一章 旅立ち

一章 旅立ち 1

 そなたが選ぶ道はふたつきり。ここでかさねに盗まれるか、今すぐ恋に落ちるかじゃ。


 *


「――わたしの、いとしいひと」

 春風にも似たあえかな呼び声に、かさねは目を開いた。

 振り返ろうとすると、大きな腕に衣ごと包まれる。つかまえました、と悪戯めいた声で囁かれ、かさねはふんと嘆息した。

「まったく、しょうのない奴よのう。この甘えため」

この男がかさねは好きだった。恋をしていた。名前も思い出せないのに、そのことだけははっきりとわかる。するすると髪をいじるときの手のやさしさや、呼びかける声の甘やかさ、この腕に包まれるときの安堵といったもの。すべてをかさねは愛していた。春の日向三山では早咲きの桜が蕾を膨らませ、若葉のあいまから光がさんざめく。それをまぶしげに見ていた男は不意にかさねを引き寄せ、首に顔をうずめた。

「いとしいひと」

 かさねの耳朶にそっと甘えるような吐息が落ちる。

「もうすぐ、生まれますか?」

「ん?」

「わたしたちの子どもはもうすぐ生まれますか?」

「――……は?」

 春らんまんの気配はどこへやら。かさねは男に抱き締められたまま硬直して、眉間を寄せる。わたしたちのこどもはもうすぐうまれますか。

(子ども)

 夢の浅瀬でまどろんでいた意識が急速に覚醒する。待て。何かがおかしい。何かとても大事なことをすっ飛ばしてしまっている気がする。そう――、


「かさねはまだそなたと性交すらしておらんわ!!!」


 ぶんと振った腕が空を薙ぐ。はずみに寝床から転げ落ち、かさねは思いきり頭を床に打ちつけた。ぐぬぬ、と唸っていると、ちょうど雨戸を開いていたイチが怪訝そうな視線を寄越す。

「あんたは毎晩どんな夢を見てんだ?」

「いやいや、それがのう……。うるわしの君と逢瀬をしていたところまではよかったんだが、どうやらそやつに孕まされていたことが途中で発覚してな……」

「たいそうな夢だな」

「まったくじゃ」

 じんじんと痛んだ首を鳴らして身を起こす。開いた雨戸の外では、初夏の長雨が降りしきっている。朝であるのに、空が暗いのはそのためだろう。早起きのイチは早々に身支度を終えて、欠けた七輪でしけった固餅をあぶっていた。

端正な横顔を持つ、黒髪金目のこの男は名をイチという。かつて、天の一族の皇子・壱烏イチウの名を騙ってかさねの前に現れたが、目的を遂げた今はただのイチに戻って、数か月前に再会したかさねと旅をともにしている。

「この先の木道きのみちが川の氾濫で封鎖されたらしい。さっき、里の奴に教えてもらった」

「なんだと?」

 あぶった固餅をひっくり返しながらイチが言う。寝乱れた髪を紐でくくり上げていたかさねは瞬きをした。今年は長雨が続いていて、川の水嵩が増しているのは聞いていたが、まさかそれほどとは。

「修復をするにも、この雨だ。少し時間がかかるかもな」

「むう……川を渡るにも難儀したし、なかなか進まんのう」

「この季節だから、仕方ない」

 樋から落ちる雨滴へ目をやってイチがこたえた。

 かさねとイチは今、木道を通って莵道の方角をめざしている。少し前まで関わっていた半島の蛇神と土地の者との調停の目途が立ったので、久方ぶりに莵道へ里帰りすることにしたのだ。しかしちょうど長雨の時期に入ったために、旅程は遅々として進まない。見つけた廃屋を拝借しているおかげで、野宿にならないのが幸いだった。

「イチ。そなた、かさねがよいと言うまで、こっちを見るでないぞ」

 夜具代わりに身体にかけていた衣を男の頭にかぶせると、かさねは乾いた襦袢に腕を通す。さなかに、腕から肩にかけて広がった鱗痣に目が留まった。三年前、莵道を開いたときに生じた鱗痣は時を経ても薄らぐことなく、うっすら浮かび上がっている。

「……珠とたとえられたかさねの白膚がのう」

「長い」

 面倒そうにイチが衣を取ろうとするので、「あほう!」とかさねはその頭をはたいた。

「ふしだら! へんたい! うら若き乙女の膚を勝手に見るでない!」

「あんたが素っ裸だろうが、こっちはまるで興味がないから安心しろ」

「はあ? 失敬な! ちょ、ちょっとはどきどきとかせいよ!」

 歯ぎしりをして、イチがのけた衣を無理やりかぶせ直そうとする。取っ組み合いはあっさりイチのほうが投げ出したが、はずみに転げそうになり、ひょいと差し出された手に支えられた。

「おおう……」

 半ばつんのめったまま、男の咽喉のくぼみのあたりを無性にどぎまぎしつつ見上げていると、イチはかさねとは別の窓辺のあたりに目を向けた。見覚えのある白い小鳥が窓の桟に留まっている。白い翼を振るや、小鳥は両耳の上でみずらを結った少年の姿に転じた。見ようによってはあられもない姿の男女をとっくりと眺めたあと、小鳥少年は清楚に目を伏せて、「お取込み中、失礼いたします」と非礼を詫びた。

「かさねさま。イチ。お探ししました」

「小鳥、なんぞあったのか?」

 尋ねたかさねに、小鳥少年は顎を引き、懐から白木の文箱を取り出した。

「我があるじ、孔雀姫がお呼びです。お忙しかろうとは思いますが、天の客殿にあなたがたを招待したく」


 天門の外にある客殿では、蒼い幟が風に翻っていた。孔雀姫が中へ入ったことを示す幟なのだという。

「天都は清浄の地。ゆえ、客人と話すときには天門の外の客殿を使います。それと入る前には、清めの香を」

 通常、天都まではひと月以上の道のりになるが、天の一族の管理する天道を使えば、ほんのひとときで天門の外へたどりつくことができた。藍色の甍が輝く客殿を見上げ、小鳥はイチとかさねに清めの香木を差し出した。

「ここに来たのは三年ぶりよのう」

 かつて、捕まったイチが詮議を受けている間、かさねが泊まった客殿である。うららかな陽の射す外廊を抜けると、げに美しい庭が現れた。季節の花々が咲き乱れ、木々は葉に露をまとわせてほのかに光って見える。その向こうの水上につくられた釣殿に、涼しげな襲に身を包んだ孔雀姫が座していた。

「来たか、ご両人」

 かさねとイチを迎えると、孔雀姫は書見台から顔を上げ、きやすく微笑んだ。相変わらず、うっとりとため息をつきたくなるほどの麗人である。

「元気そうだな、かさねどの」

「そなたも。相変わらずお美しいのう」

「父からはすっかり行き遅れたと匙を投げられているがな」

 自ら腰を浮かせて、孔雀姫は対面の茵をかさねに勧める。それから、イチ、と苦笑気味に背後に控えた男を呼んだ。

「おまえもくつろいでよいのだぞ」

「――いや」

 首を振って、イチはかさねの数歩後ろに注意深く腰を下ろす。頑固者め、と肩をすくめ、孔雀姫は小鳥少年に菓子と茶を運ばせた。花や蝶をかたどった彩り豊かな菓子の数々に、かさねは目を輝かせる。

「お気に召されたか?」

「とても! こんな美しい菓子は地上では見たことがない。最近のかさねときたらば、イチがあぶるしけった固餅ばかりゆえな」

「ふふ。たんと召し上がれ」

 碧眼を弓なりに細めて、孔雀姫は花茶を取った。その胸には、見覚えのある常磐色の口琴がかかっている。イチが亡き壱烏に頼まれて孔雀姫へ届けた笛だ。もとのあるじのもとへ戻った口琴に目を細め、かさねは星のかたちをした砂糖菓子にぱくついた。

「それで、今日はどうしたのだ?」

 花茶を啜って尋ねると、孔雀姫は「うむ」と渋面を作った。

「急に呼び立ててすまなかった。折り入ってそなたに頼みごとがあってな」

「どのような? かさねにできることなら、力になるぞ」

「……ほんにかさねどのにはかなわないな」

 孔雀姫はどうしてか居心地が悪そうに首をすくめ、「小鳥」とそばに控えていた侍従を呼んだ。

「あれを」

「御意に」

 すでに話は通じていたらしく、小鳥少年は一度釣殿を下がり、一抱えほどある巻物を持って現れた。それを孔雀姫とかさねの間に広げる。青い彩色のほどこされた地図は天都の書庫に保管されているもののひとつのようだ。大部分を海に囲まれた半島には、「神語」と呼ばれる天都の文字で何がしかが書かれていた。

「『地都の西、六海の地にて乙女あり』」

 諳んじるように呟いた孔雀姫に、かさねは首を傾げた。

「『その身に花を宿す。これ天帝の花嫁たる乙女なり』。今年のはじめ、北の夢告げ巫女が天帝から託宣を受けた。内容は、今言った三言だ。天帝が莵道から花嫁を娶ったのち、眠りにつかれて千年。どうやら、千年ぶりの嫁取りをするらしい」

「その花嫁とやらが六海におると?」

「お告げではな。さっそく周辺のアルキ巫女を六海の地に向かわせたが、これが六海に踏み入れるなり、消息を絶っている。もう四人目だ。送っても送っても、次々に失踪する。これには我々天の一族も困り果てている」

 悩ましげに嘆息し、孔雀姫はかさねを見つめた。

「そこで、かさねどの。あなたに折り入って頼みがある。六海の地へおとない、天帝の次期花嫁を見つけてはくれないか」

「――待て」

 それまで黙って話を聞いていたイチがつと口を挟んだ。小鳥少年が淡青の双眸を鋭くしたが、「なんだ?」と孔雀姫は少年侍従を制するように腕を掲げて、先を促す。

「自分の眷属の不始末をこっちに押し付けられても迷惑だ。アルキ巫女が消失しているってことは、六海の地で何らかの変異が生じている可能性が高い。そんな場所にこいつに行けと?」

「ほう?」

「……なんだ」

「見ぬうちに、すっかりかさねどののイチだと思うてな。それも何より。危険だというなら、おまえがかさねどのを守ればよかろう」

 艶然と笑って立ち上がり、孔雀姫は首にかけていた口琴を外した。それをイチの目の前に差し出す。

「おまえが届けた口琴、しばし貸そう。イチよ。かさねどのの御身を守り抜け」

「俺はもうあんたらのしもべじゃない」

「この孔雀姫が愛した男の形見を貸すとまで言うておるのに、つれないことよの」

「く、孔雀姫! イチ!」

 怪しくなってきた雲行きに、かさねは孔雀姫とイチの間に取り成すように入った。わずらわしげに舌打ちした男の頭はとりあえずはたいておく。

「そなたは誰彼構わず喧嘩をふっかける癖をやめい。孔雀姫とて、やむにやまれぬ事情があってかさねたちを呼んだのであろう。何故、はなから話を聞かぬ」

「あんたこそ」

 冷ややかな目でイチはかさねを見た。鋭利な眼差しは野生の獣がすいと身をもたげた姿を想起させる。こんなもの、とかさねはもどかしげに唇を噛んだ。かさねだってとても手に負えない。

「何でもかんでも情にほだされてると、そのうち痛い目をみるぞ。たいした力もないくせに」

「イチ!」

「俺は外にいる」

 ひらりと立ち上がると、イチは礼もせずに釣殿を出た。

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