四章 婚礼と贄と 3
「ひとつ、昔話をしてあげるわ。十八年前、この地で起きた龍神と六海領主の妻の話よ」
悠然と素足を組んで、紗弓は言った。
「彼女は贄だった。今回のあんたと同じように、巫女を通して龍神から名指しがあったわ。彼女はこれも六海領主の妻のつとめと考え、その身を龍神に差し出した」
紗雪。上善がいとおしげに呼んでいたおなごの名前を思い出す。十八年前、龍神に嫁いだ最後の花嫁は上善の妻だった。
「それまでの贄と同じように、彼女もまた龍神に供物として喰われるはずだった。けれど、そこで誰も予想だにしなかったことが起きたの。龍神は彼女を食べなかった」
「……なんだと?」
「いいえ、正しく言うなら、食べられなかったの。何故なら、龍神は彼女をひと目見るなり、愛してしまったのだから」
上善のはなしでは、紗雪は贄として祠に赴いたのち失踪し、一年後赤子を抱えて現れたということだった。
「では、紗雪どのが上善どのに預けた赤子は……そなたは」
「龍神が紗雪と交わり、生まれたのが私よ。あの方は私に自分の鱗をくださった。十八年後、母と同じ年になったときに必ず迎えにゆくと約束して。だから私、天帝の花嫁なんて御免なの」
ふっと口元を歪めて、紗弓は目を伏せた。
「私を産んで、紗雪はすぐに死んだわ。あの方はかなしみのあまり、次の贄を拒んだ。六海の海は徐々に荒れ、空は塞がったわ。だから、私はあの方のために
「え、さ」
「餌よ。あんたも。あのアルキ巫女たちも。あの方をながらせさせるための」
金の虹彩を持つ碧眼が妖しくきらめき、紗弓の手がかさねの首に伸びた。おなごとは思えない力で首を締め上げられる。抗おうとするが、元来非力なかさねでは紗弓の手首を弱々しく引っ掻くばかりだ。
「天の一族には興味がある。だけど、あんたは要らない。――そう言ったでしょ?」
「さゆ、ど……、」
ふと手の力が緩み、かさねは岩の上に投げされた。咽喉を押さえて咳き込む。だから、紗弓がすぐそばまで近づいていることに気付けなかった。背中を蹴られて、水面に落とされる。先ほど紗弓が外海と繋がっていると言っていた水場だ。
「この大岩はね、龍の胎内なの。降り立つのではないわ。新月の夜に、胎内への道が開くの。さながら、神道ね」
水上へ手を伸ばすが、婚礼衣装が重く身体にまとわりつき、どんどんと深みへ引き込まれていく。水辺に立った紗弓がぞっとするほど冷たい目で沈みゆくかさねを見下ろした。
「じゃあね。御馳走さま」
その言葉を最後に、聴覚は完全に閉ざされた。
(喰われるのか?)
まるで重石をつけられたようにかさねの身体はぐいぐいと水底に引き込まれていく。吐き出した息が細かなあぶくになって光のかゆらぐ水面に上がっていった。遠い。光が遠い。
(ほんに? 平気だとイチにも言うたのに?)
しんじられない、と思った。しんじたくない。こんな。こんな場所で、龍神に喰われて終わってしまうなど。
(いやじゃ)
イチを置いていくなんて。
(かさねはまだなにも……)
伸ばした手が水をかく。ついに息も途切れて、霞みゆく意識のなか、かさねは水底にとぐろを巻いて横たわる龍神を見た。かさね。誰かに呼ばれた、気がした。
*
あらぶる海が不意に沈黙した。
「……凪か」
しずまった海面を見やり、松の樹上からイチは呟く。かさねが大岩内の祠に入って四半刻ほどが経とうとしていた。長い。苛立つ気持ちを押さえつけてかさねを待つのは、イチには耐えがたい苦痛に思えた。ぴたりと止んだ風に目を眇めたイチは、不意に海が淡い金を帯びたことに気付く。ちょうど大岩のあるあたりだ。
「神道……?」
神道が開いたときに生じる黄金の粒子をこぼして、海はひととき琥珀に輝き、また夜の暗がりに戻った。ぞっと焦燥が背に這い上がる。これはさすがに、おかしい。
「おい」
頭の上で寝ていた狐の尻尾を引っ張る。イチは松の木からするりと滑り降りた。
「なっ、この愚図、どうしたのです?」
「海がおかしい。神道が開いた。神道っていうのはあれだろう、あんたら神が行き来したときに開く道だろう?」
「そうですが……」
器用にイチの肩にのぼって、朧は濡れた鼻面を海に向ける。
「もう気配は感じないですよ」
「……そういうことか」
舌打ちして、イチは埠頭をよじ登る。
「龍神が大岩に降り立つんじゃない。大岩に龍神に至る神道が通っていたんだ。道はおそらく、限られた日と時間に開く。アルキ巫女の気配がふっつり大岩の前で途絶えたのはそのためだ」
「つまり、神道に落ちてしまったと?」
「ああ」
砂浜に出ると、篝火の下にいた巫女たちはすでに引き払おうとしていた。
「儀式は?」
「すでに終わりましてございます。もし! 祠は男子禁制でございますよ!」
「知るか。こっちはよそもんなんだ」
引き留めようとした巫女の手をかわし、イチは再び潮の満ち始めた砂嘴を走る。
「かさね!」
駆け込んだ洞窟内はしんと静まり返っていた。ひとの気配がない。水が張られたままの水盤の前に立ち、イチは奥の水場にたゆとうている白布を見つけた。
「――……嘘だろ」
引き上げると、花嫁がつける綿帽子はなよやかにイチの腕に掛かった。上善が用意し、かさねがつけていたもので相違ない。
「この愚図。かさね嬢はどこへ行ってしまったのです?」
「知るかよ。おい、狐。あんたも神だろう? 神道を開けないのか?」
おそらく神道が通っているのはこの水場だ。問いただすが、朧は水面へ鼻を向けると、かなしそうに首を振った。
「これは龍の道。よそのものの地神には開きようがない」
「役立たずが」
「その言葉、そっくりそなたに返そうぞ。この愚図。何故、かさね嬢にひとりで行かせたのです?」
「それは」
あの娘が信じろと言ったから。かさねを信じよ、と。
――その結果がこれか。
歯噛みして、イチは今はただ穏やかに凪ぐ水面を睨んだ。
「あの馬鹿!!!」
外でけたたましい鐙の音がしたのはそのときだ。眉根を寄せて洞窟から陸のほうを振り返れば、先ほどはなかった松明が燃され、百はあろう馬首が海面に向けられている。
「あんたたち! 何をやっているの!」
紗弓が馬のほうへ走っていくのが見えた。濡れた身体に薄い羽織をかけただけのしどけない姿に兵たちに動揺が走ったが、統率に乱れは生じない。頭となる男がそばにいるためだろう。ひときわ美しい鹿毛に騎乗した男を遠目に見やり、イチは顔をしかめた。
「……大地将軍」
右腕が欠けてもなお、威風堂々とした出で立ち。腰にはかつて天都で一度は折れた太刀がもとの姿でおさまっている。海の方角へ向いた弓矢を睨み、「下ろしなさい!」と紗弓は今一度声を張り上げた。
「おまえたち! この六海の地に誰の許しがあって入ったのですか!」
「その姿、六海領主の娘……紗弓どのか」
苦笑を浮かべ、大地将軍・燐圭は馬上からさっと降り立った。青藍の衣が動きに沿って緩やかに舞う。
「そう気を高ぶらせますな。許しなら得ている」
「まさか。いったい誰の許しを得たというのです?」
鼻で笑おうとした紗弓が顔を強張らせる。大地将軍の隣には、六海領主・上善がはべっていた。
「すまん、紗弓」
蒼白になった紗弓の肩に、上善が手を置く。
「そなたと龍神の約束は知っている。だが、娘同様に育てたそなたをどうして龍神などにくれることができようか。無論、天帝にも」
「ちち、うえ」
紗弓の面からみるみる表情が抜け落ちる。危うくくずおれそうになった紗弓を上善の腕が支えた。それを見取った大地将軍が輝く太刀を抜き放ち、天へ掲げた。
「大地将軍・燐圭は、六海領主の求めにより、あらぶる龍神を狩る。皆のもの、俺に続け」
黒曜の眸に炎を宿らせ、大地将軍は宣言した。……やめて。紗弓の悲鳴をかき消し、百の怒号が夜の浜に響き渡る。首にかかった口琴を引き寄せ、イチは金の眸を眇めた。
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