一章 旅立ち 2

「まったくしょうがない男よの」

 遠ざかる足音に首をすくめて、孔雀姫は渡し損ねた口琴を手で包んだ。艶やかな常葉緑の口琴にそっと一瞥をやり、かさねは息をつく。

「孔雀姫」

 茵に座り直し、首を傾げた女人に向き合った。

「あやつに壱烏の名を持ち出すのはやめてはくれんか」

「壱烏の?」

「素直になるものもなれなくなる。あやつにとって壱烏はそういう、気持ちのおさまりどころがまだ難しいものなのだろう」

「……ほんにかさねどのにはかなわない」

 咽喉を鳴らして、孔雀姫はわらい出した。姫、と見咎めた小鳥少年が口を挟む。すまぬ、とかさねに詫びて、孔雀姫はゆったりと脇息にもたれた。

「アレにそう言うてくれる者ができて、喜んでおるのだ。嘘ではない」

「……先ほどの話だが。天帝の花嫁とはつまり……」

 言い澱んでから、かさねは思いを定めて口を開く。

「贄を意味するのではあるまいか?」

 神々はその祝福と引き換えに、時に贄をひとに要求する。かさねの生まれた莵道の狐神が婚姻というかたちで贄を求めたように。だとすれば、かさねも花嫁探しを気安く受けることはできない。

「なんとも言えん」

 孔雀姫の応酬は珍しく歯切れが悪かった。

「なにせ前例が千年前だ。当時の婚姻がどのようなものであったのか、さしたる文献も残っていない。天帝からのお告げは、先のたった三言きり。仔細はわからんのが正直なところだ。しかしながら」

 そこで言葉を切って、孔雀姫はかさねを見た。

「天帝の花嫁となりうるほどの乙女だ。放り置けば、災厄のもとになりかねない。特に気にかかっているのが、地都の大地将軍」

「あやつ、また何か画策しておるのか?」

「さてな。しかし天帝のめざめはあやつにとっては歓迎すべきところではない。虎視眈々と介入する機会を狙っておるのだろうよ。証拠にあやつ、夢告げが出るや、どこで聞きつけたのか北の遠征からすいと戻ってきたわ。もし我らより先に乙女が将軍の手に落ちれば――、おそらく殺す」

 孔雀姫の碧眼に暗い光がよぎる。ころす、と繰り返し、かさねは口をつぐんだ。大地将軍の荒々しい野心を思うと、笑い飛ばすことはできない。

「その前に、乙女を保護したいと私は考えておる。かさねどの。この地を離れられぬ私に代わり、力を貸してはもらえぬだろうか」

「決して贄にはせぬ、とあなたが約束してくれるなら」

 かさねにとってもそれは引けない一線だった。しばし視線を絡め合ったすえ、孔雀姫は緩やかにわらって嘆息する。

「……わかった。天帝の御名をもって約束しよう」

 それは天帝を頂く天の一族にとっては重い誓約となるはずだ。かさねはようやく愁眉を開いて、うむ、とうなずいた。

「ならば、かさねにできることは何でもしよう。その乙女とやらの名は? 家は? わかっておるのか?」

「いいや。身体に花のしるしを持つ。それだけだ」

「そ、それだけか」

「それだけだ」

 重々しく顎を引く孔雀姫をかさねは複雑な面持ちで見つめる。

(アルキ巫女とやら、もしやあまりの見つからなさに仕事を投げ出しただけでは)

 身体のどこかにあるという花のしるしを確かめるにも、出会いがしらに身ぐるみを引っぺがすのは難しかろう。名前も正確な歳も容姿すらもわからない乙女をどのように見つけ出せばよいのか。ううむと唸ったかさねを見て取り、孔雀姫は励ますように微笑んだ。

「しかし、天帝の花嫁になるほどの乙女だ。おそらくひと目でそれとわかる気を放っているはず。イチの目ならそれを見通すこともできよう」

「なるほど」

 天帝のことほぎを受けた金目を持つイチは、この世ならざるものの気配を見極めることにも長けている。

(そう考えると、イチさえいればこの仕事を果たせる気もするが……。おおう)

 よぎった考えに打ちひしがれそうになり、かさねはかぶりを振った。

「わかった。見つけた乙女を大地将軍に奪われず、ここまで連れてくればよいのだな?」

「だがアルキ巫女の失踪から考えても、六海に変異が生じているのは確か。気をつけられよ、かさねどの。頼んだ私が言うことではないが、油断をすれば命が危うい」

「そう眉間に皺を寄せるでない、孔雀姫。かさねは運がよいから、だーいじょうぶじゃ」

 薄い胸を張って、かさねは笑ってみせた。瞬きをした孔雀姫が「さようか」と口元に袖をあてる。

「かさねどのは不思議なおなごだな」

「そうか?」

「話すと心が明るくなる。イチがともに旅をするのもわかる気がする」

 苦笑まじりに呟いた孔雀姫に、かさねはうれしくなってますます破顔した。

「かさねでよければ、いつでも話し相手になるぞ。かさねも孔雀姫と話すのは好きだからの!」

 手つかずになっていた菓子を取ってほくほくと頬を緩ませると、さようか、ともう一度――先ほどよりは少し柔らかにうなずいて、孔雀姫は花茶のお代わりを小鳥少年に頼んだ。天上に住まう姫に、地上で起きたことについて語って聞かせていると、瞬く間に時は過ぎた。

「まずい。イチを外で待たせたままだった」

 思い出して、かさねは腰を浮かせる。

「かさねどの。これをイチに」

 差し出された口琴を見て、かさねはしばし迷った。イチが拒んだものをかさねが受け取ってしまってよいものか……。

「そなたに預ける。必要だと感じたときにイチに渡してやってくれ。そなたからならば、イチも受け取るだろうから」

「それはどうかのう……。だが、そこまで仰るなら、かさねが預かっておこう」

 両手で包み込むようにして受け取り、胸元にしまう。そのとき、ふと己の手首からのぞく薄紅色の鱗痣が目に留まった。ひととき懊悩をしてから、思い直して孔雀姫を振り仰ぐ。

「姫。あなたはさまざまなことに通じておられる」

「神々のことに限られるが。何かあったのか、かさねどの」

「……うむ」

 少しためらったものの、意を決して肩から袖を抜いた。あらわになった半身を見やり、小鳥、と孔雀姫が侍従に向かって外へ控えているように言う。息を詰めていた小鳥少年は我に返った様子で部屋を出た。

「それはいったいどうされた、かさねどの」

 衿に手を添えて衣を直しながら、孔雀姫が尋ねる。

「三年前、莵道をひらいたときにこうなった。あのときは気にしなかったが、まったく消えん。どころか広がっているように感じる」

「痛みは? 何か身体に変化はあったか?」

「いいや。何も」

 腕から手首にかけて浮かんだ鱗痣を見下ろし、かさねは首を振った。

「このことは誰ぞやに相談したか。イチには?」

「……いや」

「何故?」

「だ、だって、イチってば、そのう、殿方であるし……」

 みるみる染まった頬に両手をあてて、「膚を見せるとかー、まだ育たぬお胸さまとかー、恥ずかしいであろ!」と首を振っていると、孔雀姫は急にたそがれた渋い顔をした。何故だろう、かさねを見る目が微妙に冷たい気がする。

「……それに自分のせいだとか思われても面倒だしな」

 かさねが莵道をひらいたのは、そばでイチが死にかけたのがきっかけだった。あのとき、かさねは天帝に腕を差し出し、「何か」と引き換えに道をひらいた。かさねの何を代償としたのかはまだわからない。最初にひらいたときのように、おまけをして開いてくれたのならよいのだが。

「あなたなら、何か心当たりはあるかのう?」

「――おそらく、だが。神との誓約印に近い」

 かさねの手首からのぞいた痣をあらためたあと、孔雀姫はそう言った。

「せんやくいん?」

「神と交わす契りだ。そのあかしは、交わした者の身体に刻まれる。このように。かさねどののの場合は、莵道をひらいたときに何らかの契りを結んだのだろう。今のところ、そなたの身を害するものではないようだが」

 まくっていた袖を戻して、孔雀姫は首を振った。

「何にせよ、これだけではまだわからぬ。天都の書庫を調べてみよう。かさねどの。これまで莵道をひらいたのは何度だ?」

「きっちりとひらいたのは、三年前の一度きりじゃ」

「では、仔細が明らかになるまで莵道をひらいてはならぬ。次にそなたの身に何が起こるかは私にもわからぬゆえ。よいな?」

「うむ。……すまんの」

 天都を支える忙しい御身の孔雀姫であるから、かさねのために時間を割かせるのは申し訳ない。しょぼくれて俯くと、「そなたには貸しばかりだもの」と孔雀姫は首をすくめた。

「たまには力にならせておくれ。そうでないと、またイチに嫌味を言われる」

「イチは誰彼構わず悪態をつく癖をどうにかしたほうがよいのう」

「ちがいない」

 ひとしきり笑い合うと、孔雀姫は安心させるようにかさねの背に手をあてて、小鳥を呼んだ。

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