五章 地都の星祭り 2
「ついたぞおおおおおお!」
視界いっぱいに広がった滄海に、かさねは歓声を上げた。海を見るのははじめてだった。地都を一望できる峠からは、扇状に広がった街のにぎわいが見渡せる。うれしくなって何度も跳ね、イチの衣袖を引っ張った。
「ついた!」
「それはもうわかった」
面倒そうに袖を振られて、かさねは唇を尖らせる。
「イチはつまらんのう。ちっとくらい、喜べばよいではないか。このひと月、藪蚊に耐え、猪に追いかけられ、川で溺れかけ、ようやっとたどりついた地都であるというに」
「川でごろごろ流されてたのはあんただけだろ。第一、まだたどりついちゃいない」
「そうなのか?」
「あっちにひとの列が見えるだろう」
峠から里に向かって伸びた列を指差し、イチが言う。確かにイチの指した先では、道を半ば埋め尽くす長い行列ができていた。
「なんじゃ、あれは」
「地都の関所だ。あの先に役人がいて、通行証をあらためる」
「通行証など、かさねは持っておったか?」
「本物はないな」
では偽物ならあるとでもいうのか。イチが取り出した紙には、かさねとイチの特徴を記した人相と、見たことのない印が押されていた。
「すごいな、かさねの顔が描いてあるぞ。名前は、白うさぎ……? なんだこれは?」
「菟道かさねって書いたら捕まるだろ。どうやら俺たちはお尋ね者らしいし」
イチは紙を畳み直し、峠の茶屋の前に貼ってある人相書きを示した。男と少女の顔が描いてある。何やら剣のある顔つきと、あとは……。
「この美少女ぶりはかさねではないか!」
「騒ぐな」
頭をはたかれそうになったので、かさねは自分で口に手を当てた。幸いにも、人相書きは曖昧な筆致であったし、かさねとイチは藪蚊を払う香を焚き染めた頭巾を深くかぶっていたので、すぐにそれと気付く者はいないだろう。だが、関所であらためられるのはまずい。
「何ゆえこんなものが……」
「端にアルキ巫女の印が入っている。俺らがなかなか見つからないから、地都の玄関口で網を張ることにしたんだろ」
イチが思案げに尖った顎をさする。考え込むイチは急に遠いひとになってしまったようで、かさねはイチの袖をぱたぱたと引っ張った。
「どうすればよいのじゃ?」
「俺ひとりなら夜陰にまぎれて突っ切る手もあるけれど、あんたを連れてだと失敗しそうな気がする。地都はちょうど星祭りの時期だから、運がよければ――」
「イチ!」
話しているさなかに、イチが何かに気付いた様子でぱっと身を引いた。背後から飛んできた丸いものが先ほどまでイチがいた人相書きにぶつかって跳ね返る。
「ぬわっ」
よける間もなく、それはかさねの額の真ん中に当たった。ころりと地面に転がったのは、何かの実の殻のようだ。
「わあ、ごめんごめん。女の子のほうに当てちゃったよ、おかしら!」
いやに明るい声が上がり、かさねは額を押さえたまま瞬きをする。対するイチの横顔には一瞬ばつの悪さにも似た複雑な色合いが乗った。そんなイチの表情は見たことがなかったので、かさねは痛みに呻くのも忘れて呆けてしまう。
「おおい、イチ!」
ひとごみから、目を惹く梔子黄の上着を引っかけた青年が飛び出してくる。腰にさげているのは、いくつもの筒を連ねてこしえらえた笛のような楽器。青年が歩くたびに、かちゃかちゃと鳴るのでたいそう騒がしい。
「ほら、やっぱりイチだった!」
「フエ」
フエ、と呼ばれた青年は人懐っこく破顔して、「まさかこんなところでイチを見かけるなんてね」と肩をすくめた。
「おかしら! ほら、こっちこっち」
フエが手を振ると、色とりどりの衣を着た派手な集団が近づいてくる。
「……い、いち、」
かさねは思わずイチの背に隠れた。
その集団ときたらば、背も年齢もまちまちで、黒曜石に似た膚色をした巨漢から、かさねの半分ほどの背丈しかない小男、婀娜っぽい化粧に女物の小袖を着こなしている男性、鸚鵡を連れた少年と、はちゃめちゃな様相だった。
「へええ。どうやら噂は本当だったらしいねえ、イチぃ」
巨漢の男を扇子ひとふりで押しやり現れたのは、あでやかな紫と金の小袖をしとど着崩した女だった。開いた衿元を押し上げんばかりにのぞいた豊満な膨らみに釘付けになり、かさねはそろりと己の薄い胸に目を落とした。
(い、戦になっとらん……)
「あんたが小さな女の子を連れ歩いてるって。絶対冗談だと思って、賭けてたんだけどなあ」
はあ、と艶めいた嘆息を漏らし、女性はかさねへ向けて微笑みかけた。突き出されたお胸様のほうにたじろぎ、かさねは若干あとずさる。
「はじめまして。あたしは、『くるい芸座』のハナ。よろしくねえ、イチのうさぎさん?」
「う、うむ?」
うさぎ、と呼ぶからには、かさねの出自には察しがついているのだろう。ぎくりとしてひっついた男を仰いだが、イチのほうはさして驚いた様子もなく、「やっぱり来てたのか」と呟いた。
「『くるい芸座』は、半年前までイチも入ってたのよう?」
祭りで賑わう街を歩きながら、ハナは言った。盛夏に近付くこの季節は、ちょうど年に一度の大祭「星祭り」が地都で催されるのだという。
地都の関所は、ハナたちの「くるい芸座」に紛れることで、あっさり突破した。星祭りを前に地都に集まる芸座は数知れず、ひとつひとつの顔をあらためていたら、日が暮れてしまう。それに芸座には、東と西に取り締めをしている総社があり、揉め事を起こすと、これらの総社を敵に回すことになるから、関所の役人たちもなるべく穏便に済ませたい腹があるのだとハナが教えてくれた。
たどりついた地都ツバキイチは、都びとに旅人たち、芸座の者や行商人で大賑わいだった。南北を貫く大路は端から端がびっくりするほど広く、荷車が通りやすいよう、きれいにならしてある。川の両岸には石を積んだ提が築かれ、そこから引かれた水が街の隅々まで行き渡っているらしい。
菟道や道中通りがかった他の里とは、大きさも活気もまるで違っていた。セワで染められた天青の布があちこちにかけられ、その向こうから聞こえてくる囃子の練習に、かさねも自然浮足だった。天都と争っていると聞いたから、もっとぴりぴりした空気が漂っているのかと思っていたのだが、芸座の者たちいわく、地都は終始こんな調子らしい。
「イチが芸座に? ではあやつも芸をするのか!」
「まあねえ。二年くらい一緒に回って、そのうちふらりといなくなっちゃったけど」
「そなたも芸を?」
「あたしは傀儡遣い。あとは、まあ、真っ昼間は言えないようなことをいろいろね。知りたいなら、もうちょっと大人になったら教えてあげるわ。ねーえ、イチ。夜のあたしはすごいでしょお?」
くすりと微笑み、ハナは前を歩くイチの背を扇子の先でつついた。「はあ?」と胡乱げな顔をするイチを捕まえて腕を絡める。その肩に赤と緑をした鸚鵡が乗って、ケキョケキョ、と変な声で鳴き始めた。
「鸚鵡のじいさん、まだ生きてたのか」
「この間まで具合悪そうにしてたけど、地都に近づいたら急に持ち直したの。イチを待ってたんじゃない?」
「……ばかだな」
鸚鵡の咽喉に触れたイチがつかの間、眦を緩める。
(あ)
不意に胸をつかまれたようになって、かさねは知らず足を止めた。
(わらった)
馬鹿にする風でも、自嘲でもない、普通の青年の笑い方だ。こんな顔をするのか、と不思議な感動めいたものを覚えるのと一緒に、なんだ、かさねの前ではしなかっただけなのか、と当たり前のことに気付いて、唇を尖らせる。
(なんだ)
ずきずきと急に腹が痛んできて、かさねは下腹に手を這わせた。
(すごく)
(ものすごく……)
「きもちわるうなってきた……」
「えっ、うさぎちゃん、ちょっとちょっと!」
その場にかがみこむと、近くにいたフエが慌てた様子で声をかける。
「大丈夫? おおおおいイチー! うさぎちゃん吐きそう、どうしよう!」
そんな恥ずかしいことを大路の真ん中で叫ばんでほしい、とかさねは思ったが、そのときにはおなかの底から酸っぱいものがこみあげてきて、口を押さえた。
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