にかかっていたことを尋ねてみる。小鳥少年はふるりとみずらを揺らして首を振った。
「樹木老神は年に一度の天帝へのおとないにももう数百年、訪れていないそうです。木道の守りが保たれている以上、斃れてはいないようですが……、もうずいぶん長いこと姿をあらわしていないそうで」
「そのような神とそうそう話ができるものかのう」
「かさねさまが天帝の花嫁であらせられるなら、必ずお姿をあらわしましょう」
澄み切った目で見つめられ、「……そうか」とかさねは複雑な面持ちで息をついた。草鞋のあたりにしばらく目を落としてから、えいやと一息に立ち上がる。
「あんまり遅くなると、イチを心配させてしまうゆえな。宿に戻ろう」
*
夜、何度目かの寝返りを打ってかさねは目を開いた。衝立のない大部屋では、老若男女入り混じった旅人たちが雑魚寝をしている。鼻先に置かれた毛深い足をいささか乱暴に夜具に戻して、かさねは身を起こす。蚊取り線香がくゆる窓辺に腰を落ち着けて外を臨むと、遠くに凪いだ夜の海が見え、微かな口琴の音が響いていた。宿の前に積まれた木箱に、片足を抱いて腰掛ける男を見つける。
「いーち」
高欄から呼びかけると、イチは視線だけを頭上へ寄越した。すぐにまた口琴のほうへ目を戻してしまった男にむうと眉根を寄せ、かさねは上着を引っ掛け、宿の階段を下りる。イチは見つけたときと同じ場所で、口琴を吹いていた。
「ハナの言うたとおりじゃな」
「……ハナ?」
「目を離すと、そなたはだいたい、木の上だとかひと目のつかないところで丸まっておると。そういえば、天都への旅の最中もそなた、よく木にのぼっていたものなあ」
懐かしさからしみじみ呟くと、イチはばつが悪そうに目をそらした。木箱のひとつに並んで腰掛ける。坂上にある宿からは、地都のなだらかな湾が見下ろせた。寄せては返す潮騒の音に六海の龍神の姿を思い出し、かさねはなんとなくイチの真似をして膝を抱える。かすれがちの口琴に耳を傾けていると、互い違いの目が自分を見ていることに気付いた。
「なんじゃ」
首を傾げて、かさねは少し笑った。
「月の光に照らされたびしょうじょにー見惚れてしもうたか?」
無言で手を伸ばされ、はたと瞬きをする。頬に触れた指先はしかし、おもむろに頬肉をつまむと思いっきり横に引っ張った。
「にゃにゃ、にゃにをふるは!」
「へらへらわらうな。きもちわるい」
「はああ?」
好き勝手に両頬を引っ張った手は、かさねが眦に涙をため始めるとようやく離れた。代わりに大きな手のひらを頭に載せられる。ぞんさいに二三度撫でられて、かさねは唐突に、自分が思っているよりずっと多くのことをイチが察しているらしいことに気付いた。地都に至るまでの道中、かさねが一言も、何も言っていないにもかかわらずだ。
(こやつ、鈍感なあほんだらのくせに)
(何故)
思うともうだめだった。ほろほろととめどなく涙が溢れてきて、かさねは唇を噛んで俯く。
肝の太いおなごだ、と天烏は言ってくれたが、本当のところ、かさねはぜんぜん平静ではない。内側は嵐のごとく荒れ狂っている。六海の龍神にはじまり、天帝の花嫁や樹木老神や、さまざまなことが一度に起きて、何に嘆いて、憤り、悲しめばよいのかわからなくなっているだけだ。ぐすぐすと鼻水を啜っていると、頭に置かれた手のひらが少し離れようとしたので、袖をつかんで引きとめた。
「……このままがよい」
しかめ面をして、唇を尖らせる。
「このまま、なでなでしてほしい」
いちおう傷心なのだしよいではないか少しくらい贅沢を言うても、と思って大きい態度に出ると、めずらしくいつもの悪態はつかれず、小さな嘆息のあと頭を引き寄せられた。思ったより大きな腕のなかにおさまったとたん、ぬくもりや森林に似たにおいが押し寄せて、呼吸が一時止まる。
「かっ、かさねはなでなでって言うたのに! ぎゅうせよとは言っとらんのに!」
別の方向に癇癪を起こすと、「どっちも似たようなもんだろ」と面倒くさそうな声がして、それでも頭の後ろに回った手のひらが雑に撫でてくれた。胸におでこをくっつけたまま、かさねはむくれた顔をする。
「……おもしろくない」
「何がだよ」
「そなた、俵担ぎの分際で、手慣れた風になんなのだ。ぜったい、かさねの前に別の女がいただろう!」
「あんたいい加減、放り落とすぞ」
不快げな声がかぶりをかすめたけれど、腕の力は変わらなかった。なんだかおかしくなってきて、ふふん、とかさねは口元を緩める。そして精一杯手を伸ばして、男の痩せた背中に腕を回した。
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