一章 緑嶺へ
一章 緑嶺へ 1
「かさねが天帝の花嫁……」
孔雀姫に告げられた言葉を繰り返し、かさねは呻いた。予想だにしなかった話に、危うくくずおれそうになって膝頭をつかむ。
「……かさねが」
ぐっと唇を噛んで顔を上げると、孔雀姫と小鳥少年が意外そうに瞬きした。
「それで、天帝の花嫁とはなんなのだ?」
「ふむ。これはどうしてなかなか」
「
背後からかけられた声に、小鳥少年がはっとして姿勢を正す。部屋に入ってきたのは、艶やかな黒髪をした五十がらみの男だった。年を重ねても崩れたところはなく、端正な横顔には怜悧さが宿っている。長、とこうべを垂れて腰を浮かせた孔雀姫に、うむ、と軽くうなずき、男は上座に座った。黒髪、金目。見知った男をどことなく彷彿とさせる容貌に、かさねもおおかたを察する。
(こやつが天の一族の……)
「こうして話をするのははじめてだな、かさねどの。一族の長、天烏だ」
「莵道かさねじゃ。あなたは三年前、玉殿にいらした……」
「ああ。『陰の者』の騒動の折には世話になったな」
天烏は緩く微笑み、かさねの横に座るイチに一瞥をやった。一族の長ということは、壱烏とイチの父親にあたる人物であるはずなのだが、天烏にも、向き合うイチの横顔にも、親子らしい情はよぎらない。
「して、今はそなたのはなしであったな、かさねどの」
視線の応酬を早々に切り上げて、天烏は脇息にもたれた。白を基調に織られた衣がさらさらと澄んだ音を立てる。清冽な、されど凄みのある美丈夫であった。
「かさねどの。こちらへ手を」
「――こいつに何をする気だ」
手招きをした天烏に、イチは鋭い視線を向ける。天烏は肩をすくめて笑った。
「姫君を害することなどせんよ。我々にとっても大事なおなごだ」
天烏は自ら腰を浮かすと、イチとかさねの前に膝をついて、そっとかさねの腕を持ち上げた。袖を少し引き上げ、今は咲く花に転じた薄紅の痣を検分する。あらためて見ると、前より色濃く、範囲も広がっているようだった。いったいいつ、こうなったのだろう。龍神に嫁ぐために婚礼衣装に着替えたときは、変わりはなかったはずだが。
「六海で莵道をひらいたようだな、かさねどの」
「……うむ。龍神を助けるためにひらいた。結局、それも叶わなかったが……」
「その場にいたアルキ巫女の話では、そなたは道をひらいたままこちらへ戻れず、そこの烏が無理やりつかみ寄せたのだと」
「そう……であったのか?」
あのときの記憶は千々に乱れて、かさねの中でもはっきりしない。尋ねると、イチは渋面のまま顎を引いた。
「龍神が斃れたあと、浜で『向こう側』にいるこいつを見つけた。こちらの声もまったく聞こえていない様子だった」
「我々が考えるに、そなたの身の痣が転じた理由は莵道にある。過去の記録を調べたところ、千年前に天帝に嫁いだ莵道の娘――莵道ひよりは、みたび莵道をひらいたのち、天帝の花嫁となったというのだ」
「かさねが莵道をひらいたのは、今回で二度目じゃ」
「つまり、次に莵道をひらいたとき、何かが起こる」
重々しくうなずき、天烏はかさねの袖をもとに戻した。
「何が起きるかはわからないのか」
「わからぬ。何故かはしれんが、莵道の姫が天帝へ嫁いだあとの記述が書物には一切見当たらぬ。これには我々も困り果てておる。そなたがみたび莵道をひらけば、おのずとわかろうが、あまりに危険が多いゆえな。――とはいえ、我々も考えがないわけではない」
小鳥よ、と天烏は控えていた侍従の少年に目配せをした。一度部屋から下がった小鳥少年が腕に巻物を抱えて戻ってくる。床に広げられた巻物には、金烏国全体が見渡せる地図が描かれていた。
「四道の最北、緑嶺の地」
北の外れの山脈を扇の先で指し、長は言った。
「
「樹木神というと、つまり木道の……」
「ああ、その守護神だ。樹木老神がおわするのは、木道の最果てにあたる。しかし、たいへん高貴な神ゆえ、アルキ巫女では相手にもされなかろう。そこで、かさねどの。あなた自らが赴き、樹木老神に話を聞いてはくれまいか」
金の眸が試すようにかさねを映して眇められる。それを見上げて、かさねは膝に置いたこぶしを握り込んだ。
「わかった」
かさね、と引き止める声には小さく首を振る。
「かさねとて、いきなり天帝の花嫁だなどと言われても、ようわからぬ。ゆえ、己のさだめとは何なのか、知りたいと思う。でなければ、ようわからぬものにずっと怯えてなくてはならないからな」
話していると、ようやく腹も据わってきて、知らず詰めていた息を吐き出した。見ていた天烏が「やはり、どうしてなかなか」と愉快そうに咽喉を鳴らす。
「肝の太いおなごだな。のう、孔雀姫」
「三年前、狐神をそそのかして玉殿に忍び込んだ御方でございますよ」
肩をすくめ、孔雀姫はかさねに向き直った。
「道中、我らはおともできないが、代わりにこの小鳥を貸そう。まだ年若いが、いろいろ気が回るうえ、武術の心得もある」
「孔雀姫さま!?」
これについては寝耳に水であったのか、小鳥少年がめずらしく動揺した様子で声を荒げた。
「そなたは天都を出たことがないだろう。これも修行のひとつだと心得て、かさねどのにお仕えいたせ。それから、イチ」
孔雀姫はそこではじめてかさねの隣に座すイチを見つめた。
「その口琴、しばしそなたに貸したままにする。次はかさねどのを必ずお守りせい」
「次?」
「かさねどのに莵道をひらかせたばかりか、自分は片目の金を失いおって。未熟者が」
忌々しげに頬を歪めた孔雀姫をイチは静かに睥睨する。またいつもの悪口が飛び出すかと身構えたが、口を引き結んだまま、イチは何も言わなかった。
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