二章 誓約の乙女

二章 誓約の乙女 1

 しとど降り続ける雨が軒から下がった鎖樋を絶え間なく伝っている。龍のかたちの鎖樋だ。屋敷の中央に設けられた池には、ぽつりぽつりと早咲きのレンの花が綻んでいるのが見えた。

 六海領主、上善ジョウゼンの屋敷である。紗弓は上善のひとり娘で、イチとかさねが素性を明かすと、屋敷へ案内してくれた。

「しばしお待ちを。上善もすぐに参ります」

 迎えた侍女にかさねたちを任せ、紗弓も一度部屋に戻った。濡れそぼった衣のせいで、煽情的な肢体がなまめかしく透ける姿は正直、おなごのかさねでも目のやり場に困っていたのでありがたい。

「すっっごい美少女であったな」

 侍女が下がって客間にふたりきりにされると、かさねは隣で髪を拭いていたイチにひそひそと囁いた。

「そうか?」

「……そなたに聞いたかさねが愚かであったわ」

 この男の美貌を前にすれば、たいていの美女が「そうか?」になるにちがいない。気を取り直して、かさねは己の胸のあたりを指した。

「見たか? あの娘、ここに七色に光る鱗があった」

「あれはおそらく龍神のことほぎだろう」

「ことほぎ?」

「いっとう気に入った子どもに龍神は己の鱗をくれてやると聞く。鱗をもらった人間は龍神と同じく水を操るすべを持つ。あれだけ荒ぶる海を泳げたのはそのためだろ」

「そなた、さすがに詳しいのう」

 天都で生まれ育ったイチは、天の一族同様、神々のことに通じている。まだ六海の領主が訪れないのを確かめ、「どう思う?」とかさねは訊いてみた。

「あの娘が天帝の花嫁なのだろうか」

「さあ。ただ、夢告げ巫女が言った話には一致しているし、神々が好む人間はだいたいかぶる。龍神がことほぎを贈った女に天帝が目をつけることもありえるんじゃないか。そういう意味では、この地にほかに『花のしるしを持つ乙女』がいるようには思えねえな」

「ふうむ」

 顎に手を当てて思案していると、「失礼」という声が聞こえて、頭を丸めた五十がらみの男が部屋に入ってきた。夜の海を思わせる群青に金を刷いた衣に身を包むこの男こそ、六海領主・上善そのひとであろう。上座についた上善にかさねが頭を下げると、隣に衣を裁いて紗弓が座るのが見えた。

「面を上げられよ。莵道のかさねどの、といったか」

「北東の小国の生まれじゃ。お初お目にかかる、上善どの」

「そしてそちらは金烏の――」

「俺は金烏じゃない」

 すかさずイチがわずらわしげに言った。六海の領主を前にしても、この男の態度の悪さは変わらないらしい。しかし、黒髪金眸が天の一族の特徴であることは、地上ではほとんど知られていない話なので、紗弓や上善がすぐに言い当てたのには驚いた。確かにイチは天の一族の者でこそないが、その身には一族と同じ血が流れている。死んだ壱烏の双子の弟、それがイチなのである。

「こやつはかさねの旅の同行者で、ただびとじゃ。しかし金目のこと、よう知っておられたな」

「六海の地に伝わる伝説があるのだ。六海の危機に天上の金烏が現れ、これを救うと。見てのとおり、この地の海は龍神の呪いで荒れている。ここ三月は空が塞がり、陽を見ることもないほど。金烏が現れたと期待するのは致し方あるまい」

「龍神の呪い、とは?」

 尋ねたかさねに、上善は重々しく顎を引く。

「六海の地では、海をしずめるために古来より人柱たる乙女を龍神に捧げてきた。だが、十八年前悲劇が起こった。人柱となるはずだった乙女が消え、儀式が滞った。龍神は怒り、それ以来この海は徐々に荒れ、ついに太陽の光すら射さぬように」

 眉間に刻まれた皺を押し、上善は息を吐き出した。浅黒い顔には懊悩の影が色濃い。紗弓が気遣う様子で父をうかがった。

「おふたりはこたび、どのような用向きでこの地にいらしたのですか」

「ひとつはアルキ巫女じゃ。この数か月、何人かのアルキ巫女がこの地に入っていたのだが、ご存知か」

「……いいえ」

 紗弓は口元に袖をあてがい、ふるりと首を振った。

「アルキ巫女らはこの地に入ったことを天都へ告げたのを最後、消息を絶ったらしい。龍神の呪いと関係があるのかの」

「外の者が害されたという話は聞きませんが。失礼ですが、その者たちは本当に六海で消息を絶ったのでしょうか」

「というのは?」

「別の地で消えただけかもしれないではありませんか。この六海が災禍の土地のように言われるのは心外だわ」

「紗弓」

 忌々しげに眉根を寄せる娘を「失礼だ」と上善がたしなめる。いや、とかさねは首を振った。

「紗弓どのの言うとおりじゃ。六海で消えたと決まったわけじゃない。ゆるせ。他意はなかった」

「本当よ」

 頑なな声が返り、思ったよりも剣のあるおなごらしい、と苦笑する。紗弓の苛烈さはあらぶる海に通じるところがあって、なるほど龍神の寵愛を受けた娘らしい。

「ひとつは、と言ったわね」

 口調を取り繕うことをやめて、紗弓が訊いた。

「ほかに何かあるの?」

「……それなのだが」

 どう言ったものか悩んだ挙句、素直に伝えようと腹をくくって、かさねは孔雀姫から預かった文箱を取り出した。精緻な細工のほどこされた箱には、天の一族をあらわす羽紋が入っている。文箱を見た上善と紗弓の顔色が変わった。

「天都の孔雀姫に頼まれて、かさねとこやつはこの地に参った。年明けに夢告げ巫女が天帝から託宣を受けたらしい。仔細はそこに書かれたとおりじゃ」

 地都の西、六海の地にて乙女あり――。決して長くはない書状を上善は顔を強張らせたまま検分した。かさねとて、狐神に食われかけて逃げだした身の上である。先を言うのは胸が痛んだが、顔を上げた。

「天帝の花嫁はその身に花を宿すという。心当たりは?」

「いや。……だが」

 上善も紗弓の胸に刻まれた龍神の鱗に思い至ったのだろう。歯切れ悪く呻いた。かさねはうなずく。

「紗弓どのがそうやもしれぬ、とかさねたちは考えておる」

「私が?」

 複雑そうに紗弓は眉をひそめた。確かに突然、おまえは天帝の次の花嫁などと言われても、困惑のほうが強いだろう。

「だとすれば、紗弓をどうするのだ?」

「天帝の花嫁は、ほかの神々からも狙われる身。その上、今は大地将軍が殺害を企んでいるという噂がある。その身に危険が及ぶ前に、天都で保護したい。孔雀姫はそのように考えて、かさねに花嫁を探すように言うた」

「仰るとおり、紗弓には生まれながら龍神のことほぎを示す花のかたちの印がある。ほかの娘がそうそう持つものではない」

 天帝の花嫁とはつまり、天帝へ娘を差し出せという意味である。父親である上善の苦悩は計り知れない。対して、最初は当惑気味の表情を浮かべていた紗弓は赤い唇にうっすら笑みを佩いた。

「いいわ。その申し出、受けます」

「紗弓!?」

「ただし条件が」

 碧眼に不穏な光を宿し、紗弓はひたとかさね――を通り越して、無関心そうに話を聞いていたイチを見つめた。

「この海があらぶっているという話はしたわね。金烏。この海の龍神をしずめてほしい」

「しずめる?」

「龍神は私にことほぎの印を贈っている。つまり、時が来れば、私は龍の花嫁にもなりえたということ。私を失った龍はさらに怒るでしょう。私が欲しいなら、まずは龍の怒りをしずめ、六海に安寧をもたらしてほしい。伝承のとおりにね」

「俺は天の一族ではないと言っただろ」

「けれど、伝承のとおり金眸を持っている。神々をしずめる業を知っているはずよ」

(おそらく、口琴じゃ)

 話を聞きながら、かさねは胸にしまっている口琴を指でたぐる。以前、かさねを狐神から助けたとき、イチは口琴を使って狐の動きを止めた。口琴にはそういったしずめの力がこめられているらしい。孔雀姫がかさねに口琴を渡したのは、かような事態を見越してのことだったのだろうか。

「どうする」

 イチもおそらくは思い当たっているのだろう。面倒そうに首をすくめて、かさねを見やった。言外に断れとでも言いたげだ。そも、イチの能力をもってすれば、紗弓ひとりを盗み出すことなどたやすい。かさねにそうしたように。しかし、かさねは首を振った。

「かさねたちにできることなら、力になろう」

「……おまえな」

「龍神の怒りをしずめればよいのだな」

「そうよ」

 あくまでも試すように紗弓は目を眇めた。わかった、とうなずき、かさねは孔雀姫にはそのように返書を出す旨を告げた。

「六海の龍神について調べたい。宿となる場所はあるだろうか」

「この屋敷の部屋を貸しましょう。母上が亡くなってから、空き部屋がたくさんあるの」

 微笑み、紗弓は采配をとるべく立ち上がった。残った上善は未だ信じられないといった顔つきで文箱を見つめている。上善にすれば、どちらにせよ、娘を差し出すことにちがいはないのだから、たまったものではないだろう。

「心中、わずかながらお察しする」

 上善の日に焼けた手にかさねは手を重ねた。

「だが、紗弓どのの身はかさねたちが必ず守るゆえ……、どうか気を落とされるな」

「かたじけない」

 愁眉をわずかに開いて、上善は呻くようにそれだけを吐き出した。

「いつかこの海に捧げるやもと思っていた娘ゆえ、覚悟を決めていたはずが情けない」

 その姿にかさねはふと故郷の父を思い出した。あの飄然としたたぬきの父も、かさねを輿入れに出したときはこのように苦悩したのだろうか……。

「紗弓どのは生まれながらあの鱗を?」

「あれは拾い子なのだ。実の子ではない。十七年前、妻が連れ帰ってな。赤子のときから、水を操る不思議な子であったよ」

「……そうか」

「龍神からの授かりものと思うて育てたが、やはり十七年ともにいれば情が湧く」

「父上」

 部屋を整えたらしい紗弓が侍女とともに現れ、上善は言葉を切った。かさねの手をそっと外して「おふたかたを案内せよ」と紗弓に命じる。

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