五章 地都の星祭り
五章 地都の星祭り 1
思い出すにつけ、壱烏は変わり者の皇子であった。
天都は神々を総べる天帝の眠る清浄の地である。一切の穢れを許さぬ土地ゆえに、俗人の立ち入りは禁じられ、天都までの道のりもまた秘されている。天都に住まうことが許されるのは、天帝に仕える天の一族や一部の地神、半化生のみ。孔雀姫もまた、天の一族の娘として天都で生まれた。壱烏は従弟にあたる。将来一族の長となるさだめを負った壱烏の妃となるべく、その頃の孔雀姫は生きていた。
「姉上」
日々の手習いをしていると、花頭形の窓からひょい、とのぞきこんでくる人影があった。黒髪に金の眸を持った少年。壱烏は四つ年上の孔雀姫を幼い頃から親しみをこめて「姉上」と呼ぶ。
「お忙しかったですか?」
「いや、いつもの手習いだ。そなたこそ、どうした?」
筆を硯に置いて尋ねると、壱烏は柔和な顔を綻ばせて、「日向三山に桜が咲きましたよ。見に行きましょう」と誘った。瞬きをした孔雀姫の腕を引き、殿の外に連れ出す。壱烏は館の抜け道をたくさん知っていて、采女をしている鳥女たちの目に留まらぬうちに、いつだってするすると外へ抜け出してしまえるのだった。厩の前では、壱烏つきの「
「姉上。あの丘をのぼったことは?」
「……いや、ない」
「なら、あそこまで競争しましょう」
「おい、壱烏!」
言うや鐙に足をかけ、壱烏は馬の腹を蹴った。瞬く間に駆け出した壱烏の背を孔雀姫も追う。ひらひらした姫装束を好まず、平時は袴をつけている姫ゆえに、馬も楽々と駆れたが、鳥女に見つかれば大目玉を食らうことだろう。けれど風を切って走っていれば、そのような些事など後方に過ぎ去る。
「遅いぞ、壱烏!」
すぐに従弟を抜かして、むん、と満足げに胸を張る。
下方には薄紅に染まった日向三山が広がっていた。地上からは天の峰と呼ばれる日向三山も、天都に住まう孔雀姫にすれば、周辺の山々とそう変わらぬ。しかし、悪くはないと思った。淡い花霞はこちらまでにおい立つかのようだ。
「まったく姉上にはかなわないな」
少し待っていると、息を切らして壱烏が追いついてきた。陰の者に馬を預けて、孔雀姫の隣に立つ。金の眸がまろぶように細まり、「うつくしいな」と呟く。孔雀姫は軽く目を瞠らせた。天都の住人にとって、地上にあるものはどれも穢れた不浄のものである。それらを愛でることもしなければ、美しい、と思うこともない。けれど、壱烏のほうは気負いのない顔で下界を見つめている。この従弟についてかなわない、と思うのはこういうときだ。
「ああ、姉上」
ふいに壱烏は何かを見つけた様子で孔雀姫の束ねた髪に手を伸ばした。
「花びらが」
その指先がつまみ上げる花びらを美しいと思ってしまった、それが孔雀姫のその後の人生を定めたのではなかろうか。
「――姫。起きてください、姫。孔雀姫」
まだ声変わり前の少年に幾度となく呼ばわれ、孔雀姫は目を開いた。どうやら、書を読んでいるうちにうたた寝をしていたらしい。
「まったくいい御歳になって、かようにいぎたない真似をなさるから」
「いぎたないは余計だ。寝違えたかな」
首を鳴らしていると、かたわらに薬草茶を置いた小鳥が大仰に嘆息した。
「セワ塚のあたりを回るアルキ巫女から報告がありました。壱烏を名乗る青年についてです」
「ほう。詳しく話せ」
「どうやら木道から一度外れたのち、セワ塚へ流れ着いたようです。気付いたセワ守がアルキ巫女に伝えると逃走。やはり莵道の娘を連れているようですね」
「どちらへ向かったかはわかるか」
「地都方面らしいと。付近のアルキ巫女を何名かそちらへ向かわせています。それに地都の関所でアルキ巫女の名であらためも。勝手に差配しましたが、よろしかったですか」
「かまわぬ。くれぐれも大地将軍に勘付かれるでないぞ。奴らを見つけたら、即効地都から追い返せ」
「捕まえる必要は?」
「――深追いはせんでよい」
こたえると、小鳥が小さく笑んだので、孔雀は眉根を寄せた。
「……何だ」
「いえ。姫は探すと仰っていながら、壱烏を名乗る御方が見つからないでほしいと願っているようにも見えたので」
肩をすくめ、「それでは失礼いたします」と小鳥は丁寧に辞去の礼をした。
(まったく、あやつはこれだから困る)
小鳥を見送った孔雀姫は苦い薬草茶を飲み下して、顔をしかめた。あの少年の勘の鋭さや賢さを好ましく思い、そばに置いたのは孔雀姫であるが、ときどき読み過ぎて困ることもあった。
――姉上。
思い出すのは、最後に見た壱烏の顔だ。
『姉上、どうかお元気で』
十四歳の春。
壱烏は大罪を犯し、天都追放の処分を受けた。少し前に壱烏が可愛がっていた「陰の者」が死にかけた。壱烏は天帝に祈って、その命を助けたのだという。天の一族がみだりに神々の力を引き出すことは固く禁じられている。禁を破った壱烏に、天都での居場所はなかった。
『そなたこそ、身体を大事にせいよ』
孔雀姫は常盤色の口琴を取って、壱烏の細い首にかける。孔雀姫が生まれたときに、亡きおばあさまが贈ってくれた祈りの笛だった。
『古く、神々を従わせた魔笛だという。地に追放されたそなたをきっと守ってくれよう。もし私を思い出すことがあれば、天都に向かって吹いてくれ』
『ええ。この先もずっとあなたへの想いは変わりません』
口琴を握り、壱烏は固くうなずく。
だから、「壱烏」は大地将軍のもとにもいなければ、天都をめざすこともないはずだ。きっと大地のどこかから、天都へ想いを馳せながら口琴を奏でてくれているはずだと、孔雀姫は信じていた。
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