五章 豊饒の海

五章 豊穣の海 1

 大地将軍の陣幕は、海に面した砂浜に張られた。赤々と燃える松明のおかげで、あたりは昼のような明るさだ。

(忍びこむのは難しそうだな)

 嘆息して、イチは斜面を滑り降り、陣幕の前に立った。見張りの兵が気付いて、槍を向ける。

「誰だ。おまえ、六海の者ではないな」

「『イチ』の名をあんたの将軍に伝えてくれ。それでたぶんわかる」

 ぞんざいに言って、首にかけていた口琴を差し出す。壱烏のものを渡すことに抵抗はあったが、それ以外でイチが自分の身を明かせるものはない。まだ年若い兵は胡乱げな顔をしたものの、統率が徹底されているからだろう、顎を引き、陣幕の中へ入った。

「――中へお通しせよと」

 時間をかけず戻ってきた兵は渋面のまま、イチを陣幕のうちへ招いた。藍色の布に大地女神の加護を告げる稲穂の印が染め抜かれている。神と対峙するこの男が女神の加護を掲げているのは正直、意外に思った。

「久方ぶりだな。

 床几に座った大地将軍・燐圭はイチの顔をみとめるなり、にやにやと愉快そうに口端を上げた。

「今はだ」

 眉根を寄せて、律儀に訂正する。燐圭のかたわらには、悪名高い神斬りの太刀が置かれていた。肩に乗っていた朧がひっと呻いて、衿からイチのふところにもぐりこむ。

「かような場所でまた顔を合わせるとはな。子うさぎさんも一緒か?」

「かさねなら、龍に捧げられてそのままどこかへ行った」

「ほう? あの娘もよくよく因縁が深いな。この三年、あの娘ときたら、私の行く手にたびたび現れて、邪魔をしくさったものよ」

 燐圭は無精髭をかいた。

「あの娘が仲立ちをすると、ひとも神も矛をおさめてしまう。そうすると、私の出番がなくなる。歩き損というわけだ」

 言葉のわりには愉快そうに言って、燐圭は口琴をイチのほうへ投げて返した。

「それで?」

 と問う。

「昔話をしに来たわけではあるまい? 用件はなんだ、イチ」

「あんたが龍狩りをすると聞いた」

「ああ。六海領主・上善どのの依頼があったゆえな。土地の領主が願ったことだ、大地を平らげる役目を負うた者としては見過ごすわけにもゆくまい?」

「うまい建前をつくったもんだな。本音は?」

「本音、とな」

「あんたも探しているんだろう。天帝の花嫁を」

 イチはさっさと手のうちを明かしてしまった。案の定、燐圭は咽喉を鳴らして、楽しそうに膝を叩いた。

「六海の地におわする乙女か。まあ、尊顔を拝してみたいとは思っていたさ。なるほど神気を纏った乙女ではあったな。好みではないが」

 この様子だと、紗弓が花嫁の特徴を持っていることもすでに知っているようだ。六海領主・上善は紗弓を守るために大地将軍を頼ったというから、おそらく上善の口から聞いたのだろう。

「将軍」

 話していると、先ほどの若い見張りの兵がやってきて、燐圭に何がしかを耳打ちした。そうか、とうなずいて、燐圭は腰を上げる。

「外で話すか。龍神討伐の準備が整ったゆえな、見て回りたい」

「こやつも連れていくのですか」

「ひとりで何ができるわけでもあるまい」

 首をすくめ、大地将軍は陣幕から外へ出た。いつの間にか空が白んで、夜が明けつつある。浜には茣蓙が敷かれ、弓矢や銛が並べられている。それとなく視線をやると、どれもに呪がほどこされていた。燐圭についていたカムラという年老いた術師を思い出す。陣幕には見当たらなかったが、かの術師の知恵だろう。ふところにもぐった朧がますます縮こまる気配がした。

「そなたも来るか、イチ?」

 潮風に黒髪をなびかせ、燐圭が尋ねた。イチは眸を眇める。

「俺?」

「喰われた子うさぎさんを取り戻したいんだろう。私の兵に加われば、龍を討てるぞ」

 それとも、と燐圭は腰に佩いた太刀の柄におもむろに手を載せた。

「私の前に立ちはだかるか。ならば、こちらも手を考えねばならんが」

 ひととき、炎を宿した眸と視線がぶつかる。こういう、目的のためならほかは何でも薙ぎ払っていくという奴の目は胸糞が悪い。自分を見ているようだなと思ったりなどするから。燐圭もそうだし、イチもそうだ。とっくの昔に越えてしまった一線があるから、別の人間を足蹴にしてでも目的を遂げるし、そのために血をかぶることを厭わない。――それをかなしいことだと、あの娘なら言うのだろうか。

「しずめてやろうか」

 間を置いて、イチはそれだけを言った。

「しずめる?」

「龍神をひとときしずめてやる。その間、龍神は動けない。あんたたちにはもってこいだろ?」

「山犬のときにも使った呪具か」

「言っておくが、これは俺にしかできない。呪具のほうを奪っても無駄だ」

 首にかかった口琴を引き寄せて、冷ややかに告げる。まったくかわいげのない、と燐圭は笑った。

「なるほど。面白い取引だ。それで、おまえの見返りは?」

「俺が龍を引き止められるのは、およそ二十を数える間だけ。そのうち半分の時間を俺にくれ」

「半分か。貪欲だな」

「半分はあんたにやるんだ。悪い話じゃないだろ」

「わかった」

 燐圭の返答は早かった。うなずくや、「オン」とそばに控えていた少年兵を呼ぶ。

「この方をもてなしてやれ。龍狩りに協力をしてくださるらしい」

 変わり身の早さに呆れかえるが、「私は協力者には手篤い男ゆえな」と燐圭は得意顔だ。

「嘘つけ。……トウはすぐに切り捨てたくせに」

「トウ? わるいな、いなくなった者の名は翌日には忘れるんだ」

 肩をすくめ、燐圭はきびすを返した。残った少年兵は未だ不信をあらわにしていたが、命じられたとおりイチを陣幕のひとつに案内した。

「武具や具足を用意しますか」

「必要ない」

 イチの軽装をみとがめて申し出た少年兵へすげなく返し、外へ追い払う。ようやくひとりになり、腰を下ろすと、ふところにもぐりこんでいた朧が鼻面を出した。

「愚図。おまえを見損ないましたよ」

「ずいぶんな挨拶だな」

「かさね嬢がいなくなれば、さっそく龍神狩りですか。なんと節操のない。おまえには矜持というものがないのか。まったく嘆かわしい」

 くどくどと嘆き、よよと面を伏せる朧を投げやりに見やり、「うるさい」とイチは一蹴した。

「それより、あんたに頼みがある。かさねはたぶん今、龍とともにいるはずだ。俺が時間を稼ぐから、見つけ出して、あの将軍が攻撃をかける前に逃がしてほしい」

「ずいぶん楽観的な御方なんですね。かさね嬢がまだ喰われていないという保証はどこに?」

「前に、天道の管理者たる天の一族の長が死んだとき、大きな地揺れが起こった」

「天帝が嘆かれたのか」

「莵道を継承するあいつでも、同じことが起こるはずだ。けど、空にも地にも海にも異変は見当たらない。あとは……、あいつのしぶとさをあんたも知ってるだろ」

 薄く笑うと、「かさね嬢をしぶといだけの娘と思っているなら、おまえもまだまだ殻つきの雛鳥ですよ」と朧が鼻を鳴らした。

「それで、おまえは私に何をくださる?」

 銀灰色の胸をそらして朧が問うた。爛と輝いた双眸がイチを見上げる。

「私はこの地にひとしく目をかけねばならんもの。私に何かを求めるならば、それ相応の代償を差し出しなさい。かさね嬢のように」

 言っておきますが、と朧は首を振った。

「そなたの血はまずくてきらいです。肉も。かさね嬢とはまるでちがう」

「なら、何が望みだ?」

「眸を」

 朧は甘えるようにねだった。

「天帝のことほぎを受けた眸の金を私に。片方だけでかまわない」

「……とんだ節操なしはあんただな」

 金は、天の一族のみにあらわれる、天帝のことほぎのあかしである。それを寄越せというのは、祝福を寄越せと言っていることに他ならなかった。

(……半分)

 イチは目を伏せた。

(壱烏のきんいろを、半分)

 それは思いのほか、嵐のような――自分が自分でなくなってしまうような葛藤をイチの胸に呼んだ。深く息を吐き出す。それでも結局答えは決まっていた。

「わかった」

 イチは言った。

「けど、あんたにやるのはすべて終わってからだ。呪具がうまく使えなくなるのはこまる」

「結構ですよ」

「それとあとひとつ」

「なんでしょう?」

「あいつに二度と血をねだるな。あいつがいいって言ってもだ」

「ほう」

 狐神は何故か興味深げに咽喉を鳴らした。こちらを仰いだ双眸がきゅっと細まる。

「変わるもんです。これだからひとは面白い」

 独白めいた呟きを残し、銀灰色の尻尾がふわりと翻る。黄金の鱗粉めいた輝きが足元で舞った。神道を使ったのだろう。消えた狐神のいたあたりを見やり、イチは息をついた。

「……いいよな、片方くらい。『イチ』に必要なものじゃない」

 風向きか、雨が一度止んだ。やがて曇天から射した朝の光が鈍色の海をひらいていく。

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